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心理学とコーチング ~中野信子の『ペルソナ』『サイコパス』と村上春樹の『職業としての小説家』~

前回のコラムを書き綴るのと並行して、私は中野信子さんの『ペルソナ』を読んでいたのですが、TVやこれまでの著作から多くの人が感じていただろう「中野信子像」とは異なる姿が表明されており、大いなる興趣を感じることができました。

まずは、『ペルソナ/講談社現代新書・2020年10月20日刊』の「おわりに~わたしはモザイク状の多面体である」のなかから引用してみます。

これは私の物語のようであって、そうではない。本来存在しないわたしが反射する読み手の皆さんの物語でもある。

私には、名前そのものというわけではないが、一定のイメージが固着することに対する、忌避感がある。固定されたイメージができてしまうと、自由な発想や行動が制限されるように感じるからだ。それでは、支配されているのと何ら変わらない。

読者のみなさんもそうではないだろうか? 自分がそう思われているそのイメージから逸脱するだけで、「そんな人だとは思いませんでした」という言葉がぶつけられてくる。「あなたのイメージ通りの人間です」などと一度も宣言したことはなく、そう思ってくれと明示的に求めたこともないのに、相手は勝手に思い込んで、裏切られたと恨み節を口にするのである。

こうして、多くの人は他者の期待するイメージに絡めとられ、取り得る選択肢は、知らず知らずのうちに限定されていく。メディアに出ていればなおさら、自分の周囲の人間たちが自分に抱くイメージに、無意識の内に取り込まれてしまう。あなたも「それらしく」振る舞うようになってしまっているはずだ。

「心理学とコーチング」というテーマのコラムで、私は、中野信子さんが語る「多くの人」がもつ傾向について、スタート段階で知ってほしいと思い、第1回目(今回のコラムは48回目です)に「対人認知」を取り上げています。その冒頭を再掲させていただきます。

対人認知とは、他者を把握する際にさまざまな情報に基づいて、その人がどのような性格であるのか、どのような気持ちでいるのかなど、人の心理状態、内面特性を推定する行為のことで、理論化されています。私たちは日々たくさんの人と接し、またマスコミなどを通じて直接会っていない人たちの情報を得ると、案外早いタイミングで、「○○さんって、■▲という人だよね」、と理解した気持ちになりがちです。

もちろんその中には、豊富な人生経験を通じて洞察力が磨かれ、相手の言動だけでなく挙措動作も含めた情報を短い時間で総合化し、それほど外れていない人物像を特定させることのできる人はいるでしょう。ただ多くの人が、その総合化に至らず、思い込んだ人物像を形成させ、とりあえず“安心する”というパターンが見受けられます。

『ペルソナ』の中野信子も“本当のわたし”ではない…?

中野信子さんは脳科学者ですから、「対人認知の理論」は当然知悉しており、マスメディアを通じての「自己像」が、「多くの人」にどのようなイメージとして定着していくのか、自覚的だったと想像します。マスコミという「場」を仕事として選択した、ということもあり、そのことから生じる「負の影響」についても、想定していたでしょう。ただ、その「思い込み」の激しさに辟易し、それが「怒り」の感情に至るにおよんで、徹底的な(?)「自己開示」の著作を発表しておこうという判断が、私を含めた多くの読者に「新しい中野信子像」を提供することになった、と私は解釈しています。

ただ、ここで私は「自己開示」という言葉を使っていますが、中野信子さんが「モザイク状の多面体」と表現しているように、『ペルソナ』の中野信子さんが“本当のわたし”であるのかどうかの同定は避けたいと思います。ユングも言っているように、人間とは善と悪の両面を併せ持つ存在であり、『ペルソナ』の中野信子像は、脳科学者の知力が編み出した、ある視座からの「創作としての中野信子」かもしれませんので。

さて、前回までロジャーズのエンカウンター・グループを語ってきました。『ペルソナ』を読むうちに、それとの関わりが脳裏に浮かんできたのですね。「牽強付会ではないか…」という思いもなくはないのですが、少し語ってみることにします。

「中野信子さんにとってのエンカウンター・グループ」とは…?

ロジャーズは、エンカウンター・グループの中ではこれまでのカウンセラーの役割とは別の、クライエントになることの意義を記述しています。つまり、グループ全体を「人間有機体というカウンセラー」と見立て、自分がクライエントとなって身を委ねる…、すると自分がさらに促進的になっていく。このことを、力を込めて語っているのです。

中野信子さんは『ペルソナ』を書くことで、それを手にした読者に“思い”を伝えています。私はその「読者」こそが、中野信子さんにとってのエンカウンター・グループなのではないか…そのなかの中野信子さんはクライエントとして、カウンセラーでもある「読者」に身を預けたのではないか、と解釈しました。

そして私の思考の流れは、以前に読んだ『職業としての小説家/村上春樹・新潮文庫2016年刊』を想起しました。以下に引用します(ノーベル文学賞に触れたところです)。

読者への感謝を熱く語る村上春樹氏

僕もインタビューを受けて、賞関連のことを質問されるたびに(国内でも海外でも、なぜかよく質問されます)、「何より大切なのは良き読者です。どのような文学賞も、勲章も、好意的な書評も、僕の本を身銭を切って買ってくれる読者に比べれば、実質的な意味を持ちません」と答えることにしています。自分でも飽き飽きするくらい何度も何度も繰り返し、同じ答えを返しているのですが、ほとんど誰もそういう僕の言い分には本気で耳を貸してくれないみたいです。多くの場合無視されます。

でも考えてみたら、これは確かに実際、退屈な回答かもしれませんね。行儀のよい「表向きの発言」みたいに聞こえなくもない。自分でも時々そう思います。少なくともジャーナリストが興味をそそられる類のコメントではない。しかしいくら退屈でありふれた回答であっても、それが僕にとっては正直な事実なのだから仕方ありません。だから何度でも同じことを繰り返し口にします。

読者が千数百円、あるいは数千円の金を払って一冊の本を買うとき、そこには思惑も何もありません。あるのは「この本を読んでみよう」という(たぶん)率直な心持だけです。もしくは期待感だけです。そういう読者のみなさんに対しては、僕は心から本当にありがたいと思っています。それに比べれば……いや、あえて具体的に比較するまでもないでしょう。

“村上春樹”は世界規模でのブランドとなっており、そのイメージが、自分の等身大の姿と乖離していくことに対して、エッセイとはまた別の『職業としての小説家』を著しておこう、と判断したのだと思います。
春樹氏にとってのエンカウンター・グループは「読者」であることを、この語りから理解することができます。

さて、もう一つ中野信子さんの著作を取り上げてみましょう。『ペルソナ』の中野信子像ではない、脳科学者としての中野信子さんが書いた『サイコパス』です。

脳科学者の視点で描く「精神分析の失墜と脳科学の台頭」を引用します。

サイコパス研究に限りませんが、当初はまず心理学的なアプローチで捉えられていたものが、精神医学的に語られるようになりました。そしてこの10年ほどの劇的な脳科学の進歩によって、さまざまなことがわかるようになってきています。脳科学が明らかにしたことはいくつもあります。たとえばフロイトの業績は、注意深く読めば科学的に証明に乏しい、反証可能性があるとは言いにくい理論であることがわかります。そのため、今ではトンデモ科学呼ばわりする人たちもいるほどです。

精神分析は、病の原因解明のような分野の研究に関しては、玉石混交です。古典的な精神医学、精神分析系の研究領域では、研究の創始者や学会の重鎮の発言をそのまま受け容れる、という態度が正しいとされるところもあるのです。

ただし、患者さんとの信頼関係を形成したり、満足感をもっていただけたりという観点から、もともとは精神分析で用いられた手法である「傾聴」などは、経験的に有効であるとして他分野の人も応用しています。

また、患者自身の治る力を引き出すようなテクニカルな部分や、臨床における患者のケアといった部分については、古典的な精神医学の方が脳科学よりも一日の長があるといえます。ただし脳科学と異なり、必ずしも自然科学的な「仮説を立て、ファクトを積み上げ、検証する」という研究の仕方ではないことは留意すべきです。

21世紀に入ってからの脳科学は、それまでの心理学者たちが「こういう現象がある」と議論してきたことに対し、画像診断などを通じて「実はこの部分はこうだった」「この物質の代謝が異常だった」「受容体がこうだった」「コネクティビティがこうだった」と明らかにしてきたのです。サイコパスに限らず、ほかの精神疾患についてもです。

それまではいっしょくたに扱われ、誤解や混同にさらされてきたさまざまな精神疾患の違いが、具体的に、科学的に記述できるようになってきたのです。
さらには、文学や思想の領域のことだとされてきた分野にまで一部の脳科学は進出しています。一度は否定された19世紀的な理論の見直しも起こっています。

脳科学者の立場からの精神分析が記述されています。なお、中野信子さんは、精神分析を心理療法全体として捉えているようにも感じますが、それはよしとしましょう。精神分析(≒心理療法)のすぐれた点についての紹介もあり、バランスのとれた解説だと感じました。

フロイトは精神分析を創始した1900年以降、自分の理論を科学せしめようと努力を重ねてきました。フロイトが亡くなったのは1939年ですが、もしフロイトが21世紀まで生き延びていたとしたら、脳科学の著しい発展を「自分が目指してきたものだ」、と心の底から喜んだのではないか、と私は想像しています。
「科学なのかそうではないのか」という命題は、「奥の深い」、かつ「やっかい」なテーマです。

私は「科学だ」と称されるものは、その時点での「科学的な過程」だと理解しています。「科学」の終着は永遠に訪れることはなく、理論が発表された次の瞬間から書き換えられ、それが「発展」と称される動態となって推移していくのではないでしょうか。

次回のコラムは、フロイトと同様に「科学とは」を思考し続けたロジャーズについて、語ってみようと思います。

坂本 樹志 (日向 薫)

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