…私は、その初め幕府を倒すのを志にしたほどのものゆえ、幕府を倒して出来た新政府に対して決して悪感を抱いていたわけではないが、薩人が暴戻(ぼうれい=あらあらしく道理に反する行為)であるとの感は多少あったものである。
前回のコラムで、渋沢栄一が33歳の時に大蔵省を退官した、そのタイミングが渋沢栄一の生涯における岐路であった、とコメントしました。その退官は、大蔵卿の大久保利通との関係が原因とされています。そのリアルな状況が、渋沢栄一75歳の時の談話にありました(公益社団法人 渋沢栄一記念財団のホームページ『実験論語処世談』)。
その語りは次のように続きます。
渋沢栄一は“維新の三傑”大久保利通に真っ向から反論しています。
しかるに、大正四年(渋沢75歳)の今日になっても、当時私が持っていた「量入為出(りょうにゅういしゅつ=収入を計算して、その後に支出を決めること)」の意見は正当で、歳入の判然とせぬうちから支出の方ばかりを決めようとした大久保卿の意見を誤っていると、私は強く思っており、又誰に聞かしても当時の私の意見の方が正当であるのだから、大久保卿が「渋沢は陸海軍がどうなってもよいと思っているのか」と、怫然(ふつぜん=怒りが顔に出て)色をなして私を圧しつけるようにして詰問せられるのを見ては腹の虫がおさまらず、これもまた例の薩人の暴戻(ぼうれい)であるのだな、と感じて不快でたまらず、翌日直に辞表を提出しようと決心し、その夜、井上(馨)侯の許に相談に出かけることにした。
私は大久保卿を偉い人であるとは思っていたが、何だかいやな人だと感じていたものである。大久保卿もまた、私をいやな男だと思われていたと見え、私は大変大久保卿に嫌われたものである。
井上(馨)侯のもとに辞職の相談に行くと、侯はこんこんと私を諭し「財政整理はおいおい実行するから、せっかく、廃藩置県の制もしくことにした今日、せめては廃藩置県が軌道に乗り、新政の一段落がつくまで留任せよ」と勧め、さしあたり大阪造幣寮の整理を行ってくれないかと頼まれ、十一月まで同地に滞在し、遂に私は明治六年に至る間、不本意ながら官職にあったのである。
私もそのような調子で、壮年の頃は、一代の人傑であった大久保卿にさえ誤解されて嫌われたものである。然し、永いうちには結局、真実の処が他人にも知られるようになるものゆえ、青年諸君は、そのことをよく心得ておくべきである。
引用元は原文なのですが、若干の解説を挿入し(黒字)、最低限の現代語訳にしました。加えて現在では使うことの少なくなった漢字をひらかなに変えていますのでご了解ください。
渋沢栄一は「幕末~大正」時代の“真の”語り部
渋沢栄一に関する著作は、『論語と算盤(原文および現代語訳)』をはじめ、多くに目を通しています(今後も渉猟してまいります)。それによる私の実感は、渋沢栄一という人物を通した「幕末~大正」の歴史の推移・実像が腑に落ちるがごとく理解できる、ということに尽きます。
歴史教科書はどうしても、政官学界の動きが中心となります。登場人物についても、歴代の総理大臣をメインにその時代が語られます。そのためか、民間に下った(私はあえてこの表現を使いますが…)渋沢栄一は歴史教科書に一瞬登場するだけで、大学入試試験にとって必須ワードになりえなかった、と感じています。
渋沢栄一は91歳まで生存しており、教科書の日本史「幕末~大正期」に登場する人物について、濃淡は別として、交友範囲の広さから、「そのすべての人に」と表現しても過言ではないくらい実際に会っています。さらに渋沢栄一の特徴として語られる「饒舌性」がいかんなく発揮されるところの「人物評価」が残されているのですね。
もっとも、『論語と算盤』をはじめとして、渋沢栄一が語る人物評は、70歳を過ぎての訓話が中心です。明治という時代をつくった多くの偉人はすでに鬼籍です。渋沢栄一本人にとっても、国を挙げてノーベル平和賞に推薦される(渋沢栄一76~77歳のとき)までに至った、人格高邁としての評価が固まった頃の訓話ですから(実業からも身を引き慈善的な活動が中心となっています)、幕末維新に活躍した人物像は、本人が当時実感した思いとは別の視点で書かれているようにも感じます。
渋沢栄一は多くの人物をポジティブに評価していますが…
私は以前のコラムで、行動経済学でノーベル賞を受賞したカーネマン教授の次の言葉を紹介しました(6月10日のコラム)。
・後講釈する脳は、意味づけをしたがる器官だと言える。予想外の事象が起こると、私たちはただちにそれに合わせて自分の世界観を修正する。
・自分の脳の一般的限界として、過去における自分の理解の状態や過去に持っていた自分の意見を正確に再構築できないことが挙げられる。新たな世界観をたとえ部分的にせよ採用したとたん、その直前まで自分がどう考えていたのか、もはやほとんど思い出せなくなってしまうのである。
このことは、時が流れ、経験を積み、歳を重ねて過去を振り返り、「そのときの実感を忠実に再現した」つもりでも、それは現実とは異なる様相で描かれている…ということですね。加えて、『論語と算盤』を発表した70代の渋沢栄一は、「世界最高峰の論語研究家」である“学者“としての姿をもまとっています(私の解釈です)。その「総合人格者」である渋沢栄一が、人を評価しますから、自ずと「奥行きの深さ」が醸し出されるのですね。
渋沢栄一の人物評価は、忖度を排し、ときに世界観に反する人物については、“渋沢史観”に基づき批判を加えます。その上で、多くの人物を「ポジティブ」に描きます。
ところが… 大久保利通については、どうもこの法則が当てはまりません。
7月1日のコラムで私は、
「渋沢栄一は、退官するかどうか、ものすごく迷ったと思います。その時は一人の人間として、大久保利通が仕切るこの大蔵省で仕事することがイヤになっていたのですね」、とコメントしました。
なお渋沢栄一は、「大久保利通がイヤだから辞めた」とは、言っていません。引用には、「井上馨より引き留められたから明治6年まで不本意のまま官職を続けた」とありますが、『論語と算盤』の「立志と学問」のなかで、その時の想いを綴っています。後ほど紹介します。
渋沢栄一が大蔵省に仕官したのは明治2年、大久保利通が大蔵卿(大臣)に就任する明治4年の春までは、伊達二位が大蔵卿であり、実質のトップは大蔵大輔(副大臣)の大隈重信でした。そして最大の理解者である直属の上司である井上馨の下で思う存分仕事ができていました。
それが、大久保卿の「怫然色をなして私を圧しつけるようにして詰問せられるのを見ては腹の虫がおさまら」なくなったのは、明治4年8月の出来事です。
渋沢栄一は井上馨と共に大蔵省を辞しています。
大久保利通は、明治4年11月12日から岩倉使節団の副使として欧米視察のため日本を離れます。使節団の帰国は明治6年9月13日(大久保利通は5月に帰国)ですから、日本のトップのほとんどが長期間日本を不在にしたのです。つまり渋沢栄一にとって、決定的に嫌われたと感じた後で、そのことをリカバリーする間もなく、大久保利通とは疎遠になるのです。
なお、維新三傑は、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允の三名です。木戸孝允も欧米使節団に参加していますので、留守を任された日本国家の実質的な総責任者は西郷隆盛でした。
渋沢栄一にとっては「鬼の居ぬ間に洗濯…」と受けとめてもよさそうなところですが、当時の渋沢栄一のポジションでは何の影響も行使できない壮大なスケールとなる政局が到来します。「征韓論」をめぐって国論が2分するのです。
『大蔵省100年史(財務省 財務総合研究所)』のなかに次のような一節があります。
…維新以来の諸改革は,国民の生活を急速に向上させるものではなかったし,また,身分的特権を奪われた封建士族の改革に対する不満も強かった。このような世論の不安定は,政府部内にも反映し,岩倉,木戸,大久保らの外遊中,政府内部の対立は深まった。 当時,大蔵省を預かって,改革を推進した井上馨は,辞職の破目に追いやられた。また,政府部内に,国勢を外に向けることにより,国内の安定を図ろうとする征韓論が拾頭した。
このとき,欧米視察から帰国した大久保利通は,この政府部内の形勢に甚だ不満であった。先進諸国の発展のありさまを見てきた大久保は,いまは維新以来の富国強兵,殖産興業政策を進める時であり,内政を優先させる時であると考えたからである。
6年10月,征韓論はしりぞけられ,これを機に,士族無視の改革に不満を持つ保守派は,政府から一掃され,大久保が新政府の中心的地位に坐った。翌11月,内務省が創設され,大久保が内務卿に,大隈が大蔵卿に就任した。新設の内務省は,警察を掌握して内治を整えるとともに,大久保の欧米視察の成果をもとにして,新たな角度から殖産興業政策を展開し,大蔵省は,それを援けて,そのための資金を提供する役割をになうことになった。地租改正事業が推進され,秩禄処分が断行された。
ここには渋沢栄一の名前は出てきません。「改革を推進した井上馨は,辞職の破目に追いやられた」とあります。実は渋沢栄一は、このタイミングで井上馨と共に大蔵省を辞職しているのです。「渋沢本人の意思で辞めた」というより、まさに政局に巻き込まれての退官なのですね。
このあたりの経緯については、今後のコラムで取り上げたいと思います。
『論語と算盤』のなかで渋沢栄一は真の「立志」を語ります。
さて、今回のコラムをそろそろ終えようと思います。
私が、「渋沢栄一は、退官するかどうか、ものすごく迷ったと思います…」とコメントした、その背景を物語る渋沢栄一の発言を最後に引用(太字は坂本)します。
(『論語と算盤(現代語訳)』~「立志と学問」の中の一節)
それは、渋沢栄一が悩みに悩み、揺れに揺れた心を鎮めるべく、終生の拠り所を『論語』に求めることを決心した、真の渋沢栄一が誕生する魂の発言であると私は感じています。そして私はこの年を、渋沢栄一の「論語研究家」のスタートの年と位置付けます。
…しかしその目的は、武士になってみたいという単純なものではなかった。武士になると同時に、当時の政治体制をどうにか動かすことはできないだろうか…今日の言葉をかりていえば、政治家として国政に参加してみたいという大望を抱いたのであった。そもそもこれが故郷を離れて、あちらこちらを流浪するという間違いをしでかした原因であった。
こうして後年、大蔵省に出仕するまでの十数年間というものは、わたしの今日の位置から見れば、ほとんど無意味に空費したようなものであった。今、このことを思い出すたびに、なお痛恨の思いに足りえない。
白状してしまうと、わたしの志は、青年期においてしばしばゆれ動いた。最後に実業界で身を立てようと志したのが、ようやく明治四、五(1871~72)年の頃のことで、今日より思い起こせば、このときがわたしにとっての本当の「立志」…志を立てることであったと思う。
もともと自分の性質や才能から考えても、政界に身を投じることは、むしろ自分に向かない方角に突進するようなものだと、この時ようやく気がついたのであった。それと同時に感じたことは、欧米諸国が当時のような強さを誇った理由は、商工業の発達にあることだった。現状をそのまま維持するだけでは、日本はいつまでたっても彼らと肩を並べられない。
だからこそ、国家のために商工業の発達を図りたいという考えが起こって、ここで初めて「実業界の人になろう」との決心がついたのであった。そして、このとき立てた志で、わたしは今に至る四十年あまりも一貫して変わらずにきたのである。真の「立志」はまさしくこの時であった。
坂本 樹志 (日向 薫)
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