ロジャーズについてのコラムを8回続けたところで、今回は河合隼雄氏と村上春樹氏のコミュニケーションを取り上げたいと思います。コーチングの基盤となったロジャーズについては、理論を中心に専門的な内容がしばらく続きました。この後も“変化”するロジャーズを解説してまいりますが、二人の会話を紹介することで、カウンセリングとは、そしてコーチングにつながっていくその興趣を感じていただければ、と思います。
題材は『村上春樹、河合隼雄に会いに行く(1996年12月刊行/岩波書店)』です。会談時期は1995年11月に実施されました。春樹氏(以後このように呼称させていただきます)が、『ねじまき鳥クロニクル』を書きあげたタイミングであり、「コミットメント(関わり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(関わりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが。」と語るように、春樹氏自身の“変化”が感じられる内容になっています。
最初に「前書き(春樹氏)」と「後書き(河合氏)」のなかから、“私が共感した箇所”を引用します。
春樹氏は河合氏のプロフェッショナル性をするどく洞察しています!
河合さんと差し向かいで話をしていて僕がいつも感心するのは、彼が決して自分の考えで相手を動かそうとしないところである。相手の思考の自発的な動きを邪魔するまいと、細心の注意を払う。むしろ相手の動きに合わせて、自分の位置を少しずつシフトさせていく。
たとえば僕がそのとき小説を書いていることがわかると、僕を(あるいは僕の作品を)誘導するような可能性を持つ発言をきっぱりとやめてしまう。そしてほとんど関係のない話をする。それでいて結果的に、自然な思考水路のいくつかの可能性を示唆して、その行く先を僕自身に見つけさせようとする。少なくとも僕はそんなふうに感じられた。
それで知らず知らずにずいぶん励まされたように思う。僕もどちらかといえば理論家というよりは実践的なタイプの人間であり作家であるので、「実践者」プロフェッショナルとしての河合さんの姿勢には納得させられるところが多々あった。とくに河合さんの思考モード・スイッチの切り替えの速さと、焦点をひとつに定めたときの意識の集中力の鋭さには、話していていつも感服させられた。
とくに前もって「こういうことを話そう」というような準備もしなかったし、テープを起こしてできあがった原稿にも、基本的にはほとんど手を加えなかった。話の自然な流れをできるだけ阻害したくなかったからだ。それ以上詳しく語りたいこと、説明を補足したいことがあれば、お互いフットノートというかたちで付け加えた。
正直言って、これくらい自然にまとまった話ができるというのは、生来口べたな僕にとっては大変珍しいことである。奇跡的と言ってもいいくらいだ。これというのも河合さんが天才的な聞き上手であったからだろう。
河合氏は春樹氏の前でそのプロフェッショナルな鎧を脱ぎ捨てている…?
私は臨床心理学などを専門にしているので、誰か未知の人とお会いするのは、興味もあって嬉しいのだが、生来の人見知り傾向は変わらず、なるべく新しい人には会いたくない、というところがある。それで、せっかく会いたいと思っていた人にお会いしても、「ハイ、ハイ」と聞き役になってしまって自分の意見をあまり言わず、編集者を困らせたりする。「謙遜だ」などと言う人もあるが、別にそうではなく、何だか自分の考えなんか消え失せてしまうような状態になる。
ところが、村上春樹さんとの場合は、これと違って、勝手に自分の考えや考えていないことまで!ベラベラと喋って、後から考えると、丸二日間喋り続けていたような状態になった。どこか「馬が合う」のだろう。
そんなわけなので、今回の企画には大喜びで賛成した。『ねじまき鳥クロニクル』も、第Ⅲ部が完成していたので、言いたいことは沢山あった。書物の題はご覧のとおりだが、私としては、「河合隼雄が村上春樹に会いに行きたい」気持であった。
河合氏、そして春樹氏という知性と感性を併せ持った二人の巨人が相まみえた会話…これほど興奮するセッションはないのではないか…と私は感じています。その二人が見事に「ひらかれている」のですね。お互いがお互いを心の底から信頼していることが伝わってきます。
春樹氏は日本の文壇世界に嫌気を覚え、海外にデタッチメントしていました。一方で、ハルキストが続々と生まれ、春樹氏そのものが巨大なブランドと化していきます。春樹論が燎原の火のごとく広がり、それは文芸評論の枠を超えて、あらゆる表現形態で膨張していきます。もちろん鋭い評論も多々誕生していますが、そうではない批評(?)も、数多く見受けられるところです。
これほどまでに社会的な存在(世界規模ですね)になってしまうと、「有名税」が生じてしまうのが世の常ですが、「春樹氏にとっての心許せる世界」を形成していくのは至難の業なのではないか…と想像してしまいます。
春樹氏の語る河合氏は、まさにコーチングにおけるコーチの態度となっている。
その春樹氏が河合氏に対しては、見事に胸襟をひらいている(ひらくことができている)のですね。でも…そこは春樹氏です。カウンセラー(会話の相手は春樹氏ですからコーチングのセッションとも捉えられます)としての河合氏が本当のプロであることを、難解ではない春樹氏自身の言葉として説明してくれています。
一方の河合氏です。ユンギアンとしての使命を帯びて、日本にユング心理学を広めるべく精力的に活動してきました。ユーモアな語り口も相まって日本中に河合ファンが誕生しています。2002年には文化庁長官にも就任しています。その存在はユング心理学者というより、日本文化の(キリスト教文化圏との対比を踏まえた)語り手です。バックボーンは心理学であり、さらにリベラルアーツですから、切り口がとても新鮮で明快です。
その河合氏もプロの鎧を脱いで春樹氏と接しています。もっとも“本当のプロ”ですから、そこは逸脱がなく、春樹氏に「のびのびとした安心感」を提供していることが、はしばしの会話から感じられます。そして面白いのは、春樹氏が「生来の口下手な僕」、河合氏が「生来な人見知り」と語っているところですね。
まずは「カウンセリング」のシビアな現場についての会話を抜粋してみます。
<河合>
ぼくらの仕事がまさにそうなのですけれども、結局、癒されるのと癒すのはもう相身互いですからね。まさに相手によります。お互いの関係が深くなればなるほど、場合によっては危険もあるんです。
<村上>
向こうの問題がこちらにうつってくる、というようなことがありますか。
<河合>
あります。
<村上>
河合先生が落ち込んだりするんだろうか……。
<河合>
よく落ち込んでいますよ。落ち込むから、一方でバカばなしをするのです。
<村上>
相手の非常にシリアスな問題点を、部分的に引き受けてしまうことになるのですか?
<河合>
部分以上に引き受けるのでしょうね。だから、体がおかしくなってくることもあるし、それからその人の症状がうつるときがあります。たとえば、しょっちゅうトイレへ行くくせのある人と向いあっていると、こっちもそうなるとか、その人のものの言い方がうつるというか、そういうことはだいぶありますよ。
自分がそうなっていって、ちょっとそれを横から見ているような自分がいないとだめなのですね。自分がまるごと受けとめて、相手と同じ状態になってしまったら治療にならないですからね。そういうスレスレのところで生きているわけです。だから、もう疲れ果てて、こっちが死ぬんじゃないかな、ということはわりにありました。
ただ、このごろは受け止め方が、今までより深い層で受け止めるようになってきましたから、非常に気の毒な人が来られたら、それだけぼくもしんどくなる、というような、わかりやすい関係とはちがってきましたけれどもね。
河合氏とロジャーズのクライエントに対する態度は一緒…?
もう一つ抜粋してみましょう。地下鉄サリン事件が1995年起こります。その翌年に実施された会談ということもあり、麻原彰晃に触れた箇所が登場します。著作での見出しは「宗教と心理療法」です。
<村上>
たとえば、麻原彰晃という人はその善悪の「基準線」という意味においてはかなり病んでいる人ではないかとぼくは思うのですが、ああいう人は治癒される可能性というのはあるんでしょうか。
<河合>
それは会う人によるでしょうね。
しかし、結局は、まあ、言ってみれば、器の勝負みたいなもので、彼よりも僕が大きい器を持っていたら彼に会えるし、彼の器が大きかったらもうだめですね。だから、本当に人間と人間の勝負です。それはもう不思議なことに、六歳の子でも、ぼくより器が大きかったらこっちは負けるわけです。
<村上>
ということは、宗教家と心理療法家、あるいは精神科医というのは非常にむずかしい勝負になるということですか。
<河合>
ものすごくむずかいしいです。ところが精神科医になると、その人たちはむしろ科学で守っているわけだから、「これは異常である」というふうにして、「なんとか薬を飲ませて……」というふうにも考えますからね、ぼくらのやり方とはちょっと違うのです。
ぼくらのようなやり方は、宗教家の方法に近いとも言えますね。ただ、ドグマを持っていないのです。「念仏を唱えたら救われますよ」というようなことは絶対に言わない。むしろその人が自分で見つけるものを尊重する。ただし、その人が見つけるものが現代社会と共存できるかどうかについては、一緒に考えていくわけですね。だから、相手から教えられる場合がすごく多いですよ、ほんとうに。
最後のコメントを太字にしています。ロジャーズの人間観は「答えはその人のなかに存在する」です。それと同じことを河合氏が語っているのです。これは河合氏がロジャーズの影響を受けている、ということではなく、カウンセリング、そしてコーチングを究めようとすると自然に生まれる態度(春樹氏は「自然な思考水路」と例えています)なのではないか、と私は解釈しています。
今回のコラムは、少し視点を変えてみました。「心理学とコーチング」というテーマは、枠にしばられることなく自由に語ることができるテーマであることを改めて認識しているところです。
坂本 樹志 (日向 薫)
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