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心理学とコーチング ~ロジャーズ その8~

世界の文化は、そのあらゆる局面でますます科学的に、ますます相対的になっていくように思われ、過去から受けつがれる堅固で絶対的な価値観は、時代錯誤であるように見える。おそらくさらに重要なことは、現代人が、あらゆる角度から互いに異なり、矛盾し合った価値からの攻撃に攻めたてられているという事実であろう。そう遠くない過去の歴史にあったように、自分たちの祖先や社会の価値体系に安住し、その価値体系の本質やその前提を一度も検討することなく、人生を完うすることはもはや不可能なのである。

1960年代になるとロジャーズは、セラピー、カウンセリングの枠にとどまらないテーマへの論及が増えていきます。
冒頭の引用は、1964年に発表された「価値に対する現代的アプローチ…成熟した人間における価値づけの過程」(『ロジャーズ選集(上)第12章』)のなかの一節であり、その兆しを感じることのできる内容です。もっともこの時点では、あくまでも「セラピーの経験を通じて」と、ことわった上で語りを進めています。

ロジャーズは疑問を交えた命題を掲げ論及する目的につなげていきます。

サイコセラピーとは、単にセラピストのなかにある知られざる、不明確な価値観が、疑いをもたないクライエントに無意識のうちに伝達される装置に過ぎないのであろうか。それともこの価値観の伝達ということが、セラピストが公然と掲げる目標なのであろうか。セラピストとは、今日の世界に似合う価値体系を掲げて、それを分かち与える現代の聖職者であるべきなのだろうか。

私はこの問題の全体について、ここでささやかなアプローチを試みたいのである。人が子どもから大人に成長していくにつれて、価値へのアプローチが変化していくことを、私は観察してきた。運がよければ、真の心理的成熟に向かって成長をつづけ、さらなる変化がおこることも観察した。

これらの観察の多くは、セラピストとしての私の経験のなかから生まれたものであり、そこには人間がより豊かな生に向かって動いていく過程を見る豊かな機会があった。こうした観察のなかで私は、ある方向性を持った数本の糸があらわれてきて、それが現代世界にもよく耐え得るような、価値づけの過程(valuing process)に関する新しい概念を提供するのを見たように思う。

大人になっていくにつれ先天的である有機体のありようが歪んでいく…

ヒューマニステックです。ロジャーズの有機体概念は「よくなる力が人には内在している」ですから、そのことをしっかりと語っています。この流れでこのまま進んでいくのか…と思うと、そうではありません。
有機体とは「先天的に備わっているもの」です。ロジャーズは、外部情報をまだ取り込めない幼児の内面から分析をはじめ、それが大人になっていくにつれ、先天的なものであるはずの「有機体としてのありよう」が、歪んでいく理由、プロセスを詳細に分析しているのです。

幼児の価値評価の源泉あるいは評価の主体は、あきらかに子ども自身のなかにあるということである。大人と違って小さな子どもは、自分が好きなもの、嫌いなものを知っており、そしてこの価値選択の源泉は、徹頭徹尾子ども自身のなかに存在している。

子どもが価値づけの過程の中心なのであり、その選択の根拠は、自分自身の感覚によって補われているのである。こちらの方向がよいという両親の考え方とか、広告代理店の説得力といったものは、この時点においては子どもに何の影響ももっていない。

成長する過程において「価値づけに変化が起こる」ことをロジャーズは分析します。
幼児は自分が愉しいことをしていた(いたずら)にもかかわらず、叱られ否定されることで、次第に「自分が良い気持ちだ」ということが、しばしば他者の目には「悪い」ことと映るのだということを学ぶようになり、その結果、「愛情を保持するために、自らの有機体の知恵を放棄し、評価の主体を自ら手放して、他者が設定した価値に即して行動するようになる」、と説明します。

有機体の知恵を放棄した大人はどのように育っていくのか…

私が担当しているクラス…教師たちの卵のグルーブ…から例を挙げてみよう。講義の初めに私は、学生たちに「将来子どもたちに伝えていきたいと思う価値を、二つか三つあげて下さい」と頼んだ。回答にはさまざまな価値があげられていたが、私はそのなかのいくつかに驚いたのである。数人の学生が「正しく話すこと」「よい英語を使うこと。Ain‘tといった俗語を使わないこと」などをあげた。他の数人は、きちんとすること(neatness)…「指図に従って行動すること」をあげた。

これらの学生にとっては、生徒に伝えるべき最も重要な価値が、文法を正確に守ることであったり、教師の指図に厳密に従うことであったりするということに、私はかなり愕然としたことを告白する。まったくとまどってしまった。

人は他者からおびただしい量の概念的価値を学びとり、それを自分のものとして採用する。たとえそれらが、自分の体験していることと大幅に食い違っていたとしても…。そのような概念はその人自身の価値づけにもとづいていないために、流動的な変化の可能性をもつことができず、むしろ固定化した、頑固なものになりやすいのである。

食い違っているから、固定化し頑固なものになりやすい…

「食い違っているから、むしろ固定化した、頑固なものになりやすい」という説明は逆説的であり、だからこそ「なるほど…」と理解できますね。

セラピーやカウンセリングは、精神的に病の状況にある人が対象です。ところがロジャーズは、この論説において「大人の価値づけに共通した特徴」という一節を設定し、大人全般がもつ価値観・態度について語りを進めていきます。つまり、対象とする範囲は大きく拡大しているのです。そして、そのような価値観にとらわれている大人社会にあって、「成熟した人間における価値づけ」について力を込めた語りが始まります。

成熟した人間のなかで発展していくと思われる価値づけの過程は、ある点で幼児のそれとよく似ているが、またある点ではまったく異なっている。この価値づけの過程は、それぞれの特定の瞬間にもとづいて、そしてまたその瞬間が促進的(enhancing)で、実現的(actualizing)なものとして経験される度合いを基礎におきながら、流動的であり柔軟なものでありつづける。

価値が頑なに保持されているのではなく、絶えず変化しつづけているのである。昨年は深い意味があると思われていた絵が、今は面白くない。以前には良いと経験されていた人とのつき合い方が、今は不適切に思われる。あのときは真実だと思われた信念が、いまはほんの少しだけ正しいか、あるいはおそらく間違いであると経験される。

自分自身の内部で進行していることに近づく過程は、幼児のそれよりもはるかに複雑である。成熟した人においては、それははるかに大きな視野と広がりをもっている。体験過程の現在の瞬間の内には、それに関する過去の学習に関する記憶痕跡のすべてが含まれているからである。

例えば「いまは3杯目も飲みたいという気持ちだけど、これまでの経験からすると、明日の朝後悔することになるだろう」とか「この人に良い感じをもっていないことを率直に表現するのは、気持ちのよいことではないが、これまでの経験からすれば、そうした方が関係をつづけていく上で、結局は良いことになるだろう」というように、過去と未来の両方が、この現在の瞬間に入っており、その価値づけの過程にも入り込んでくるのである。

ロジャーズの語りはどんどんドライブがかかってきます。「成熟した大人とは…」について、語りを進めているのですが、ロジャーズが確立したセラピーの理論である「来談者中心療法」に関するキーワードが次々と登場してきます。

つまり、セラピー、カウンセリングの対象者にとどまらない、健常な人びとにも自分の理論が適用できる、ということを訴えていることが伝わってくるのですね。もっとも、当該論及そのものは、それを明らかにすることが目的ではないので、理論的というより哲学的な記述となっています。

自分の体験過程に対してひらかれているからこそ、誤りがあっても訂正することができる。

もし選ばれた行為が、自己を促進させる(self-enhancing)ようなものでなければ、そのことを彼は感じとって、調整や訂正を行うことができるのである。彼は、最大限のフィードバック交換を活用する。かくして、船の回転羅針盤のようにして、より一層自己自身になる(becoming more of himself)という目標に向かって、たえず進路を修正していくことができるのである。

私はあえて次のように考えたい。人間が、自分が深く価値づけているのを…それがどんなものであっても…内面的に自由に選択できるときには、その人は自分の生存や成長や発展に役立ち、また他者の生存や発展に貢献するような対象や、経験や、目標を価値づける傾向をもっているのである。成長促進的な雰囲気におかれると、このように自己実現的で社会化された目標を選ぶということが、人間有機体の特徴なのではないかと私は考えている。

論及のまとめに向かって、「人間有機体」という言葉が繰り返し登場します。最後にロジャーズは踏み込んだ発言をしています。それを引用し今回のコラムを終えることとしましょう。

宗教も、科学も、哲学も、またいかなる信念体系も信頼してはいけないけれども…

私は結局、価値の普遍性の問題に戻ってきたようである。「そこにある」(out there)普遍的な価値とか、ある集団…哲学者や支配者、聖職者から押しつけられた普遍的な価値体系ではなく、人間としての普遍的な価値方向が、人間有機体の体験過程のなかからあらわれるという可能性を私たちはもっているのである。

人間が自分自身の有機体的な価値づけの過程に密接に触れているとき、個人的な価値と社会的な価値が、ともに自然なものとして、また経験されるものとしてあらわれてくる。そのことがセラピーで観察された事実から明らかなのである。ここから次のことが示唆される。

現代人はもはや自分に価値を与えてくれるものとして、宗教も、科学も、哲学も、またいかなる信念体系も信頼してはいけないけれども、もし自分自身の内部にある有機体的な価値づけの基盤に再び触れることができるようになれば、それを改めて発見するであろう。そしてそれが、私たちすべてが直面している、やっかいで、複雑な価値の問題に対する、体系的で、適応的で、そして社会的な方法になるであろう。

坂本 樹志 (日向 薫)

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