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<追悼>稲盛和夫さんの「京セラフィロソフィ」

言ってみれば私は、現実の煩わしい窮屈な状況から逃げるために、必死に研究に打ち込んだのです。しかし、実はそのことが、私なりの人生観、または哲学というものをつくつていったのです。すべての雑念を払い、一つの研究に打ち込んでいる状態のときに、人生観のようなものが自分のなかにつくられていきました。それをベースに、「京セラフィロソフィ」というものをつくっていったのです。
(『京セラフィロソフィ(稲盛和夫/サンマーク出版・2014年6月)』より)

前回8月29日の1on1ミーティングの最後に、心理学を学びコーチングの資格を有する新進気鋭の若手A課長が、「次回の1on1は“人の時代”をコーチングの視点でSさんと一緒に考えてみようと思います」、と告げています。
部長職を長く経験し、定年再雇用でA課長のチームに配属された実践派のSさんは、失敗から学んだことなど、リアルな経験をA課長に虚心に伝えてきました。さて、どのような1on1が展開されるのでしょうか。

稲盛さんは飾ることをよしとしない人柄の方でした。

(A課長)
Sさん、稲盛和夫さんがお亡くなりになりました。8月31日の日経新聞の1面に、そして17面では紙面全部といってよいボリュームで追悼の記事が掲載されています。改めてすごい方だったのだなぁ、と振り返っています。

Sさんとの1on1ミーティングの最初の頃でしたか… ええっと、去年の11月27日ですね。 「何をテーマとして1on1を進めていきましょうか?」と、私が相談すると、Sさんは次のように応えてくれています。

「企業、組織にとっての根幹テーマといえるリーダーシップはいかがですか? 若い頃、三隅二不二のPM理論を勉強したとき、納得したものです。係長、課長になってからは、やっぱり実践だよ! という思いが強くなって、理論はほとんど勉強していません。ただ、松下幸之助さん、本田宗一郎さん、ソニーの盛田さん… そして稲盛さんのフィロソフィとかは、結構読んでいます」

(Sさん)
ええ、そんなことを言ったように記憶していますが、それもメモっていたのですか?

(A課長)
最初のころは気合が入っていたというか(笑)、 Sさんのコメントは、けっこうPCに入力しています。
その後は会話に専念するためミーティングの終了後に、印象に残ったSさん語録をメモするスタイルに変えています。

(Sさん)
私は実践派だったので、理論はあまり勉強していませんでしたが、Aさんのおかげで、リーダーシップ理論の変遷とそれぞれの理論の詳細も理解できました。実践が裏付けられ、さらに失敗の背景などが整理できました。
リーダーシップ理論は10回くらい1on1でやりましたよね。

(A課長)
私の指向性は理論の方に向かってしまうので、今日はSさんから「稲盛さんの京セラフィロソフィ」を紹介していただく、という1on1にしませんか?

「京セラフィロソフィ」は人としての道理を説く経営のバイブルです。

(Sさん)
なるほど… 「京セラフィロソフィ」は文字とおり稲盛さんの経営哲学ですから、常に社会科学的な視点を保っておきたい、というAさんのスタンスとは、ちょっと違うかもしれない。

「京セラフィロソフィ」はどう表現すればよいのかな… 稲盛さんがその場にいて語りかけてくれるようなカンジですね。難しいことばは一切ありません。稲盛さんは臨済宗の僧侶でもあるので、仏教用語は頻繁に登場しますが、それも稲盛さんの身体を通って、稲盛さんの言葉として伝わってきます。経営法話です。

(A課長)
経営法話… なるほど。

(Sさん)
書棚から持ってきます。ちょっと待ってください……

これです。サイズもちょうどよい大きさで濃いブルーの装丁です。聖書みたいですね。
稲盛さんは講演で必ず、「資金も実績もない小さな町工場から出発し、頼れるものはなけなしの技術と28人の信じあえる仲間だけだった」という創業の話をされるそうです。生粋のベンチャーからのスタートです。

私が響いたところは赤くマーカーをしているので、その箇所を読みながら1on1を進めていく、というスタイルでよろしいですか?

(A課長)
はい、お願いします!

(Sさん)
18ページから「京セラフィロソフィ」がどのような過程を経て生まれたかが書かれています。鹿児島大学を卒業してやっと就職できた会社は、頼りない会社だったようです。

「こんな会社、なるべく早く辞めて、もっとましな会社へ行こう」とばかり考えていました。ところが、当時は就職難の時代です。大学を出てもなかなかいい会社には入れず、その会社もやっと入れてもらったくらいですから、そこを辞めても行くところがあるわけでもありません。そのような状況のもと、私は不満を抱えながらも、黙々と働いていました。

そして、若い情熱のはけ口を、私はセラミックスの研究に見出しました。給料の遅配は当たり前という会社でしたが、その不平不満を外へぶつけてみても意味はないと思い、研究に情熱を注いだのです。そうすると不思議なもので、研究は順調に進むようになり、すばらしい成果を残すことができました。

稲盛さんは、「現実の煩わしさから逃げるために研究に打ち込んだ」と振り返り、それが結果としての成功につながったことで、フィロソフィのベースになったと語っています。

不満を抱えながら黙々と働いた稲盛さんがつかんだものとは!?

(A課長)
「逃げたことでフィロソフィが生まれた」ということか… 深いですね。今フロイトの防衛機制をイメージしています。人は困難な状況に遭遇した際、防衛機制をはたらかせて、しのいでいくというか、適応しようとする。そのパターンをフロイトは整理しました。

受け入れがたい欲求や感情を意識の外に追いやる抑圧
欲求や感情とは逆の行動をとる反動形成
自分の欲求や感情を相手のモノであると考える投影
他者の名声や権威を自分のものであるかのように捉えてしまう同一化

など、ネガティブな内容が多いのですが、稲盛さんの場合は、強い不満の感情を社会的に価値のある研究という行為に没頭することで、負のエネルギーを正なるレベルに転化させたということだと思います。昇華です!

(Sさん)
なるほど… フロイト理論ですね。
Aさんの解釈で「京セラフィロソフィ」全体に流れる思想の軸が、私のなかで輪郭を帯びてきました。

(A課長)
それは何でしょう…?

(Sさん)
努力です。この努力ということばは、あらゆるところに登場します。ページを繰っていくと… 56ページに「心を高める努力と反省を繰り返す」というタイトルがありますね。

本当に美しい心を持った人は、「悟りを開いた人」でもあるのでしょうが、凡人がいくら努力をしても悟れるわけがありません。お釈迦様が悟りを開かれた二千五百年前から今日に至るまで、そうして悟りを開いた人というのはほとんど出ていないわけです。

だからこそ、せめて道を少しでも究めるために努力しようと思っている人間でありたいと思うのです。そのように自分自身で心を高めよう、心を清めようと努力している人は、いわば修行をしているようなものだと思います。またその人間にとって、与えられた人生とは、心を美しくするための道場となるはずです。

(A課長)
だんだん引き込まれてきます…

純粋な願望は継続的努力によって必ず実現する!

(Sさん)
61ページからも稲盛さんの姿が迫ってきます。

強い願望であっても、それが私利私欲に端を発したものであるならば一時的には成功をもたらすかもしれませんが、その成功は長続きしません。
世の道理に反した動機に基づく願望は、強ければ強いほど社会との摩擦を生み、結果的には大きな失敗につながっていくのです。

成功を持続させるには、描く願望や情熱がきれいなものでなければなりません。つまり、潜在意識に浸透させていく願望の質が問題となるわけです。そして、純粋な願望をもって、ひたすら努力を続けることによって、その願望は必ず実現できるのです。

稲盛さんの努力についての射程は広大です。お釈迦様の「心に描いたとおりになる」ということばから次のような話が展開されます。

企業経営において「あなたが心に描いたとおりの結果になります」と言われても、どうしても素直に納得できないのだと思います。もし、善には善、悪には悪と一対一の対応で結果が現れるなら、悪などはびこらないはずなのですが、そこは曖昧模糊としていて、真面目にやっていても人生や経営は良くならないし、逆に相当な悪でも成功する人間がいるように見える。そのために、「世の中はおかしい。不公平だ」となってしまって、私が言うようなきまじめな生き方を誰もしようと思わないのです。

しかし「因果応報」と言うように、実際に人生や経営は、心に思ったことは寸分違わず現れてきます。ただ、スパンが長いわけです。だいたい三十年くらいのスパンでみると帳尻が合うはずです。

「心に描いたとおりの結果」は30年のスパンで帳尻が合う!

(A課長)
30年ですか!それはすごい。確かにそれくらいの長期スパンで構えていれば、少々なことには動じなくて済むなぁ~
MITのダニエル・キム教授が理論化した「成功の循環モデル」についての1on1を、11月7日にやったときSさんはその本質を「急がば回れということですね」、と看破しました。Sさん、いかがですか?

(Sさん)
そうですね。稲盛さんは30年という途方もない時間を語っていますが、私はそれくらいの覚悟というか、邪念を捨てて臨めば「ものごとは望む流れになっていくよ」、と言っているのだと思います。

振り返ってみると、うまくいっていないときは、どうも自分らしくないというか、よこしまな気持ちも入っていたような(笑)… つまり自分が呼び寄せている、招いている、と解釈せざるをえないことが多かったですね。

仕事での好結果は、狙って、というより、目的に向かって必死こいて取り組んでいると…向こうから近づいてきてくれた、気づいたらそうなっていた、という場合がほとんどでした。邪念が生じる余裕もなかったなぁ…

稲盛さんの語りは「稲盛さんだから」ではなく「普遍性」!

(A課長)
Sさんも同様な体験をしているということは、稲盛さんはセオリーを語っていると解釈できそうです。哲学であり理論です。

(Sさん)
私の体験を稲盛さんと被らせてしまうのは、ちょっと…

(A課長)
私はコーチングを究めようとする覚悟をもって臨んでいるので、忖度から自由になることを目指しています。いや、ちょっと力が入りすぎかな…(苦笑)

(Sさん)
Aさんは自分を評して「まじめである」、とことばにします。私は逆ですね。どこか斜めに構えてしまう自分を変えたいと思っています。コーチングにふれることで、少し兆しが見えてきました。Aさんに近づきたい(笑)

私とはタイプの異なるAさんとこうやって会話を重ねていくと、さまざま気づかされます。「稲盛さんの仏教に対する信心」と捉えてしまうと、「稲盛さんだから」となりますが、稲盛さんのことばはまさに「摂理」。いや、このことばはキリスト教からきているので、何といえばよいのか… うん「普遍性」だ。

そうそう、仕事の結果を導き出す方程式を稲盛さんはつくっています。どのあたりだったかな… ちょっと待ってください。
330ページです。

人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力

人生や仕事の結果は、考え方と熱意と能力の三つの要素の掛け算で決まります。

このうち能力と熱意は、それぞれ零点から百点まであり、これが積で掛かるので、能力を鼻にかけ努力を怠った人よりは、自分には普通の能力しかないと思って誰よりも努力した人の方が、はるかにすばらしい結果を残すことができます。

これに考え方が掛かります。考え方とは生きる姿勢でありマイナス百点からプラス百点まであります。考え方次第で人生や仕事の結果は百八十度変わってくるのです。
そこで能力や熱意とともに、人間としての正しい考え方をもつことが何よりも大切になるのです。

(A課長)
ものすごく腑に落ちます。稲盛さんの視点は、熱意>能力で、この二つは幅があるもののプラスに作用する。ところが考え方という生きる姿勢は、マイナスにも左右するので、努力が無に帰すというか、人生そのものも台無しにしてしまう要素、ということですね。

(Sさん)
その例示として稲盛さんは過激思想というか、日本赤軍のことを語っています。337ページです。

ここにおられる皆さんの中にも、若いころ、燃えるような正義感を持ち、不平等で矛盾だらけのこの腐敗した世の中を改革したい、みんなが楽しく過ごせる平等な社会をつくりたい、と思っていた方がたくさんおられるでしょう。私もその一人でした。そういう思いを抱いていた人間の一部が過激派に走り、テロ行為を通じて世の中を変えていこうとした。それがあの日本赤軍だったのです。

渋沢栄一は論語に、石原莞爾は日蓮宗によって心を鎮めていった…

(A課長)
Sさんとは、渋沢栄一、石原莞爾といった凡人の理解を超越するスゴイ人物について語り合ってきました。渋沢栄一は若いころ「横浜の外国人居留地を焼き払い、異人を手あたりに次第に斬り払う」という計画を立てていますよね。既のところで中止するわけですが、その渋沢栄一は論語と出会うことで、変わっていきます。

自分一人の力ではどうしようも抑えきれない情熱というかマグマを、論語を深く研究することで鎮めていったというか、メタ感覚を体得します。最終的に異質の調和である「道徳経済合一説」を打ち立てますよね。儒教の中では異端とも解釈できる朱子学に染まっていた江戸の思想を、転換させた最大の功労者こそが渋沢栄一なのではないでしょうか。

(Sさん)
純粋なことは肯定されますが、それが閉じた空間で圧搾されていくと、とんでもない思念に囚われてしまう。
Aさんの視点は鋭いですね。石原莞爾の思想のベースは日蓮宗系の田中智学です。日清戦争以降の成功体験によって自己のイメージが肥大化していった日本の中にあって、石原莞爾は冷静でした。

米国との戦争を人類が経験せざるを得ない最終戦争であると位置づけ、そのために中国も含めた東亜が一つになることを必須の条件としています。最終戦争の時期は数十年後を想定し、中国との融和、アジアとの大同団結をイメージして『世界最終戦争論』を1940年に著します。満州国を日本の傀儡ではない、真の独立国に育て上げるべく国籍を捨て、覇道ではない王道を志向します。

もっともそのタイミングはすべてに遅しというか、その翌年の1941年3月には予備役に編入され実質的な引退となるのですね。

1931年の満州事変は、石原が1929年に著した『戦争史大観』に基づく最初の実践です。この満州占領が、スマートに進行しすぎたことが日本の世論を沸騰させたとも解釈できます。石原は満州事変以後の武力行使を一切禁じようとするのですが、帝国主義の思想に覆われてしまった日本の世論は、石原の融和策とは相いれない流れとなっていきます。関東軍の行動は世論の後押しもあり歯止めが利かなくなります。

現地軍の独断専行を咎める石原の言葉に対して、反石原の急先鋒であった武藤章大佐は、「満州事変はあなたの独断専行でした。私はそれを見習い、実行しているのです」と応えたといわれます。

(A課長)
歴史の皮肉というか、何とも名状しがたいですね。
石原の思想は凄いと思いますが、生粋の軍人ですから最後も戦いで終わらせよう、とする発想なんですね。それから原子爆弾という破滅的兵器が登場することを、さすがに想定していなかった…

今回の1on1もSさんの知見が発揮されました。稲盛さんの思想から石原莞爾に広がっていきました。「京セラフィロソフィ」の解説をお願いしたことから今日の1on1がスタートしましたが、稲盛さんの心というか、経営法話をもっと知りたくなりました。私も「京セラフィロソフィ」を読んでみます。

稲盛さんは人の心の弱さを知り抜いていた人!

(Sさん)
私も読み直してみます。
稲盛さんは、終生溢れんばかりの情熱を持ち続けた方だと思います。ただその情熱は、ときに自分でも抑えがたい感情にとらわれることもあったのでしょう。稲盛さんが、それを鎮め安定した心を保つことができたのは仏の道だったのではないか、と想像しています。
稲盛さんは人の心の弱さを知り抜いていた人でした。

(A課長)
次回の1on1も稲盛さんの続きをやりましょう!

(Sさん)
はい、ぜひともお願いします。

坂本 樹志 (日向 薫)

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