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『今に生きる親鸞』で吉本隆明さんの魂を感受し、コーチングに敷衍していく1on1ミーティングです!

「リスキリング(学び直し)がいま盛んに言われていますが、それよりも(自己の経験をリセットする)アンラーンこそ求められているのではないでしょうか。私も50歳前後に、休筆して京都の大学で仏教を学びました。そこで知ったのが(他人の助力を指す)『他力』。他者の欲求によって自分は書かされているという考え方です。自分が180度変わったように思います」
(日本経済新聞5月26日「人生100年の羅針盤~作家 五木寛之さん」より引用)

心理学を学びコーチングの資格を有する新進気鋭の若手A課長と、部長職を長く経験し、定年再雇用でA課長のチームに配属された実践派のSさんとによる、2023年21回目の1on1ミーティングです。

アンラーン(unlearning)の意味は?

(Sさん)
Aさん、最近「リスキリング」という英語が普通に使われるようになりましたが、「アンラーン」はどうでしょう?

(A課長)
ああ… リスキリングとは別の視点ですね。「学び直し」とか、少し強い表現だと「学習を棄却させる」という意味になるようです。
「柔軟な思考は大切だ」と言うものの、私たちは、経験と性格傾向によって作り上げた価値観に縛られているのが通常です。ですから、リスキリングを実効あるものにしていくためには、アンラーンがその前にできていないとダメでしょうね。
アンラーンはコーチングの概念と親和性が高いのですが… どうして私にその質問を?

(Sさん)
コーチングにつながるわけだ、なるほど。
ええ、26日金曜日の日経新聞、第二部の1面に、大きく五木寛之さんの写真が掲載されていました。テーマは「人生100年の羅針盤」です。90歳の五木さんにインタビューした内容で、「リスキリングよりアンラーンが求められている」と五木さんが答えているので、Aさんに質問したくなった、というわけです。

(A課長)
なるほど。ところで五木さんは90歳ですか… 若すぎますよね(笑)

(Sさん)
神様は平等ではないですよ。「人生100年」は、世界の最長寿国である日本のコンセプトになっていますが、重要なのは「健康寿命」です。平均寿命と健康寿命の乖離を調べてみました。日本は何位だと思いますか?

(A課長)
う~ん、考えたことないなあ…

日本の「平均寿命-健康寿命」は世界で何番目?

(Sさん)
かなり下がります。9歳乖離しています。27位です。

(A課長)
無理を強いられつつ生きている人が多いということか…

(Sさん)
五木さんは、間違いなく健康な後期高齢者です。ただ五木さんだから…というか、よく芸術家は長生きの人が多い、といわれるのも理由があると思うのですね。つまり、強いテーマを抱いて生きているから精神に力が漲り、長生きにつながる! 「病は気から」ですよ。

私は『青春の門』の「筑豊編」を、高校の時読んで以来の五木ファンです。映画も観ています。確か、大竹しのぶさんのデビュー作で、若さはじける体当たり演技は、今も私の脳裏にへばりついています。
そうそう、仲代達也さんが演じた重蔵の妻タエが、30歳の吉永小百合さんです。すでに日本のレジェンドたる大女優でしたが、「小百合さんにここまでやらせるの?」と驚いてしまうセクシャルなシーンもありました。
スミマセン、脱線です。

(A課長)
半世紀前のお話だ(笑)
五木寛之さんは私も好きです。人生経験から紡がれたリフレーミングの思想が、自然体として伝わってきますから。
私は日経のその記事は読んでいないのですが、五木さんはどんなことを語っていましたか?

リフレーミングによって健康寿命は延びていく!?

(Sさん)
はい、紹介しましょう。

「聴くことや語ることが大切という思いが強いですね。キリストやソクラテスは文章を残さず、彼らが語ったことを弟子たちが聴いてまとめた。それはブッダも同じ。記録より記憶というわけです。私は執筆と同じくらい、講演や対談、ラジオの仕事を大切にしてきました。夜、対談相手を振り返っていたら700人まで思い出したところで寝てしまいましたが、1000人は超えているはずです」

(A課長)
聴くこと、話すこと… コーチングの「傾聴」であり「質問」「フィードバック」を五木さんは語っている。

(Sさん)
「実践している健康法は?」という記者の質問に対する回答が、まさにリフレーミングです。

「健康を努力目標とすると疲れてしまうので『趣味は養生』などと言っています。ゲームや川柳と同じように、楽しみながら健康を追求するやり方です。呼吸法、咀嚼法、嚥下法など様々なトレーニングを続けてきた。おかげで足に痛みを抱える以外はこれといった不自由はないですね」

(A課長)
Sさんはよく「趣味は仕事」と、言いますよね。それだけ聞いていると「ワーカホリック」とも解釈してしまいそうですが、Sさんとこうやって1on1をやっていると、どうもそうではない。仕事を楽しんでいる(笑)

(Sさん)
う~ん、どうでしょう? 40年会社に勤めていると、その経験は起伏だらけというか…いえ、満艦飾でしたね(笑)。
あれやこれやを経ての一つの境地かな? ストレスをため込まないためのリフレーミング技術を体得したのかもしれない(笑)

さて今日の1on1は、今紹介した五木さんの言葉に啓発を受けたので、そこからスタートしてみたいのですが、いかがでしょう?

(A課長)
もちろん了解です。アンラーンの次は、何がテーマになりますか?

『今に生きる親鸞』で描かれる唯円とは如何なる存在なのか?

(Sさん)
ええ、日経新聞は「大河小説『青春の門』や浄土真宗の宗祖を描いた『親鸞』などの小説で知られる作家の…」と、五木寛之さんのことを紹介しています。

私は「親鸞」に関する本をまあまあ読んできました。そのなかで、吉本隆明さんの『今に生きる親鸞(講談社α新書)』に圧倒されました。隆明さんの親鸞本代表作は『最後の親鸞』ですが、それよりもググッ、ときたんです。

五木さんの語る「キリストやソクラテスは文章を残さず、彼らが語ったことを弟子たちが聴いてまとめた。それはブッダも同じ。…」のところで、『歎異抄』を連想しました。『今に生きる親鸞』は、唯円にも熱い視線を注いでいます。106ページです。

親鸞の言葉を集めた『歎異抄』の著者、唯円は親鸞の弟子の中でも飛びぬけて優秀な人でした。親鸞の直接の弟子は関東で20人ほどいますが、そういう人たちよりも一段優れた人だと思います。
『歎異抄』では、唯円が質問して親鸞が答える形をとっている箇所があります。聞くほうが優秀ですから、答えるほうもとことん本気で答えなければいけなかったのでしょう。随所にすごいやりとりがあります。(中略)

『歎異抄』が高く評価されるのは、親鸞はもちろんですが、唯円の力によるところも大きいのです。『歎異抄』は親鸞が言ったことと、唯円の考え方、感じ方を一緒にしたものだからです。唯円は親鸞の考え方を本格的に継承した人だと思います。

(A課長)
『歎異抄』は日本における「対話本の最高傑作」ですよ。

(Sさん)
いえ、日本とかの概念を超えているのではないでしょうか。隆明さんは、次のように語っています。13ページです。

親鸞は真宗の始祖ですが、信仰によって僧侶であったのではなく、理念と思想がたまたま宗教の形をとらざるを得ない時代だったから僧侶であったにすぎません。また、僧侶だったから浄土門の教典を注釈したのではなく、思想がたまたま仏教の形をとらざるを得ない時代だったから、仏教的であったにすぎません。

浄土門に関する限り、親鸞が仏教の終止符を打ったと言っていいのです。浄土門の思想家として親鸞は、世界的に最後の思想家でした。また、世界的な宗教者、思想家であると同時に、仏教の解体者であると言うこともできます。仏教を宗教として解体し、一種の思想運動にしてしまった人だと思います。

親鸞は仏教を解体してしまった思想家なのか!?

(A課長)
吉本さんの解釈は大胆だ。文脈は親鸞を最高度にリスペクトしていますが、「仏教を解体している」という捉え方は、どうなんでしょう? 既存の宗教家や仏教に籍を置く人にとって、受容できる表現なのでしょうか?

(Sさん)
キリスト者にとって隆明さんの言葉は「?」だと想像します。信仰と精神が一体となっていると思うので… ただ隆明さんの「信仰」についての視点は実に深い。別格です。

仏教はどうでしょうか… 宗派がありますから、そのことを深く研究し、その境地に近づいた人、極めた人にとっては、この隆明さんの言葉は、意識に留まらず浮遊してしまう…かもしれない。

ただ私の場合は、脳天の最も奥のところに沁みこんできました。「宗教」という言葉が登場すると、まず「その定義は?」と、脳内にノイズが発生してしまい、ちょっと混乱します。「隆明さんの親鸞像」は、私のこの「捉えがたい思考」を、まさに解体してくれました。

(A課長)
Sさんのその発言は、コーチングの世界に通じているのかもしれませんね。私はカール・ロジャーズをコーチングの母としてリスペクトしています。次のような発言があります。

現代人はもはや自分に価値を与えてくれるものとして、宗教も、科学も、哲学も、またいかなる信念体系も信頼してはいけないけれども、もし自分自身の内部にある有機体的な価値づけの基盤に再び触れることができるようになれば、それを改めて発見するであろう。そしてそれが、私たちすべてが直面している、やっかいで、複雑な価値の問題に対する、体系的で、適応的で、そして社会的な方法になるであろう。

カール・ロジャーズはカウンセリングの概念を解体した!

(Sさん)
つながっているんですね… 55ページを紹介します。

彼らが書いた書物を読めばわかりますが、解脱上人も明恵上人も大変優れた秀才で、修行を積んだ坊さんです。けれども、法然や親鸞とそこのところが違うんです。つまり、仏教について何も考えず、学問や知識もなく、子どもを産み、老いて死んでいくごく普通の人たちが考えていることを、自分も考えたか、考えないか、それを自分の仏教の教え、思想の中に繰り入れることができたか、できなかったかという点が、法然、あるいは親鸞と、当時の優れた坊さんとの決定的な差異なのです。

もちろん僧侶が状況にかかわりなく修行に精進することは、悪いことではありません。ただ状況の生々しい現実的なうねりが、じぶんの修行を追い越して行ったとき、それに対して何を考えるかが、これらの法然を批判する高僧たちには無かったのです。これは単に資質の違いではなく、器量の違いです。

(A課長)
この本は親鸞の思想を解説した本だと思うのですが、『歎異抄』についてはどう書かれていますか?

(Sさん)
第一章は「親鸞の生涯」で、『歎異抄』についての解説はほとんどありません。ただ蓮如にまつわる話のところに、さらっと登場します。43ページのところです。

親鸞は弘長2年(1262)に89歳で京都で亡くなったとされます。(中略)親鸞は、寺をつくれとか、仏像を拝めとは一切言っていないし、そんなものは要らないんだと言っていたのですが、子孫がつくってしまったわけです。

その後、本願寺は京都で宗教活動をするようになりました。一時さびれますが、200年ほどあとに、蓮如が出ます。この蓮如という人は、当時の親鸞系のお坊さんの中でも格段に優秀な人でした。蓮如は、浄土真宗を京都以外にも精力的に広め、本願寺を盛り返しました。

蓮如は、「『歎異抄』は危険なものだから信者に見せるな」と言って隠したという伝説もあります。確かに、蓮如はそういうことを言いそうな人だし、実際、『歎異抄』には親鸞が正直に本音を吐露したところが随所に出てきますから、危険といえば、危険なところはたくさんあります。

(A課長)
面白い! コーチング的に捉えると、唯円という優れたエグゼクティブコーチの質問によって、エグゼクティブ親鸞が思わず自己開示してしまった、ということですね。それが随所に出てくる。

『歎異抄』とは「親鸞の自己開示の書」…なのか?

(Sさん)
Aさんの視点もユニークだ(笑)
親鸞は『教行信証』を著しています。

親鸞の主著である『教行信証』を読むと、それがインドと中国のあらゆる浄土系のいいところというか、エッセンスを全部収録して集めてあります。そして、それに対して自分の考えを述べています。ですから自分が浄土宗の最後の人だという自覚があったのだと思います。

さすがに『教行信証』は読んでいません。どうも難解な書のようですね。

(A課長)
親鸞自らの書ではない『歎異抄』が、現代日本でもベストセラーになっている。「無人島に1冊の本は?」という質問に必ず登場しますから。

(Sさん)
五木さんも指摘しているように、聖書もキリスト本人が書いているわけではない。多くの使徒を中心に、キリストの言葉を集録した書です。そうだ、Bingに「新約聖書は誰が書いていますか?」と質問してみましょうか…

〇福音書(イエスの生涯と言葉を記録した4つの書)
 ・使徒の一人で税吏だったマタイ
 ・使徒ペトロの弟子であったマルコ
 ・使徒パウロの協力者で医師だったルカ
 ・使徒の一人でイエスに最も愛された弟子と呼ばれたヨハネ
〇使徒言行録(初代教会の歴史を記録した1つの書)
 ・ルカ
〇書簡(初代教会の指導者たちが教会や個人に宛てた手紙からなる21の書)
 ・ローマ人への手紙からピレモンへの手紙までの13の書 : 使徒パウロ
 ・ヘブライ人への手紙 : 著者不明だがパウロやルカ、バルナバなどが候補とされる。
 ・ヤコブの手紙 : 著者不明だがイエスの兄弟や使徒やヤコブなどが候補とされる。
 ・ペトロの手紙一、二 : 使徒ペトロ
 ・ヨハネの手紙一、二 : 使徒ヨハネ
 ・ユダの手紙 : イエスの兄弟ユダ
〇黙示録(終末のビジョンを記録した1つの書)
 ・ヨハネ

以上が新約聖書の著者です。ただし、これらは伝統的な見解であり、近代以降の批判的聖書研究では異なる説もあります。また、聖書は神様が人間を通して書かれたものであると信じられています。したがって、真の作者は神様です。

世界最大規模の読者をもつ「新約聖書」は使徒によって執筆された!

(A課長)
チャットGPTは間違いもあるから、心配なところもありますが、最後の「但し書き」でバランスをとっている感じですね。

(Sさん)
ええ、でも勉強になる。さて、そろそろ時間ですね。
『今に生きる親鸞』では、有名な「悪人正機」「人を殺せるか」などについての、親鸞と唯円の問答も、もちろん紐解いています。五木寛之さんが親鸞を通して、ご自身の境地として描く「他力」についても…

ただ私は、隆明さんが「非僧非俗」を、章を横断しながらさまざまな表現で繰り返し語っている言葉に、嵌ってしまいました。

親鸞は、越後で妻帯したばかりでなく、あらゆる戒律を全部破るというところに達しました。聖徳太子の夢告で、妻帯してもいいと告げられたわけですが、単に妻帯したばかりでなく、けものの肉や魚介を食べた。つまり、生き物を食べる。生臭を食べるということを平気でやったのです。親鸞は、自分のことを、「僧にあらず、俗にあらず」すなわち、「非僧非俗」と言っています。自らを「愚禿」と称するようになりました。(35ページ)

現実的な価値観や、仏教の宗教的な価値観や、戒律の理念的な価値観からいえば、一番ダメで、坊さんとしては破戒坊主です。あらゆる戒めを全部、進んで破った人ですから、どうしようもないというのが普通の僧侶の価値観です。親鸞は、徹底的にダメなところまで到達しました。(46ページ)

結局、親鸞は、修練でいうと、坊さんらしいことを全部やめて、ただ念仏だけ称えれば浄土へ往けるというところに達しました。ですから、一番簡単で、一番やさしいところに、最後にいき着いたということになります。(中略)

親鸞が行きついたのは、「おれは坊さんをやめた」というのとおなじで、非僧非俗と自称しました。ほとんど首の皮一枚で僧侶ということにつながっています。要するに破戒坊主で僧侶の世界の常識では一番堕落したということになります。(中略)

親鸞は同時に、愛欲や名利への欲望が重大な罪業であることを深刻にうけとめ、人間の規模の倫理では、それを免れることも、離脱することもできないことをよく知っており、自分を罪人とする自覚と内省力をもっていました。これが罪障感としてあるかぎり、俗人にはなれないと思ったのです。これが「非俗」の意味です。(77~79ページ)

親鸞の実像は「非僧非俗」を極めつくした人!

(A課長)
親鸞の実像をどう表現したものか… つきつめていって、さらにさらに、どこまでも… と、吉本さんはとにかく書いていく、というスタイルですね。
ううん? ちょっと待てよ… 「書いた」というより「話し言葉」のようだ。

(Sさん)
ええ、実はこの本は隆明さんによる「語り」の書なんです。私も「あとがき」を読んで合点した次第です。

はじめ講談社の竹内章二さんが「語る」親鸞の企画をもって来られたとき、余程よく考えなければ、この企画は成り立たないだろうとおもい否定的な気持ちを拭い去れなかった。だが竹内さんがわたしの親鸞についての論稿も読み、よく勉強もされ、語りで言及されず流れてしまった事柄も補って、これならば成り立つなというところまで、努力を重ねてくれた。

つまり、編集者である竹内さんが質問し吉本さんが答える、という流れです。それを文字に起こし、吉本さんにフィードバックします。吉本さんは、それを読み直し、また新たなイメージが膨らみ、追記したりします。それを繰り返しながら洗練度を高めていく。
そういう流れだと想像します。
ただ質問者の竹内さんは登場しない。黒子です。「菊づくり、菊見るときは陰の人」ですね(笑)

「親鸞の善悪の基準」は考えうる最後のところまで達している!

(A課長)
Sさん、これってコーチングですよ。主役はクライアントであり、コーチは伴走者です。作家と編集者の関係って、実にコーチング的だ。

(Sさん)
コーチングにつながりました!
Aさん、最後に第四章の中にある、私がもっとも響いた隆明さんの言葉を引用させてください。182ページです。
次回もユニークなテーマで1on1をやってみましょう!

人間の善悪、倫理は、大変気をつけなければならないことです。信仰を除けば、一番気をつけなければならないことだと思います。また、それは思想の一番大きな眼目だと思います。なにを善として、何を悪とするかをよく考えてみると、その思想はどの程度の思想か、どの程度のできあいの思想かを判断できるほどです。親鸞の善悪の判断の基準は、たぶん、人間が考えられる最後のところまで達していると思うのです。

坂本 樹志 (日向 薫)

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