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心理学とコーチング ~アドラー その2~

前回のコラムはアドラーの言葉を紹介しました。今回はアドラー心理学の理論を解説してまいります。
構成は、最初に「どうしてアドラーはフロイトと袂を分かったのか」に触れます。その後で、アドラーの特徴的な理論についていくつかひも解いてみましょう。

フロイトとアドラーの根本的考え方の違いとは?

アドラーとフロイトの関係は、フロイトが1899年に出版した『夢判断』がきっかけです。
この初版は全く売れませんでした。当時としてはタブーとされていた性欲について正面からとりあげたことが原因だと言われています。性欲は意識(自我)からは抑圧されているが、エス(無意識)においては、本能として願望の発露を求めている。夢とは、それがメタファー(隠喩)としてイメージ化したものだ、つまり願望の充足を夢によって補っている、としたのです。

フロイトは夢の解釈において性欲を重視したので、この点であまりフロイトを理解していない人は、フロイトその人を“性的な人間”と看做してしまう場合が多いようですが、実際のフロイトは極めて抑制的(禁欲的)であり、ユングと比較して、女性関係はいわゆる“まじめな人”だったようです。

フロイトが失意に沈んでいる中、アドラーは『夢判断』への多くの中傷や批判に対して、フロイトを擁護する主張を発表しました。フロイトはそれを喜び、アドラーを自宅で開催している「水曜夜の会」に招待します。1902年11月のことでした。この「水曜夜の会」は、有名な「精神分析サークル」に発展していくのですが、その初代会長にアドラーが就任します。

ところが、フロイトとアドラーの関係は1911年に、決定的な問題(考え方の相違)が解消されず、終焉を迎えます。

アドラーが発表した「男性的抗議」、そして「抑圧の本質と起源」とは?

「男性的抗議」という表現は分かりにくい訳語なのですが、当時「男らしさが過剰に評価されている」ことに対する態度のあり方のことです。この過大評価を肯定する男性は「よりパワフルでありたい」と願い、そのように振舞います。

ところが神経症を患っている男性の中には、女性的な性徴が顕著で受身性が強く、これに劣等感を抱き、それを見せまいとして、過度に男性的であろうとする「男性的抗議」が行われている場合がある、とアドラーは主張しました。

他方、「男らしさの社会的過剰評価」を受容している女性の場合は、男性に伍そうとし、あるいは過度に同調し、そのことが精神のバランスを歪ませ、疾患に至るというのです。アドラーの中には男女同型という概念が存在し、「女性の権利と性の平等」「女性の堕胎権利」といった論文や講演を積極的に展開しています。

男性女性の双方にそれぞれ異性的な要素が共存している、というのは以前のコラムで紹介した、ユングの「アニマ」「アニムス」と共通するとらえ方ですね。

この「男性的抗議」の考え方をアドラーは1911年に発表したのですが、フロイトはこれを真っ向から否定します。フロイトはあくまでも性差、男女差を前提とします。

そして「抑圧」の捉え方の本質的な違いが顕在化します。フロイトによると、無意識(エス)は快楽原則に基づいており、欲求の解放を求める衝動が強いので抑制すべきである、とします。ヒステリーなどの神経症は、その抑制が、超自我の作用が強すぎるために“適度を超えて”しまった状態、これが抑圧であり、したがって、抑圧は個人が社会に適応しようとして発生する、という理論です。

一方アドラーは、精神をそもそも、エス・自我・超自我という層として捉えておらず、無意識は抑制しなければならない、とは考えていません。抑圧は、フロイトとは逆に社会に適応できていない状態だといいます。したがって、抑圧が神経症の原因であることを否定します。

この対極の考え方は「精神分析サークル」で賛否を問われ、結果、多数決でアドラーが敗れ、サークルを去るのです。独立したアドラーは、個人心理学を提唱します。「個人はパーツの集まりではなく全体的である」というのがアドラーの思想であり、「個人(individual)」はラテン語の「全体的なもの(individuum)」に由来することで、命名しています。

アドラーの理論を紹介します。

全体論

個人心理学のネーミングを体現する理論です。アドラーは、意識・無意識を分けていないと説明しました。特に考えることなく行動したことが、その後になってよい結果をもたらした、ということがあると思います。アドラーは、人の内部には行動を促す動因があり、楽しい状態、ネガティブな考えにとらわれてしまった状態、相反する考えが頭の中を行ったり来たりしている状態など、それぞれの状態すべてが自分であり“分割できない”といいます(“分割することに意味がない”と言い換えてもよいでしょう)。そして人は、その全体性に基づき、“自然に形成される目的(無自覚と表現してもよいかもしれません)に向かって動いている”というのです。“この動き”は具体的なアクションだけではなく、精神内部の動きも含めての捉え方です。

目的論

アドラーは、最初に発見した精神の傾向として、“その動きがある目的に向けられていることである”と言っています。この目的とは、社会への適応です。最も共通する目的は「所属すること」であり、「敵対する可能性のある社会の中で孤立し、無力であることの感情」と定義される“根本的不安”の解消を目指します。登校拒否は「それによって親に甘えられる」という目的のための行動かもしれません。離婚が原因とされる「うつ状態」は、実は、周りの人たちから同情され、手を差し伸べてもらい、別れた夫がいかに理不尽であったかを認識してもらうことが目的であるのかもしれません。つまり目的論は、原因ではなく、問題行動の目的は何であるのかを探るのです。

さて、目的についてネガティブな事例を挙げていますが、目的の本質についてアドラーは、「子供は、自分のために選んだ目的に向かって発達するよう努力している」と言います。その目的は多くは無自覚であるため、結果として誤った方向に進んでしまうことを指摘するのです。そして大切なことは、「誤った目的は変えることができる」ということです。

人間関係論

アドラーは言い切ります。「人が抱えるすべての悩みは人間関係である」と。したがって、精神的に満たされている状態は、好ましい人間関係が形成されているからであり、好ましい人間関係の中に居場所を見出すことができているから、ということになります。

人間関係について、心理学では『ヤマアラシジレンマ』で説明することがあります。これはショーペンハウアーの寓話で、二匹のヤマアラシが寒いので暖をとろうとしてお互いに近づきます。近づきすぎるとトゲが刺さるので痛い。そこで離れます。すると寒い。これを繰り返すことで、適度な距離感を見出す、という内容です。

アドラーは、好ましい人間関係をつくるために、自分を知ることを説きます。それは誤った理解の場合が往々にして存在します。内向的な性格を否定している人、つまり短所として受けとめている人に対して、「優しく繊細な感情を持っておりそれは長所であり、好ましい人間関係づくりにあたってプラスに働きますよ」と勇気づけるのです。そして同時に他者を知る努力について強調します。アドラーは他者を理解することは容易ではない、だからこそ自分の思い込みを排し、謙虚な態度で接することが大切である、と言うのです。

自己決定論

「自分の性格は受け身であり、親の言うままに生きてきた」という人がいると思います。アドラーに言わせれば、それは真実ではなく、責任転嫁となります。決定という日本語は、そこに“意志”が存在しているように感じるので“選択”と置き換えてもよいかもしれません。

私たちは日々選択しているのです。それは欲求に基づくものだけではなく、危険が迫り、それを回避すべくとっさに判断して行動することも選択と言えます。つまり受身と思っていても、ある範囲のもとで選択の自由を有しているのです(アドラーは、選択の自由を無限の選択とは言っていません)。

したがって、自分の行動(決定≒選択)には責任があり、他者を責めることを否定します。アドラー心理学は、「自身の問題は他者のせいである」と思い込んでいる人に対して、その考えを改めることに注力します。つまり再教育を重視しているのです。

個別記述性

アドラー心理学の理論の捉え方については、さまざまなアプローチが存在します。例えば、「アドラーの理論は5つに体系化されています」という表現は馴染みにくい、ということです。この「個別記述性」というのは、理論というより、アドラーの人間観といえるでしょう。アドラーはこう言います。「もちろん私たちはみな、一般的な法則を使わないわけにはいかない。というのも、それによって私たちは概括できるからである。しかし、それによって得られる特定のケースについての知識や治療法はわずかなのである。(『現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)」

理論(この場合は法則)の本質は、「バラバラに見える現象に対して共通する部分を見出しカテゴリー化してパターンに落とし込むこと」、と説明できるでしょう。アドラーは、現象、対象を把握するためには、それは必要であるが、頼りすぎるのはよくない、と言います。「人とはそもそもが個性的存在なのだから」、ということですね。今日ダイバーシティの視点が広がっていますが、そのコアにアドラーの思想を感じることができます。

前回のコラムの冒頭で、“今日のコーチングが成立する過程において、アドラーの思想、そして提唱した理論の影響は大きなものがあります。”とコメントしました。今回のコラムで、そのことにつき理解につながったとしたら本望です。
次回のコラムでも引き続きアドラーを取り上げてまいります。

坂本 樹志 (日向 薫)

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