無料相談・資料請求はこちら

リーダーシップ理論の変遷(スピンアウト)~『ドライブ・マイ・カー』でリーダーシップを考えてみる!~

心理学を学びコーチングの資格を持つA課長と、部長職を経験し定年を経て再雇用としてA課長のチームに配属されたSさんとのバーチャル1on1ミーティングも、かなりの回数となっています。
その1on1も「リーダーシップ理論の変遷」を大枠のテーマに掲げて以降、今回で10回目を迎えました。

前回は『1兆ドルコーチ』という、GAFAのエグゼクティブ層を育てたにもかかわらず、生涯黒子に徹したビル・キャンベルをA課長が紹介するうちに、二人の認識は、グリーンリーフが提唱した「奉仕者こそがチームをそして企業を導き、未来を輝かせることができる現代のリーダーである」という、サーバントリーダーシップに、思い至ります。

今回の題材は『ドライブ・マイ・カー』です。映画論がいつの間にか、コーチングそしてリーダー論へと転じていきます。映画をこよなく愛す「Sさん流映画解説」が爆ぜる1on1のスタートです。

1on1はケミストリー…!?

<Sさん>
Aさんと「リーダーシップ理論の変遷」をテーマに1on1を重ねてきましたが、今回で10回となりますね。リーダーシップ理論として私が唯一勉強した「PM理論」から始まりましたが、Aさんのおかげで、実にたくさんのリーダーシップ論が存在することを知りました。「学びこそ悦びだ!」と思わず口にしたこともありました。

<A課長>
1on1はケミストリーだなぁ、と実感しています。ネイティブコーチのSさんに、これほどまで触発されるとは…まったく想像していませんでした。Sさんの自己開示に刺激され、私の防衛機制も溶けてきました(笑)
妻のことを熱く語ってしまうとは…何だか不思議な感覚です。

<Sさん>
Aさんは課長であり私の上司です。私は部長職を長く経験して、そして定年を迎えました。会社はフラット組織を志向した時期もありましたが、結局はライン・アンド・スタッフ組織をベースに、時限組織としてのプロジェクトチームやタスクフォースを併用して、企業、組織課題に対応しています。
私はAさんがコーチングの資格を持っていると聞いて、何が違うのだろう、とずっと考えながら1on1に臨んできたのですね。そして…

<A課長>
……

防衛機制が徐々に溶けていったことを2人は語ります…

<Sさん>
そうですね、5回目くらいまで私は…公式の立場は平社員ですが、若いAさんに対して、どこか上司と見ていないところが残っており、それを上手に隠すことでスムーズな1on1を展開していけばいい…と思っていたのですね。

<A課長>
どのタイミングの1on1でしたか…私はSさんに対して遠慮していたというか、自分らしさを上手く出せない1on1をやっているなぁ~ と、1on1が終わる都度、考え込んでしまいました。
コーチングの3原則を思い出すたびに、その理想型を何とか1on1でやっていきたい、と振り返ることが続いていました。そのことを正直に話したと思います。

<Sさん>
そうなんですね。私もその頃から自分の態度というか、Aさんに対する見方、捉え方が変わっていきました。そしてコーチングの深みをどんどん覗いてしまうことになります(笑)
そのタイミングで、『ドライブ・マイ・カー』を観たんですね。

<A課長>
とても深みのある映画のようですね。ヨーロッパの映画賞を総なめして、ゴールデングローブ賞の非英語映画賞、そしてアカデミー賞候補となっている…

Sさんが時間を置いて語る『ドライブ・マイ・カー』とは…

<Sさん>
実は、鑑賞後すぐに1on1でも話してみようと思ったのですが…ちょっと時間を置くことにしました。そろそろ落ち着いた気持ちで話せそうなので、今日の1on1で語ってみようと思います…よろしいでしょうか?

<A課長>
結構ですよ。ただ私はまだ観ていないので、ネタバレにならない…ギリギリのところでお願いします(笑)

<Sさん>
了解です。
実に大人の映画です。いきなりHのシーンですから… この程度はネタバレじゃないですよね(笑)

前々回の1on1で私は「ひとりの人間を…ここまではコーチング、この先はカウンセリング、というように分けることが可能でしょうか?」と疑問を呈したと思います。
それは、この映画を観たからなのですね。

主人公の家福は、元俳優の舞台演出家です。洗練された大人です。
映画では冒頭の40分あたりで、最愛の妻である音がクモ膜下で亡くなるシーンとなります。
その日の朝、家福が家を出る直前に、音が「今晩帰ったら少し話せる?」と、さりげなく尋ねます。

「何でそんなことわざわざ訊くの?」と家福は応えるのですが、音が何を自分に告げるのかを予感します。それを聞きたくないという意識もあって、帰宅時間が深夜になってしまうのですね。リビングで倒れていた音の呼吸は止まっていました。もう少し早く帰っていれば妻を救えたのではないか…というシーンとして描かれます。

家福と音には娘がいたのですが4歳の時肺炎で死んでいます。音は深い喪失を抱えるのです。音の浮気はそれをきっかけに始まったようなのですが、そのことを家福は知っていて知らぬふりをするのです。
そして、自分が浮気をしているのに、家福が何事も無いようにふるまっていることを…それに音が気づいていたのか? については…映画では答えを出していません。匂わせていますが…

<A課長>
なかなか凝った状況を設定していますね…

広島出身のSさんは『ドライブ・マイ・カー』とシンクロします!

<Sさん>
場面は変わって2年後に跳びます。ここから舞台は広島となります。
広島国際演劇祭で上演するチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の演出家として家福が選ばれ、俳優のオーデションから、演劇祭当日の舞台までの時間の流れが、丁寧に描かれるのですね。

「劇中劇が盛り込まれている」が、この映画のキャッチフレーズです。濱口竜介監督が、実際にどのように映画を創っていくのか…一応演劇であり、戯作ですが、映画も同様なので「濱口監督流映画のつくり方」として、プロフェッショナルな世界を覗き見する興奮を覚えます。

<A課長>
広島…ですか? そういえばSさんは広島出身でしたよね?

<Sさん>
驚きました。最後のシーンで、ドライバーのみさきの故郷である北海道と、最後の最後に韓国のスーパーマーケットのシーンが登場するものの、延々と広島市内、そして風光明媚な瀬戸内海の映像が続きます。私は映画を観ながら、どの場所かほぼ特定できました。

映画で家福がワーニャ役として選んだ岡田将生さんが演じる高槻の宿泊するホテルは、グランドプリンスホテル広島です。父親の3回忌で家族と共に泊まる予定で予約していたのが宇品にある同じホテルなのです。うじな、と読みます。
オミクロンで、今回皆で集まるのはやめておこう、ということでキャンセルしましたが…
すみません、余計なことまで話してしまって…

庵野監督と濱口監督の“プロフェッショナル性”はどこが違う?

<A課長>
いえいえ、生まれ故郷というのは特別だと思います。Sさんと映画のシンクロ度が伝わってきます。
ところで「プロフェッショナルな世界」、とSさんは言いましたが、私は「シンゴジラ」や「シンエヴァンゲリオン」の庵野監督のファンで、その「作家性」が凄い、と感じています。つまり庵野監督独自の世界観が妥協なくつくり込まれている、ということなのですが、濱口監督に「作家性」という言葉は相応しいのでしょうか…?

<Sさん>
う~ん… ちょっと違うと思います。私の言うプロフェッショナルというのは、世界中の人々の心の奥底にす~っと染み込んでいくメッセージを、どう商業映画という媒体でつくり上げていくか…そのことをメタ認知で要素分解して、再構成して創り上げた作品が『ドライブ・マイ・カー』であると感じています。

<A課長>
Sさんの映画論だ…

HIROSHIMAは世界のすべての人が瞬時に共有できるメッセージ!

<Sさん>
私はAさんのように理論書はあまり手にしませんが、映画はよく観ますので…(笑)
まずHIROSHIMAです。映画では、原爆、戦争についてはまったく描かれません。あえて言えば「国際平和演劇祭」ですが、その匂いは一切消されています。

HIROSHIMAの9文字は、説明をまったく必要としない強いメッセージ性があります。
つまり濱口監督は、日本発の映画として、世界のすべての人が“瞬間に”イメージできるブランドとしてのHIROSHIMAをチョイスしたのだと思います。つまり、日本のマーケットではない「世界化」を視野に入れています。
そして、原作が世界の村上春樹、というのも何かを感じます(笑)

2つ目は、ダイバーシティ&インクルージョンです。
『ワーニャ伯父さん』はロシアの戯曲であり、俳優陣は、韓国、台湾、フィリピン、インドネシア、ドイツ、マレーシアから参集しています。言語は、韓国語、中国語、英語、日本語、そして手話です。

私はハリウッド映画で違和感を覚えるのは、英語圏以外の国を舞台として設定されていても、登場人物の話す言語が英語になっていることなのですね。ドイツ人のはずなのに全員が英語をしゃべっている… こういう映画は興ざめしてしまい、気持ちが入っていきません。

米国が誇る世界最強のソフトパワーであるハリウッドは、どうもそのあたりは鈍感というか、割り切っちゃっているのかもしれませんね(笑)

濱口流の『ワーニャ伯父さん』は、多言語がまるで共通言語のように展開していきます。
俳優たちは母国語しか話せないのに、最期の本番の舞台では、深い井戸の底がつながっているかのようにコミュニケーションが交わされるのです。

劇のクライマックスで、椅子にうなだれ座っている年老いたワーニャ伯父さんを若いソーニャが後ろからやさしく抱きしめ、手話で言葉を伝えるシーンは目に霞がかかってしまいました。

濱口監督は異言語を共通言語に変えてしまうマジシャン…?

濱口監督は「言葉とは何なのか?」を極めようとしている人だと思います。
役者は劇作家や脚本家が書いた台詞やト書を、徹底的に受身として言葉にし、演じます。つまり自分が自覚している本来の性格ではない別の人格、つまりウソを平気でついていることが全肯定される世界ですよね。治外法権というか…

何かのインタビューで濱口監督が、「演技は役者がそれを言ったりやったりすることの内発的理由がないにもかかわらず、信じるに値する演技を目にすることがある」と語っていました。稀に、と断った上で、ですが…

「ある人が、まったく違う人格として振る舞い、言葉を発するのを見て、信じてしまうという心境になってしまうメカニズムとは一体なんだろう…」と疑問を口にします。
『ドライブ・マイ・カー』をやりたいと思ったのは、「演じることを取り扱っているから」とその理由を挙げています。

<A課長>
エリック・バーンの「交流分析」を思い出しました。人がもつパーソナリティを5つの特性にタイプ分けし、一人の人間がそれを出したり引っ込めたりして生活している、ということですが、特殊な環境に置かれたときに、その人自身がコントロールしていると自覚する人格とは異なる、まるで別人として統合されたような人格が表れてくる…といったイメージでしょうか…?

<Sさん>
ありがとうございます。理論的に説明していただきました。

オーデションに受かった各国の俳優たちが、台本を与えられ、それぞれの言葉を、感情をまったく込めないで機械のように話すように家福から指示され、とまどうところから劇づくりがスタートします。

意味が分からない外国語を音の流れとして聞くと、韓国語は抑揚がほとんどない言語だと理解できます。日本語は音として認識するのではなく、意味が入って来るので、韓国語のように音としては聞けませんよね。
日本語を話せない人は、日本語と韓国語は同じトーンで流れているように感じる、といいますが、私たちは日本語を素直に聞けていないのかもしれません。

<A課長>
音声言語学的な解釈です(笑)

<Sさん>
ついでに言うと、私は中国語が多少理解できるので、台湾人の役者が、家福に改めるよう指示されて平板に話そうとするのですが、声が小さくなるだけで、抑揚は消えていないなぁ、と感じることができて面白かったですね。

というのも、中国語は四声という4つの節というか音楽的な抑揚と文字の音が合体して、はじめて意味が形成されるので、平板にしゃべってしまうと、中国人も外国語のように理解できない言葉として聞こえてしまうのですね。

母国語のことを案外私たちはわかっていないのかもしれない…

<A課長>
そうなのですか…中国語も奥が深そうですね。

<Sさん>
ついでに脱線すると、私が中国で仕事をしていて、その通訳を副総経理のWさんがやってくれていたのですが、私の日本語を忠実に中国語にしてくれているなぁ、と分かってきました。

中国の商談相手にも枕詞的に、「申し訳ありませんが…」とか「恐れ入りますが…」と、私は口にしてしまいます。それをWさんは「真不好意思…」と始めます。つまり「大変申し訳ありませんが…」という意味です。「ジェン・ブー・ハオ・イースー」と発音します。

何かの時にそのことを話すと、Wさんは笑いながら、「中国人は、その言葉はめったに口にしないのですが、Sさんは日本人なのであえて忠実に伝えています。その方が、言葉も含めて礼儀正しい印象を先方に与えることができますから」と、答えます。
私は「そこまで考えてくれていたのか…」と頭が下がりました(笑)

<A課長>
以前の1on1で、中国で大規模デモに巻き込まれたり、サイゼリヤがどうして中国でバズったのか、について臨場感たっぷりに話してくれましたが、今度「中国駐在奮闘記」として1on1のテーマにするというのはいかがでしょうか?

<Sさん>
よろしいですか…? おそらく気持ちがどんどん入っていくと思うので暴走するかもしれせんよ。

<A課長>
そこは信頼しています(笑)

<Sさん>
恐縮です(笑)
脱線ばかりしていられないので、私が『ドライブ・マイ・カー』で一番お伝えしたいことをお話しします。

それは、スウェーデンの車である真っ赤なサーブの中での会話です。ドライバーのみさきは、フロイト的なトラウマを抱えています。家福についてはトラウマではなく、アドラー的ショックを引きずっています。二人に共通するのは罪障感であり自罰感です。みさきは虐待されていた母に対して、家福はクモ膜下で死んだ妻の音に対して、です。

みさきの無表情で言葉が少ない態度の意味が、徐々に家福へ自己開示する語りによって我々に伝わってきます。家福もみさきに音のことを話しはじめます。

そして、この映画を芳醇な作品に仕上げているのは、もう一人の主役である音の浮気相手であった若い高槻の存在ですね。

サーブの中の会話に1度だけ、長い台詞を語る人物として加わります。高槻は、「他人の心の中を覗き込むことは難しい。本当に他人を知りたいのなら自分自身を深くまっすぐにみつめるしかないんです」と涙をためて家福に告げます。

2人になったサーブの中で、その高槻のことをみさきは「ウソを言っているようには聞こえませんでした」、と口にします。ウソばかりつく人の中で育った私にはわかる…とポツリつぶやくのです。

2人の会話、そして3人の会話が、まさにカウンセリングとコーチングが融合したようなシーンとして描かれます。映画だからこそ生まれたシーンかもしれませんが…

<A課長>
実際のコーチング講座では、受講者3人が、コーチ役、クライエント役、フィードバックするオブザーブ役となり、それを交代しながらセッション実習を重ねます。
映画はかなりシリアスなシーンとして描かれているようですが、私はそのことをイメージしました。

<Sさん>
私はAさんからコーチングの手ほどきを受けている実感があるので、映画を観ても、ついついコーチングをイメージしてしまいます。「見たいことだけを見て、聞きたいことだけを聞いている」のかもしれませんが…(笑)

ただ私がコーチングだと自信を持って言えるのは、車の中での3人は徹底的に対等なのですね。社会的には明瞭な上下関係があります。ですが車の中での3人は、社会がつくる人工的な関係性を脱ぎ捨て、裸の人格としての役が与えられています。

映画は、コーチング的表現としてのゴール…3人それぞれの生きる意味としての「気づき」に向かって進んでいきます。
高槻については、少し「悪と不道徳」をまぶしたキャラクターが設定されているので、「気づき」を得てのゴールは、まさに意外な展開であり、トリックスターとして映画を盛り上げてくれます。

<A課長>
最近の映画解説では、「伏線の回収」という表現が多用されますが、『ドライブ・マイ・カー』には、アニメの非現実的な伏線ではなく、リアルな伏線がちりばめられ、それがエンディングに近づくに従い、徐々に回収されていく印象ですね。
いや~観たくなります。

<Sさん>
映画は総合芸術です!「映画っていいなぁ~」と言葉にしてしまいます。

濱口監督は世界が認める新しいリーダー像…!?

<A課長>
「リーダーシップ理論の変遷」として1on1を進めてきましたが、Sさんが解説する“世界の濱口監督”に、私は新しいリーダー像をイメージします。
国際的な映画賞を意識した商業映画には、膨大な人材と資金が投入されていると思います。濱口監督は、昭和的で灰皿を飛ばしまくる蜷川幸雄監督ではなく、プロの俳優を始めとする多くのスタッフを自然にその気にさせていくリーダーなのではないでしょうか。

舞台演出家の家福の造形はご自身を投影していると感じます。Sさんの言う「濱口監督流映画のつくり方」からは、具体的で細かい演技指導は感じられません。それでも役者のもつポテンシャルを最高度に引き出していることが伝わってきます。

アカデミー賞4部門ノミネート、特に作品賞は史上初とのことですから、最高の結果をももたらすリーダーとしてのお墨付きも獲得しています。

ハリウッド映画ではない、そして米国流のコーチングとは違った、多極化する世界にあってもそれを柔らかく包摂してしまう日本発のリーダー像を私は濱口監督に見出しました。

アカデミー賞の結果を鶴首して待つことにします!

坂本 樹志 (日向 薫)

現在受付中の説明会・セミナー情報