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心理学とコーチング ~行動経済学とコーチング 「不公正な人を罰したい」とは…!?~

私たちはみんな、ただの人間、つまりホモサピエンスである。問題はむしろ、経済学者が使っているモデルのほうにある。そのモデルでは、ホモサピエンスの代わりに「ホモエコノミカス」と呼ばれる架空の人間が設定される。「ホモエコノミカス」というのは長ったらしいので、私は「エコン」と短く略して呼ぶようにしている。エコンのいる架空の世界と比べると、ヒューマンは誤ったふるまいをたくさんする。

それはつまり、経済モデルが誤った予測をたくさんするということを意味する。経済学モデルの予測が、学生たちを怒らせるどころではすまないような重大な結果を招くこともある。実際、2007年~08年の金融危機を予測した経済学者はほとんど誰もいなかった(※)。それどころか、クラッシュもその余波も起こるはずがないと多くの者が考えていた。
(※)住宅市場のクラッシュを予見していたのが、私と同じ行動経済学者のロバート・シラーである。

4月22日以降、メタ認知ができているのかを自問自答してみました。

4月22日のコラムで、私は次のようにコメントしています。
……さて、ロジャーズのコラムを終え、私も一つの区切りをつけたいと感じています。そこで、これまでの56回のコラムを振り返ってみようと思ったのですが、ただ、そのことを通じて「新たな気づきが訪れるだろうか…」ということに関して、私は村上春樹氏がよく語る「創作の宝庫としての無意識の領域」は、残念ながら「限られているなぁ」と感じています。つまり「心理学とコーチング」という横断テーマを掲げ、そしてコツコツ書き綴ってきたことの「意味」については、どうも自覚的なのですね。……

と、書きながら、ふと、「自覚的だ」としているのはひょっとして「思い込みかもしれない…」と、改めて自問自答してみました。コーチングのセッションにおいて、コーチはメタ認知が求められます。これは、自分を客観視し相対化することです。自分から距離を置いて自分を見ている状態(幽体離脱ではありませんが…笑)をイメージしてみてください。

その自覚のもとに、クライエントとメタ・コミュニケーションを進めていきます。この重要性については、2019年11月29日のコラム(五十嵐代表執筆)で紹介しています。

私がコラムで取り上げてきた巨人への想いは、別の視点が内在化されていたのかもしれない…?

フロイト、ユング、アドラー、ロジャーズ…、心理学を学ぶと必ず登場する巨人たちです。コラムでは、もちろん各氏の業績や理論を紹介していますが、私がこだわり、字数を費やしたのは、「既存の権威・価値観に強い違和感を覚え、その解体に挑戦し続けた結果、その姿が(もちろん理論についても)世に認められ、結果的に新たなオーソリティ(新たな価値観の提供者)として屹立するに至ったそのプロセス」であることに気づいたのです。

各氏がよりどころとしたのは「科学的アプローチ」です。
科学(的枠組み)とは……“そのときの最先端の知見でしかない”という限界が内包されており、いずれは覆され、新たな知見の登場により価値観もまた大きく変化していく(私見であることをご容赦ください)……このダイナミズムに私は興奮を覚えていたのですね。

今回のコラムは、行動経済学を取り上げての4回目ですが、動機は、コーチングとビジネスの融合を語る上で、格好の理論群であると感じての選択です。ただ改めて考えてみると、カーネマン教授、トヴェルスキー氏、そしてセイラー教授は、既存の経済学の枠組み・根幹に疑問を抱き、その反証としてのエビデンス(科学的根拠)をコツコツと積み上げてきた結果、「盤石だとされていた経済学というカテゴリー」そのものを流動化させてしまいそうな大きなパワーを有する存在となっているのですね。

「不公正な人間を罰したい」とは…!?

少し前置きが長くなってしまいました。
冒頭の引用元は、前回でも取り上げた『行動経済学の逆襲/リチャード・セイラー 遠藤真美訳』です。この著作は、2017年にセイラー教授がノーベル経済学賞を受賞する少し前に発刊されていますが、セイラー教授は、経済モデルが想定する人間像から大きくかけはなれたふるまいをするヒューマンについて、無数にあるストーリーを大学院時代から40年間、ひたすら考えてきたと語ります。

今回のコラムは、上巻の第15章「不公正な人は罰したい」を取り上げます。

・公正性を研究するプロジェクトに取り組んでいるとき、ダニエル・カーネマン、ジャック・クネッチ、私の頭には、ある疑問が強くあった。人は不公正なふるまいをする企業を罰したいと思うのだろうか。通常のタクシー料金が50ドルのときに500ドルを請求された利用客は、たとえサービスを気に入っても、そのタクシーを二度と使わなくなるのか。そこで私たちは、ゲーム形式の実験を設計して、この問題を調べることにした。(中略)

・エコンは純粋に利己的であるとされているが、人は(少なくとも見知らぬ他人と相対するときには)ほんとうに利己的なのかという疑問を解き明かそうとするゲームは他にもある。それが協力ゲームと呼ばれるものであり、この種の古典的ゲームが、有名な「囚人のジレンマ」だ。オリジナルの条件設定は次のとおりである。

ある事件の共犯と考えられている2人の容疑者が逮捕され、それぞれ別室で取り調べを受けている。ここで2人が取りうる選択肢は、罪を告白するか、黙秘するかの2つとなる。2人とも黙秘したら、懲役1年の軽い刑しか求刑できない。2人がともに自白したら、2人とも懲役5年になる。しかし、1人が自白し、もう1人が黙秘したら、自白したほうはその場で釈放されるが、黙秘したほうは10年の刑を受ける。

これを2人のプレーヤーによるゲームとして一般化すると、プレーヤーが取りうる戦略は、協力(黙秘)か裏切り(自白)かの2つとなる。ゲーム理論では、2人とも裏切りを選択すると予測される。なぜなら2人とって、相手がどうしようと、そうすることで自分の利益が最大化されるからだ。だが、このゲームを実験室で行うと、40~50%の人が協力を選択する。

これは、プレーヤーの半分がゲームのロジックを理解していないか、協力することこそが正しいことだと感じているか、あるいはその両方だということになる。囚人のジレンマのストーリーはよくできているが、ほとんどの人はそうそう逮捕されるものではない。このゲームは日常生活とどう関係してくるのだろう。この問題と関連のある「公共財ゲーム」と呼ばれる実験を考えてみよう。

公共財は全員が同時に、かつ費用負担者以外も享受できる財やサービスのこと。

公共財は日頃より見聞きするワードですが、「その便益を多くの個人が同時に享受でき、しかも対価の支払者だけに限定できないような財やサービス。公園・消防・警察など(広辞苑)」のことです。
「公共財ゲーム」を通じて、エコンとは異なるふるまいをとるヒューマンについて、セイラー教授は解説します。

・経済学者、心理学者、社会学者はそろって、次のようなさまざまなバリエーションの単純なゲームを用いて、この問題を研究している。いま、お互い面識のない10人に実験室に来てもらって、それぞれ1ドル札を5枚ずつ与えるとする。そして、“公共財”に拠出したいかどうか、拠出するとしたらいくら拠出するかそれぞれ決めてもらう。お金は無記名の封筒に入れて回収されるので、誰がいくら拠出したかはわからない。実験者は拠出額を合計し、それを2倍にした金額を全員に均等に分配する。

公共財ゲームにおける合理的かつ利己的な戦略は、何も拠出しないことだ。いま、ブレンダンは1ドル拠出することを決めるとしよう(そして他は誰も拠出しない場合…坂本補足)。これを2倍した2ドルが全員に分配されるので、ブレンダンの取り分は20セントになる。

つまり、ブレンダンは1ドル拠出するごとに80セントを失うということだ。他の被験者も20セントもらえるので、ブレンダンが匿名で拠出したことをもちろん歓迎するが、拠出は匿名だったのでブレンダン個人に感謝することはない。サミュエルソンのロジックに従うと、経済理論に基づくなら、誰も何も拠出しないと予測される。

ここで注目してほしいのは、被験者グループがこのような利己的かつ合理的にふるまうと、全員が与えられた金額をすべて拠出していたら手にしていたであろう金額の半分しか受け取れないで終わることだ。全員が5ドル出していたら、分配される総額は50ドルの2倍の100ドルになって、全員が10ドルもらって家に帰ることになる。

著名な経済学者であり哲学者のアマルティア・センは、このゲームにおいてつねに何も拠出しない人を、物質的な私利私欲だけを盲目的に追及する「合理的な愚か者」と呼んだことは有名である。「純粋な経済人はむしろ、社会的には愚者に近い。これまでの経済理論は、こうした合理的な愚か者に大きく占領され続けてきたのである」

標準的な経済学では、公共財ゲームでは誰も協力しないと予測されるが、囚人のジレンマと同様、この予測も外れる。平均すると、参加者は与えられた金額の約半分を公共財に拠出するのだ。

サミュエルソンの評価は20世紀最高の経済学者…!?

セイラー教授が別の章で、サミュエルソンにふれた箇所(第11章)があります。

……「エコンが経済学に忍び込むようになったのは、フィッシャーがエコンはどう行動すべきかを示した理論を構築し始めた頃からだが、その仕事の仕上げは、当時大学院生だった22歳のポール・サミュエルソンにゆだねられた。20世紀最高の経済学者との呼び声が高いサミュエルソンは16歳でシカゴ大学に入学した天才で、すぐにハーバード大学の大学院に進んだ。」……

ここで、サミュエルソンの略歴を「ウィキペディア」から引用しておきましょう。

……1947年に出版された『経済分析の基礎』で一躍有名になり、その後は、ジョン・ベイツ・クラーク賞受賞(1947年)、計量経済学会会長(1953年)、アメリカ経済学会会長(1961年)、ノーベル経済学賞受賞(1970年)、アメリカ国家科学賞受賞(1996年)など、数々の栄誉に輝いた。また、戦時生産局、財務省、経済顧問会議、予算局、連邦準備銀行など、多くの政府諸機関で補佐官を務めた。2009年 にマサチューセッツ州の自宅で死去。94歳であった。……

なお、セイラー教授はサミュエルソンについてバランスをもってコメントします。

……サミュエルソンが自分の理論は人間の行動を正しく記述したものだと考えていたわけでは必ずしもない。この短い論文(「効用の測定に関する覚書(7ページ)」…坂本補足)の最後の2ページは、「深刻な限界」とサミュエルソンが呼ぶものについての議論にあてられている。……

そして、カーネマン教授の言葉を借りて、サミュエルソンが発表した理論の華やかさに幻惑されてしまうエコンを信奉する経済学者たちの姿を、次のように描きます。

……この論文だけを転機として取り上げるのはフェアではないだろう。経済学者はその前から、それまで一般的だった素朴心理学とでもいえるものから離れつつあった。先頭に立っていたのがイタリアの経済学者、ヴィルフレド・パレートで、経済学に数学的厳密さを加えた先駆者である。だが、サミュエルソンがこのモデルを書き上げ、それが広く取り入られるようになると、ほとんどの経済学者は、カーネマンが理論による幻惑(theory-induced blindness)と呼ぶ重い病に陥った。

新たに発見された数学的厳密さを組み込むことに誰もが熱をあげ、現実の人間の行動に即した異時点間選択に関する研究はきれいに忘れ去られた。わずか7年前に発表されたアーヴィング・フィッシャーの研究も例外ではない。指数関数型割引効用モデルは人間の行動を正確に記述したものではないというサミュエルソンの警告も忘れられた。……

セイラー教授は、「道ばたの無人販売所」を使ってアナロジーを語ります。

少し回り道をしましたが、第15章に戻りましょう。「公共財ゲーム」の続きです。アナロジーとは、解明がむつかしい現象に対して、身近なものごとを使って説明することですが、セイラー教授らしさが伝わってくる文章です。

・利己的になることの有利さに被験者たちが気づいていたのであれば、ゲームが再開された後も、協力率は低いままであるはずだ。だが、そうはならなかった。追加ゲームの1回目で、協力率は最初のラウンドの1回目で観察されたものと同じ水準に振れ戻ったのだ。つまり、公共財ゲームを繰り返し行っても、参加者はタダ乗りを決め込むようにはならない。むしろ、参加者の中にはズルいやつが1人あるいは複数いることに気づく。誰もそんな人間のカモにはされたくない。

エルンスト・フェールらがさらに調査を進め、その結果、アンドレオーニの発見と同様に、多くの人は、他の人が協力的であるならば、自分も協力するという条件付き協力者(conditional cooperators)であることを示している。最初は他の参加者を好意的に解釈しようとするが、協力率が低いことがわかると、こうした条件付き協力者はタダ乗りに転じる。

ところが、協力しない人を罰する機会が与えられると、ゲームが繰り返し行われる場合でも協力率が低下しないケースがあることが、公共財ゲームの実験で確認されている。先に述べた罰則ゲームが実証しているように、人々は自分のお金を使って、不公正なふるまいをした人にそんなことをしたらどうなるか思い知らせようとする。そして、そんな懲罰行動がタダ乗りをしようとする人間への戒めとなり、協力関係が拡大し、維持される。

ダニエルとバンクーバーで研究の場を共にしてから数年後、協力行動に関する論文を、心理学者のロビン・ドウズと共同で執筆した。論文の結びに、イサカ周辺の農村地域でよく見られるような、道ばたの無人販売所のアナロジーを置いた。農民たちは、自分の農場の前に台を置いて、そこに新鮮な野菜を並べて売っている。台には箱が置かれていて、そこに代金を入れるきまりになっている。

代金箱には細長い切れ目があり、お金を入れることはできても、取り出すことはできない。箱は台にクギで打ちつけてある。私は当時、このシステムを使っている農民たちは、人間の本性を正しくモデル化していると考えたのである。その考えは今も変わっていない。

正直な人は世の中にたくさんいるので、農家にとって、とれたてのトウモロコシやルバーブを台に並べて置く価値はある(小さな町はとくにそうだ)。しかし、代金箱にふたがついていなくて、誰でもお金を取り出せるような状態のままにしておいたら、きっと誰かが持っていくだろうこともわかっている。
経済学者に必要なのは、農民たちが持っているような多面的な人間観だ。全員がいつもタダ乗りするわけではないが、隙あらば相手を食い物にしてやろうとする連中もいる。私は野菜の無人販売所の写真を1枚、研究室に貼って、思考に刺激を与えている。

坂本 樹志 (日向 薫)

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