…会議が終わると、空港までフィッシュホフを車で送ることになった。空港に向かう車の中で話していて、フィッシュホフがイスラエルのヘブライ大学で心理学の博士課程をとったことを知った。彼はそこで、私が名前を聞いたこともない2人の研究者の助手を務めていた。それがダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーだった。
フィッシュホフは自分が提唱する「後知恵バイアス(hindsight bias)」について話してくれた。この理論はいまでは有名になっている。人は、何かが起きた後で、それが当然の結果だとまでは思わないまでも、あたかも自分は前もってそうなるのではないかと予想していたかのように考えてしまう傾向がある、というものだ。
今回のコラムはセイラー教授の『行動経済学の逆襲』第3章~4章を語ります。
私が印象に残ったところを太字にしています(以後も同様です)。
「後知恵バイアス」については、「どこかで目にしたことがあるような気がする…」と感じた方は、心理学、行動経済学に造詣が深い方、もしくは6月10日のコラムに目を通された方だと想像します。カーネマン教授が次のように記述している箇所です。
・過去の自分の意見を忠実に再現できないとすれば、あなたは必然的に、過去の事象に対して感じた驚きを後になって過小評価することになる。この効果を初めて取り上げたのはバルーク・フィッシュホフで、エルサレムの大学生だったときのことである。彼はこれを「私はずっと知っていた」効果と呼んだ。すなわち「後知恵バイアス(hindsight bias)」である。
今回のコラムは、6月10日のコラムで取り上げたカーネマン教授の著作『ファスト&スロー』に替わって、セイラー教授の『行動経済学の逆襲』を取り上げます。
カーネマン教授のノーベル経済学賞の受賞は2002年、そしてセイラー教授は2017年に受賞しています。15年間のインターバルがありますが、そもそもセイラー教授が行動経済学にのめりこむきっかけは、1976年の夏に図書館での出来事に由来します。
…それならカーネマンとトヴェルスキーの研究を読んでみたらどうだと、フィッシュホフに勧められた。次の日、ロチェスター研究室に戻ると、図書館に向かった。いままで経済学の書棚しか見たことがなかった私は、未知のエリアに足を踏み入れた。
最初に、サイエンス誌に掲載された2人のサマリー論文「不確実性下における判断…ヒューリスティクスとバイアス」を読んだ。当時、私はヒューリスティクスとは何か、はっきりわかっていなかったが、いまでは「経験則」のかっこいい言い方であるとわかっている。
論文を読み進めると、まるで大接戦の試合が最後の数分間を迎えたときのように、心臓がバクバクし始めた。論文は30分で読み終えたが、その30分が、私の人生を永遠に変えることになった。
研究者は往々にして、自分の研究テーマだとされているカテゴリーを彷徨しがちです。それによって“深い”知識が得られるのですが、新たな発見は、別の世界からもたらされることが多いのですね。ケミストリーです。リベラルアーツの意義が改めて実感されるところです。
セイラー教授といえば…「ナッジ理論」!
セイラー教授はノーベル賞を受賞していますので、世界が認める成功者であり、極め付きの有名人です。ナッジ理論をはじめとして、行動経済学を、だれもが「身近に実践できる学問」として認識させるに至った、最大の功労者です。
そもそもナッジとは、「ひじで軽くつつく」という意味です。隣に座っているウトウトしている友人に、ひじで突きながら小声で、「起きなさいよ…先生が気づくわよ」と気づかいしているイメージですね。
「どこにも強制の痕跡が認められない働きかけ(ストローク)にもかかわらず、いつの間にか自分の意思で判断したかのごとく行動してしまう」というマジックのような理論です。この理論を活用したさまざまな社会政策や企業施策が実施され紹介されています。
有名な事例として、アムステルダム・スキポール空港の男子トイレの小便器があります。その小便器内の絶妙な位置に、見えるか見えないかの小さなハエの絵が描かれており、用を足す際にそのハエ目がけて小水をひっかけると、これまで便器の外に飛び跳ねていた小水が便器内に収まってしまう、という仕掛けです。
多くの人が面白がって(?)、思惑通りの小水スタイルをとってくれたおかげで、清掃費が8割削減された、という成果が報告されているのですね。
「きれいに使っていただきありがとうございます」
日本においても、それを習ってか、某ショッピングセンターのトイレで、ハエならぬ丸形のマークが付けられた小便器を見かけたことがあります。ただその後、私の行動範囲内では、そのタイプのトイレに遭遇することはないので、効果がはっきりしないのかもしれません。
他方、「きれいに使っていただきありがとうございます」というプレートを見かけることが俄然増えました。日本の文化的背景(?)が作用しているのか…いろいろ考えさせられますね。
「あなた!立ったままでオシッコすると飛び跳ねて掃除が大変なこと、わかってるの‼ オシッコでも必ず座ってしてよね!」と、パートナーから強く言われる男性諸兄の多いことが想像されます。「そんなに強く言わなくてもいいじゃない…」と心の中では反発しつつ、「わかった、わかった」と口先で応え、一向にパートナーの言いつけを守らない…ということも、また想像されますね。
お互いが、この「ナッジ」を、そしてコーチングを理解することで、そのような不毛な諍いから脱却できるかもしれない…というのは私の希望的観測です(笑)
著作に戻ります。
セイラー教授は「心臓がバクバクし始めた」という言葉を使って、サマリー論文を読んだ時の衝撃を語っています。
セイラー教授は“ぐうたら”です。それはカーネマン教授がセイラー教授のことをホメる最上級の言葉なのですが(5月6日のコラム)、その意味は「…私がぐうたらだというのは、生来の怠けグセを吹き飛ばすくらい強く好奇心をかきたてる疑問しか追求しないという意味なのだそうだ…」であり、このサマリー論文は、セイラー教授が生来の怠けグセを吹き飛ばす、ノーベル賞に向かっていくその第一歩となる記念すべき「出会いと縁」ということになります。
「出会い・縁」 = 作用×(「人知を超えた何かの力」+「精神の自律的な力」)…かもしれない。
パラレルワールドという言葉を聞いたことがあると思います。「並行世界」、「同時に進んでいる別の世界」ということですが、「あのとき、この人と出会わなかったら…」、「あのとき、別の判断をしていたら…」と想像し、「きっと違う人生を歩んでいただろう…」と、思い返すことがたびたびです。
ちなみに、「パラレルワールドは実際に存在するのではないか?」と、好奇心あふれる科学者も少なからずいます。もっとも、現時点では科学的に証明されていませんが…(晩年のロジャーズは、科学的な解明を期待していたようです)。
少し脱線しました。
アドラーの目的論を援用してみます…
さて、この「出会いと縁」を、人知を超えた何かの力の作用によって引き寄せられた…と感じることはあるでしょう。私はこの「出会いと縁」を深く考えていくと、「人知を超えた何かの力」に加えて、「自律的な力」も作用していると捉えるようになりました。それはアドラー流の解釈です。
アドラーは「精神の傾向」について、一つの発見をします。それは「ある目的に向けられている」「目的に向かって精神は流れていく」ということです。アドラーの捉え方は、意識・無意識を問いませんから、「いつ何時でも」ということになります。ぼーっ、としていて何も考えていないと感じていても、精神そのものはある目的に向かっている、というのです。
したがって、その目的を同定させるべく、五感(六感・sixth senseも?)を使って情報収集しているということになります。身体も動きます(ものぐさもマメになります)。そのプロセスを経た結果、セイラー教授の場合は、カーネマン教授&トヴェルスキー氏に行き当たったのではないでしょうか。
「思いの強さ」「願いは叶う」…と表現されていることを、少し科学風のアプローチで解釈してみました。
第4章のタイトルは “カーネマンの「価値理論」という衝撃!”
第3章に続き、このタイトルを付した第4章で、セイラー教授の筆は熱を帯びていきます。
図書館で運命の出会いを果たした私は、バルーク・フィッシュホフに電話して、お礼を言った。するとフィッシュホフは、ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーが意思決定に関する新しい研究に取り組んでいる、きっと君の気に入るはずだと教えてくれた。ペンシルベニア大学ウォートンスクール教授のハワード・クンリューサーが論文の写しを持っているのではないかというので、クンリューサーに電話したところ、大当たりだった。クンリューサーは草稿を持っており、写しを送ってもらうことになった。
届いた論文には、クンリューサーのコメントが余白にびっしり走り書きしてあった。2002年にダニエルがノーベル賞を受賞することになる論文の初期の版で、当時は「価値理論」と題されていた(もしエイモスが存命だったら共同受賞していただろう)。その後、タイトルが「プロスペクト理論」に変更された。この論文は、ヒューリスティクスとバイアスに関する以上に、私のリストと密接に関連していた。
「プロスペクト理論」については、4月27日のコラムで取り上げています。その内容は本家本元であるカーネマン教授の『ファスト&スロー』からの引用です。
https://coaching-labo.co.jp/archives/3169
セイラー教授の場合は、この第4章で当該理論に衝撃を受けた者としての感動を綴っているのですね。
私は、両書について、こうしてコラムを書き綴っているのですが、カーネマン教授とセイラー教授の関係は、年の離れた兄弟を彷彿とさせます。今日行動経済学がこれほどまでに大きな分野になったのは、心理学者であったカーネマン教授と経済学を母体とするセイラー教授の化学反応の結果なのだなぁ、と私は感じています。
実際2つの著作を読み比べると、両巨人のキャラクターの違いが浮かび上がってきます。行動経済学をより深く理解できる、ということもさることながら、自分が「これだと決めた」テーマに対する向き合い方にも個性があること…つまり「アプローチの多様性」が実感できるのです。そして、このコラボレーションは、多くの学問の徒に影響を与え、さらなる化学反応として増幅されています。行動経済学は、自律運転のごとく止まるところを知らないようです。
坂本 樹志 (日向 薫)
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