母はいつも、自分の好きなことを好きなペースでするのが一番いいと考えていた。自分の好きなことをしていれば、ペースはおのずと決まる。自分が楽しいと思うことを、よこしまな目的に左右されず、心を込めてしっかりとやる。そうすれば、人生に失敗することはない。
(『Hit Refresh~マイクロソフト再興とテクノロジーの未来(37ページ)』より引用)
『Hit Refresh』の中で語られる、サティア・ナデラ マイクロソフトCEOの言葉は、さまざまな「箴言」に満ちています。毎回のコラムで、コーチング視点を強く感じるナデラ氏の言葉を選び、引用し、語ってみようと思います。
南インドでの幼少期を振り返るサティア・ナデラ氏です
(chapter1)のタイトルは「ハイデラバードからレドモンドへ」です。そこには「マルクスを敬愛する父、サンスクリット学者の母、クリケットのスター選手に感化された少年時代」という、サブタイトルが付されています。多くの子どもが、幼少期に両親の影響を受けて成長していくように、ナデラ氏も振り返りつつ、両親から「何を」得たのか、を語っています。
私の父はマルクス主義の素養のある公務員、母はサンスクリット語の学者だった。知的好奇心や歴史への興味など、父から学んだことはたくさんあるが、私はむしろ母親っ子だった。(28ページ)
「サンスクリット語」は、「どういう言語なのか?」について、これまで調べたことはなかったので、この機会にネットで検索してみました。その中で、グーグールの「AI による概要は試験運用中です」とキャプションが付されている説明がシンプルなので引用しておきます。
サンスクリット語(Sanskrit)は、インド・ヨーロッパ語族のインド語派に属する古代インドの言語で、古代インドの宗教や文学で用いられた共通語です。サンスクリット語は「高尚・完全・純粋で神聖な雅語」を意味し、中国では「梵語」と呼ばれます。
サンスクリット語(梵語)は「高尚・完全・純粋で神聖な雅語」
ナデラ氏が「私はむしろ母親っ子だった」と、言葉にするように、母親についてはさまざまな思い出が綴られます。
母は、私が幸せかどうか、自分に自信を持っているかどうか、その時その時を後悔なく生きているかどうかをとても気にしていた。そして、家でも大学の教室でも忙しく働いていた。大学では、インドの古代言語、古代文学、古代哲学を教え、家では、喜びにあふれる家庭を築き上げた。
それでも私がまだ幼かった頃の記憶では、母親は仕事と結婚生活の両立に苦労していたようだ。当時の私にとって、母は絶えず生活を安定させる力強い存在であり、父は偉大な存在だった。父は以前、経済学博士号の取得のためフルブライト奨学金を受け、チャンスを象徴するはるかかなたの国、米国へ移住しようとしていた。しかし、この計画は突然中止になってしまった。それも当然だった。インド行政職(IAS)の一員に選ばれたからだ。(28ページ)
ここで、「フルブライト奨学金」について、触れておきましょう。臨床心理学者の河合隼雄さんも、この奨学金を得て、1959年(31歳)にフルブライト奨学生としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校に留学しています。ナデラ氏の父親も選ばれていたのです。
フルブライト奨学金制度は、第二次世界大戦終了直後に「世界平和を達成するためには人と人との交流が最も有効」との信念を持ったフルブライト上院議員が米国議会に提出した法案に基づき1946年に発足しました。これまで半世紀以上にわたり、日本を含む160ヶ国以上、40万人以上の人々に研究や教育の機会を提供し、あらゆる分野のリーダー育成に大きな役割を果たしてきました。(「PRTIMES」より引用)
ナデラ氏の父親は、新国家インド樹立の一端を担った国家公務員
ただ、その頃(1960年代)のインドは、ガンジーの歴史的独立運動によりイギリスから独立を勝ち取ったばかりであり、その世代のインド人にとって、公務員になって新国家樹立の一端を担うのは夢のような仕事だったようです。
IASには、毎年100人ほどの若い専門家が選ばれるだけだったが、その一員となった父は、若くして何百万もの人々が暮らす地区を管理することになった。アーンドラ・プラデーシュ州のさまざまな地区に配属されたため、幼年時代に何度も引っ越ししたのを覚えている。こうして私は、時間と空間だけはたっぷりある辺ぴな町の古い植民地様式の建物で、1960年代から1970年代初頭までの期間を過ごした。祖国は変わりつつあった。(29ページ)
もし、父親がフルブライト奨学金によって、米国に移住していたならば、ナデラ氏の人生もまったく違ったものになっていたでしょう。現代インドにつながっていく、その発端である激動の時代に、ナデラ少年は、アーンドラ・プラデーシュ州のさまざまな地区を体感したことが、マイクロソフトの変革(「共感」の哲学によって)を成し遂げることができた、その背景の一つであったことが想像されます。
さて、「母親っ子」であったナデラ氏は、母親が何を感じ、何を判断し、そして多感なナデラ氏に、どのような態度で接していたのかを綴ります。当時の母親に寄り添うナデラ氏の姿が伝わってきます。
こうした落ち着かない時期に、母は教師の仕事を続け、私を育て、愛情深い妻になろうと精一杯努力していた。しかし私が6歳くらいの頃、妹が生後5カ月で亡くなった。この出来事は、私にも家族にも多大な衝撃を与えた。母は結局、それを機に仕事をやめてしまった。きっと妹の死で一気に心が折れてしまったのだろう。父が遠く離れた場所で働いている間は、仕事をつづけながらひとりで私を育てていた。そのうえ娘を失い、苦労が重なり過ぎたに違いない。母がそのことで私に不満を訴えたことは一度もない。(29ページ)
ナデラ氏は、「多様性」についての想いを語ります。母親は、当時、激動のインドにあって、最先端の学を身につけた人格高邁である、エリート中のエリート女性であったことが伺われます。
ナデラ氏の母親は、人格高邁のエリート女性……
だが、今でも私は、テクノロジー産業で最近よく話題になる多様性という観点から、母の人生について考えることがよくある。母は、ほかの人と同じように、望みのものをすべて手に入れたいと思っていた。それを手に入れるにふさわしい人だった。だが、母の職場の文化と、当時のインドの社会規範のせいで、家庭生活と仕事への情熱を両立させることができなくなってしまった。(30ページ)
ここで、ナデラ氏の母親に関する記述が止まります。原稿段階では、もう少し続けていたのではないか… と、勝手に想像しています。仮に、書かれていなかったとしても(書きようがなかった…?)、母親の無念を受けとめたナデラ氏が、母親のリベンジを果たすべく、インド人の自分が、米国という「地」で、そしてマイクロソフトという「場」を得て、「多様性の実現」を秘めたるパーパスとして、挑み続けてきた歴史であるように感じています。
ナデラ氏は、母親を「力強い存在」と称し、一方の父親は「偉大な存在」と言います。使い分けていますよね。この日本語が、原語である英語のニュアンスを、私たち日本人にも同様に感じられる翻訳であるのかどうか、不明なのですが、ナデラ氏は「言葉を選択」することについて、熟慮する人であることが伝わってきました。
「力強い存在」の母親、「偉大な存在」の父親
父親と母親のパワーが拮抗している場合、教育観の違いによって、子どもが混乱する場合が往々にしてあります。「IASの父親を持つ子供たちの間には、激しい競争があった」と、ナデラ氏は振り返ります。「一部の父親は、過酷なIAS試験に合格しさえすれば、一生安泰だと思っていた」、と触れつつ、「しかし、私の父は、IASの試験に合格したとしても、それはさらに重要な試験を受けるための入り口にすぎないと考えていた。父はまさに生涯学習の権化だった。」と、父親のことを「権化」という言葉で表現します。
この記述からは、「息子がIASの試験に合格する」ことを、父親は当然のごとく受けとめている、というニュアンスを感じるのですが… もっとも、「それでも当時の私は、親から勉強を強制されることなどまるでなかった」と、続けています。
私は、行間を読み過ぎているのかもしれません。ここは「両親」ではなく「親」とあり、ちょっとあいまいですね(笑)
なぜか、ここから急に「母」に話題が転じます。
母は、教育ママとは対極の存在だった。幸せを求めること以外に何かを押しつけようとは決してしなかった。それが私の性分にぴったり合った。子どもの頃の私は、クリケットのこと以外、気にかけていることなど何もなかった。ある日、父が私の寝室にカール・マルクスのポスターを貼った。するとそれに対抗して母が、インドの豊饒と幸運の女神ラクシュミーの絵を飾った。2人がそれぞれ言いたいことは明らかだった。父は、知的好奇心を抱くことを求めていた。一方母は、私が幸せになるか何かに夢中になることを望んでいた。(30ページ)
ナデラ氏は、どちらかと言うと「母の方に自分は共感している」と、読者にイメージさせようとしているかのように感じ取れますが…
それに対する私の反応はというと、本当に欲しかったのは、私の英雄であるハイデラバード出身の偉大なクリケット選手、M・J・ジャイシンハのポスターだけだった。少年のような端正な顔立ちをした、フィールドの中でも外でも優雅なしぐさで有名な選手だった。(31ページ)
サティア・ナデラ氏は「コーチング思考」の人!
「コーチング思考」に浸かっている私は、ここで、ナデラ氏の語りの展開に「お見事!」と、賞賛の声を上げてしまいました。『Hit Refresh』を綴るナデラ氏は、両親を「メタ思考」で受けとめているなあ、と感じるのです。「両親」を、平等にエバリュエーションし、決してジャッジメントしていません(笑)
ここで、(chapter1)のタイトル「ハイデラバードからレドモンドへ」と、サブタイトルである「マルクスを敬愛する父、サンスクリット学者の母、クリケットのスター選手に感化された少年時代」が、結びつきました。
今回のコラムは、エリクソンの「心理社会的発達論」をイメージしながら綴っています。エリクソンは、人生を「乳児期」から「老年期」まで8つの段階に分けて、それぞれの期間に特有な課題を整理しています。
アイデンティティという英語は「自我同一性」と訳されますが、1960年代に、この理論が日本に紹介され、広まっていく過程で、この固い翻訳日本語より「アイデンティティ」のまま、使われるようになっています。
エリクソンは、特に13歳~19歳あたりの「青年期」に注目しており、それまでの段階を、何とか無事にクリアしても、「仲間」との関係性、そして「ロールモデル」がうまく見出せないと、「青年期・アイデンティティ・クライシス」に陥ってしまう、と説きます。
ナデラ氏の場合、ロールモデルはしっかりと存在していました。ハイデラバード出身の偉大なクリケット選手、M・J・ジャイシンハ氏です。クリケットについてのナデラ氏の語り口は実に熱い!
ロールモデルはハイデラバード出身の偉大なクリケット選手!
私は、古くからクリケットが盛んなハイデラバードで、学校の代表としてプレーするほどクリケットが得意で、オフィスピンボウラー(野球で言えば、切れ味鋭いカーブを投げるピッチャー)として活躍した。
クリケットは全世界でおよそ25億人ものファンを擁し、野球ファンの5億人をはるかに上回る。野球同様、熱狂的なファンには事欠かない魅力あるスポーツで、その優雅さ、興奮度、競技の複雑さは、数々の小説の題材にもなっている。
たとえば、ジョゼフ・オニールの小説『ネザーランド』(訳注*古屋美登里訳、早川書房、2011年)に、クリケットの魅力を伝える描写がある。11人の選手が一斉に打者のほうに集まっては、繰り返し最初の位置に戻る様子を、こう表現している。「この肺の律動を思わせる反復行為を見ていると、まるでさんぜんと輝く選手たちを通じてフィールドが呼吸しているかのようだ」。CEOとして成功のために必要な企業文化を考える際、このクリケットチームの姿がヒントになるのではないかと思う。(31ページ)
これまでクリケットについて、情報を得ようと思っていなかったこともあり、ほとんど「無知」でしたが、ナデラ氏の語りに刺激され、クリケットの動画をYouTubeで、さまざま視聴しています。「この肺の律動を思わせる反復行為」は、合点至極です。
ナデラ氏に感化されています(笑)
「クリケットに次いで情熱を注いでいたもの」とは?
最後に、「クリケットに次いで情熱を注いでいるものがあった」、と語るナデラ氏の言葉を引用し、次回のコラムにつなげようと思います。「ハイデラバード」から、マイクロソフトの本社がある「レドモンド」でのナデラ氏です。
それはコンピューターである。15歳の時に父が、バンコクで買ったシンクレアZXスペクトラムというコンピューターをプレゼントしてくれた。それはCPUに、インテルを退社したエンジニアが1970年代半ばに開発したZ80を採用していた。
ちなみに、このエンジニアはインテル時代に8080マイクロプロセッサーの開発に携わっていた。そのプロセッサーこそ、ビル・ゲイツとポール・アレンがマイクロソフトBASICの最初のバージョンのために使ったチップである。(35ページ)
坂本 樹志 (日向 薫)
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