行動経済学の「理論」について、これまで数回に亘って解説してきました。今回のコラムは、行動経済学の「理論」が「実際のビジネス」の中でどのように生かされているのか、いかに「実践」に役立つのか、そのことをリアルに実感できる格好な著作を紹介しようと思います。
『ケースメソッドMBA実況中継04 行動経済学/名古屋商科大学ビジネススクール教授 岩澤誠一郎(2020年9月25日第1刷)』です。
まずは、そのなかの「第3章 Key Takeaway(まとめ)」を引用してみましょう。
臨場感あふれるセッションが再現されています。
<岩澤>
最後の質問です。ロン・ジョンソン氏の失敗から、我々は何を学ぶことができるでしょうか?<受講生t>
顧客を知ることの重要性です。顧客が自分と同じとか、自分はわかっているとかという思い込みは大変危険で、顧客のことを知ろう、勉強しようというように思っていなければいけないと思いました。<受講生u>
顧客のシステム1、特にセイリアンスの対象、顧客は何に惹かれて来店しているのかを、よく考えないといけないのだと思います。システム1はなかなか合理的に理解しがたいものですが、それだけに理解しようという心を持っていないと見えてこないのだと思いました。<受講生v>
(第3講の)A学長のケースでもやりましたが、システム1で動いている顧客のことを理解するためには、自分自身が顧客に共感しなければいけなかったのだと思います。ジョンソン氏は自分でクーポンを使ってみたりして、クーポンで動く顧客のことを理解すべきでした。<受講生w>
思い込みや自信過剰は危険です。自信を持つのは良いことだと思いますが、自信過剰を避けるには、やはり他人の意見に耳を傾ける姿勢を持つことが大事だと思います。<岩澤>
ありがとう。とても良い議論でした。
この著作は「行動経済学」に関する最先端の知見について「ケースメソッド」で展開した講義を「実況中継」として紙面に再現したものです。実にスリリングで、自分が参加しているような臨場感を覚えます。
ケースメソッドは、直訳すると「事例研究」となりますが、第1章でその意義を4つ挙げ、多角的に説明しています(竹内伸一 : 名古屋商科大学ビジネススクール教授 日本ケースセンター所長)。そのうちの2つは、次のように記述されています。
ケースメソッドの意義とは…
- ケースには、現実の企業等、そしてそこに従事するキーパーソン等を主人公とした経営上の出来事が客観的に記述されている。また、そこには、ケース作成者による問題への分析や考察は、一切書かないことになっている。ケースが掲示している問題の分析や解決に向けたアクションの構想は、すべてケースの読み手である学生の仕事であるべきなので、読み手が担うべき大切な仕事はしっかりと残されたかたちで、ケースは書かれている。
- 教師はケースに記述された内容そのものを教えるのではなく、ケースに関する教師自身の分析や考察がどのようなものであるかを教えるのでもない。教師の役割はあくまでも、参加者に、その問題がどこからなぜ生じ、いまどのような状況にあり、これからどうなっていくかを理解させたうえで、どう対処すべきかの「議論」をさせることである。もし教師が、ケースの内容や、「このケースはこう考えるべきだ」という自説を朗々とレクチャーしていたとしたら、教材にケースを使ったとしても、ケースメソッド授業としては「不十分」だと言わざるを得ない。
私が特に印象に残ったフレーズを太字にしました。
この意義を確認された上で、著者である岩澤教授とビジネススクール社会人受講生のやりとりを再読してみてください。
もちろん岩澤教授は、250ページを超える著作の中で、行動経済学に関するキーワードを要所で解説しています。それは、受講生の回答や議論の流れをとめることなく、「自然な思考水路」のごとく、受講生の内部に浸透していくような印象を受けます(「自然な思考水路」は村上春樹氏の言葉です…1月13日のコラムを参照ください)。なお、引用の箇所に2つキーワードがありますので解説しておきましょう。
<システム1(とシステム2)>
「速い思考」をシステム1、「遅い思考」をシステム2と呼称します(5月6日のコラム)。カーネマン教授は、『ファスト&スロー』の中で次のように説明しています。
- システム1は、何の努力もせずに印象や感覚を生み出す。
- システム1の能力には、動物に共通する先天的なスキルが含まれている。すなわち人間は、周囲の世界を感じ、ものを認識し、注意を向け、損害を避け、蜘蛛を怖がるように生まれついている。
- システム2は、複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。
<セイリアンス>
「セイリアンス」には「顕著」という訳語が与えられています。「目立つ特性」という意味です。人間は何かを見たときに、視野に入る対象に均一に注目しているのではなく、無意識のうちに—システム1の働きで—セイリアントなものに焦点を与えます(『同書157ページ』)。
行動経済学を岩澤教授は次のように説明します。
行動経済学には、それまでの伝統的な経済学と大きく異なる特徴がありました。学問的に理論を展開するうえで、想定する人間像が異なっていたのです。伝統的な経済学では、人間が経済活動を営むときは、合理的な意思決定を行い、合理的に行動するものと想定していました。
一方、行動経済学は、そのような想定が必ずしも妥当ではなく、経済活動の様々な場面で、人間は非合理的な意思決定を行うことがある、非合理な行動をとることがあると考えます。
伝統的な経済学の想定の背後には、経済活動のような重要な意思決定が行われる場面では、人間はよく考え、まともな意思決定を行うだろうという観念がありました。その観念がすべて間違いというわけではありません。実際、まともな経済的意思決定が行われる場面もあるでしょうし、そのような想定に基づいて展開された経済理論がすべて誤りであるわけでもありません。
しかし他方、経済活動のすべてにおいて、人間が合理的な意思決定を行うというのは、実証的に無理があります。
岩澤教授が同書で取り上げるテーマは国内外で展開されている(現在・過去)ビジネスを中心とした事例です。成功失敗を含めたそのケースについて、「どうしてそのような結果に至ったのか…」、そのことを行動経済学の知見を敷衍しつつ、深い思考へと(システム2を起動させるよう)社会人受講生を誘います。
以前のコラム(5月6日・5月11日)で紹介した『行動経済学の逆襲/リチャード・セイラー 遠藤真美訳』の中で、セイラー教授は「お得感とぼったくり感」という第7章を設け、JCペニーのジョンソン氏がどうして失敗したのかを分析しています。私はこの第7章を読み終えた後、成功体験をもつ経営者が、どうして失敗してしまうのか(成功体験の強度に比例…?)、もう少し深く考えてみたい、と感じていました。
「失敗は成功の母」という格言はすぐ出てくるのですが、私はその含蓄とは別次元で「成功は失敗の友(父では不穏当なので友とします)」であると強く認識するところです。岩澤教授も、当該事例を同書の中で取り上げています。社会人受講生のみなさんが、このジョンソン氏の失敗をどう解釈しているのか…興味深く読み進めました。
「小売業界のスティーブ・ジョブズ」と称されたジョンソン氏でしたが…
岩澤教授と受講生の会話で登場する、ロン・ジョンソン氏について補足しておきましょう。
インターネットの検索で、上位に出てきた日経新聞の記事を以下に引用します。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0903Y_Z00C13A4EB2000/
<JCペニー、アップル出身のCEO更迭 米百貨店大手 /2013年4月9日 10:15>
JCペニー(米百貨店大手)は8日、ロン・ジョンソン最高経営責任者(CEO)が辞任すると発表した。米アップルの直営店を成功させた実績を買われて2011年にCEOに就任したが、「セールをしない」といった価格戦略などでことごとく失敗。業績の悪化に歯止めがかからず、取締役会が更迭した。アップル直営店の責任者を務めたジョンソン氏は、JCペニーでも店舗イメージの向上戦略を重視。セール品を廃止したことで、低価格志向を強める消費者が離れ、売上高が急減した。11年11月のCEO就任から株価は半値の水準まで下落。アップル流の経営が裏目に出た格好だ。
後任には前CEOのマイロン・ウルマン氏が返り咲く。ジョンソン氏辞任の報道を受け、JCペニー株は時間外取引で一時急騰。ウルマン氏のCEO就任が伝わると、失望感から株価が一転して急落するなど不安定な値動きになった。(米州総局)
なお、その後JCペニーはどう推移していったかというと、アマゾンエフェクトに象徴されるネット通販の急拡大もあって経営不振に拍車がかかります。そして2020年の5月には、米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用が申請され、破綻に至るのです。
著作では、第3章の最初に「J.C.ペニーのフェア・アンド・スクエア戦略」というタイトルを付し、ロン・ジョンソン氏が取り組んできた戦略とその結果について、受講生に情報提供します。それを踏まえ、「アサインメント(課題)」を3つ提示し、議論を促します。
- 2012年1月に発表されたJ.C.ペニーの「フェア・アンド・スクエア戦略」とはどのようなものだったのか。ロン・ジョンソンCEOにその決断させた背景には何があったのか。また、ジョンソン氏がこの戦略の成功を確信していたのはなぜか。
- J.C.ペニーの顧客は「フェア・アンド・スクエア戦略」にどのように反応したか。何が問題だったのか。
- 2012年8月にジョンソンCEOが採用した価格戦略を評価せよ。この戦略は事態を打開するのに十分だろうか。
この後13ページにわたって受講生のディスカッションが繰り広げられ、冒頭に引用した「Key Takeaway(まとめ)」で、セッションが終結するのですね。
受講生が語る言葉はコーチングを彷彿とさせます…
ロン・ジョンソン氏という人物に関して、受講生は次のように語っています。
- 顧客が自分と同じとか、自分はわかっているとかという思い込みは大変危険…
- 顧客は何に惹かれて来店しているのかを、よく考えないといけないのだと思います…
- 顧客のことを理解するためには、自分自身が顧客に共感しなければいけなかったのだと思います…
- 自信を持つのは良いことだと思いますが、自信過剰を避けるには、やはり他人の意見に耳を傾ける姿勢を持つことが大事だと思います…
このコラムシリーズの横断タイトルは「心理学とコーチング」です。私の頭の中には、常にコーチングの考え方が存在しています。なぜ行動経済学をコラムのテーマに取り上げたのか…については、その人間観がコーチングの人間観とハーモナイズしていると感じているからなのですね。
受講生のみなさんが、コーチングを意識されているかどうかはわかりませんが、語る言葉の一つひとつがコーチングを彷彿とさせます。スティーブ・ジョブズ(アップル共同経営者)、エリック・シュミット(グーグル元会長兼CEO)、ラリー・ペイジ(グーグル共同創業者)には、ビル・キャンベルというコーチの存在がありました(『1兆ドルコーチ/ダイヤモンド社』)。
ロン・ジョンソン氏にはコーチがいなかった…と、断言するつもりはありませんが、コーチングを知っていれば、その人生はまた違ったものになっていたかもしれませんね。
坂本 樹志 (日向 薫)
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