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心理学とコーチング ~渋沢栄一『実験論語処世談』…渋沢翁は懸値なきところが歴史だ!~

『論語と算盤』を思想的な基盤として「合本(がっぽん)主義」を語り、階級に関係のない平等を唱え、物事は熟議を尽くして意思決定する。経営は公益を理想とし、そのことを追求することで真の目的が達成できる。これが「渋沢栄一の世界観」です。

今回のコラムは『実験論語処世談』を取り上げます。

33歳の時、立志を自覚し、91歳でその生涯を終えるまで、渋沢栄一はその「世界観」を実践により貫き通しました。ある意味で、政治の世界から距離を置くこと(実業に専念)で、ブレることなく“渋沢栄一“を体現できたのだと思います。
私は前回のコラムで、

…「渋沢栄一は幕末~大正時代という歴史の“真の”語り部であり、渋沢栄一という人物を通した、幕末~大正の歴史の推移・実像が腑に落ちるがごとく理解できる」…

…91歳という長命も相まって、教科書の日本史「幕末~大正期」に登場する人物のすべてといっても過言ではないくらい実際に交流しており、また渋沢栄一の特徴たる「饒舌性」がいかんなく発揮されるところの「人物評価」が残されている…というのがその理由です。

とコメントしました。
このように自信をもって書くことができるのは、今回のコラムで紹介する『実験論語処世談』の存在です。これは「公益財団 渋沢栄一記念財団」のホームページのコンテンツとして公開されています。
まずはその冒頭の紹介文を、引用してみましょう。

『実験論語処世談』には、同世代を含む131人の歴史上の人物が登場します。

渋沢栄一(しぶさわ・えいいち、1840-1931)は、幼少の頃から『論語』に親しんでいましたが、実業に従事するようになった1873(明治6)年以降、『論語』を人生の指針としました。栄一の事績に関する資料集『渋沢栄一伝記資料』の中には、『論語』について語ったものが数多く収載されています。

その中のひとつ、「実験論語処世談」は1915(大正4)年6月から1924(大正13)年11月にかけ雑誌『実業之世界』に連載され、ほぼ同時期に竜門社の機関誌『竜門雑誌』に転載された栄一の談話筆記です。論語章句と読み下し文に続いてその解釈が語られ、多くはその後に実体験(実験)に基づく処世談が掲載されています。話はおおむね論語の篇章順に進められますが、残念ながら連載は「衛霊公第十五」の途中で途切れてしまいました。連載中の1922(大正11)年には、それまでの記事をまとめた書籍版『実験論語処世談』が刊行され、後に多くの版を重ねました。

記事には『論語』に関する逸話として、豊臣秀吉、徳川家康、松平定信など歴史上の人物、栄一と同時代を生きた西郷隆盛、大久保利通、井上馨、徳川慶喜、大隈重信など「人」に関する話題が豊富に盛り込まれています。当時の新聞では、書籍版について「一面子爵 [渋沢栄一] 自身の言行録であると共に、一面明治大正年間に於ける子爵の関係人物に対する道義的批判をも含んでをる」と紹介されています。その他にも、小見出しには大日本人造肥料、養育院、協調会、理化学研究所のような事業名なども見ることができ、本文ではさらに多くの事柄が語られました。徳富蘇峰(とくとみ・そほう、1863-1957)は書籍版に接し、「特に渋沢老人の如き、歴史付と云はんよりも、歴史其物の談話は面白い。渋沢翁は懸値なき所が、歴史だ。正札付の歴史だ。」と書いています。

「実験論語処世談」は「論語に就いては代表的」なものとして『渋沢栄一伝記資料』に収載されました。『論語』にまつわる栄一の著述というと『論語と算盤』(1916年初版)や『論語講義』(1925年初版)などが有名ですが、『渋沢栄一伝記資料』にほぼ全文が収載されている唯一のものとして「実験論語処世談」はユニークな位置を占めています。

太字は私が付しています。
この「実験論語処世談」に登場する人物の数を実際に数えてみたのですが、131人に及びます。孔子や孟子、劉邦といった中国の歴史的人物をはじめ、日本においては、仁徳天皇も登場しますので、渋沢栄一による“壮大な「歴史絵巻」”です。

「渋沢栄一を語ろう」と最初に書いたコラムで、西郷隆盛と渋沢栄一のやりとりを取り上げました。今回のコラムは、その西郷を含め、維新三傑を渋沢栄一がどのように評価しているのか、引用することにします。

渋沢栄一は、孔子の言葉を引用し、「器」について解釈しています。

子曰。君子不器。【為政第二】

孔夫子は、君子は器物の如きもので無いと仰せられてある。いやしくも人間である以上は、これをその技能に従って用いさえすれば必ずその用をなすものであるが、箸には箸、筆には筆と、それぞれその器に従った用があるのと同じように、凡人には、ただそれぞれ得意の一技一能があるのみで、万般に行き亘ったところの無いものである。しかし、非凡な達識の人になると一技一能に秀れた器らしい所が無くなってしまい、将に将たる奥底の知れぬ大きな所のあるものである。

『実験論語処世談』は原文ですが、今日では使わない漢字表現をひらかなにして、最低限の現代語訳にしていますので、ご了解ください(以降も同様です)。

日常会話で「この人は器が大きい」と言った場合、大人物であることを示す象徴表現ですが、孔子が語る「器」はニュアンスが異なりますね。渋沢栄一は、そのあたりをわかりやすく説明してくれています。
その「器」をからめて、大久保利通をどう評価しているのか、最初に取りあげてみます。

大久保利通に対して「気味の悪いような心情を抱いてしまう」と語る渋沢栄一です。

大久保利通公は私を嫌いで、私はひどく公に嫌はれたものであるが、私もまた、大久保公をふだんでも厭な人だと思っていたことは、前にも申し述べておいたごとくである。しかし、たとえ公は私にとって虫の好かぬ厭な人であったにしても公が達識であったことは驚かざるを得なかった。私は大久保卿の日常を見る毎に、器ならずとは、必ずや公のごとき人をいうものであろうと、感歎の情を禁じ得なかったものである。

たいていの人は、いかに識見が卓抜であると評判されていても、その心事のおおよそは外間からうかがい知れるものであるが、大久保卿に至っては、どのあたりが卿の真相であるか、何を胸底に蔵しておられるのか、不肖の私なぞには到底知り得ることはできず、底がどれくらいであるか、全く測ることのできない底の知れない人であった。毫も器らしい処が見えず、外間から人をして容易にうかがい得せしめなかった非凡の達識を蔵しておられたものである。私もこれには常に驚かされて「器ならず」とは大久保卿の如き人のことだろうと思っていたのである。底が知れぬだけに又卿に接するとなんだか気味の悪いような心情を起させぬでもなかった。これが私をして、何となく卿を「厭な人だ」と感ぜしめた一因だろうとも思う。

大久保利通という傑物の“わかりにくさ”が、渋沢栄一の人物評で、何だか“わかるような気が”してきますね。
続いて西郷隆盛です。

渋沢栄一は「すこぶる親切な同情心の深い人」と西郷公を評価します。

西郷隆盛公は、達識の偉い方で、器ならざる人に相違ないが、同じく器ならずでも、大久保卿とはよほど異なったところのあったものである。一言にしていえば、すこぶる親切な同情心の深い人で、いかにすれば他人の利益を計ることができようかと、他人の利益を計ろう、計ろう、という事ばかりに骨を折っておられたように、私はお見受けしたのである。

かの山岡鉄舟先生が、江戸城からの使者で駿府の征東総督府を訪ね、隆盛公に会った時に、慶喜公を備前にお預けにしようという提議に対し不承知を唱へると、公が山岡先生の情をくみ、即座に山岡先生の議を入れて、備前にお預けの事はやめにしようと快く一諾の下に引受けられたなぞは、全く隆盛公が凡庸の器でなく、深い達識のあった、器ならざる大人物であるところだと思う。要するに他人の利益を計ってやろう、やろうとの親切な同情が深くあらせられたからの事であろうと存ずる。又私の観るところを以ってすれば、隆盛公にはその初め、幕府政治を全く廃止してしまわれようとの気はなかったごとくに思われる。

このパラグラフ最後の、「隆盛公にはその初め、幕府政治を全く廃止してしまわれようとの気はなかったごとくに思われる」、というコメントは、西郷のファンになった渋沢栄一が、幕臣としての思い(恩)を終生抱き続け、師である徳川慶喜を慕う気持ちの強さが、そのように語らせているようにも感じます。希望的観測かもしれませんね。
西郷隆盛への評価は続きます。

西郷公は「他人に馬鹿にされても、馬鹿にされたと気づかない人」だった…!?

隆盛公の御平常は至って寡黙で、滅多に談話をせられることは無かった方であるが、外間から観たところでは、公が果して賢い達識の人であるか、あるいは鈍い愚かな人であるか一寸解らなかったものである。この点が西郷隆盛公の大久保卿と違っていたところで、隆盛公は他人に馬鹿にされても、馬鹿にされたと気が付かず、その代り他人に賞められたからとて、もとより嬉しいとも悦ばしいとも思わず、賞められたのにさえ気が付かずにおられるように見えたものである。何れにしてもすこぶる同情心の深い親切な御仁にあらせられて、器ならざると同時に又将に将たる君子の趣があったものである。

西郷が存命であったなら、書くことをはばかるだろう踏み込んだ評価ですが、その分西郷の人となりが腑に落ちる、「渋沢視点」ですね。

もう一人の維新三傑である木戸孝允にも触れています。さらりとしたコメントですが、さすがの「渋沢視点」です。

「木戸公は文雅である」と渋沢栄一は語ります。

木戸孝允卿は同じく維新三傑のうちでも大久保卿とは違い、西郷公とも異なったところのあったもので、同卿は大久保卿や西郷隆盛公よりも文学の趣味が深く、かつ、総て考えたり行ったりすることが組織的であった。然し器ならざる点においては、大久保、西郷の二傑と異なるところが無く、凡庸の器にあらざるを示すに足る大きな趣のあったものである。

坂本 樹志 (日向 薫)

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