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渋沢栄一とコーチング ~渋沢栄一の心・技・体が融合する『論語と算盤』の孔子像!~

世間には、随分と自分の力を過信して非望を起こす人もあるが、あまり進むことばかり知って、分を守ることを知らぬと、とんだ間違いを惹き起こすことがある。私は、蟹は甲羅に似せて穴を掘る、という主義で、渋沢の分を守るということを心がけている。(中略)しかしながら分に安んずるからといって、進取の気象を忘れてしまっては何にもならぬ。

『論語と算盤 渋沢栄一(角川文庫 平成20年)』は、昭和二年刊の『論語と算盤(原文)』が底本で、現代仮名遣い、当用漢字に改められていますが、原文がベースで、渋沢栄一の語りそのままが伝わってきます。そのなかの「蟹穴主義が肝要」を引用してみました。

NHK大河ドラマ『青天を衝け』のスタッフに脱帽!

『青天を衝け』が好評です。その背景や理由について、SNSをはじめ、さまざまな書き込みがなされ、それに目を通すのも一つの楽しみとなっている今日この頃です。
NHK大河ドラマは、そのスケールといい、日本のTVドラマとしては破格の予算が投じられることもあって、民放とは異なる観点で視聴率等が問われるようですが、このたびの『青天を衝け』の野外セットには度肝を抜かれました。

群馬県の安中市に、人の背丈以上に育った広大な桑畑や藍葉の畑を見事に再現し(東京ドーム5個分の広さ、とのことです)、送電線の鉄塔も映り込んでおらず(CG処理でないとしたら、このような場所をロケハンで探しあてたスタッフには脱帽です)、制作メンバー一同の意気込みが、渋沢栄一役の吉沢亮さんをはじめとする俳優陣のリアルに富む熱気あふれる演技を引き出しています。ドローンによる鳥瞰映像も大いなる広がりを感じさせ、関係各位のシナジーが見事に結実した上質な作品に仕上がっています。

「みんなで作り上げた作品!」はエンドロールに込められている。

画面で映し出される俳優は数人(アニメの場合この表現は当てはまりませんが…笑)かもしれませんが、そこには映ることのない膨大な数のスタッフが、ドラマや映画をつくり上げていきます。そして、エンドロール(映画の場合)で記名される人(組織も含めて)については、関与の質量を問わず、「みんなで作り上げた作品なのだ!」という総意のもと、長尺で紹介されていきます(最近の傾向ですね)。

映画を見終えた余韻とともに、私たちは静かにその名前を辿ります。バックグラウンドのミュージックも相まって、情感の深いところで“何か”が呼び起こされます。
最近見た映画の『シン・エヴァンゲリオン』は、エンドロールが9分間です。その間誰一人として席を立つ人はいませんでした。
映画って、本当にイイですね…
NHK大河ドラマから映画私論になってしまいました。戻します。

『青天を衝け』の渋沢栄一は従来の大河ドラマの主人公とは違う…

大河ドラマは、基本的に歴史上の人物を主人公として、その一生を描いていきますが、これまでの主人公たちと、渋沢栄一は何かが違う、と私は感じています。
それは…従来の主人公は実在するものの「フィクションとして描かれている」ことを暗黙裡に受けとめていたのに対し、『青天を衝け』の渋沢栄一には、リアルをイメージできる…といったところでしょうか。

そのように解釈する前提は、「渋沢栄一は現実をしっかりとグリップできる人」だったのではないか…という印象が伝わってくるところですね。

脚本の大森美香さんの視点をベースとして『青天を衝け』の“渋沢栄一“が造形されていますが、『論語と算盤』をはじめとして、「言」である談話や著作が膨大に残されており、そのことは、実際の「行」と矛盾はないのか…という検証の材料にはこと欠きません。よくある『偉人伝』とはまた違う姿を、私たちは追いかけることが可能です。

この点を根拠にして、「渋沢栄一はフィクションに惑わされることなく、論語を拠り所に現実を見据え、常に中庸(バランス)に気を配り、レジリエンスを駆使して“調和”する世界をつくり上げることに一生を捧げた“リアリスト”」である、と私はその人物像を同定させました。

私が書き続けている当該コラムシリーズのテーマは「コーチング」です。渋沢栄一が33歳の立志以降、確立していくその「世界観」を知れば知るほど、「コーチング」との強い親和性に心が動かされます。
「さらに深く探求したい!」というモチベーションが高まっています。

冒頭は『論語と算盤』の原文ですが、次に『論語と算盤(現代語訳・守屋淳/ちくま新書』から、その「世界観」が伝わってくる語りを紹介してみましょう(太字は私が付しています)。

『論語と算盤』の「常識とは如何なるものか」を抜粋します。

人の心を分析して、「智、情、意」の三つに分類するというのは、心理学者の説に基づくものだが、この三つの調和がいらないという者など誰もいないだろう。知恵と情愛と意志の三つがあってこそ、人間社会で活動ができ、現実に成果をあげていけるものである。ここでは、常識の原則である、「智、情、意」の三つについて、少し述べてみたいと思う。

まず「智」とは、人にとってどのような働きをするのだろう。人として知恵が十分に発達していないと、物事を見分ける能力に不足してしまう。たとえば、物事の善悪や、プラス面とマイナス面を見抜けないような人では、どれだけ学識があったとしても、良いことを良いと認めたり、プラスになることをプラスだと見抜いて、それを採ることができない。学問が宝の持ち腐れに終わってしまうのだ。この点を思えば、知恵がいかに人生に大切であるかが理解できるだろう。

しかし、「智」ばかりで活動ができるかというと、決してそうではない。そこに「情」というものがうまく入ってこないと、「智」の能力は十分に発揮されなくなってしまう。
たとえば、「智」ばかりが膨れ上がって情愛の薄い人間を想像してみよう。自分の利益のためには、他人を突き飛ばしても、蹴飛ばしても気にしない、そんな風になってしまうのではあるまいか。

もともと知恵が人並み以上に働く人は、何事に対しても、その原因と結果を見抜き、今後どうなるかを見通せるものだ。このような人物に、もし情愛がなければたまったものではない。その見通した結果までの道筋を悪用し、自分がよければそれでよいという形で、どこまでもやり通してしまう。この場合、他人に降りかかってくる迷惑や痛みなど、何とも思わないほど極端になりかねない。そのバランスの悪さを調和していくのが、「情」なのだ。

「情」は一種の緩和剤で、何事もこの「情」が加わることによってバランスを保ち、人生の出来事に円満な解決を与えてくれるのである。もしも人間の世界から「情」という要素を除いてしまったら、どうなるだろう。何事も極端から極端に走って、ついにはどうしようもない結果を招いてしまうに違いない。だからこそ、人間にとって「情」はなくてはならない機能なのだ。

しかし、「情」にも欠点があって、それは瞬間的にわきあがりやすいため、悪くすると流されてしまうことだ。特に、人の喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、愛しさ、憎しみ、欲望といった七つの感情は、この引き起こす変化が激しいため、心の他の個所を使ってこれらをコントロールしていかなければならない。感情に走りすぎるという弊害を招いてしまう。この時点で「意志」というものの必要性が生じてくるのである。

動きやすい感情をコントロールするものは、強い意志より他にはない。だからこそ、「意」は精神活動の大本ともいえるものだ。強い意志さえあれば、人生において大きな強みを持つことになる。しかし意志ばかり強くて、他の「情」や「智」がともなわないと、単なる頑固者や強情者になってしまう。根拠なく自信ばかり持って、自分の主張が間違っていても直そうとせず、ひたすら我を押し通そうとする。

もちろん、こんなタイプも、ある意味から見れば尊重すべき点がないでもない。しかし、それでは一般社会で生きる資格に欠け、精神的に問題があって完全な人とはいえないのだ。強い意志のうえに、聡明な知恵を持ち、これを情愛で調節する。さらに三つをバランスよく配合して、大きく成長させていってこそ、初めて完全な常識となるのである。

現代の人は、よく口癖のように「意志を強く持て」という。しかし意志ばかり強くてもやはり困りものでしかない。俗にいう「猪武者(突き進むことしか知らない武者)」のような人間になっては、どんなに意志が強くても社会で役立つ人物とはいえないのである。

(パブリックを包摂した)渋沢栄一の資本主義!

いかがでしょうか。
「智・情・意」については、だれもが見聞きするワードです。この3つは関連し合い、そのバランス、調和がいかに大切であるのか…そのことを渋沢栄一は、平明な表現で説明してくれます。ストンと腑に落ちますね。

私は渋沢栄一を、「日本における(パブリックを包摂した)資本主義の父」であると同時に、「世界第一級の実践的論語研究者」であると捉えます。
「資本主義」はとても広い概念です。場合によっては「弱肉強食」とのイメージで理解する人もいるでしょう。渋沢栄一は、それとは異なり、公益あっての資本主義です。したがって、「( )付の資本主義の父」であることを強調しておきます。

「論語研究家」としての像も、『実験論語処世談』として著されているように、一般に定義されるところのアカデミズムとはスタンスを異にします。ちなみに“実験”とは“実体験”の意味ですから、実践に根差した(日常の生活に直結した)論語解釈なのですね。
渋沢栄一はこのことについても、『論語と算盤(現代語訳)』の中で語っています。

渋沢栄一の心技体が融合したハイブリッドの孔子像!

『論語』は決してむずかしい学問上の理論ではないし、むずかしいものを読む学者でなければわからない、というものでもない。『論語』の教えは広く世間に効き目があり、もともとわかりやすいものなのだ。それなのに、学者がむずかしくしてしまい、農民や職人、商人などが関わるべきではないし、商人や農民は『論語』を手にすべきではない、というようにしてしまった。これは大いなる間違いである。

このような学者は、たとえてみると、口やかましい玄関番のようなもので、孔子には邪魔ものなのだ。こんな玄関番を頼んでみても、孔子に面会することはできない。孔子は決してむずかし屋ではなく、案外さばけていて、商人でも農民でも誰にでも会って教えてくれるような方なのだ。孔子の教えは、実用的で卑近な教えなのだ。

「むずかしく論語を教示する学者」のことを、「口やかましい玄関番」と例える渋沢栄一のトーク・センスは実に痛快ですね。「官尊民卑の打破!」を行動ドライバーとする渋沢栄一の面目躍如です。学会は“官”とは異なるものの、どこか「権威」が鎮座しているイメージです。

以前のコラムで、ノーベル経済学賞を受賞した心理学者のカーネマン教授とトヴェルスキー氏を取り上げました。そこで私が語ったトーン&マナーは…これまでの経済学が前提としていた人間観である「エコン」とは別の、“普通の人”である「ヒューマン」を前提とし、私たちが「あるある」と実感できる意思決定のパターンを見事に描き出してくれた…という視点です。
https://coaching-labo.co.jp/archives/3169

渋沢栄一の『論語と算盤』を読み込むと、本来は生身の人間であるにも関わらず、いつの間にか「権威」として崇め奉られてしまっていた「孔子」が、実はいつも身近に居てくれて、困ったとき、悩んだときに、「大丈夫だよ」とやさしく声をかけてくれる「円熟のコーチ」としてイメージが伝わってきます。
なお、その孔子像とは、渋沢栄一の心技体が融合した「ハイブリッドとしての孔子」であることを、しっかり嚙みしめていこうと思っています。

坂本 樹志 (日向 薫)

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