心理学とコーチング ~渋沢栄一の合本組織と人的能力至上主義~(2021/08/02)

三菱の先代岩崎弥太郎は、多人数の共同出資によって事業を経営する事に反対した人である。多人数寄り集まって仕事をしては、理屈ばかり多くなって、成績の挙がるもので無いというのが弥太郎の意見で、何でも事業は自分一人でドシドシ経営してゆくに限るという主義であった。 したがって、私の主張する合本組織の経営法には極力反対したものだが、それだけまた、人才を部下に網羅する事には劫々骨を折り、学問のある人を多く用いたものである。これが、弥太郎の人才を登用するに当っての一特徴であったかの如く思われる。

ドラッカーは渋沢栄一と岩崎弥太郎を極めて高く評価しています。

まずは、『実験論語処世談』より「岩崎は専権邁進の人」を引用してみました。
ドラッカーが渋沢栄一を高く評価していたことは、これまでのコラムでも紹介しています。
渋沢栄一は、「合本組織という経営の根幹思想と、岩崎弥太郎の独占主義は相入れないものだ」、との強い見解を示すのですが、ドラッカーは渋沢栄一と並び岩崎弥太郎も高く評価しています。私は渋沢ファンですが、ここについては理解を深めたいと考え、次の著作を手に取りました。

『グローバル資本主義の中の渋沢栄一/パトリック・フリデンソン、橘川武郎編著(東洋経済新報社)』です。その第1章で、文京学院大学の島田昌和教授は、次のようにコメントしています。

ドラッカーは岩崎弥太郎とともに渋沢を「ロスチャイルドやモルガンやクルップやロックフェラーの業績よりもはるかにめざましいもの」であり、「この二人だけで、日本の工業、運輸関係企業のおよそ三分の二を作り上げたのである、たった二人の人間が、一国の経済にこれほど大きな影響を与えた例はどこにも見当たらない」と述べている。 ドラッカーは渋沢の人の能力、すなわち、人的資源の拡充に果たした役割を高く評価している。「人的能力至上主義」と呼び、「50年近くにわたって、在野の、しかも無給の『経営管理センター』として活躍した、彼は数百人の若い公務員、実業家、経営者の相談役となり、指導者となった。彼は訓練事業や経営者クラブを組織したり、あらゆる種類の講座、セミナー、討論会の設立に精力的に活動した」と、岩崎による資本増殖と対をなす人材面の不可欠な要素を育成したことを称賛している。

ドラッカーは、岩崎弥太郎を「資本蓄積」の面で、渋沢栄一については、「人材育成」への高い貢献を評価しています。

渋沢栄一の人を見る目がいかに優れているか…ということは、言うまでもないことですが、私はそれ以上に、「君に任せる」という全幅の信頼感を相手に伝え、それを全身でキャッチした相手が、その信頼感を裏切るまいと、心に灯をともし懸命に取り組んだ結果が、500社につながっているのだと思います。

まさにコーチングの人間観です。
私が渋沢栄一をこうして語るのは、この「任せる」ことの重みと崇高さについて、私自身がその奥義に迫りたく、希求しているプロセスなのだと感じています。

さて、渋沢栄一の「合本組織」について、解説しておきましょう。島田教授は渋沢栄一の言葉をはさみ、次のようにコメントしています。

…いくつかの発言から渋沢の主張する「合本」の意味するところを説明しよう。まず、「合本」が必要と考えた動機として「一人だけ富んでそれでは国は富まぬ。国家が強くならぬ。殊に今日全体から商工業者の位置が卑しい。力が弱いということを救いたいと覚悟するならば、どうしても全般に富むという考えは、これは合本法よりほかにない」と述べている。 つまり、個人一人が豊かになっても国家全体は強くならない。そのためには株式会社組織を根づかせなければならないと渋沢は主張し、遅れて近代化に取り組み始めた日本にとって国全体の産業が近代化するためには、低い地位と見られていた商工業者の地位を高めることが必要であり、そのために合本(株式会社)という手法で取り組むべきと考えた。 さらに会社組織について「ちょうどこの会社の組織は一つの共和政体のようなものであり、株主はなお国民のようなものである」と述べ、会社組織にはさまざまな意見を持った多くのものが参加しているので、経営には標準が必要であり、「標準は論語に依るのがよかろうと思ったのであって、それ以来の経営は、いやしくも道理というものに依らねば」いけない、つまり論語に基づいて道理正しい経営をすべきと考えたことを表明している。

渋沢栄一はアニマル・スピリットを持つ革新的企業者!

島田教授は、この渋沢栄一に対する多面的研究書が編まれたことについて、
…日本の経営史家の興味関心は、長らく財閥研究に注がれていた。ところがこの10年ほどの間に (当該著作の一刷は2014年発刊です)、戦前の大企業の主流は実は非財閥企業であり… と指摘した上で、

…非財閥系の企業家や経営者に着目する動向の中で、渋沢の評価は過去のものとは違った側面で着目されはじめている。すなわち宮本又郎は、「経済現象における人間の持つ戦略的重要性の再認識」という視点から企業者活動の研究に再度スポットを当てている。 渋沢に関しては「会社設立のプロモーターとして活躍したこと、これが最も特筆される渋沢の企業者活動であった」と述べ、その役割は設立にのみ発揮されたわけではなく、「事実上のトップマネジメントの職責を担うこのような管理職社員を選任し、それを監督すること」、そして、大株主から圧力を受ける管理職社員を庇護し調整して会社運営の責任を果たす役割も求められたことを指摘している。

渋沢をして血気(アニマル・スピリット)を持つ革新的企業者の代表格と位置づけており、設立後の会社運営の側面を渋沢の役割として初めて高く評価した。
と、その背景をコメントしています(太字は私が付しています)。

「アニマル・スピリット」という言葉が登場しました。なかなか熱いワードですね。このことを物語る恰好の事例があります。ここで、多くの渋沢関連本で取り上げられる「岩崎弥太郎との関り」についてスポットを当ててみます。

岩崎弥太郎との関係は渋沢栄一を語る上での定番エピソードです。

私は、弥太郎の何でも自分が独りだけでやるという主義に反対であったものだから、自然と万事に意見が合わなかったのであるが、明治六年に私が官途をやめてから、弥太郎は私とも交際しておきたいとの事で、松浦といふ人が紹介し、わざわざ当時私の居住しておった兜町の宅へ訪ねて来られたのである。在官中には交際した事も無かったが、それ以来交際するようになったのだ。 しかし、根本において、弥太郎と私とは意見が全く違い、私は合本組織を主張し、弥太郎は独占主義を主張し、その間に非常な間隔があったので、ついにそれが原因になり、明治十二、三年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至ったのである。 これは、明治十三年に至り、私や益田孝等が主唱し、伏木の藤井熊三、新潟の鍵富三作、桑名の諸戸清六などを糾合し(志や目的などを同じくする人々を広く集めること)、海軍大佐遠藤秀行を社長とする東京風帆船会社を設立し、三菱の反対を張って見せ、次で明治十五年に至り、当時の農商務大輔品川弥二郎さんが三菱の海運界における専横を押さへんとして目論んだ共同運輸会社の設立に参劃し、三菱会社に挑戦したからである。 それでも私は個人として別に弥太郎を憎く思っていたのでも何でも無いのだが、善い事につけ悪い事につけ、始終私の友達であった、益田孝、大倉喜八郎、渋沢喜作などが共に猛烈な岩崎反対家で、岩崎は何でも利益を自分一人で壟断しようとするからけしからん、と意気まいて騒ぎ立て、いたく弥太郎を憎がっていたものだから、私をその仲間の棟梁ででもあるかの如くに思い違い、弥太郎は非常に私を憎んでいたものである。 その結果は私と弥太郎とは明治十三年以来、全く離ればなれになって終り、遂に仲直りもせず、弥太郎は十八年に五十二歳を一期として死んで終ったのである。(『実験論語処世談』)

太字については、説明が必要ですね。
日本で本格的な海運会社が生まれるきっかけは、渋沢栄一がまだ大蔵省在職のとき、強力な海運会社をつくらなければ、租税の徴収も円滑にいかない、と考えたためです。当時の租税はまだ米納であり、それを運ぶ民間の船は江戸時代からの和船のため、沈没の危険と表裏でした。そこで三井に依頼し、半官半民の海運会社をつくっています。その会社は郵便蒸気船会社に名前が変わり、明治初期の海運を一手に担っていました。

「渋沢栄一 v.s 岩崎弥太郎」の本質は「三井 v.s 三菱」であった…

二人の確執はその後も続いた。隅田川船中大論争から二年後の明治13年(1880)、栄一は旧知の三井家大番頭、益田孝らとはかって、東京風帆船会社を興した。栄一は表面に出ず、陰でこの会社の設立に協力した。 岩崎による海上輸送独占と、度重なる運賃値上げで最も手痛い打撃を受けたのは、三井だった。三井が半官半民の郵便蒸気船にかわる純民間の海運会社を設立したのは、独占主義の三菱にこのまま、思うがままにされたのでは、事業そのものが立ちゆかなくなるという危機感をつのらせたためだった。三井の大番頭といわれた益田孝は自叙伝で述べている。 ≪……台湾征討後、三菱は非常な勢いになってとうとう海運を壟断した。一石五円の米を運送するのに二円だの三円だのという運賃を出さねば運送しないという。場合によっては、今さしつかえておるから運送ができぬというて、ことわるようなこともあった。これでは商売はできぬ≫ (中略) 政府はあまりの過当競争をみかねてついに仲裁に入り、明治十八年(1885)九月、政府勧告による両者の合併によって、栄一と岩崎の血みどろの死闘は、ようやく幕をおろした。明治三年一月の回漕会社発足から数えれば、実に十五年あまり長きにわたる闘いだった。 両者の合併に遡る半年前の明治十八年二月、岩崎弥太郎は波瀾にみちた五十年の生涯を閉じた。

小説風の展開ですが、『渋沢家三代/佐野眞一(文春新書1998年11月20日)』からの引用です。
冒頭の『実験論語処世談』は、渋沢栄一が75歳のときから『実業の世界』に連載された談話筆記ですから、岩崎弥太郎が亡くなってから30年が経過しています。渋沢栄一にとって、遠い過去のことですから、その語り口も、バランスのとれたものになっています。

会社を強固な「民間の中のパブリック」の場に変えていく渋沢栄一

私は前回のコラムで、「合本主義」にからめて、渋沢栄一の世界観を次のように特徴づけました。

『論語と算盤』を思想的な基盤として「合本(がっぽん)主義」を語り、階級に関係のない平等を唱え、物事は熟議を尽くして意思決定する。経営は公益を理想とし、そのことを追求することで真の目的が達成できる。これが「渋沢栄一の世界観」です。

そのなかで、 “熟議” というワードが最も渋沢栄一らしさを物語っていると思います。
この“熟議”のプロセスを経ることで、調和が形成され共同体感覚が育まれていく…と私は確信しています。

最後に『グローバル資本主義の中の渋沢栄一』から、そのことが伝わってくる箇所を引用しておきましょう。

戦前の日本の会社の株主総会は、戦後のそれと違い、六時間以上に及ぶロングランの総会も珍しくなかった。渋沢は、時には病気や体調不良の社長に代わって議長役を買って出て、さまざまな利害が錯綜する株主間の利害調整に当たった。それに際し、渋沢は辛抱強くそれぞれの主張に耳を傾け、一方的に議論を誘導することはしなかった。利害の対立する者たちから妥協点を探る動きを辛抱強く待った。 このようなプロセスの中で異なる利害者間に一定の共通利害が見出されると、会社は長期的な利害を共有した存在となった。すなわち、会社という存在が強固な「民間の中のパブリック」な場となった。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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