「長島明子さんへのインタビュー」をシリーズでお届けしています。
前回の最後で、長島明子さんは、二番目のお姉さまが亡くなったことを話されます。それまでは、長島さんの起伏にとんだ人生に共感しながら、楽しく対話を続けています。ところが、その言葉が長島さんの口を通して、私の耳に入ってきた時(まさに突然です)、インタビューをしていることを忘れ、絶句してしまいました。
続きを再現します。
(長島)
そう、うちの子どもが2歳くらいのとき、真ん中の姉です。その姉が、突如というか、スキルス胃がんだったんです。見つかったときにはもう余命宣告で、8月の半ば頃に病院でわかって、10月の25日に亡くなってますから、2ヵ月です。
姉が亡くなるっていう、4歳の娘を残して亡くなりましたので、うちの家族にとってはもう本当にすごいことで……。
会社も「そんなことはどうでもいい」って、そんな状況だったんです。ところが姉が亡くなって100日目。100日法要のときに、うちの商品がテレビ放送(毎日放送「ちちんぷいぷい」)されたんです。100日法要のその日にオンエアがあって。
もちろん取材はそれまでには、やってもらってたんだけど、そんなどころじゃないんですよ。姉が亡くなってまだそれほど日もたっていない。テレビの取材が来ても、別に何か、もうこなしているだけのことで… その放送が「ドカ~ン」ってなるんです。
お姉さまの100日法要のとき「ビッグバン」は起こった!
(坂本)
すごい話だ。
(長島)
それがその姉の100日法要の日ですよ。私たちはみんな喪服で、親戚中がお墓のあるところに行ってて、会社はスタッフだけが残っていて…「テレビの放映が始まりました。電話が鳴りやみません。大変です!」って連絡が入って、もうすぐ帰った!
その日から数年間、ずっと忙しい!
(坂本)
そのときのブランドは?
(長島)
前のブランドです。現在の、漢字を使った「絹羽二重 珠の肌パフ」ではなく、その前に母がずっと最初から売っていた商品で、私がお手伝いをすることで、ちょっとリニューアルしたぐらいの商品です。
(坂本)
「京都シルク」としての自社ブランドはすでに持っていた?
(長島)
はい、持っていました。
私がもうそのときには、産後1年ぐらいで「京都シルク」に入っていたんですね。子育てに専念しようと思ってたし、しばらく大学院には戻る気もなかったので、京都シルクにいましたから。ちょっとだけチラッと、リニューアルしたような商品です。
テレビで爆発したのは、商品単価900円の洗顔パフです。そのとき、世の中にはなかった商品なんです。生活の知恵で、シルクを使うという知恵はあっても… それを母と叔父が商品化したんですね。
(坂本)
世の中にないものを作る…結構苦労したでしょう?
(長島)
そうです、そうです。シルクは取り扱いも大変ですし、縫製も大変ですし、そもそも手に入れるのが大変なので。それは母と叔父の努力でね。会社も、それなりに信用もありましたし。
(坂本)
単価900円ですよね。それがどれくらい売れたんですか?
(長島)
6000万円ぐらい売れました。
お姉さまの死とビッグバンが長島さんの人生を劇的に変えていく…
(坂本)
すごい! 生産体制とかは? フル回転?
(長島)
もう大変です。1万2000件ぐらい注文が来たんですけど、体制なんてほとんどないところに、1万2000件ですから。まだeコマースでもなくて、さっき言ったように注文は入るけど、それを一旦全部紙に落として、それをオフコンに入れて…
(坂本)
オフコンですか? 懐かしい響きだ(笑)。
(長島)
そうなんです(笑)。とにかく電話はじゃんじゃん鳴る。
(坂本)
チャネルは…? ショップとかもありましたっけ?
(長島)
そのときは通販、通販だけですよ。だから、よくぞテレビ局の人も、探し出してくれたと思いますし、「他にない」っていうこともあったからだと思います。
(坂本)
その6000万円というのは、どれくらいの期間で?
(長島)
作って、作って、作り続けて…3~4カ月かかったと思います。でもね、その反響があまりにもすごくて、立て続けにテレビに出たんです。
(坂本)
その時テレビに出たのは、あっこさん?
(長島)
そうです、私が出たんです。私は子供を産んだ後に、「京都シルク」に入るんですが、チョロっとね…バイト程度です。母の雇った営業の人が居ている端っこの方でやる感じでした。私はOEMではなく、自分のブランドでやりたいって言って入っていますから、シルクの洗顔パフのパッケージを自社ブランドのものに…という事をやり始めた矢先のことなんです。
(坂本)
今バイト、アルバイト感覚っておっしゃったけど、お母さまの会社に入った時の役職とかは?
(長島)
超平社員! 社員は社員でも、平社員です。
長島さんの「京都シルク」スタートは超平社員から…
(坂本)
自社ブランドの導入。まさにマーケティング戦略ですが、あっこさんは二代目ということで…?
(長島)
いやあ、そんな気はなかったなあ~ その時はまだ。
(坂本)
でも、結果的にあっこさんはそうなるわけですよね。とにかくビッグバンが起こった。さて、その後の推移というか、大学院に戻るつもりもあったあっこさんが、どうしてそうなったのか…?
(長島)
とんでもなく忙しい。もう辞めれない。もう大変です、大変!(笑)。
ちょっと裏の話をすると、大学院のときに結婚したぐらいから、アルバイト的に仕事をしていましたが、多分社員になっていたんですよ。社員になっていることで産休もとれるし、社会保険もありますのでね、はい。社員にはなっていた私が産休を取っている間に、私の穴を埋めるための人員として、会社がS社の美容部員出身の22歳の女の子を採用しているんです。その彼女が結局、今でも私にとってのパートナーなんです。
(坂本)
縁ですね。
(長島)
はい。私は産休明けで戻りました。彼女に「こんな商品を作って、こんなふうに売っていきたい」って言いました。その商品がテレビに取り上げられました。「これをまわしていかなくちゃいけない」って、なるんです。
私とその22歳の彼女と2人で、もう何もないところから「どうやってまわしていくのか」、っていうので、バババババって、派遣の人を入れて、10名とかそれぐらいの小さな会社だったんですが、一気に30名ぐらいになるんです。
(坂本)
元々「商売人には絶対ならないぞ」と言っていたあっこさんが…(笑)。
「商売人には絶対ならないぞ!」から「バリバリの経営者」に変貌していく…
(長島)
ホントですよ。そうですよ(笑)。
(坂本)
博士課程で学び、いずれは大学教授に、とイメージしていたあっこさんが… 何というのかな、自分が関与したことでそうなっていったから逃げるわけにはいかない。環境が激変していく。
(長島)
おっしゃる通りです。本当にそうです。
(坂本)
あっこさんは責任感強いし、家業でもあるし、そして22歳のパートナーがなかなか冴えてて…
(長島)
そう、彼女も居ますし、それとやっぱり姉が亡くなったのと、その姉の100日法要の日がテレビ放映の日で、なんかもうね…「もう悲しまんといて、みんな!」。そういうふうになんか思えたんですよ。
姉が、突然スキルス胃がんだって言われたときは、本当に世の中に腹が立って、「神も仏もいないっ!」って思ったし、あの…ガラスのような心になって、街を歩く笑ってる人にも腹立つんですよ。何でうちのお姉ちゃんが…って思ってた。ご飯の味もしないようなね。そんな生活だったんだけど、たった100日でそんなギフトが天から降ってきて、「もう泣かないで!」って多分言ってるんだろうな~って。
「そういうことにしよう!」って、その日から私達は、泣いてる暇がなくなるぐらい忙しくなったんです。なんかね… そこから激変です。 生活っていうのかな、何もかもが変わった。あんなに一生懸命勉強してたことを、「京都シルクのその日」から「コーチングを学ぶ」まで、大学院で勉強してたってことを忘れてました(笑)。
承継の在り方も含め「真の経営者になっていく」パターンは人それぞれ!
(坂本)
「経営者そのもの」じゃないですか(笑)。ファミリー企業の場合、親から「あなたが私の後を継ぐのよ」と、早い段階から言われたりとか、承継の在り方って、さまざまですけど。あっこさんの場合、本が書けますね。すごい物語だ!
(長島)
そうですね。やっぱりだから…あれよりも悲しいことがもう起こらないんですよね。
(坂本)
うんうん…
(長島)
その後父も亡くなりましたし、祖父母が亡くなったりもしましたけど、あれを超えてくる悲しみはやっぱりなくて。なんか、本当に順番通りいけることの幸せとかね。
(坂本)
逆縁だけは、絶対に…
(長島)
そうです、そうです。娘を残して姉が亡くなりましたので、私達にできることって、女姉妹3人ですから、そんなことも本当に…
まだ今でも、「もし一つ願いを叶えることができるなら、何がしたいですか?」って言われたら、やっぱり亡くなった姉と喋りたいって、それはもう想うぐらい…
(坂本)
癌がわかって2カ月で…
(長島)
そうです、2カ月です。
(坂本)
癌の寛解、生存率も高まっています。でもお姉さまは、2カ月。何が起こっているかわかんないまま、逝ってしまわれた。
(長島)
そうです。
ちょっと話は飛びますけど、私が癌になったことなんて、全然大したことない。なぜならば、治療をしましょうって言われただけでも、すごい望みがあって、「あっ、頑張ったら、もう1回、うん命が…」と受け止められた。姉のときは、もうそんなこともなかったので…
(坂本)
あっこさんは、体験されてるんですものね…
(長島)
そのときの姉のことはみんな知っていますから、だからなんか会社の結束はね、そのコアなメンバーがね、もうめちゃめちゃ強くて…「頑張りましょう!」って!
私のパートナーの彼女は、S社の美容部員出身ですから「体育会系」の縦社会で鍛えられていますし(笑)。
「京都シルク」メンバーの強固な結束…「強烈な自己実現」が現出した!
(坂本)
すごいなあ~。とにかくみんなの力で乗り越えられた! そしてあっこさんは「京都シルク」にコミットメントしていく。あっこさんは自社ブランドを企画する。
(長島)
母のときに、日本の名だたる大手化粧品メーカーさんから声を掛けていただき、OEMで化粧雑貨を納入させていただいています。日本には化粧雑貨を専門につくっているところは、そんなにたくさんなくて、そういうこともあったんです。キャンペーンの際にプレゼントする販促品とかですね。
それに対して、私の900円のパフを一個ずつ売るよりは、OEMですからまとまって売上があがります。母の方が商売のスケールは大きかった。
(坂本)
そういうことか…
(長島)
そうです。ただ、私が本格的にやり始めるんだったら、「OEMに力を削ぐのはなかなかできない」って言っていたのと、うちの会社のビッグバンが同時ぐらいだったので、自社ブランドで作って売ることの醍醐味が実感できたんです。
(坂本)
ありがとうございます。
さて、ビッグバンが起こった。ただ、それはかなり昔のことだと思うので、そこから、あっこさんの対京都シルクの関わりのストーリーをお話しいただけますか?
(長島)
対京都シルクとの関り? いや、それはもうそのことがあって、会社に入って5年ぐらいで取締役になるのかな?
それから15年ぐらい取締役をやっています。「京都シルクの方はあなたがやりなさいよ」っていうことでやってきました。OEMはだんだん縮小していって。ですから、会社の切り盛りも、売る商品も、次何やるかというのも、私がすべてやるようになったんですね。
(坂本)
お母さまは、あっこさんのこと、どのように見てらっしゃったんだろう? 大学教授になりたいと思っていた娘を巻き込んじゃった…とか?
創業者の母親は「大学の先生みたいな頭では商売はできひん」と言った!
(長島)
いや全然そんなもんないです。何にもない。ただ母からは「大学の先生、大学教授みたいな頭では商売はできひん」って言われたから。だから、私が本格的に仕事を始めて、ビッグバンも落ち着きましたから、その後で、コンサルタントさんを付けられるんですよ。「勉強しなさい」って。
母から商売を習うっていうのは、親子の場合は喧嘩とかになりますし、なかなかね… なので、しっかり入ってもらって、その人に商売というか、eコマースも含めてですけど、いろんなことを教えてもらっています。「今のあの言い方、よくないですよ!」とかね。ハハハ…
(坂本)
コンサルですからね。コーチングと違って「教える」のが仕事だから(笑)。
(長島)
そうです! 何度会社のトイレで泣いたかわからない、悔しくて。「なんであなたにそんなこといわれないといけないの」って思って。その時の私は頭でっかちでしょ。
そうやって、勉強しながらやってきました。とにかく女性が多い会社なので、やっぱりチーム作りって大変なんですよ、大変なんです。気持ちよくみんなに仕事をしてもらうっていうことが、どんなに大変なことかっていう。「なんか会社の雰囲気悪いぞ」っていうようなこととかあるじゃないですか。そのあたりは、私は父の会社を見ていたので、そういう会社にしたいなと思って。商品作りとか商品戦略とか、そんなことも考えましたけど。やっぱり何よりも仲良く、仕事してて楽しいな、という雰囲気を作りたくって。朝行ったらみんなに声かける。「おはよう」って言うね。こういう「おはよう…」(感情の伴わない言い方)じゃなくて、「おはよう!」って声かける(笑)。
(坂本)
ハハハ…
経営者である長島さんは「心理的安全性」に心を砕いている
(長島)
行けるときは、自分が朝早く行って、トイレの掃除とかを私がする。「あなたがやりや」っていうことじゃなくて、「私がしとかな」って思ったりとか。そうやってチーム作りをしてきました。
その頃は「心理的安全性」という言葉は、広まっていませんでしたが、思い返すと、そのことをひたすら考えてやっていました。チーム作りには本当に力を入れてきたし、みんなとにかく「機嫌よく機嫌よく働いてもらう」、ってことに力を入れてきたと思います。
で、病気になりますよね。私が病気になると…
(坂本)
病気になられたのは、いつでしたか…?
(長島)
2020年です
(坂本)
そうか…円熟の企業経営者として「京都シルク」に全身全霊を傾けていた。そういう時ですね。
(長島)
うん、経営者としてそうです。100%です。
だから、大学院に行ってたことなんて忘れるぐらい。「研究者になりたいって思ってたっけ?」…そんな感じです。
(坂本)
経営者は従業員はじめさまざまな関係者に対する責任を背負い込んでいる。自分がその経営をやっているわけだから。
(長島)
そうです、そうです。
(坂本)
あっこさんは、「京都シルク」の経営に全力で取り組まれる傍ら、「同志社大学法学部の同窓会副会長」や「大手前高校同窓会の幹事」も精力的にコミットされている。
(長島)
京都シルクの経営から退いた今でも、困った時に助けてもらえる場だったり、有難いな~という思いでやっています。そういうところが、多分父の血を引いていると思うんですね。
(坂本)
あっこさん、この質問は後にとっておこうと思っていたのですが、ここで質問させてください。「どうしてそんなに仕事をされるのか?」ということなんですけど…
弊社からも講座をはじめ、さまざまお仕事をお願いしていますが、それだけでも大変なのに、「コーチングスカイ」を設立され、同窓会活動なども… 傍で見ていると、24時間仕事されているように見えます。ご本人はどう感じてらっしゃるのか…?
(長島)
それは商売人の家に生まれたから「働かざる者食うべからず」っていう感じで…(笑)。
父からは「学校行くのはかまへん」と。でも、ちゃんとアルバイトもしなさいって言われてましたし、だからみんなが働いているわけですよ。母もそうでしたし、それを見ながら育ったので…
働かざる者食うべからず!
(坂本)
自分として「特別感」がない?
(長島)
ないない。
(坂本)
身近な人がみんなそうだから?
(長島)
ないない。できる人が晩御飯の用意をするとか、そういう家(うち)でしたし、父は…たとえばですよ、私がお嬢様然としているみたいなことを、とても嫌いました。「ちゃんと従業員さんには、誰よりも丁寧にものを言いなさい」、「あの人のおかげでお前はその服を着ている」、とかね(笑)。
(坂本)
「商人道」じゃないですか(笑)。
(長島)
そっ、そう。本当にそうです!
父が私の手を引っ張って、皆のいないところで「今の口の利き方は何だ!」みたいな。父に対してそんなこと言っても父は怒らなかったけど、職人さんとか従業員の人に、なんかつっけんどんな態度をすると、もうめちゃめちゃ怒られました。生活そのものは豊かな環境なんですよ。ただアルバイトもするし…
(坂本)
筋が通ってる!
(長島)
(笑)… 働いたお金は全部自分で使っても、もちろんいいんです。でも「働け!」と。
3回目のインタビューはここまでとさせていただきます。「京都シルク」の実質的経営者となった長島さんは「経営とは?」について、持論を熱く語ってくれました。そのコアに、「心理的安全性」を何よりも強く願う長島さんの想いが刻まれています。お父さまの「私がお嬢様然としているみたいなことを、とても嫌いました」という言葉は素敵ですね。
お父さま、そしてお母さまからさまざまなものを受け継がれた長島さんの「自己実現」の旅は、このあともまだまだ続きます。次回もご期待のほど。
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