<王>
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」(太宰のト書的表現省略)
<メロス>
「市を暴君の手から救うのだ」(同省略)
まずは『走れメロス』のなかの、王とメロスのやりとり(会話)だけをピックアップしてみます。
<王>
「おまえがか?」(同省略)
「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ」
<メロス>
「言うな!」(同省略)
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる」
<王>
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心はあてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ」(同省略)
「わしだって、平和を望んでいるのだが」
<メロス>
「何のための平和だ。自分の地位を守る為か」(同省略)
「罪のない人を殺して、何が平和だ」
<王>
「だまれ、下賤の者」(同省略)
「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ」
<メロス>
「ああ、王は悧巧だ。己惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟でいるのに。命乞いなど決してしない。ただ、……」(同省略)
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑まで三日間の日限を与えてください。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰ってきます」
<王>
「ばかな」(同省略)
「とんでもない噓を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか」
<メロス>
「そうです。帰って来るのです」(同省略)
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい。この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の親友だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮れまで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ。そうして下さい」(同省略)
<王>
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りをきっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ」
<メロス>
「なに、何をおっしゃる」
<王>
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ」
メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりに相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で首肯き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、出発した。初夏、満点の星である。
「囚人のジレンマ」を実験室で行うと、想定とは違った結果が出た…!?
前回のコラムで、ゲーム理論の「囚人のジレンマ」を取り上げました。
別々に取り調べを受ける共犯関係の2人の容疑者に対して、トレードオフの条件(あちらを立てればこちらが立たず)が設定された場合に、人はどう意思決定すれば合理的な結果がもたらされるのか、という内容です。
セイラー教授は、
……2人とも裏切りを選択すると予測される。なぜなら2人にとって、相手がどうしようと、そうすることで自分の利益が最大化されるからだ。だが、このゲームを実験室で行うと、40~50%の人が協力を選択する。これは、プレーヤーの半分がゲームのロジックを理解していないか、協力することこそが正しいことだと感じているか、あるいはその両方だということになる。……
と解説しています。裏切りを選択するのは、従来の経済学が想定している「エコン」です。ところが、「ヒューマン」であるプレーヤーの半分は、協力を選択する、というのですね。
「囚人のジレンマ」は、1950年に数学者のアルバート・タッカーが考案しています。以来、社会科学の中心テーマ(解決されていない大問題)として、経済学をはじめとする多くの分野で取り上げられています。つまり人が「信じること」、そして「信じきれないこと」とは、どういうことであるのか、を探求する上での“舞台装置”の役割を果たしてくれているのですね。
感動の“ありか”がつかめていない気持ちを行動経済学でひも解いてみる…
今回のコラムは、太宰治の『走れメロス』を取り上げます。太宰の代表作ですが、前回のコラムを綴るなかで、大昔に読んだときの感覚がほのかに浮かんできました。それは「確かに感動なのだが、その感動に浸りきれないモヤモヤした感情」を抱き続けていたのです。本日、このコラムを書き始めたところで、その正体が像を結び、気持ちが落ち着くような気がしています(行動経済学の力を借りることで…)。ということで、トライしてみます。
冒頭は、新潮文庫の短編集『走れメロス』からの引用です。この短編集には、“モザイク状の多面体(中野信子さんの言葉…3月1日のコラム)”である太宰の心が、安定していた時期の代表作である『富嶽百景』なども収録されています。このとき太宰は、師である井伏鱒二(太宰にとってのメンターですね)のはからいで、美知子夫人と結婚しています。この美知子夫人について、『文豪ナビ 太宰治/新潮文庫』のなかにつぎのような記述があります。
……富士山から掘り出された玉のような美知子夫人は「平穏な人生」をもたらす宝物だった。自分も他人も堕ちてしまえばいいという破壊願望の強い太宰とは対照的に、太宰を引き上げて健全な暮らしをさせる賢婦人だった。「太宰と初代」は似た者同士ゆえに失敗したが、「太宰と美知子夫人」は、互いに相手に欠けているものを補いあうカップルだった。……
美知子夫人は、太宰にとってのかけがえのないコーチとしての存在だったのかもしれませんね。
さて、『走れメロス』です。作品の最後に、(古伝説とシルレルの詩から)と記述されているように、太宰が西洋の古典を題材に創作した作品です。
私は、試みとして王とメロスの会話の合間に、太宰がト書き風に、両者の感情を描いているところを省略してみました。(太宰のト書的表現省略)(同省略)です。『走れメロス』は、舞台や映画、そしてTVでも取り上げられていますが、ト書的表現は、俳優や演者によって表現される部分です。ちなみに最初の、王とメロスの(太宰のト書的表現)は以下の通りです。太字にしています。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以って問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ」とメロスは悪びれずに答えた。
暴虐の王は、感情を持たない悪の権化たる人物なのか…
心理学者のメラビアンによると、相手が何を考えているのかを把握しようとする場合に(たよりとする情報です)、「話の内容…バーバル」の情報量は1割にも満たず、声の調子、抑揚、大きさ、話す速さ、といった「話し方」や、視線の動き、笑顔か否か、顔をしかめていないか、そわそわした態度かどうか、腕組みをしているか…といった「ボディランゲージ」であるノン・バーバル情報が9割以上を占める(メラビアンの法則)、とされています。この割合は、多くの人が無自覚なのですね。
コーチングにおいてコーチは、このことを認識した上で、クライエントに接します。言葉で表現されていない本音をつかみとる“感性”もコーチには求められるのです。
太宰は、登場人物のキャラクターをより鮮明にする(読者に印象付ける)ために、ト書的説明で補っています。「顔面蒼白で眉間に深いしわが刻まれている」という表現からは、会話からだけでは把握しきれない複雑な王の心理状態が伝わってきます。
なお、(太宰のト書的表現)を省略しておりますので、引用では読みやすくするために<王>と<メロス>を付記しております。
『走れメロス』は、印象的な「メロスは激怒した」、という言葉から始まります。メロスは、妹の花嫁衣装や祝宴の御馳走を買いに、2年ぶりに十里はなれたこのシラクスの市にやってきました。2年まえに来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであったのに、市全体がやけに静かで寂しいことに気づきます。不安になったメロスは、最初に出会った若い衆に尋ねてみるのですが、首を振って答えてくれません。しばらく歩くと老爺に逢います。語勢を強くしても答えないので、メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねたところ、あたりをはばかる低声で、わずかに答えます。
「王様は人を殺します」
「なぜ殺すのだ」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心をもっては居りませぬ」
「たくさんの人を殺したのか」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、ご自身のお世嗣を。それから妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアキレス様を」
「おどろいた。国王は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を信ずることができぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少し派手な暮らしをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。今日は、六人殺されました」
聞いて、メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かしておけぬ」
メロスは単純な男であった。買い物を背負ったままで、のそのそ王城に入って行った。たちまち彼は、巡らの警史に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「信」とは何か?…を考えてみる。
この後より、冒頭の<王>と<メロス>の会話となります。なお、下線太字は私が付しています。理由は後ほど説明します。
さて、この後は、ストーリーを簡潔に紹介しつつ、私なりの“受けとめ方”で綴ってまいります。
『走れメロス』のテーマは「信」です。過酷な状況下にあって、人はどこまでその「信」を全うできるのか、に挑んだ小説ですね。
人は、自身のキャパシティを超えた“現実”に遭遇すると、思考を超えた「シンプルな則」に立ち返る、と日頃より感じています。非常に過酷な状況に至ったとき何を拠り所にするか…それは「信」なのではないか、と思うのですね。
メロスの中には明快な最優先事項がありました。一度は善から見放されそうになったものの、復活した後はその「信」を抱き、刑場まで走り続けます。「友を裏切るわけにはいかない!だから絶対その期限までに帰る!」…自身への絶対規範です。友を人質にしたのは自分の提案ですから。
前提として、「友は私を信じているということを私は信じている」…これがメロスのなかに確固として存在しているのです。それは「思い込み」かもしれません。でも、こういう状況になると「思い込むこと」、すなわち「他の考えを放棄すること」が何にもまして力を持ちます。
そして、あらゆることの決定権をもつ最高権力者である暴虐の王。自分の気持ちひとつで、何でもやれちゃう人です。王のスタンスは、「バカめ、死を前にして友情なんてもんはなぁ、うすっぺらいものよ」です。王はこの考えを「信じて」彼らを試し、いたぶります。
メロスが名作といわれるのは、一途ではない心理をしっかりと描ききっているからですね。志賀直哉の『范の犯罪』にもつながるところです。
物語のヤマは…アクシデントもあってメロスは約束を守ることを放棄するところですね。その理由も描きながら…まず不可抗力であった、という理由。自分は限界まで頑張った、という自己弁護。まさに防衛機制です。補償あり、合理化あり、投射ありです。ここが実に太宰的で小説の楽しみを実感できます。
メロスはヘトヘトになって眠る(もう自暴自棄です…時間をさらに無駄にするわけですから)。
そして目が覚めた…復活しました。精神に善がみなぎります。メロスは一心不乱に走り続けます。そして間に合う…超ギリギリに。小説の真髄をここで描きます。
メロスは友に告白、「私は君を一度裏切った」と。セリヌンティウスに思いっきり右頬を殴らせます。この後のセンヌンティウスの語りが、この小説のクライマックスですね。
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」
そして暴虐だった王の言葉をつなぎます。
「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしを仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
太宰は「シンプルな人」に強いあこがれを抱いていたのでは……?
太宰ほど心理学的にいうところの「コンプレックス」に苛まれた人は存在しないのではないか…と想像します。小説家とは、自身の内部に存在するさまざまな人格を使い分けて(意識的、無意識的に限らず)、作品に投影していきます。
太宰が悩んだ(かもしれない)のは、メロスのキャラクター設定なのではないか、と私は感じました。多くの人は、「メロスのように、セリヌンティウスのようになりたい…」と思っています。ただ、そのような人物はなかなか身近に存在しないことを、多くの人が感じているのですね。小説はリアル感が命です。メロスが嘘っぽかったら、感動にはつながりません。そこで太宰がメロスの性格を表すために、どのような表現を用いているのか…探してみました。それが、下線太字にした、「メロスは単純な男であった」なのだと私は受けとめています。
コンプレックスの意味は「複合的な感情」です(昨年6月2日のコラム/「フロイト、ユング、そしてアドラー」)。つまりメロスは、そうではない「シンプルな人」なのですね。そのようなタイプの対極にある太宰は、実はそのような人格にあこがれていたのではないか……私の想像力は広がっていきます。
https://coaching-labo.co.jp/archives/2790
大昔に読んだ際は、気づいていなかったことがあります。それは、太宰が自分に最も近い人物の造形を、王として描いたのではないか… 太宰は「信じることができる」という姿を求め続けていた人なのではないか、ということをです。
行動経済学の人間観は、これまでの経済学の人間観である、複雑な思考を駆使する(もてあそぶ…?)エコンとは異なります。それは…単純な思考である「システム1」に左右されやすいヒューマンなのですね。
私はそのヒューマンの代表を「メロス」と符合させました(少々牽強付会かもしれませんが…笑)。
ヒューマンはどこにでもいる(はずの)人です。ただ、それは理想であって本当は存在しない、と思い込んでいるだけなのではないか…と、私は今感じています。
ファクトを積み重ねてきた行動経済学は、新しい視座を与えてくれます。“私が陥りがちな思い込みをほぐしてくれる” …そんな感覚を私は行動経済学に抱いています。
坂本 樹志 (日向 薫)
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