私は心理学の知見をベースにして、そこからインスパイアしたノンフィクションや小説を読むのが好きなのですが、実に多くの作家が明瞭に、あるいは通奏低音のごとく抑えた響きで、ストーリーを展開しているのを感じることができます。
村上春樹はユングの世界を、村上龍はフロイト派を中心とした精神分析をモチーフにした小説を世に送り出しています。これについては、別の機会で取り上げようと思います。
『聖なるズー(濱野ちひろ)』というノンフィクションについて
最近読んだ本では、開高健ノンフィクション賞受賞の動物との性愛をテーマとした『聖なるズー(濱野ちひろ)』に新鮮な驚きを感じました。これは文化人類学のカテゴリーですが、心理学をテーマとした内容としても読み進められます。著者は本の中で、19歳からパートナーに性暴力を含む身体的・精神的暴力を振るわれたことを告白しています。そして長期間「どうしてその環境から自分は逃れることができなかったのか」を自問自答します。関連するところを抜粋してみましょう。
『…私自身もカトリックだ。といっても、自らの意思でそうなったのではなく、親の意向によって、幼児洗礼を授けられた。父親の仕事の関係で、幼少期はドイツのお隣の国であるベルギーで過ごし、現地のカトリック系の小学校に数年通った。帰国後は、中学も高校もカトリック系の女子校に進学した。敬虔な信者であることを自負したことはないが、環境による作用で、思春期を通してキリスト教的教育は私の思考回路に影響を与えていた。』
フロイトが提起した「自我」と「超自我」の葛藤が描かれています。
自我(エゴ)に強い影響を与えたキリスト教という超自我の存在があったことを自己分析しています。
『…私を殴っていた男は宗教をよく知りもしなかったが、「カトリックのくせに貞操観念がないのか」といった言葉で、処女でなかった私をなじることがよくあった。反論できなかったのは当時の私の幼さゆえだが、その幼さはカトリック的な性の価値観に縛られた悲しい幼さでもあった。その必要はなかったのに、私は男の視点に立ってしまい、キリスト教的な「正しいセックス」から落ちこぼれている自分を認めてしまっていたのだった。』
ここのくだりは、読者として悲しみを感じ辛くなりますが、ページを繰っていくうちに、濱野さんがそのトラウマから解き放たれていく過程が伝わってきます。
文化人類学には、自分たちが“是”としている(あたりまえだと思い込んでいる)“所属文化”を、他の文化(基本は人の文化ですが)と比較し研究することによって、「所属文化の視点だけで他文化をとらえることが果たして正しいことなのか?」、「文化を価値観という軸で評価することは果たして許されるのか?」、「ダイバーシティという概念を科学的なアプローチで提示してみよう」、といった目的意識が存在します。
濱野さんは、それを人と動物の関係性にまで広げて研究対象としました。実にチャレンジャブルですね。
私が感じた心理学的視点とは…
濱野さんは、たまたま選定した「動物性愛者(ズーと呼ばれる人…動物虐待という目線だけでは捉えきれない動物との性愛を肯定する人)」の研究がきっかけとなって、自分自身が抱えている“トラウマの本質”は何なのか、自問自答を始めます。そして“トラウマとの対決”…自ら施した自分自身への精神分析(濱野さんは自覚的に書いていませんが)…のプロセスを通じて自己治癒に向かっていくのです。
私はこの本を新聞の書評(複数の新聞が取り上げていました)で知ったのですが、さすがに研究対象への違和感から、手に取るのをためらっています。ところがページを繰るにしたがって…「濱野さんが伝えたいテーマは別のところにあったのだな」と気づくのです。
私はこの作品を「文化人類学のフィールドを活用した心理学的省察」と名付けることに決めました。
『SOSの猿(伊坂幸太郎)』という実験的小説について
続いてのテーマは家族心理学です。家族心理学で扱う対象は、家庭内暴力、不登校、ひきこもり、育児放棄など、かなり深刻な問題現象です。マスコミ側からすればキャッチーなテーマであり、こぞって取り上げます。そして、多くの視聴者が「きっとその通りだ、その通りに違いない」と直線的に受けとめやすい一義的な(浅い?)コメントが語られ番組は進行していきます。
ここでもう一つ小説を紹介しましょう。『SOSの猿(伊坂幸太郎)』です。伊坂作品は、その多くがベストセラーとなる日本におけるエンターティメント界の巨人ですが、この作品は伊坂ファンを戸惑わせるワールドに満ち溢れています。
『…数日前起きた事件だ。十代の少年が自宅で母親を金槌で殺害し、隣家の少女に同じく金槌で重症を負わせたのだという。…(中略)…野蛮な事件が起きると、マスコミは躍起になって原因を探そうとする。凶悪事件が起きれば、その犯人の生い立ち、人間関係、趣味、事件前の奇行を洗い出す。常軌を逸したしつこさで調査をする。動機やきっかけをいくら追及したところで、事件はすでに起きてしまったのだから、取り返しがつかないことには変わりない。が、調べずにはいられない。「犯罪者の心の闇」という言葉も滑稽だ。「闇」とはあくまでも隠喩なのだろうが、それにしても、「闇を探る」という言葉には、暗い鍾乳洞に潜っていくような好奇心があるだけにも感じられる。…』
伊坂さんの小説は、巻末に参考・引用文献を記すのが常ですが、この『SOSの猿』はひときわ文献が多く、22ほどに及んでいます。そのうちユングに関するものが6つ、他の心理学、精神分析関連が6つと、まさに心理学を背景とした実験的小説とも解釈できそうです。
家族全体の機能不全を背景として特定の問題行動が象徴的に表れる。
さて本題の心理学です。家族心理学では、家庭内のある一人の問題行動の原因を「母親の育て方」とか「父親が子育てに関与しなかったから」など、特定しないのが通常です。家族メンバーの問題行動は家族システム全体の機能不全が象徴的なかたちで表れている、ととらえます。したがって問題行動を起こしている家族メンバーをIP(Identified Patient → 患者と“みなされる人”)と仮称し、決めつけるのを避けます。
家族システムという表現も理由があります。システムとは「個々のサブシステムが相互に作用しあいながらひとつのまとまった存在として機能する」と定義づけられ、この考えを家族に当てはめてアプローチしていきます。家族サブシステムには夫婦、兄弟姉妹、親子などが該当しますが、それだけではなく祖父母や親せきといった拡大家族、加えて学校、企業、そして地域社会なども当然家族のあり方に影響を及ぼします。今日に至っては、デジタルネイティブがメジャー世代となりつつありますので、関係性は世界に広がっています。絶界の孤島で1家族だけで暮らしているのであれば別ですが、家族は本来オープンなシステムなのです。
にもかかわらず、日本の家族文化には「クローズド」を強いる価値観が色濃く残されています。「家族内秘密主義文化」と名付けてもよいかもしれません。この呪縛が問題解決を遠ざける要因となっている面もありそうです。
家族心理学の重要概念をもう一つ解説します。それは「フィードバック」です。フィードバックとは「結果に含まれる情報を原因に反映させ調整を図る」ことですが、家族の機能不全にこの視点を適用すると「IPに対してよかれと思って一生懸命働きかけているその行為自体が、問題現象の原因になっている可能性がある」と推測することになります。過干渉や甘やかし、共依存などの存在です。
その他にも、当事者間の問題にも関わらず他の家族メンバーを巻き込む「三角関係化」。夫婦と親子の勢力関係である「垂直的忠誠心・水平的忠誠心」の強弱。家族メンバー間の「境界」の程度。メンバー間の「提携(他のメンバーに対抗して結束する“同盟”と関係のゆるい“連合”)」のあり方、など。さまざまな視点によって、問題の原因を探っていきます。
本当の自己開示は家族だからこそ可能になるのでは…
「家族」は極めて濃厚な関係性です。裸のぶつかり合いが常態ともいえます。コーチングにおける「自己開示」の重要性を何度もお伝えしていますが、まずは最も信頼を置かなければいけない(○○しなければならない、という表現はあまり使いたくないのですが)配偶者、あるいはパートナー、そして子供に対して“真剣に”「自己開示」してみる! これに挑戦することで視界が大きく開けていくのかもしれませんね。
坂本 樹志 (日向 薫)
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