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渋沢栄一とコーチング ~渋沢栄一が啖呵を切ったその“言葉”が「道徳経済合一説」を生んだ…!?~

今まで孔子の教えを信じる学者が、彼の教えを誤解していたなかでももっとも甚だしいものは、「富と地位」と「経済活動」の二つの考え方であろう。彼らが『論語』を解釈したところによると、「道徳と思いやりの政治を掲げて、世の中を治める」ことと、「経済活動によって富と地位を得る」こととは、火のついた炭と氷のように、一緒にはしておけないものとされている。

前回のコラムで、「…『論語』の教えは広く世間に効き目があり、もともとわかりやすいものなのだ」、と『論語と算盤(現代語訳)/ちくま新書』のなかで、渋沢栄一が語っていることを取り上げました。

渋沢栄一は、権威を嫌いリアルな世界観を築きます。

誤解している学者は「口やかましい玄関番」であり、こんな玄関番に頼んでいては孔子には面会できない。本来の孔子は、さばけた人なのである…
と渋沢栄一が解釈する根拠が、同『論語と算盤』の第4章「仁義と富貴」に書かれています。今回のコラムは、渋沢栄一が『論語』によって、終生を貫く哲学である、「道徳経済合一説」を確立した背景について迫ってみようと思います。

…では孔子は本当に、
「富と地位を手にした者は、道徳によって世の中に貢献する考えなどない。だから、高い道徳を持った人物になりたければ、金儲けなどしようと思ってはならない」
といった内容を説いていたのだろうか。わたしが二十篇ある『論語』をくまなく探してみても、そんな意味の言葉は一つも発見できなかった。

と、「口やかましい玄関番」の解釈を真っ向から否定します。
私は「渋沢栄一とはどのような人なのだろうか…?」というテーマを掲げ、渋沢栄一に関する多くの著作に目を通し、さらにインターネットに氾濫する渋沢栄一情報を、できるかぎりの“メタ感覚”で捉えようと自分に強いてきました。
その過程で浮かび上がってきた自分なりの渋沢栄一像とは、

「フィクションに惑わされることなく、論語を拠り所に現実を見据え、常に中庸(バランス)に気を配り、レジリエンスを駆使して“調和”する世界をつくり上げることに一生を捧げた“リアリスト”」です。

渋沢栄一の心の奥底を探訪してみる…

幕末維新という激動の渦中に、大蔵官僚としてスピード出世が始まった矢先に、大蔵省を退官しています。
その間の自分の想い…心持がどのように推移し(変化し)、そして下野(あえてこの言葉を用います)することを意思決定したのか、については、『実験論語処世談』や『論語と算盤』に記されています。
https://coaching-labo.co.jp/archives/3272

ただ、そこに描かれる内容について、文字面というよりコンテクストに意識を集中させて読んでみると…ちょっと違うイメージが浮かんできます。

先のコラムで渋沢栄一の言葉を引用し、この33歳が「真の立志」の年であることを紹介しました。
あえて、この「真の立志」を深読みすることを許していただければ、
後年「真の立志」が叶い、成就したことを踏まえて、「うん、あの時の私の判断は間違いなかった!」「それは結果が証明してくれた!」と、心の安寧を得て(安心して)、書き留めた言葉のような気がしています。

『論語と算盤(現代語訳)』の冒頭第1章に、渋沢栄一の大蔵省の同僚である玉乃世履(せいり)から、退官を強く引き止められたシーンがあります。玉乃は後に大審院長(現在の最高裁判所長官)になった人物です。

大親友の直言に当時の渋沢栄一は動揺したのかもしれない…?

二人は役所のなかで非常に仲良くし、出世ぶりも一緒で、勅任官(天皇から直接任官される役職)にもなった。二人は「共に将来は国務大臣になろう」という希望を抱いて進んでいた。だから、わたしが突然官僚を辞めて商売人になるというのを聞くと、いたく惜しみ、「ぜひに」といって引き止めてくれた。

その大親友から、次のように言われるのです。

「君も遠からず長官になれる、大臣になれる、お互い官職にあって国家のために尽くす身だ。それなのに、賤しむべき金銭に目がくらんで、官職を去って商人になるとは実に呆れる。今まで君をそういう人間だとは思わなかった…」

渋沢栄一はすでに辞めることを決めていました。ただ、おそらくですが、当時の渋沢栄一は、この忠告に対して、後に確立するところの「道徳経済合一説」については、まだ漠としていたのですね(と想像します)。

33歳のまだ若い(といっても、当時の平均寿命は44歳あたりです)渋沢栄一には捨てきれないプライドがあります。
そう思われてしまうのも、むべなるかな…と渋沢栄一も感じたかもしれません。しかし玉乃を納得させるべく、「弁駁しなければならない!」と渋沢栄一は考え、『論語』を持ち出します。

そのときわたしは、大いに玉之に反論し、説得したのだが、引き合いに出したのが『論語』だった。宋王朝の名臣・趙普が、
「『論語』の半分を使って自分が仕えている皇帝を助け、のこりの半分を使って自分の身を修める」といったことを引用しながら、
「わたしは『論語』で一生を貫いてみせる。金銭を取り扱うことが、なぜ賤しいのだ。君のように金銭を賤しんでいては、「国家は立ちゆかない。民間より官の方が貴いとか、爵位が高いといったことは、実はそんなに尊いことではない。人間が勤めるべき尊い仕事は至るところにある。官だけが尊いわけではない」
と『論語』などを引用しながら、いろいろ反論や説明に努めたのである。

「思わず言ってしまった!」と感じるのは、私だけかもしれませんが、その言葉を玉乃に伝えたことで、「男子に二言はない!」との強い気持ちを心に刻み込み、
「『論語』の言葉は、果たして実践との齟齬が、ありや、なきや」…と常に自問と自答を繰り返し、その結果…おそらく50歳代ころに「心底信じきれる“拠り所”」に昇華したと、私は受けとめています。

人にとって絶対必要な“拠り所”について考えてみました。

人にはそれぞれ“拠り所”があります。
それは “宗教” かもしれません。あるいは、酒に弱く日頃口数の少ない父親が、珍しく酔ったその日、ポツリと語った一言が20歳の息子の心に浸み入り、辛く苦しい時も「その一言に基づいて判断すれば大丈夫!」と、安心感を抱ける “その一言” かもしれません。
渋沢栄一の場合、それが「論語の“言葉”」なのですね。

「まず言葉ありき」という“言葉”が私は好きなのですが(語源の聖書とは異なる捉え方です)、ライバルでもあった大親友の玉乃に啖呵を切った“言葉”が、渋沢栄一の行動を決定づけました。
渋沢栄一は好奇心のかたまりであり、『論語』以外にも、今日でいうところの「リベラルアーツ」にも通暁しています。『論語』への指向性は、幼少の頃より尾高惇忠の教えを受けたことで親和性は感じていました。
ただ、大蔵省にそのままとどまった場合…そのパラレルワールドを想像してみると、70歳を過ぎて語るその拠り所は、“別のもの”に代わっているのかもしれません。

少し空想の世界に浮遊してしまいました。
私の拠り所は、 “カール・ロジャーズの次の言葉” です。コーチングを学ぶモチベーションとして、今も私を魅了し続けています。
https://coaching-labo.co.jp/archives/2931

「私が他人を受容することができると、それはとても報いられるものである」
「誰でも進んで自分自身になろうとすればするほど、自分が変化するばかりでなく、自分と関係している人たちもまた変化していくのである」

坂本 樹志 (日向 薫)

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