無料相談・資料請求はこちら

心理学とコーチング ~アドラー その1~

心理学における3巨人のうち、フロイト、ユングについてコラムを進めてきました。今回からはアドラーを紹介してまいります。
今日のコーチングが成立する過程において、アドラーの思想、そして提唱した理論の影響は大きなものがあります。というのも、フロイトやユングが精神医学を立脚点にしたのに対し、アドラーの出発点は社会医学であり、アドラーの興味は当初から教育や家庭といった人との関わり、すなわち人間関係にありました。そして生涯を貫いた思想は「共同体感覚」です

さて、アドラーの紹介をどこから始めたらよいのか… アドラーの生涯について、アドラーの理論について、アドラー理論が臨床でどのように活用されているのか、など切り口はさまざまです。少々悩んだ末、まずは「アドラーの言葉」からスタートすることに決めました。

アドラーの言葉は至言に満ちています。

アドラーの著作(日本語訳)は数多く出版されていますが、『人間の本性 人間とはいったい何か(長谷川早苗訳)/興陽館(2020年2月15日)』を取り上げることにします。この本の最後にアドラーは「謝辞(ロンドン、1926年)」を添えています。

<謝辞 本書の成り立ち>
「この本では、個人心理学の揺るぎない基本はどのようなものか、人間を知ることに対して個人心理学がどれほど有用か、また、他者とつきあい、自分の人生を作っていく上でどれほど重要かを、できるだけ多くの読者に示そうとしています。本書はウィーンの国民集会所で何百人もの聴衆を前に行った1年間の講座がまとめられています。(後略)」

この本を読むと、アドラーが聴衆に向かって熱く語っている姿が彷彿とされます。さっそく紹介してみましょう。

わたしたちはみんなあまり人間のことをわかっていないのです。これはわたしたちの孤立した生活に関係しています。現代ほど人が孤立して生きている時代はないでしょう。

他者との関係は人間を知る能力を伸ばすのに絶対に必要なものです。人間を知ることとほかの人とつながることは、互いに関係しています。理解が足りないせいで長らく他者と離れていると、ふたたび関係を築くことができなくなるからです。理解不足で起こるもっとも深刻な結果は、周囲の人とつきあい、ともに生きていくことにたいてい失敗してしまうという事態です。

人が共生するためには、お互いを理解することが絶対に欠かせません。人に対する私たちの態度は、すべて相手への理解に左右されるのです。

アドラーが重視するのは他者との関係性。

この3つのフレーズは、全体200ページの最初の3ページの中で登場しています。アドラーがいかに他者との関係を重視しているか、そのためには他者を知ること、理解することが好ましい人間関係を作っていく上でいかに大切か、を説いています。

本当に人間を知ろうと望む人は、自分の体験や他者の精神の苦しみに対する共感から、なにかしら人間の価値に気づいた人だけです。この状況からは、わたしたちが仕事をする際になんらかの戦略を立てる必要性も生じてきます。相手の精神から得た認識を無遠慮に突きつけるほど嫌味で批判的に見られる行為はないからです。嫌われたくない人には、この点に気をつけるように忠告します。

人間を知るにはつつしみ深さが要求されるのです。

わたしたちは、立ち止まり、自分をよく見て、人間の本性を学ぶ過程で得た認識で他者を妨げないよう、ここで提言したいと思います。

ここは少し分かりにくい表現となっています。「つつしみ深さ」の大切さを説いていることは理解できますが、「得た認識」をどう解釈すればよいのか疑問が生じます。「得た認識」について否定的にとらえているようにも感じます。これについては、この後につづく言葉で像が結ばれるでしょう。

経験というのはさまざまな意味に解釈されることを考慮しなければいけません。2人の人間が同じ経験から同じ教訓を引き出すことはほぼないのはわかるでしょう。ですから、人は経験から賢くなるとは限りません。特定の困難を避けることを覚え、困難に対して特定の態度をとるようになるでしょう。

人が経験から非常にさまざまな結論を引き出す様子は、日常的に観察されます。たとえぱ、なんらかの誤りをくりかえす人がいます。誤りを認めさせることができたとしても、その後の結果はさまざまです。本人自らもう誤りから脱しようと考えることもあります。ただしこの結論はまれです。あるいは、もうずっとこうしてきたから、いまさら変えられないと答える人もいます。別の人は自分の誤りを親のせいだと言ったり、漠然と教育のせいにしたりします。そして、自分にかまってくれる人がいなかったとか、甘やかされたとか、ひどく厳しく扱われたとか言って、誤った認識にとどまるのです。けれど、この態度からわかるのは、ただ隠れていたいという思いだけです。こうしていれば、いつも用心深くうわべを正当化して、自己批判から逃れられるのです。自分は責任を負わず、達成できなかったことはいつでもすべて他人のせいにします。このような人は、誤りを克服する努力を自分ではほとんどしていないことに気づいていません。むしろ、ある種の情熱をもって誤りに固執しながら、自分が望むときだけひどい教育のせいにしているのです。

アドラーは決して「優しい人」ではありません。

アドラーの言葉は、さまざまの本で数多く紹介されていますが、私は、このフレーズこそがアドラーらしさを物語っていると感じています。
アドラーは決して「優しい人」ではなく、臨床心理学、カウンセリングのスタンスとしては、もっとも「厳しい人」と言えるかもしれません。
「自分が不遇であることを他者のせいにしてしまう」ことは、自覚無自覚は別として、多くの人に共通して現れる心理状況です。そのことをアドラーは全否定するのですね。ここを起点としてアドラーの理論は展開し、だからこそ多くの人が共感するともいえるのです。

「悔い改める罪人」は現代でも、あらゆる宗教の発展の時代でも最高の価値を認められ、あまたの心の正しい人よりも優れているとされるようです。その理由を考えて出てくる答えは、人生の困難から立ち上がって泥沼からはいだした人、困難をすべて乗り越えて立ち上がる力を見つけた人は、人生のよい面もわるい面も一番よく知っているに違いないということです。人間を知る学問で「悔い改める罪人」に並ぶ人はいません。とくに、よい面しか知らない人はかないません。

人間の精神について知ると、自ずとやるべきことが見えてきます。要するに、人間の型、パターンが人生に適していないと判明するときにはそれを打ち壊し、人生の道を迷わせる視点を取り除くのです。そして他の人と生きて幸せになる可能性により適した視点をすすめ、哲学で言うところの思考の節約、いえ、不遜にならないためにやはり型という言葉を使いますが、他の人と生きる共同体感覚が中心となる型をすすめることです。

「悔い改める罪人」に最高の価値を置いていることについては、親鸞の「悪人正機説」を連想しますね。
親鸞の根本思想は「絶対他力」ですが(親鸞自身はこの表現を用いていないようです)、「善い行いをしよう」、「善い行いをしたい」、「善い行いをしたことで心が満たされる」ことを全否定するのです。ここはものすごく深い思索が求められます。連想して親鸞を語りたくなりましたが、ここではガマンしておきます。
アドラーは「人間の型」という表現を用いています。これもアドラー心理学における重要な概念であり、その「型」を見出すために「ライフスタイル分析」というアプローチを確立します。これについては、今後のコラムで取り上げたいと思います。

長所や短所というのは相対的な考えです。なんらかの能力や身体器官が長所なのか短所なのかは、人によってまったく異なるからです。長所も短所も、個人がどのような状況にあるかで決まってきます。

だいたいからして劣った部分とは、個人の人生においても、あらゆる民族の人生においても、つねに短所であるというまったくの負担のように見るべきものではありません。劣った部分が短所になるかは状況によって決まってくるのです。

短所は短所とは限らない。

以前のコラムでアドラーが最初に出版した『器官劣等性の研究(1907年)』に触れました。内容は「特定の臓器が欠損するなどするとそれを補おうとする機能が働く」というものです。生物学をベースとしており、精神分析的なものではないのですが、フロイトは、これを高く評価しています。ちなみにアドラーがフロイトから離反するのは1911年で、そして自分自身で「個人心理学(individual psychology)」を創設しました。

アドラーが短所と長所を別のものと捉えなかったのは、劣等器官であっても代償とう行為で、その劣等性を補おうとする。すなわち、劣等性は状況によっては、劣等ではなくなるという生物学的な現象(事実)を得て、精神的にもそれが機能するという確信をもつに至ったのです。
アドラーは。そのことを発展させ、「劣等コンプレックス」という概念を提示しています。劣等性を意識しているからこそ、それを補おうと、また克服しようと努力することで、優れた能力を獲得することがある、という考え方です。これは実に腑に落ちるところですね。「劣等コンプレックス」についても今後のコラムで取り上げます。

精神の動きで最初にわかるのは、目標に向かって進む動きがあるということです。ですから、人間の精神を静止した1つの全体のように思うのは誤りなのです。それぞれに動く力が、一貫した同じ理由から生まれ、一貫した目標を目指すのだと考える以外にありません。「適応する」という概念にはすでに目標の追及の要素が含まれています。目標のない精神生活は考えられません。精神生活のなかにある動きや活力が向かう先には目標があります。つまり、人間の精神生活は目標によって決まるのです。考えるにしても、感じるにしても、望むにしても、そして夢を見るにしても、ぼんやりと浮かぶ目標によって決められ、条件がつけられ、制限され、方向が定められるのです。これは個人の要求や外界の要求、また要求に対して返す必要のある答えと関連して、ほぼ自然に行われます。人間の身体や精神の現象は、この基本的見解と符合しています。精神はこうした枠にはまって展開し、力の作用から自然と生まれてただよう目標へ向かうとしか考えられません。その目標は変わることも、固定していることもあります。ですから、精神の現象はすべて、これから起こることに対する準備のようにとらえることができます。精神器官にはまず目標があるとしか思えません。個人心理学では、精神の現象はすべて、目標に向けられているととらえます

人は自然に生まれる目標に向かって進んでいく。

今回のコラムの終着は、この言葉の紹介することにしました。
アドラーが打ち立てた個人心理学の根本思想が、このフレーズに込められていると感じたからです。
アドラーの特徴は「未来志向」です。自分がよくない状況に陥っている原因を過去に求め、そこにこだわることは無意味だと言うのです(アドラーは明快に“責任転嫁”としています)。上記で「ぼんやりと浮かぶ目標」と表現しています。これは、売上“目標”●●億円といった場合に使う“目標”とは異なります。上記で、「ほぼ自然に行われます」「力の作用から自然と生まれてただよう目標へ向かうとしか考えられません」とアドラーは言うのです。
「未来に向かって自然に形成されている目標があるのだ」、このことをアドラーは確信しているのです。

次回もアドラーを取り上げます。いくつかの理論について説明してまいりましょう。

坂本 樹志 (日向 薫)

現在受付中の説明会・セミナー情報