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芥川賞受賞作『バリ山行』を読み込み、「間」の文学とコーチングの関係について考えてみました

山ですか? 最初に山に誘われたのは四月。山ガールだという事務の多聞さんに声を掛けられ、私はキーボードを叩く手を止めて顔を上げた。
「はい、波多さんも行きましょうよ」
山。それはいつ以来だろう。高校、いや、あれは中学時代。部活の合宿で丹波の山に登らされた記憶があった。大学の頃、旅行先で酔って友人と旅館の裏から山道に入り込んだのは登山と言わないだろう。

第171回芥川賞は『サンショウウオの四十九日』と『バリ山行』の二作品同時受賞

前回のコラムは、第171回芥川賞受賞作『サンショウウオの四十九日』を読み込み、「セルフコーチング」について思索しています。今回は、松永K三蔵さんの『バリ山行』について語ってみようと思います。

コラムは「コーチング」を紹介するのが目的です。『サンショウウオの四十九日』は、我田引水ではなく、モチーフが深いところで「セルフコーチング」につながっていることが体感でき、その感覚を得てコラムを書いています。
ということは…『バリ山行』もコーチングに敷衍できる? と言ってみたいのですが、一読した時点では、「ちょっと無理があるかも…」と感じました。ただ、コーチングを感じさせる“何か”が存在するような気がして… それがなかなか像を結んでくれないモヤモヤを抱きつつ、選考委員の選評に目を通しています。
最初は平野啓一郎さん、次いで島田雅彦さん、そして…三番目の吉田修一さんの言葉に触れた時、「これだ!」と合点しました。モヤモヤしていた“何か”に像が結ばれました。

「バリ山行」何よりこの小説は攻撃的ではない。自分の言葉で誰かを言い負かそうとしない。例えば、単純なことだが、相手に何か言おうとした時、登場人物たちはその場ではなく、明日言おう、今度会った時に言ってみよう、と思うことが多い。このタイムラグがおそらく小説の「間」である。そして優れた小説というのは必ずこの「間」を持っている。この「間」によって、登場人物たちはもちろん、読者もまた、今一度考える時間が与えられる。要するに、自分の言葉ではなく、相手の言葉を聞こうとする時間が持てるのだと思う。

優れた小説には相手の言葉を聞こうとする「間」が存在する!

コーチングセッションにおいて、そのコーチングが機能してくると、必ずと言っていいほどクライアントに、「沈黙するシーン」が訪れます。そのときコーチはどのような態度で臨むのか…? 答えは「待つ」です。CBLコーチング情報局の「待つ才能とは?」の一節を引用します。

クライアントがコーチの質問に、答えあぐねてしまい沈黙します。なかなか言葉が返ってきません。そのような状況でも経験を積んだプロコーチは、柔らかな表情で静かにクライアントを見守ります。真剣に考えているクライアントは、目の前にコーチがいることを忘れてしまうかもしれません。むしろコーチの存在が目の前から消えてしまうくらいクライアントが集中している状況となったとき、クライアントに「真の気づき」が訪れる可能性は高まるのです。
河合さんは「待つ才能」を、コンステレイティング・パワー(Constellating Power)と名付けます。

ところで、“バリ山行”という文字が最初に視界に入ってきた時、「インドネシア・バリ島の山に関する物語なのか?」と勘違いしたのですが(笑)、このタイトルは凝っていますね。バリが出て来るのは、「文藝春秋9月号」に掲載された1ページ上下二段、全96ページの13ページ目でした。

「バリ」って何?

「バリやっとんや、あいつ」
バリ? 私にはそれが何を指すのかわからなかった。が、すぐに松浦さんから「な、あかんやろ?」と同意を求められたので、「あ、それはダメですね」と思わず答えてしまった。
加藤文太郎気取りか知らんけど。ソロでちょっと慣れてきた連中が勘違いして、ああいう勝手なことして事故起こすねん」

今回のコラムの最初に、同書の「書き出し」を引用しています。
主人公の波多は登山については全くの素人です。人が足を踏み入れていない未踏のルートを単独行する「バリ」という言葉を、そのとき初めて耳にするのですが、少し気の弱い波多は、妻鹿のことを批判する松浦(定年後も嘱託として勤務)の勢いに、「知っていたかのごとく」合わせています(笑)
「バリ」とは「バリエーションルートのバリ」でした。

普通の人波多は、わが道を行く「変わり者」に惹かれていく…

『バリ山行』は、主人公の波多による一人称の語りで物語が進みます。吉田修一さんが、「攻撃的ではない。自分の言葉で誰かを言い負かそうとしない。」というのは、波多の造形に象徴されます。
そしてもう一人、三人称で語られる主人公が、この六甲山系で毎週「バリ登山」を行なっている「変わり者」の妻鹿です。私は妻鹿に「老子」を感じました。ただ現代で「老子をやろう」と思っても不可能です……

「文藝春秋9月号」に掲載された受賞者インタビューで、「今後の作品の構想があれば、おしえてください」という質問に、松永K三蔵さんは、次のように答えています。

ままならさ、不条理に対してどう生きていくか。それが私の一貫したテーマです。今は不動産業界に生きる人々をリアルに描く作品に取り組んでいます。また、身体性も自分の大きなテーマの一つなので、スポーツを題材にした小説にも手を伸ばしてみたいと思っています。

前回のコラムでも紹介した「リーダビリティ」について応える、松永さんの見解も引用しておきましょう。

 『バリ山行』はとても読みやすい作品でした。本作のリーダビリティは、ご自身がTシャツに掲げられている「オモロイ純文運動」とも連動しているのですか?

(松永)もちろんです。「バリ山行」は一人称の小説で、語り手はサラリーマンの「私」です。「私」があまりに文学的な表現を使ったり、特異な視点で周囲の物事を眺めたりしていると不自然です。言葉はできるだけ平易にして、読者がすっと入りやすい小説を目指しています。

私の中では、ずっと母と一緒に書いている感覚なんです…

中学二年の頃、母親からドストエフスキーの『罪と罰』を渡された松永さんは、半年ぐらいかけて最後まで読みます。読後感を松永さんは、「ほとんど理解できていなかったと思うのですが、すごい衝撃でした。世界の最果てにある断崖絶壁の縁に立たされた気になりました」と、言葉にします。そして、「……読んだ翌日から、いつか自分の『罪と罰』を書きたいと思い立ち、気がつけば何かを書き始めていました」、とも。
お母様は松永さんが大学受験の折に亡くなります。

私はこの小説を、「リアルな中小企業小説」との解釈でも読んでいます。前社でリストラを体験した波多は「地場の改修専門の建築会社」に転職します。「創業から半世紀を超す老舗企業とは言え、社員数は50名に満たず決して大きい会社ではない」その建築会社が舞台です。始まって1/3あたりで、年明けの社員総会のシーンが描かれます。植村部長から新方針が発表されます。

元請工事からの撤退。それはあまりにシンプルで、また極端な方針変更だった。自社直接受注を止めて、アーヴィンHD、ゼネコン、マンション管理会社、それらの下請けとなって工事の安定受注を目指す。小口の顧客を減らすという流れはそのままで、工事を任せてくれていた大口の顧客からも漸次撤退。例外はあるものの基本的には今後一年かけて完全に撤退するという。
元請工事が減ることは予測していたが完全撤退というのは予想外だった。……

元請工事をコツコツ vs. 安定受注を期待し大手の下請けにシフト?

弊社「(株)コーチビジネス研究所」は、エグゼクティブコーチングをメインとして展開しています。この小説に登場する社長をはじめとする経営層から、「もしコーチングを依頼されたとしたら…」という視点でも読んでみました。アナザーストーリーが浮かんできました(笑)

波多の勤める中小企業の、今後の一年がどう推移していくのかが実に丁寧に、リアルに描かれます。一見「善人」と「悪人」が造形されているようにも感じられ(松永さんの“技”です)、読者である私たちは、当然のようにカタルシスを得たいストーリーをイメージしますが…… それは「読んでみてのお楽しみ」ですね。

「バリ山行」の達人である妻鹿に惹かれ、連れて行ってくれと頼んだ波多が、実際の「バリ山行」を体験します。クライマックスです。松永さんは「身体性がテーマでもある」と言います。「流麗」とは異なる、徹底的にリアルな情景描写、そして「死」の淵に立たされる波多の感情の動き……圧巻でした。

今回のコラムは、「対照的な二作品」と見出しが付されている選考委員の松浦寿輝さんの選評を紹介し、終えることにします。

この哀切な物語には、ほろりとせずにはいられなかった。

今回は、松永K三蔵『バリ山行』と朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』という対照的な二作に心惹かれる結果となった。(中略)
「バリ」を辿ることの爽快さに感激した「私」は、組織の同調圧力に屈しない強さを獲得し、新たな世界が開かれる……といった予定調和的な美談に収れんするのかと思いきや、物語はさらに思いがけない方角へ展開する。
とりたてて文学的な実験だの形式的な冒険だのを試みているわけでもない平易な作品で、わたしは本来、この種のベタな小説には点が辛いほうだが、「私」と「妻鹿さん」とのあいだに友情の絆がいったん結ばれかけ、しかしそれがただちにぷっつり切れてしまうこの哀切な物語には、ほろりとせずにはいられなかった。後ろ姿ばかり見せているような「妻鹿さん」の孤独な人物像にも、登山の情景の的確でなまなましい細部にも心を打たれた。

坂本 樹志 (日向 薫)

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