交流分析を2回続けたところで、ロジャーズに戻って解説してみようと思います。ロジャーズの晩年です。政治的人間になっていくその姿を描いてまいります。取り上げるのは、1977年に発表された「援助専門職の政治学」です…『ロジャーズ選集(下)/25章』。
ロジャーズは72歳になって、思ってもみなかった「気づき」を得ます。
3年前のことだが、私は初めて、サイコセラピーに対するクライエント・センタード・セラピーの政治学(politics)について質問を受けた。私がクライエント・センタード・セラピーには政治学がないと答えたら、その答えにゲラゲラと大声で笑われてしまった。
そこで、なぜそういう質問をしたのかと尋ねてみたら、彼は次のように答えた。「私は臨床心理学のエキスパートになろうとして、3年間大学院で勉強しました。私は、正確な診断をくだすことを学んだのです。私は、クライエントの態度と行動を変化させる種々の技法を学びました。また、解釈と指導(interpretation and guidance)という名のもとに、巧妙に操作(manipulation)する方法も学びました。
その後、先生の著作を読み始めたのですが、それは私が学んできたすべてのことをひっくり返すものでした。先生は、権力(power)は自分のほうの心のなかにではなく、相手の有機体のなかにあるのだと、おっしゃっていました。先生は、私のなかに3年間築きあげてきた権力と支配(power and control)の関係を完全に逆転させました。そうして今は、クライエント・センタード・セラピーにはなんの政治学もない、とおっしゃられる!」
これが始まりであった……遅すぎたのだろうか……。それが対人関係の政治学についての、私の学習のはじまりであったのである。考えたり、読書を重ねたりするほどに、権力と支配に関する現代の関心の深さを感得し、サイコセラピーとか、集中的グループ経験とか、家族とか、友人のなかでの私の関係のあり方について、ますます新しい側面を経験するようになった。
すると、私の経験は無学な男が初めて文学の講義を聞いたときの、昔からある寓話に似ていることに気づいた。つまり、その男が後で友人に語って、「ねえ、自分はそれまで散文を話しつづけてきたのに、そのことをちっとも知らなかったんだ」というものである。同じ調子で、私は今「自分の専門家としての生活を通じて政治学を実践し、教えてきたが、今までそのことをまったく認識していなかった」ということができる。
「対人関係の政治学」と「社会的勢力」
ロジャーズは、「これが始まりであった……遅すぎたのだろうか……。それが対人関係の政治学についての、私の学習のはじまりであったのである」、と語るように、自分は「政治学(politics)」とは無縁であり(興味がない…というニュアンスも感じます)、政治学者ではなく一人の心理学者として研究を続けてきた、と思い込んでいたのです。
ただ、日本語で「政治学」と言った場合、「社内政治」といった、身近な環境でのありさまも連想されますが、国会、霞が関、自治体、といったイメージが、まず浮かぶのではないでしょうか。そこで、上記の大学院生、そしてロジャーズが語るニュアンスに近づくために、前回のコラムでも触れた「社会的勢力」と置き換えてみてください。社会的勢力とは、「他者に対して社会的影響をもたらす潜在的な力」のことです。英語表記は「social power」となりますので、フィットすると思います。
自分の研究は、実は「社会的勢力」に関するテーマを包含していた。つまり、「社会的勢力」という視点からのアプローチも必要だったのだ、ということです。
そして、大学院生に「ゲラゲラと大声で笑われた」ということは…「ロジャーズ先生の存在そのものが大きな社会的勢力となっているのですよ!」と訴えているのだと理解しました。
私は1月25日のコラムで次のようにコメントしています。
……ロジャーズは、一人の心理学者というより、社会全体に大きな影響を与える啓もう思想家としてのイメージが形成されていきます。本人の思いは別として、「権威性」を帯びてくるのですね。……
ロジャーズが感じている「自分」と他者が見る「ロジャーズ像」は違っていた…?
ロジャーズは「権威性」をとても嫌っています。したがって、それを否定します。「自分はそのような人物ではなく、クライエント・センタード・セラピー(来談者中心療法)によって、人は心をひらくことができ、促進的な人間に変容していく…そのことを伝えたいだけだ」、というスタンスです。これは1970年時点の発言です。
そして4年後に、大学院生から指摘されることで、「その提唱者である自分は政治学のなかにあったのだ」ということを自覚するのです。おそらく「防衛機制」を働かせていたことに気づいたのでしょう。
ところで、大きな社会的勢力を有している人間はどのように振る舞うのでしょうか? 昨年5月7日のコラムで、心理学者キプニスの実験に触れています。
「……さて何が起こったかというと、弱い権限しか有していない勢力者は、部下役を粘り強く説得し生産性を上げるよう努力します。一方で強い権限を持つ勢力者(一応実験上の設定ですが)は、説得といった働きかけをしないで、賞罰や配置転換で部下役を動かそうとします。つまり地位(強い権限)を利用して大きな影響を与えるべく試みるという結果になりました。加えて、課題を達成するにあたって好ましい結果につながったのは、部下役の能力というより自分の勢力の発揮の仕方(管理統制スタイル)が優れているからだ、と解釈したということです。」
ロジャーズも、そのようになっていったのか…?
ここで、『ロジャーズ選集(下)/第7部(23章~25章)』の冒頭にあたって、選者がコメントした内容を抜粋してみましょう。
1970年代半ば、ロジャーズはクライエント・センタード・セラピーの政治学について質問を投げかけられた。パーソン・センタード・アプローチ(PCA)が、そもそも政治的であるという示唆は、ロジャーズを驚かせた。
そのことは、彼のサイコセラピーへのアプローチと、その関係がセラピーの場合であれ、生徒対教師か、子ども対親か、グループ対指導者か、配偶者同士か、その他のどの人間関係であっても、その関係のもち方の根底に横たわっている意味をより深く探究させることになった。
このことにより、行動科学における他の諸アプローチの政治的含意と対比させてみることになり、そして関係の深部に内在する原理の再確認と再公式化へと向かうことになったのである。……それは、権力がどこに属するか、誰が支配するのか、誰が意思決定をするのか、誰が評価するのかなど、パーソン・センタード・アプローチにおける基本的に重要性をもつ諸問題だったのである。
ロジャーズはこの問題についての考えは、『人間の潜在力』 (Carl Rogers on Personal Power/1977年)のなかに完璧に表現されているのだが、ここにはその第1章が抜萃される(第25章)。
「クライエント・センタード・セラピー」から「パーソン・センタード・アプローチ」へ
その第1章のスタートがコラム冒頭の引用です。
選者のコメントのなかで、「パーソン・センタード・アプローチ」という言葉が使われています。ロジャーズに関するコラムを13回続けてきましたが、今回が初めての登場です。私は、ロジャーズの人生とは「変化」である、と語ってきました。
その変化の姿(態様)は、ロジャーズに固有な表現が用いられることで象徴化されています。この「パーソン・センタード・アプローチ」は、これまでの「クライエント・センタード・セラピー」に替わって、ロジャーズの思想、活動を示すキーワードとして用いられるようになっていたのです。
選者は、著作の『人間の潜在力』を「……完璧に表現されている……」と評しています。『ロジャーズ選集(下)/25章』は、その1章の抜粋ですが、私自身もロジャーズの思索の深さ、そして思想の拡大を、如実に感じるところです。
さて、「権力をもつと人は変わってしまう」と一般的に言われることを踏まえて、私は「ロジャーズもそのようになっていったのか…?」と投げかけてみました。それに対する回答は、次回以降のコラムに譲りたいと思います。
その前に、『ロジャーズ選集(下)』の最後である第9部(29章~33章)での選者のコメントを抜粋しておきます(その最後の最後です)。
1987年のロジャーズの葬儀のなかで、リチャード・ファーソン(Richard Farson)は、ロジャーズがロシアを訪問し私的にソビエト高官と交流したことは、国際関係においてソビエト連邦がすすんで自らをひらき、信頼を寄せるようになるための重要な役割を果たしたと述べている。
この示唆にどれほどの真実があるかを確かめるすべはない。というのは、ロジャーズがソ連高官を訪問し、彼らと対談したことは、この時期における数多くの市民平和活動のひとつにすぎないからである。しかしながら、ファーソンの示唆には少なくとも象徴的な意味での真実がある。
いかなる米ソ関係の改善が見られたとしても……政府間の協議によるものであろうと、文化や技術の交流、あるいは市民外交によるものであろうと……それは相互に意思疎通を図ろうとする機運の高まりのゆえに、起こるべくして起こったものだからである。これは何といってもロジャーズのライフワークの真髄であった。それは、より良いコミュニケーションという理想へのひとつの理論的信念というだけでなく、個人の内部におけるレベルにおいても、その理論の応用を具体化する現実的で効果的な方法を求めるたゆまない探求であった。
85歳でその生涯を閉じる少し前にノーベル平和賞の候補にあがったカール・ロジャーズは、自らの生活および仕事を通じて、行動科学、とくに「パーソン・センタード・アプローチ」の原理と技法を、現代の重要な社会問題の対処に用いる可能性に対する私たちの見方に多大な影響を与えたという点で、重要な役割を演じたのである。
坂本 樹志 (日向 薫)
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