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心理学とコーチング ~渋沢栄一とノーベル平和賞(候補)、そして『論語と算盤』~

…次に、渋沢についての紹介を具体的に始めているが、極めて厳しい見方が展開されているので、主な点を引用する(「 」は直訳)。
「渋沢はヨーロッパではほとんど知られていない」。モーは、ノーベル研究所にある日本関係、日米関係の豊富な文献を細かに調べたが、「彼の名前を少し見つけるのがやっとであった」。

日本の最も傑出した金融家、産業企業家といわれるが、「推薦者らが彼に付与する対米関係での大きな政治的重要性については、全く何も見つけられない。この点に関して提出された報告書に大きな誇張があることに疑いの余地はない」。英語ができないことを聞けば、「渋沢が日米の問題で重要な役割を演じることができたというのは不可能である」とも指摘している。

私なりの渋沢栄一論にチャレンジしてみます!

このコラムシリーズで、いつかは渋沢栄一について語ってみたいなぁ、と思い、まずは『論語と算盤(原文と現代語訳の両方)』から読み始め、そこから数冊の渋沢関連本を手に取るうちに、「この人…すごい人だなぁ…」と感じ入るに至っています。

それもあって、却って生半可に書くことをはばかる気持ちが高まってきたのですね。そして時間を置いたことで、私なりの「渋沢栄一観」が育まれつつありますので、このタイミングで、拙い感想文を表してみようと決心したところです。

行動経済学のカーネマン教授やセイラー教授がノーベル賞を受賞していることもあり、5月6日のコラムで「ノーベル賞について改めて考えてみる…」という小見出しを設け、私見を展開してみました。関連して、渋沢栄一がノーベル平和賞候補(1926年と1927年)であったことに興味を覚え、ネットを中心に調べたところ、見つけたのが冒頭の引用です(『ノーベル賞の国際政治学…ノーベル平和賞と日本:第二次世界大戦前の日本人候補…吉武信彦(高崎経済大学教授)/2010年11月』)。

吉武教授は学者としてのスタンスで、ノーベル研究所に保存されている記録を丁寧に調べ、それに基づき予断を排して、当時、渋沢がどう評価されていたのかを論文として発表しています。

ノーベル賞の選考に関する史料は、50年後に公開されます。

冒頭の引用は、「4ノーベル委員会の渋沢」という小見出しを付したパートの半ばあたりに記されています。スタートは、以下の言葉から始まります。

ノーベル委員会は渋沢に対していかなる評価をしていたのであろうか。渋沢については、1926年の選考過程で報告書(ノルウェー語)が作成されており、これは渋沢の評価を知るには最適な史料であろう。

1926年の33候補のうち、ノーベル委員会は16候補に関心を持ち、報告書の作成を決定している。なお、そのうち3候補はすでに前年までに報告書が作成されていたので、新報告書は作成されなかった。渋沢は、1926年に報告書が作成された13候補のうちの1人であった。

渋沢の報告書を作成したモー(Ragnvald Moe、1873 ~ 1965年)は、ノーベル委員会の委員ではなく、1909年からノーベル委員会の書記を務めており、1928 ~ 1946年にはノーベル研究所の所長になる人物であった。モーが作成した渋沢報告の内容を見てみよう。モーは、渋沢についてかなり詳しく検討し、極めて厳しい紹介を行なっている。

この後で、冒頭の引用が続くのですが、判官贔屓かどうかは別として、「もう少しポジティブに評価してくれてもよいではないか…」と、感じます。ただ私が、この吉武教授の論文を紹介したくなったのは、モー自身が渋沢栄一とはどのような人物なのかを独自に調べており、その内容が、今日広く発表されている評価とは異なる視点で描かれているからです。吉武教授はそれを次のように要約しています。

ノーベル賞選考の過程で把握された渋沢栄一の人物像とは…

・渋沢は1840年に東京近郊の農民の子として生まれた。10歳のときには孔子の教えに熟達していた。1864年に幕府に入り、1867年には将軍の弟に同行してフランスに行った。1868年に幕府が倒れた後は、大蔵省に重要な地位を得て、1873年には日本最初の銀行をつくり、頭取になった。日本の現代の経済発展の父とされる。

・さらに多くの慈善団体をつくった。最近24年間は、日米問題に熱心に取り組んできた。1902年に訪米し、諸問題を知り、両国民がお互いによく知る必要性を悟った。日露戦争後、アメリカへの日本人の移住、すでに受け入れられた日本人の法的地位の問題に取り組んだ。

・1908年に、アメリカ太平洋沿岸の商業会議所の代表を日本に招き、両国の実業家の間に友情の絆をつくった。1909年秋にはアメリカ人の招きで、渋沢率いる日本人60名がアメリカを訪問した。「著者(すなわち推薦書の著者)は、渋沢が70歳であるにもかかわらず、最も強い調子で彼の指導力を描いている。旅行とパーティーの描写は大変鮮明である」。

・1915年にもアメリカを訪問し、サンフランシスコ商業会議所内に日本関係委員会をつくらせた。日本にも同様のものをつくるとの条件であり、渋沢は日米関係委員会をつくった。

・この活動にもかかわらず、世界大戦後、日米関係は悪化し、1920年、渋沢とその東京の委員会は多くの著名人を含むサンフランシスコの人たちを招いた。彼らは争点の問題を議論し、諸問題を両国政府の設立する合同の上級委員会に任せる決議を採択した。

・この案は政府の賛同を得られなかった。反日条項をもつアメリカの1924年新移民法は渋沢とその友人たちに厳しい一撃となった。結局のところ、渋沢の活動が望みうる成果をもたらさなかったと認めざるを得ないが、渋沢自身はその後も意欲をもち続け、その組織を維持した。

・最後に、推薦書は渋沢が委員長を務めるすべての組織を列挙している。渋沢は1900年に男爵の爵位を得て貴族となり、1920年には子爵になった。

吉武教授はノーベル委員会の渋沢評価について、次のように総括しています。

以上がモーの作成した報告書の要旨である。モーは、日本側の提出した推薦書を利用しつつも、独自に日本関係の文献にもあたり、渋沢の評価を試みている。評価自体は極めて厳しい。ヨーロッパで知名度がなく、英語もできず、高齢であったこともあり、日米関係における渋沢の政治的重要性について極めて低い評価となっている。推薦書の内容をまさに「批判的に」検討した結果といえよう。

渋沢の選考状況について、日本では「最終選考に残る」との報道がなされたこともある。しかし、以上の報告書の内容からすると、全候補の半分まで絞られた時には残っていたものの、その段階で脱落したと考えられる。渋沢、さらに推薦者にとって、ノーベル平和賞の壁は厚かったといえよう。

しかし、渋沢がノーベル委員会の関心を惹いたことは確かである。渋沢の生涯に関して推薦書の添付資料、日本関係の文献などをじっくり読みこんだことがわかる報告書となっており、渋沢を通じて日米関係を中心としたアジア、太平洋情勢について情報がノーベル委員会委員にインプットされたのは事実であろう。少なくとも学習の機会を提供したのではないだろうか。その意味では、渋沢のノーベル平和賞推薦は受賞には至らなかったが、一定の意義をもったということはできるであろう。

「世界で評価され通用する日本人は渋沢栄一である!」と国を挙げて推挙している…

ノーベル賞の選考は、ノーベル財団に「ノーベル賞にふさわしいのは〇〇〇という人物です」という推薦書を提出するところから始まります。論文によると、推薦書は2通で、1通目はハワイ大学教授(日本言語・歴史)の「Tasuku Harada」からのもので、「推薦にはハワイ大学総長のA. L. Deanの支持がある」とのコメントが付されています。

2通目は、加藤高明首相、幣原喜重郎外相をはじめとする日本の政界、学界を代表する錚々たるメンバー17人が連署した推薦書であり、「以下の署名者は、日本国東京の子爵渋沢栄一が、これに添付した彼の生涯に関する概要に簡単に要約されているように、国際的な親善と平和のために、特に日米間で行なった偉大な活動を顕彰して、彼の名前を栄えある1926年ノーベル平和賞のためにあなた方に提出することを謹んで請うものである」との文言です。

米国が世界に与える影響力はそれほど大きいものではなかった…!?

ノーベル委員会の渋沢栄一評を読み込んだところで、少し考えてみました。推薦書は日本からのものに加えアメリカからも提出されています。内容も、日本と米国との関係が中心です。現在でこそノーベル賞受賞者は世界に網を広げているように感じますが、一方の米国の平和賞受賞について、当時の状況が気になり調べてみました。

1901年~1927年の平和賞受賞者の総数は31人です。これに対して米国の受賞者は、1906年セオドア・ルーズベルト、1912年エリフ・ルート、1919年ウッドロウ・ウイルソン、1925年チャールズ・G・ドーズの4人となっています。他の賞についても米国は目立ったものではありません。それが第二次世界大戦後になると圧倒的な数となります。特に1969年に新設された経済学賞は、2020年までに総数で86人が受賞していますが、うち米国人は57人です。まさに「パックス・アメリカーナ」、アメリカの時代を物語る実績となっています。

モーの報告書の渋沢に対する厳しい評価、そして米国の受賞状況を鑑みるに、当時のノーベル賞は、欧州の視点と価値観を色濃くする賞であったことがうかがえます。「ヨーロッパこそ世界の中心である」という“最後の”時代だったのですね。

ドラッカーが渋沢栄一を絶賛し始めた1960年代以降であれば、ノーベル委員会の渋沢評は変わっていたのかもしれません(もっともノーベル賞は存命者に与えられる賞ですが…)。

渋沢栄一が人生で最も充実感を覚えていたのは大蔵官僚時代…!?

渋沢栄一が渋沢栄一として91歳の生涯を全うした、その岐路となったタイミングを私は1873年とみています。この年33歳、大蔵省を退官します。

一橋慶喜の家臣からスタートし、明治政府で大蔵官僚となります。ただ、大久保利通が大蔵卿となり、方向性の違いから対立したこともあって、明治6年に退官します。大久保利通が就任する前は、人たらしの名人であった大隈重信にかわいがられ、直属の上司である井上馨からの信頼も厚かったので、ノリノリで仕事をしています。それを物語るエピソードが、渋沢栄一76歳になって発表した『論語と算盤(現代語訳/守屋淳)ちくま新書』のなかにありました。明治4年のことです。

ある日の夕方、当時私が住んでいた神田猿楽町の粗末な家に、西郷隆盛公が突然訪ねられて来られたのだ。その頃、西郷さんは参議という役職で、政府のなかでは最も高い地位にいた。私のような大蔵大丞という官職の低い小者のところへ、わざわざ訪問されるというのは、普通の人にはできないことで、私はすっかり恐れ入ってしまった。

西郷の用向きは、相馬藩繁栄の基盤となった二宮尊徳が残した「興国安民法」の存続に関することでした。それに対して国家レベルの財政改革に当たって、井上馨と渋沢栄一は、各藩固有の制度の廃止を検討していたのですね。相馬藩としては、藩の生き残りにかかわる重大事ということで、参議の西郷に面会し、陳情していたのです。

西郷さんは私に向かって、「かくかくしかじかの事情があるため、せっかくのよい法を廃止してしまうのも惜しいから、渋沢の取り計らいでこの法が続けられるよう、相馬藩のために力になってくれないか」といわれた。

そこでわたしは西郷さんに向かい、「それならあなたは、二宮先生の『興国安民法』とはどんなものかご存じなのでしょうか」とお尋ねすると、それはまったく知らないとのこと。まったく知らないものを廃止しないでくれとお願いするのも、よくわからない話だ。しかし、知らないのなら仕方ない、わたしから西郷さんにご説明申し上げることにした。その頃、すでにわたしは「興国安民法」について充分調べてあったのだ。

この後、渋沢栄一は、約1ページに亘って「興国安眠法」について説明しています。そしておもむろに…

西郷さんは、わたしがこのように細かく「興国安民法」について説明したのを聞かれると「それは『収入を把握して、支出を決める』という昔の教えにもかなっていて、とても結構なこと。ならば、廃止しなくてもよいではないか」とおっしゃられた。わたしは、今こそ自分が普段から考えていた財政に関する意見を言っておくべきよい機会だと思い、…

と、またまた熱弁をふるいます。その最後に、

…一国をその双肩に担い、国政の采配をふるう大任にあたっているお身体で、国家のごく一部分でしかない相馬藩だけの『興国安民法』のために努力しても、一国の『興国安民法』についてどうするのかというお考えがないのは、わけがわかりません。本末転倒もはなはだしいのではないでしょうか」と熱心に述べた。

西郷さんは、これに何もいわず、静かにわたしの粗末な家から帰られていった。とにかく明治維新の豪傑のなかで、知らないことは知らないと素直にいって、まったく飾り気のない人物が西郷さんだったのだ。心から尊敬する次第である。

と語ります。
参議である西郷の人柄が伝わってきますね。渋沢栄一は心から尊敬しているのですが、その西郷を説得できた満足感が如実に(笑)表現されています。大蔵省で、自信にあふれ、充実した日々を過ごしていることが目に浮かびますね。

渋沢栄一のパラレルワールドを想像してみました。

実際に、渋沢が大隈重信に「近代国家建設のグランドデザインを描く部署が必要だ」と提案し、それが認められ「改正掛」という部署が新設されます。これは、特命チームであり、既存のチームから選りすぐりのメンバーが集められ、その中で渋沢が実質リーダーであったといわれています。そのアウトプットとは…

  • 度量衡の統一
  • 貨幣制度の統一
  • 近代的郵便制度の統一
  • 租税制度の改正
  • 廃藩置県にまつわる諸制度の改定
  • 鉄道の敷設
  • 近代銀行制度の立ち上げ
  • 太陰暦から太陽暦への変更
  • 株式会社普及のための立会略則・会社弁(マニュアル)発行 …

渋沢栄一の業績を語る上で、羅列される内容です。つまり近代日本の基盤づくり、ビジョンです。渋沢チームがこれを取りまとめていますから、もし退官していなければ、官僚として順調に出世し、大蔵卿、場合によっては総理大臣の可能性もあったかもしれません(と書きながら、政治家としては大成しなかったのではないか、とも想像します)。

渋沢栄一は、退官するかどうか、ものすごく迷ったと思います。その時は一人の人間として、大久保利通が仕切るこの大蔵省で仕事することがイヤになっていたのですね。その後の活躍の内容は…91歳まで自分が生きる、ということも含めて、想像していなかったでしょう。カーネマン教授ではないですが、数々の意思決定は偶然であり、成功失敗は「後付け解釈である」というのも、一面の真実だと思います。ただ渋沢栄一については、パラレルの世界でも、渋沢栄一らしく「蟹穴主義」を全うして、素敵な人生を歩んでいただろうなぁ、と想像しています。

先のエピソードは『論語と算盤(現代語訳)』にある「人格と修養」のなかの一コマですが、この著作は、ドラッカーが評価しているように、マネジメントに関する深い知見と洞察に満ち溢れています。今回のコラムの最後に、「二宮尊徳と西郷隆盛」についての語り前の一節を紹介します。まさに至言ですね。

だいたいにおいて、人を評価して優劣を論じることは、世間の人の好むところであるが、よくよく真相を見極めるむずかしさは、さまざまな事例からも窺われるもの。人の真価というものは、簡単に判定されるべきものではないのだ。本当に人を評価しようと思うならば、その富や地位、名誉のもととなった「成功か失敗か」という結果を二の次にし、よくその人が社会のために尽くそうとした精神と効果とによって、行われるべきものなのだ。

坂本 樹志 (日向 薫)

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