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『満州事変(緒方貞子)』、『地ひらく(福田和也)』とコーチングに関する一考察

小山 : その当時からリーダーシップがありましたか?
澤田 : もちろん。でも、あまり強い口調ではおっしゃらない。柔らかくおっしゃる。物事をはっきりおっしゃるのですが、かと言って強く言わない。理想的な方でいらっしゃいますね。
小山 : 将来、国連難民高等弁務官のお仕事をされる素地はあったのですね?
澤田 :おありになったと思います。何しろ人の意見をよくお聞きになりますから。国連みたいなところで物事をおまとめになるのは、なかなか大変でございますよね。私なんてとてもできませんよ。

前回のコラムでも紹介した『緒方貞子 戦争が終わらないこの世界で(小山靖史/NHK出版・2014年2月)』の中で、大学時代の緒方さんは、どのような学生だったのか… 著者の小山さんが友人の澤田正子さんに尋ねたシーンです。

今回も、緒方貞子さんについてA課長とSさんの熱き語り合いの1on1ミーティングがスタートします。

(A課長)
緒方貞子さんのご両親、祖父、そして曾祖父が誰であるかを知ってしまうと… それだけでもう何というか、かしこまってしまいますね。

(Sさん)
昭和史に関する多くの本を読んできたことを前回お話ししました。私はその嗜好性がさらに高まっている興奮を憶えています(笑)
もともと読書は好きで、山手線の2~3駅でも、何か必ず本を開いてしまうというクセというか、常に本を携帯していないと情緒不安定になる(笑)のですが、このところ緒方さんに関わる本を持ち歩いています。

(A課長)
私は心理学やコーチング関連の本が中心で、まあ深掘りしているのですが、Sさんはとにかく幅広いですよね。

(Sさん)
雑食傾向があるようです。この歳になっても好奇心だけは衰えていないのが救いです。
緒方さんの曾祖父が、五・一五事件で海軍青年将校の凶弾に倒れた犬養毅総理であることは、もちろん知っていました。なので、緒方さんがご自身の学術研究である『満州事変 政策の形成過程(緒方貞子/岩波現代文庫・2011年8月)』の中で、この事件をどう捉えているのか、前のめりになって読んでみました。
ところが…

(A課長)
ところが…?

(Sさん)
私の読書の姿勢をいみじくも気づかされることになります。この本はジャーナリスティックではないのですね。評論でもありません。文学者とはスタンスを異にする、社会科学者の矜持というか、徹底的に客観的であろう、という緒方さんの姿勢が行間も含めひしひしと伝わってくるのです。

緒方貞子さんの『満州事変』はメタ認知の書!

以前、Aさんからコーチングにはメタ認知が求められること、つまり対象に対して高い次元でその実体を把握できている状態ですが、『満州事変』の視点こそ、まさにそれだな、とAさんの言葉を思い出しています。
私は、“歴史もの”を読むと喚起される“情動”を、どこか期待していたようです。

(A課長)
なるほど…

(Sさん)
だから…と言いますか、知的興奮を覚えます。モヤモヤ感がクリアになるというか、尾崎行雄と並ぶ憲政の神様といわれた犬養毅がどうして暗殺されるに至ったのか、さまざまな巡りあわせによって、まさにそのタイミングに居合わせてしまった、ということが腑に落ちました。政党政治はこれによって命脈が絶たれます。

現在の視点でとらえるならば、犬養総理はリベラルです。大陸中国と台湾の双方で、国父として尊敬を集める孫文の支援者でもありました。

犬養首相の前は、ライオン宰相と呼ばれた浜口雄幸首相です。さらにその前任は、張作霖爆殺事件の対応で天皇に叱責を受け、その3か月後に心臓発作で急死した田中義一首相でした。この経緯は、Wikipediaに次のように書かれています。

狭心症の既往があった田中に、張作霖爆殺事件で天皇の不興を買ったことはやはり堪えた。退任後の田中は、あまり人前に出ることもなく塞ぎがちだったという。内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年(昭和4年)9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。

そして翌29日午前6時、田中は急性の狭心症により死去した。65歳没。田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは完全に途絶えることになった。

昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても口を挟まないことを決意した。

(A課長)
何だかドラマチックですね…

(Sさん)
昭和4年のことですから、昭和天皇による治世のほんの始まりの時期です。戦前の天皇は絶対的君主ですが、一方で帝国憲法の立憲君主制という体制は、天皇を独裁者にしないよう制度的な縛りをつくっています。つまり、その枠内で天皇が動いている限り、直接的な責任が天皇に及ぶことのない配慮が盛り込まれています。

もっとも、天皇自身が「独裁者になりたい」と思えば、いくらでもそれが可能でした。現に、以後軍によるクーデター事件が未遂も含めて頻発するのは、「天皇は取り巻きに壟断されている」という青年将校たちの思い込み、もちろんそれを利用した上の存在もあるのですが、「天皇親政」を求めるアクター側の苛烈な行動が生じていくのです。

(A課長)
そういうことなのですか… 何となく理解できたような気がします(笑)

“統帥権干犯”という言葉によって政府はフリーズする!

(Sさん)
確かにわかりにくいですよね。やっかいなのは、軍のトップは内閣総理大臣ではなく、「統帥権」という次元を異にする権限をもつ天皇であり、「統帥権干犯」という言葉を軍が巧妙に操作することで、戦争の流れが形成されていくわけです。
シビリアン・コントロールという大前提が帝国憲法には存在していません。

(A課長)
Sさんによって昭和初期の状況が再現されたようです。

(Sさん)
いえ… 一応の流れは理解できていたつもりなのですが、緒方さんの『満州事変』を読むことで輪郭がはっきりしました。

話を戻すと、次の浜口雄幸首相の意思決定、政策判断は大失敗でした。緊縮財政によって財政の均衡を取り戻そうとします。とにかく、曲げないのです。

「傾聴」がコーチングの大前提となりますが、「聞く耳を持たない」と周囲は受けとめました。強い意志は頑迷さと表裏です。内外環境は、浜口首相の想像力を超えていたのです。結局のところ、すべて望まない流れとなっていきます。
『満州事変』の該当箇所を引用します。

昭和5年(1930年)、ロンドン海軍軍縮小条約の締結をめぐって、軍部対政府ならびに議会の対立は遂に頂点に達した。かねてから海軍は対米7割を主張していたが、浜口内閣は国際協調の立場からこれを譲歩し、軍令部の強硬な反対を押し切って条約を成立させた。

ここにおいて軍令部は極度に憤慨し、国防用兵の責任者である軍令部の意見を無視して国際条約を取り決めたのは統帥権の干犯であるとし、さらに軍令部長加藤寛治は、条約で規定された兵力をもって完全な国防計画を確立することはできないとの理由で辞任した。

(A課長)
“統帥権干犯”を伝家の宝刀のごとく利用していますね。田中義一の死によって、統帥権の主体者である天皇が自ら声を発しない“決意”をしたとありますが、それも影響したのでしょうか…?

(Sさん)
緒方さんの記述の続きです。

財政緊縮と国際協調とを基本政策としていた浜口内閣にとって、ロンドン条約を締結したことは大きな成功であった。しかしながら軍令部の反対を強引に押切って条約を成立させたため、政府は海軍部内のみならず、陸軍部内ならびに民間側国家革新論者を甚だしく刺激する結果となった。その上、昭和5年(1930年)夏から秋にかけて農村へ波及した恐慌は、これらの革新論者を一層急進的な反政府の方向へ駆り立てた。

特に軍の場合、国家改造運動を推進していた少壮将校の多くは中産階級または中小地主層の出身であり、しかも彼らが兵営生活において接触する兵士達の多数は農民階級に属していた。政党内閣のもとで、外、満州において日本の権益が脅かされ、内、世界恐慌下において中小企業が没落し、農民階級が深刻な窮乏に陥って行き、そして軍縮が軍の存立そのものを圧迫するのを見て、彼らは断乎として国内政治を刷新するため行動しなければならないと決心した。

この流れを受けて、浜口雄幸首相は東京駅で右翼団体のメンバーに至近距離から銃撃されます。

(A課長)
その後が犬養内閣となるわけですね。

昭和6年にすべての環境要因が臨界点を迎え、そして解き放たれてしまった!

(Sさん)
犬養首相の在任期間は、昭和6年12月から翌年の五・一五事件までの156日です。
満州事変は昭和6年9月18日に勃発します。二・二六事件は5年後の昭和11年の発生ですが、その際の天皇はクーデターを首謀した彼らに断乎とした態度で臨んでいます。ただ…五・一五事件のときは、天皇の動きが見えてこないのですね。

満州事変の年である昭和6年、1931年がまぎれもなくすべてのターニングポイントであったことを痛感します。

私は、緒方さんの『満州事変』を読む前に、『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢(福田和也/文春文庫・2004年9月10日)』を書棚から引っ張り出して、再読しました。上・下合わせて900ページの大部の書ですが、描かれる年代が緒方さんの研究書と重なるので、比較したくなったのです。

(A課長)
Sさんは、過去の本をよく読み直しされますよね。私は、再読はナシなのですが、気に入った映画は2度見、3度見してしまいます。現に「シン・ウルトラマン」は2回見てしまいました。

(Sさん)
面白いですね~ 人それぞれライフスタイルは違う!(笑)
『地ひらく』は、文芸評論家の福田和也さんが膨大な資料を渉猟して、不世出の大戦略家である石原莞爾を描ききります。その射程は広く実に深い。単純なオマージュとも違う、それでいて人間味あふれる石原莞爾の魅力が躍動しています。博覧強記を体現する福田さんの最高傑作だと感じています。『地ひらく』を引用します。

満州事変は「天皇大権を石原らが私してしまった行為!」にもかかわらず…

……張軍の何十分の一という劣勢にありながら、事変がかくも迅速に、成功裡に進行したことは、日中のみならず、国際社会においても大きな驚きをもって迎えられた。
四十万という軍勢をもちながら、さしたる抵抗も見せずに敗退した中国軍にたいする、西欧列強の軽蔑は極めて強く、中華民国の国際的評価、信用は致命的なほど下落した。(中略)

石原は、決定戦争、つまり短期間に相手の主力を殲滅することで勝敗の決着を明瞭につけるタイプの戦争が成り立つ要因を、片方の、圧倒的な戦力上の優位と、戦略目標の明確さにあるとしている。

その点からすれば、満州事変において、比較にならない量的、質的劣勢におかれていた日本側が、決定戦争を挑みうる可能性はないかに見える。
にもかかわらず、石原が決定戦争を試みえたのはなぜなのか。
それは関東軍が、ただの軍事力のみならず、全社会的と言ってもいいような、総合力をもって張学良軍にあたったからである。

関東軍の奇襲は、歩兵や砲弾をもってのみなされたのではなかった。
部隊間の連携を断ち、戦況をふくむ全体の情報を遮断し、事態のいかんを知る通信方法を奪い、資金を断ち、資材の供給を不可能にしたのである。

いわば、日本側の全般的な作戦行動によって、在満30余万の張学良軍は、互いに孤立した分配戦力にされたのみならず、攻めてくる日本軍の規模もわからず、司令本部や他部隊からの指示や連絡もなく、また報道機関からの情報もないため事態を把握することが出来ない、いわば盲目のまま孤絶した状態に、突然に陥れられてしまったのである。……

(A課長)
100年近く経って、ロシアのウクライナ侵攻が起こっていますが、いろいろ考えさせられますね…

(Sさん)
歴史にIFを持ち込むのは、いかがなものか… ですが、もし石原莞爾が満州に居なかったら、そして満州事変が、こうまでスマートに展開することなく、激烈な戦闘が起こっていたら… つまり失敗を経験していれば、歴史が大きく変わったと感じています。
あまりにも成功したために、その成功体験によって判断がどんどん甘くなっていく… 成功体験の呪縛です。

石原莞爾が満州国で描いたパーパスとは?

その後の石原莞爾は、上司である東條英機との関係が抜き差しならないものになっていきます。Wikipediaを引用してみます。

昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。

石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。これには、東條は恩賜の軍刀を授かっていない(石原は授かっている)のも理由として挙げられる。

以後、石原の東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しい奴」などと罵倒し、事ある毎に東條を無能呼ばわりしていく。一方東條の側も石原と対立、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。

結局石原莞爾は、太平洋戦争開始直前の昭和16年3月に予備役に編入されるのですね。実質的な引退です。

(A課長)
実にドラマですね。東條英機という人物が最後の最後に日本のトップになってしまうというか、そのような人物しか残っていないというか、また任命されてしまうという日本全体のありさま…つまり国家ガバナンスが崩壊してしまった!
ショックです。

(Sさん)
今日の1on1は満州事変を深掘りする1on1になりました。これで終わるわけにいかないので、コーチング的な視点で、緒方さんの文章というか、福田さんとも比較しながら語ってみたいのですが、よろしいですか?

(A課長)
ぜひとも!

緒方さんはファクトを見つめている…ジャッジメントなし!

(Sさん)
私は福田さんの描き方は、それぞれの事象であるチャンクを具体的に紐解き、その一つひとつを、ときに情感あふれる福田史観で評論していく「チャンクダウン」
一方の緒方さんは、チャンクである欠片を抽象度の高い複数のアクターとして立たせながら、それらの化学反応により全体環境が大きく変化していく様相を描く「チャンクアップ」であると理解しました。

そして、緒方さんのスタンスにはジャッジメントがない、と感じています。
緒方さんの『満州事変』の序論の最後に、次のような箇所があります。

満州事変の政策決定過程を分析すると、外交政策における選択…殊に目標の選択…の可能性が、非常に限定されたものであることが明らかとなる。たとえば、日露戦争以後の日本では、満州における権益を拡大発展させることが国策となっており、議論の余地はその手段、時期、および程度に限られていた。さらに国内の権力構造の変化に伴い、外交政策に一層大きな制約が加えられるようになったことも事実である。

満州事変において、外交政策の決定権は本来の外交政策決定者の手を離れて、新たに擡頭した軍の中堅層の手中に完全に収められるに至った。合法的に政策決定の権限を与えられていた内閣総理大臣以下官僚は、軍部大臣を含めて、満州における事態の進展を決定することも統御することも出来なかった。しかも彼らとしては、そのような進展の結果生じた既成事実に対しては、これをその後の外交政策の与件として甘受することを余儀なくされたのである。

要するに、本事変中における外交政策の変化は、関東軍の要求が国策に編入されて行く過程であり、当時の内部における権力関係を如実に反映するものということが出来よう。

(A課長)
決して難解ではなく、無駄がそぎ落とされたシンプルな文体だ。国家としてのガバナンスが機能しなくなったその背景が明快に書かれている。

(Sさん)
「文は人なり」「文は体を表す」…さまざまな言い方がありますが、セレブリティそのものである緒方さんが、どのようにして緒方さんになっていったのか…非常に興味があります。

(A課長)
Sさん、次回の1on1は緒方さんの「ロールモデル」、そして、緒方さんが真の「ノブレス・オブリージュ」であることを実感する私の思いをお伝えしたいと思うのですが、いかがでしょうか?

(Sさん)
いいですね~ ぜひともお願いします!

坂本 樹志 (日向 薫)

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