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心理学とコーチング ~行動科学と人間性心理学、そして『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』~

今回のコラムは、ロジャーズが「心理学と科学」をどのようにとらえているのか、について取り上げてみましょう。

真の心理学という科学を樹立しようとするならばどうしても必要になる科学概念を、私たちは展開させようとしているだろうか、という問題である。それとも、疑似科学のままであり続けるのか。私の言いたいことを、私にとっては大きな意味のあることを、説明したいと思うのである。

心理学は、多数のシロネズミを使った何千という実験や、実験室、コンピュータ、電子機器の設備、高度の統計処理等を駆使した大規模な研究にもかかわらず、私の判断では、意味のある科学としては後退し続けている。私たちは、ロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)がアメリカ心理学会の講演で述べた警告に注意を払うことをすっかり忘れているのである。彼は、心理学が陥りやすい最悪の事態は、「時代おくれで跡形さえない物理学をモデルとすることである」と指摘した。

私たちは、理論物理学ならびに「ソフト」サイエンスのみならず、「ハード」サイエンスにおいても、科学概念が変化したことに気づかず、古いニュートン流の科学観にしがみついているのである。

対比されるスキナーの行動科学とロジャーズの人間性心理学

上記は、ロジャーズが1973年に発表した「援助専門職の新しい挑戦課題」…『ロジャーズ選集(下)/24章』の中の一節です。「多数のシロネズミを使った…」からのコメントで、「…意味のある科学としては後退し続けている」とロジャーズは訴えているのです。

対象は「行動科学(行動主義心理学)」と呼ばれる分野で、一方のロジャーズの考え方に基づく心理学は、1960年代になって「人間性心理学」と呼ばれるようになり、心理学という大きなカテゴリーのなかで「対比される」ようになっていきます。

このあたりは、少し説明が必要ですね。
「行動科学」は、昨年11月16日のコラム(カウンセリング理論の歴史)で取り上げた「行動療法」との関係が深い分野です。そこで私は、「他のカウンセリング理論とは一線を画する自然科学的アプローチ」と付記しました。その源流といえる理論が、昨年3月3日のコラム(態度その2)で解説した「古典的条件付け」です。これは「パブロフの犬」として有名ですが、パブロフは1904年にノーベル生理学賞・医学賞を受賞していますから、当時の自然科学における最先端とされていた理論です。そして当該分野は、傑出した学者による研究成果もあり発展していきます。その代表が、「オペラント条件付け」を発表したスキナーです。

スキナーは「天才」と呼ばれた人物ですが、ロジャーズはこのスキナーと長い関係を持つのです。『ロジャーズ選集(下)/第5部(18章-19章)・人間の科学』の冒頭で、このあたりについて選者は以下のように解説しています。

ロジャーズは行動科学の強化理論に強い違和感を覚えます。

「発展しつつある行動科学」の根本的な仮説についての彼の関心は、二つのかたちをとることになった。ひとつの方向は、行動科学が適用されている社会的・政治的文脈という方向であった。1956年に彼は、行動主義心理学の旗手であるスキナー(Skinner.B.F.)と、後に有名になるシンポジウムをやったのだが、そのなかでロジャーズは、その後の数十年間、論議のテーマとなりつづけた問題点を提起しているのである。

スキナーの論点は、個人および社会の発達の過程に、強化理論(reinforcement theory)を賢明に、かつ望むらくは人間的に適用する、というものであり、それは大いに説得力のあるものであった。いずれにせよ、自由とか選択ということは幻想に過ぎないのであり、人間の現在の行動を決定しているのは、過去の強化の結果に過ぎないのだ、とスキナーは論じた。

ロジャーズもまた同じくらい雄弁に、自由と選択は決して幻想ではなく現実の現象であることを論じた。さらにロジャーズは、人間を非人間化し、外部からの強化のみによって人間を統制しようとする科学は、独裁者に道をひらき、社会を容赦なく全体主義的な、オーウェル※の描いたような未来へと導くものだ、と警告したのである。

心理学における行動主義者のモデルと、人文主義者(ヒューマニスト)のモデルを代表する2人の人物が、このとき最初の出会いをしたのだが、この出会いは、援助専門職(helping professions)の人びとの間で、広く注目されたものであった。そしてロジャーズとスキナーは、その後10年間にわたって、あまり知れわたっていない2回の会合で、意見の交換をつづけたのである。

※訳注 : ジョージ・オーウェル(1903-1950)は、1949年に、『1984年』という未来小説を書いて、そのころには、極端な国家統制の時代がくるだろう、と予測した。

哲学的様相を帯びていくロジャーズの科学観…?

私は、ロジャーズが「自分の理論がいかに科学的であるか」、についてこだわり続けてきたことをコラムで書き綴ってきました。それは人生を通じて一貫しているのですが、ただ1960年あたりから、その「科学観」が、純粋な自然科学的アプローチ(ただし同時代に認識されている)というより、哲学的な様相を呈するようになっていくのです。

行動科学が「心理学」というカテゴリーのなかで語られること…そして「最も自然科学的である」と評価されることに対して、同じ心理学者として、強い違和感を覚えていることが冒頭の引用から伝わってきます。

ただ、世の中で一般的に「自然科学とされる要件」については、ロジャーズよりもスキナーの論拠の方が高いレベルであることがオーソライズされているので、だからこそ「哲学的」になっていったのではないか…と私は感じているのですね。

私はこの「心理学とコーチング」のコラムを通じて「哲学的」という表現を多用しています。アドラーのコラムは13回アップしていますが、「アドラーは哲学的である」というスタンスで描いています。

ところで、この「哲学的」という言葉の意味を突きつめようとすると……いかがでしょうか? 「説明に苦慮してしまう」のが実情だと思います。

私が用いる「哲学的」の定義について

広辞苑では以下のように定義づけています。

①俗に、経験などから築き上げた人生観・世界観。また、全体を貫く基本的な考え方・思想。

②古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問、生の哲学・実存主義など世界・人生の根本原理を追求する学問となる。認識論・倫理学・存在論・美学などを部門として含む。

実に多様な意味を包含する「万能語」として捉えられるかもしれません。私は、②の定義に基づいて、アドラーに迫り、ロジャーズを理解しようとしています。その場合、「自然科学」とは別の視座として語ることが可能となり…そして対抗できる。場合によっては、「自然科学」として説明するよりも、多くの人に「共感」と「腹に落ちる感覚」を提供できる。このことについて、アドラーやロジャーズが自覚的であったかは定かではありませんが、そのように解釈しています。

私もこのスタンスをとることで、「ロジャーズの語る科学」について、力むことなく解説できそうです。
冒頭に引用した『ロジャーズ選集(下)/24章』の中からもう一つ引用してみましょう。

私たち(心理学者)が科学として認識してきたすべてのことは、科学のほんの卑小な一部にすぎない。科学は印象深い個人的意味合いのなかに埋め込まれたものだとみることができる。これを個人や集団がもっともだと判断することが、統計的な有意性とひとしく重要なものになるのである。

精密で見事に構築され、完璧な科学というモデル(誰もが意識的、無意識的にそう思っているのだが)は、限界のある、明らかに人間が作った構造であり、厳密に言うと完全ではあり得なくなる。経験にひらかれているということは、実験研究のデザインを知っているのと同じくらいに、科学者の重要な資質とみることができる。

そして科学という仕事全体は、より広い分野の知識の一部にすぎなくなってくる……真理は意味深いさまざまな方法で追求されているのである。科学は、それらの方法の一つである。

「これがただひとつの現実だろうか?」…心理学者にとっての挑戦課題とは?

・最後に心理学者にとっては最も脅威となる一つの挑戦課題に触れなければならない。「現実」がひとつ以上存在する可能性、また実際に多くの現実が存在しているという可能性が非常に強いということである。これは決して新しい考え方ではない。

ウイリアム・ジェームズ(William James)は次のように述べている。「私たちは通常の覚醒した意識は、ある特別な形の意識に過ぎない。……きわめてうすいスクリーンによってその意識と分けられるところに、まったく異なった意識の形態が存在する可能性がある」と。彼はその事実は現実に関する未熟な結論を防いでくれそうだと結んでいる。(中略)

・ジェームズは、そんなことを言わなければ、偉大な心理学者なのだが、その考えはひとつの逸脱だったと考えることもできよう。あらゆる時代、あらゆる国の神話は、その奉ずる宗教観とはまったく関係なく、その説明に顕著な共通性があるということがないならば、それを無視することもできるだろう。

しかし、ローレンス・ルシャンの綿密な論証を見ると、それらを無視しにくくなってしまうだろう。はじめは彼も、違った形の現実があるという神秘を打破しようとして研究を始めたのだが、いつのまにか、それとは逆の方向を示す理論を作り上げていったのである。

彼は超常現象に「敏感な」人と、古今の神秘主義者と、そして驚くべきことに現代の理論物理学者との間に驚異的な類似性があることを指摘している。時間と空間が消滅してしまった現実、そこで生きることはできないが、その法則を学び知覚することはできる世界、感覚器官によらないで内面的知覚で捉える現実、そうしたことがすべてに共通しているのである。

ロジャーズは、遠く離れた愛する人がこうむる苦痛や死を予告したり、同時に感知したりするような例。テレパシーによる伝達、そして幽体離脱などについて、「どう考えればよいのだろう」と語ります。そして、好奇心溢れるロジャーズの姿があらわれます。

・多分、きたるべき若い心理学者の世代に、大学の制約や抵抗に妨げられることなく、私たちの五感には捉えられない法則性のある現実が存在する可能性を研究しようとする人があらわれてくるであろう。……現実、過去、未来が融合し、空間が障壁ではなく、時間が消失している現実、またわかろうと積極的に取り組むより受け身の状態でいるときだけつかみとられる現実を研究しようとする人が……。これは心理学に提示される最も興味深い挑戦課題のひとつである。

超常現象(現在の捉え方…?)については、解明されていない(現在の科学では…?)こともあり、多くの人が興味を抱きます。そして「本当に体験した」と語る人が多いことも共有化されています。ただ、21世紀になってからの脳科学の著しい発展により、いくつかの事例については、ロジャーズの頃(この論文は1973年に発表)と比べて、解明(の糸口)が進んでいるようにも感じます。

コラムの最後に、『村上春樹、河合隼雄に会いに行く(1996年12月刊行/岩波書店)』の中の一節を紹介いたします。春樹氏が語る“体験”に対して、河合氏の回答が「すごいなぁ~」と、感じ入ったことをお伝えしておきます(その箇所を太字にしました)。

超常現象(?)を語る春樹氏に河合氏はどのように応えるのか…?

<村上>
ぼくは、小説ではよく超常現象とか超現実的なことを書くのですが、現実生活ではそういうものを基本的に信じていないのです。まったくないとも信じていないけど、あるとも信じていない。そういうことについてあまり考えたりもしない。

ただ、このあいだ非常に奇妙な経験をしました。ぼくはノモンハンに行ったんです。モンゴル軍の人に頼んで、昔のノモンハンの戦場跡に連れて行ってもらったのです。そこは砂漠の真ん中で、ほとんど誰も入ったことがないところで、全部戦争の時そのままに残っているんですよ。戦車、砲弾、飯盒とか水筒とか、ほんとうにこのまえ戦闘が終わったばっかりみたいに残っている。ぼくはほんとうにびっくりしました。空気が乾燥しているからほとんど錆びていないのですよ。また、あまりにも遠くて、持って行ってクズ鉄として使うにも費用がかかるので、ほったらかしにしてあるのですね。

それで、いちおう慰霊という意味もあって、ぼくは迫撃砲弾の破片と銃弾を持って帰って来たのです。えんえんまた半日かけて町に戻って、ホテルの部屋にそれを置いて、なんかいやだなと思ったんですよ、それがあまりにも生々しかったから。

夜中にパッと目が覚めたら、部屋が大揺れに揺れているんです。ぼくは完全に目は覚めていたんですよ。もう歩けないぐらいに部屋中がガタガタガタガタ揺れていて、ぼくははじめ地震だと思ったのですね。それで真っ黒な中を這うようにして行って、ドアを開けて廊下に出たら、ピタっと静まるんです。何が起こったかぜんぜんわからなかったですよ。

これはぼくは、一種の精神的な波長が合ったみたいなものだろうと思ったのです。それだけ自分が物語のなかでノモンハンということにコミットメントしているから起こったと思ったのですね。それは超常現象だとかいうふうに思ったわけではないですけれども、なにかそういう作用、つながりを感じたのです。

<河合>
そういうのをなんていう名前で呼ぶのか非常にむずかしいのですが、ぼくはそんなのありだと思っているのです。

まさにあるというだけの話で、ただ下手な説明はしない。下手な説明というのはニセ科学になるんですよ。ニセ科学というのは、たとえば、砲弾の破片がエネルギーを持っていたからとか、そういうふうに説明するでしょう。

極端に言うと、治療者として人に会うときは、その人に会うときに雨が降っているか? 偶然風が吹いたか? とかいうようなことも全部考慮に入れます。

要するに、ふつうの常識だけで考えて治る人はぼくのところへは来られないのですよ。だから、こちらもそういうすべてのことに心を開いていないとだめで、そういう中では、いま言われたようなことはやはり起こりますよ。

坂本 樹志 (日向 薫)

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