4月3日にアップしたコラムのタイトルは、「カタカナではない漢字名称が定着する『東京都同情塔』を読み込み、カタカナの「コーチング」が使われている日本の現状について考えてみました」です(『東京都同情塔』は第170回芥川賞受賞作)。今回のコラムは、第171回芥川賞を受賞した『サンショウウオの四十九日』を取り上げ、コーチングを語ってみようと思います。
「初見」は「新潮2024年5月号」でした
『東京都同情塔』は、芥川賞受賞作品として掲載された「文藝春秋2024年3月号」を手に取って読んでいます。ただ『サンショウウオの四十九日』は、受賞作として掲載された「文藝春秋2024年9月号」ではなく、たまたま書店で目に止まった「新潮2024年5月号」を購入し、そこに収められている朝比奈秋さんの同作に触れた、という流れです。
「たまたま…」と表現したのは、カラフルな体裁の「新潮2024年5月号」表紙に、“(対談)中沢新一+吉本ばなな 「吉本隆明から託された『精神の考古学』」”と、大きな文字で記されていたので、その内容を読みたくて手に取ったからです。
吉本隆明さんの大ファンである私は、次女の吉本ばななさんが偉大な思想家である父親の隆明さんを、どのように受けとめているのか…興味を覚え、迷わずレジに向かいました。朝比奈秋さんの著作を読んだことのない私は、吉本ばななさんの「父親に対する愛」を感受した後、真っ白な状態(予備情報ゼロ)で『サンショウウオの四十九日』を読み始めています。
ばななさんは「今とこの世界とは異なる価値観の中に身を置いてみるのは、それ自体すごくいいことじゃないでしょうか」と、言葉にしています
書き出しは、「胎児内胎児」からスタートします。医学的知見がフィクションに姿を変え読者の想像力を掻き立てます。「これって奇想小説?」という居心地の悪さを覚えつつ、文字を追います。それが、しばらくすると「結合双生児」の「杏」と「瞬」が登場し、「ええっ?」という驚きと共に、医学的な纏いをさらに飛躍させた複雑な設定であることが伝わってきます。このあたりで「作者の朝比奈秋さんとは何ものなのか?」が気になって、Wikipediaで調べてみました。
朝比奈 秋(あさひな あき、1981年 – )は、日本の医師、小説家。京都府出身。
すべてを読み終えた後、「高度な専門的知識を有する“資格”の医者が書いた小説だから受容されたのではないか…」との思いを抱きました。言い換えると、まったく同じ小説を「非医者」が書いてしまうと、小説的な洗練度とは別の次元で「拒絶反応」を示す人の割合が増えるような気がします。極めてセンシティブなテーマを扱っているからです。つまり「医師だから書いてもいい」と世間は受けとめた…?
後日、この作品が芥川賞を受賞したことを知り、不思議な縁を感じています。「文藝春秋2024年9月号」に受賞者インタビューが掲載されています。朝比奈さんの次のコメントを引用します。
医師ですからメスで人の体を切ることもあります。皮膚にメスを入れた時の重み、患者の内臓に触れた時の弾力……それらは決して気持ちのいい感覚ではないですし、時には罪悪感を感じます。
「私の盲端」という人工肛門の小説を書いていますが、僕は実際に人工肛門の手術に参加したことがあります。人の腹にメスを入れて腸を接いだ。患者には「ありがとうございます」と感謝されましたが、人工肛門をつくったことに対して、どこか申し訳ない気持ちがありました。
私たちはメスを持つ医者に心身をゆだね感謝を伝える…
今回の芥川賞はもう一つ、松永K三蔵さんの『バリ山行』も選ばれています。「文藝春秋9月号」に掲載された同作品を読むことで、二作品同時受賞が納得できました。
『バリ山行』は、選考委員の多くが「リーダブル」と語るように「とっても読みやすい」小説です。文体もテーマも『サンショウウオの四十九日』と真逆です。中小企業という環境(どこにでもありそうな)で、もがき悩む主人公の描き方が、地についているというか、現実的です。
実験的で可能性を秘めたチャレンジャブルな作品である『サンショウウオの四十九日』と、オーソドックスなテーマ(バリエーション登山そのものはユニークですが)で、現実をしっかりグリップした魅力的な作品の『バリ山行』の二つを選定することで、「幅広い文学的価値の存在を提供したい」という、選考委員9人の想いが反映されていると感じます。「相補性」であり「異質の調和」です。
さて、前置きはこのくらいにして『サンショウウオの四十九日』を語ってみようと思います。芥川賞は9人の作家が選考委員となって、侃々諤々のディスカッションを経て選ばれます。同作品の評価は、かなり割れています。高く評価した吉田修一さんと、逆の評価である平野啓一郎さんの選評を引用してみましょう。
真逆二作品の同時受賞は選考委員9人の「異質の調和」によって実現した!?
(吉田修一)
「サンショウウオの四十九日」類まれなる発想力と最前線の専門的知識、これだけでも天からの贈り物としては過大なのに、その上、末恐ろしいほどの小説的技法をこの朝比奈秋氏は持っている。
“体だけじゃなくて、頭も顔もくっついています。くっつく位置も場所によって少しずれたりしています”
もしこんな書き出しの手紙やファンレターが届いたら、私はおそらく先を読まないと思う。しかし、瞬と杏という、とても穏やかで知的でユーモアセンスのある姉妹を知った今、その偏見がどれほど愚かであったかと思い知らされるだろう。本作は、面白いようにパズルがパチパチとハマっていく。ただ、少し俯瞰してみると、うまくハマりそうにないパズルは最初から埒外に放り出されており、この辺りにほんのちょっとだけ優等生の危うさを感じた。(平野啓一郎)
『サンショウウオの四十九日』は、「胎児内胎児」と「結合双生児」という二つの特異な設定が、相乗効果よりも寧ろ相殺している憾みがあった。現実に当事者が存在するマイノリティとしての「結合双生児」を、成長した「胎内児胎児」という非現実の存在と同レベルで寓話化し、思考実験の素材としてしまう方法にも疑問がある。本作のような「結合双生児」は、やはり非現実的なのかもしれないが、寓話なら寓話で、一つの身体を二つの意識が共有する激しい葛藤の不在、身体的実体と遊離して論じられる意識や死の観念性、二人の意識が独立的であることの説明不足、……など設定のツメに甘さがあり、結果、大胆な着想の割に思想的成果が乏しく、物語も後半失速した。非凡な才能の作者だが、本作に関しては問題が多かった。
私が推したのは、『バリ山行』だった。……
他の選考委員7人の選評もすべて読みました。候補作は全部で5作品であり、各選考委員が作品それぞれに、上記の分量程度の選評(フィードバック)を記述します。日本を代表する9人の作家の視点は、まさに「ダイバーシティ&インクルージョン」です。
さてコラムは、コーチングについて語ることですから、今回もそこにフォーカスします。タイトルに「セルフコーチング」と付したように、杏と瞬の「対話」が、まさにセルフコーチングであることが伝わってくるのです。平野啓一郎さんが「思考実験」と指摘するように、「結合双生児」といっても現実には存在し得ない杏と瞬。身体の全てが接着しており境界は存在しません。ただ一つの臓器を除いて……
杏と瞬の対話は“究極の”セルフコーチング!
「脳」のみが明快に分別しており、したがって二人は「対話」が可能です。基本的に混ざることはありません。一人が眠っている場合は、もう一人の脳だけが活性化しているので、一人語りのシーンも頻繁に登場します。
ただし、それ以外の身体の機能はすべて共有されています(声として表れる際は微妙に異なる声音となりますが)。この身体的絶対条件によって「自己」を独占することは不可能です。
物語は杏の一人称の語りが中心で展開します。題名のサンショウウオは、「二人で一つの陰陽魚」であるメタファーでした。
私の中に瞬が生まれて、瞬の中に私が生まれる、それがどういうことなのか考えるたびに頭の中でサンショウウオが育っていった。私が黒サンショウウオで瞬が白サンショウウオ。くるくる回れば一つになる、二人で一つの陰陽魚。
杏は「二重人格」との違いを、次のように思考します。
しかし、そもそも交代せずに在り続けられるこの二つの人格は、やはり二重人格ではなく、どちらかというと独立した平行人格、あるいは同時人格だった。ただ、独立しているようで、音叉みたいに二本にみえて実は根元で繋がっていると思うと怖かった。(中略)
喉風邪で瞬がダウンしている時や入眠の時差で一人起きている時に、白黒サンショウウオはいつもお互いを食べようと回りはじめるのだ。一人でありたい。心の底からそう思った。
あまりに恐ろしくて、ベトちゃんドクちゃん、あるいはアビー&ブリタニ―姉妹、直接的に結びついた先人たちに救いを求めた。しかし、本を読みこんでもそこには体の構造や、生まれてから今までに施した治療、親や周囲の反応、本人たちのあっけらかんとした様子などが書かれているだけだった。
杏は救いを求めるように精神医学書や哲学書を読みます。宗教書には「自らの自我を完全に消滅させた」という実体験が書かれています。
実際に自我の消滅があり得るのだと思うと、気を抜いた瞬間に自分が瞬の中に溶けてしまうような気がした。宗教家は自我を滅することが目的なのだと気がつくと、私はその偉大な宗教書を50円で古本屋に売り払った。
杏がシリアスに考え込んでいたとき、「瞬が牛乳を飲みくだして、冷たい感覚が喉から腹へと下りて」きます。
ふしゅっ。お腹がぐっと締まって、くしゃみが起こる。くしゅっ、くしゅっ、くしゅっ。すると、くしゃみのたびに頭が白んでいく。
母は怪訝な顔をして、父は微笑んでから瞬の頭を撫でた。父はくしゃみ一つでも、どちらのくしゃみかわかるらしい。当の本人たちでもごっちゃでわからないというのに。私はというと、突然のくしゃみに唖然とした。先ほどまで私を怯えさせていたあの恐怖がどこかに吹き飛んでしまって、くしゃみが終わった後も戻ってこなかった。そこから私は必死になって頭や体の隅々まで探したが、とうとう見つけ出すことができなかった。
人間とは、さまざまな自我傾向を抱えている存在
同書の引用は、これくらいにしておきましょう。考えてみると、私たちがある判断をするときに、いろいろな考えに囚われ、まったく異なる思念が同時並行で浮かんできたりします。交流分析を持ち出すまでもなく、一つではないさまざまな自我傾向を抱えた存在が私たち人間です。
ただし身体は一つなので、実際のアクションは「何か一つ」に決めなければならない。頭の中で、Aという考えを持つ人格と異なるBという人格が対話しながら、どこかで「折り合いをつけている」のが、私たちの日常なのかもしれません。
ここでふと、川上未映子さん(今回より芥川賞の選考委員です)の芥川賞受賞作である『乳と卵』の中で交わされる「胸」と「冷」の対話を想起しました。コミカルそのもののシチュエーションですが『サンショウウオの四十九日』と、どこかつながっていようにも感じられます。
朝比奈秋さんはフィクション(小説)によって「究極の限定状況」を創り出し、私たち読者に「自我とは何か?」について、「究極の思考実験」の場を与えてくれている、と腹落ちすることができました。
選考委員の奥泉光さんの選評を引用して、今回のコラムを終えることにします。
(奥泉光)
「サンショウウオの四十九日」は、かたりの魅力の点で出色であった。まずは一つの身体を共有する二人のかたり手が、「私」「わたし」の一人称で、交互にあるいは交錯しつつかたる、その形式自体が生み出す面白さがあり、しかも二人の女性は個性を異にしながら、それぞれ溌剌とした知性や感性の輝きがあって、二つの人格の関係が織りなす豊かさが小説全体を明るく照らしている。こうした身体的状況が苦難を必然的にもたらすであろうことは、もちろん容易に想像されるわけで、それは時折露頭のように小説中に顕れる。しかし青春期の終わりを意識するかたり手の女性たちは、ときに烈しい痛みや傷をもたらしたであろう対立葛藤を経て、いまは一段落、とりあえず入江に停泊する舟のような平穏さのなかにある。過去の、あるいは再び到来するかもしれぬ苦難は消えてはおらず、直接には描かれぬそのごつりとした手触りはなお在り続けて、小説世界に奥行きを与えている。
坂本 樹志 (日向 薫)
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