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心理学とコーチング ~ロジャーズ その9~

エンカウンター・グループ

河合氏と春樹氏のコミュニケーションを通じて、カウンセリング、そしてコーチングの奥深い世界を体験していただいたところで、ロジャーズに戻りましょう。

自分のサイコセラピーがいかに科学としてのスタンスに立脚しているのか、そのことを発表し続けてきたロジャーズですが、1960年代になると、その語り口が変わってきます。「ロジャーズ その8」のコラムでは、そのことを感じることができる論及の「成熟した大人について(1964年)」を取り上げました。

ちなみにロジャーズを8回にわたって解説してきましたが、いずれもが『ロジャーズ選集(上)』からの引用です。今回からは『ロジャーズ選集(下)』の内容に移りたいと思います。

1960年代はロジャーズの視点が大きく広がっていく時代です。「社会的な意義(1960年)」「十分に機能する人間…よき生き方についての私見(1961年)」「学習を促進する対人関係(1967年)」など、論文というより哲学的なテーマの内容が編纂されています。このことは、選者が「あえて哲学的なものを選んだわけではなく、ロジャーズが、“そのようになっていった”」のです。

今回のコラムは、その1960年代を経て、1970年に発表された「グループのなかで促進的な人間であることができるのか?(『ロジャーズ選集(下)第23章』)」を取り上げてみましょう。

最初に「哲学と態度の背景」というタイトルを掲げ、語りをスタートします。

私は、グループのなかで促進的な人間(facilitative person)であろうとする努力を、できる限り包み隠さず書き、対人関係という誠実な芸術に効果的に参加しようとするときの、自分の強さ、弱さ、不確実さについて、できるだけ述べてみたいと思う。

誰しも白紙の状態でグループに参加する人はいない。そこで、私がもちこむ態度と確信のいくつかを述べてみたい。グループは、ほどほどの促進的風土があれば、それ自体の潜在力(potential)とメンバーの潜在力を発展させるものだと、私は信じている。私にとってはグループのこの可能性は畏敬に値するものである。その必然の帰結として、私は徐々にグループ・プロセスに絶大な信頼を寄せるようになった。

これは、セラピーの過程で、指示を与えるより促進的であったほうが、その個人を信頼するようになったことにまったくよく似ている。私にとっては、グループはひとつの有機体に似ていて、知的にその方向を明確に示すことができなくても、それ自体の方向の感覚をもっているように思われる。

ロジャーズは、1対1のサイコセラピーではない、かつ、健常な人々を対象とする世界に興味関心の軸が移っていきます。

ロジャーズの言うグループとは「エンカウンター・グループ」のことです。エンカウンターという言葉は、心理学を学んだ人は別として、一般になじみの薄い言葉だと思います。意味は、「出会い」「遭遇」で、それがグルーブ自体の潜在力とメンバーの潜在力によって(シナジーといえるでしょう)、対人関係(ロジャーズは“誠実な芸術”と例えています)が促進される…その方法をロジャーズが編み出したのです。そして、その場における重要な存在が、ファシリテーター(facilitator)です。

今日、企業で、そしてさまざまの機会で「グループセッション」が行われます。その際、進行役をファシリテーターと呼称することが一般化しています。ファシリテーター以前は、グループリーダーなどと呼ばれていました。つまりグループセッションのあり方が、グループのリーダーが「引っ張っていく手法」から、進行役は「意見を主張するのではなくメンバーの考えを引き出すこと」に主眼を置く、という内容に変化していったことが、この呼称に込められているのですね。

日本において、エンカウンター・グループという言葉そのものは、一般化していませんが、ロジャーズの考え方は、ファシリテーターという言葉が広がってきたことで、受容されているのです。

私は、自分のファシリテーターとしての動き方がグループの生命に重大な意味をもつと信じているが、そのグループ・プロセスのほうが私の発言もしくは行動よりもはるかに重要であり、私がそれに介入しなくても、そのプロセスは展開すると信じている。たしかに私は、参加者に対して責任を感じるが、参加者に代わって感じているのではない。

すべてのグループである程度感じることであるが、とくに私はエンカウンター・グループ方式で指導するいわゆる講義のようなコースでは、感情および認知の両側面(affective and cognitive modes)をもつ全体的人間(whole person)が参加してほしいと強く思っている。

ロジャーズはここで重要なことを述べています。

先に私は、企業等で行われているグループセッションについてコメントしていますが、教育訓練に関するテーマ、つまり資格取得講座であるとか、これまで習得していない技能を身に着けてもらうためのセッションについて、講師や専門家が教室形式で教える「ワン・ウェイ」型が、現在も日本では主流となっています。ところがロジャーズは1970年時点で、「講義のようなコース」でもエンカウンター・グループ方式が有効に機能することを訴えているのです。

「風土づくりの機能」についてロジャーズは記述を展開します。

私はまったく場面構成をしないかたちでグループを始める傾向があり、例えば「このグループが終わるころには、私たちは今よりもはるかにお互いをよく知り合っていると思います」とか、「みんなそろいましたね。私たちはこのグループ経験をみんなが本当に望むものにしてゆくことができると思います」とか、「少し落ちつかない気がしていますが、みなさんを見まわして、私たちは同じ船にのっているのだと思うと、いくぶん気が楽になります。どこから始めましょうか」といったごく簡単な言葉で始めます。ファシリテーターばかりのグループで討議した録音のなかで、これについて私は次のような見解を述べている。

たぶん私がグループを信頼しているためだと思いますが、私はグループのなかでは最初からたいてい非常に気持ちを楽にし、リラックスしています。これは少し言い過ぎかもしれませんね。普通、グループが始まったときは、いつも少し不安な感じがしていますから。だけど、たいていは「何が起こるか私にはわかりません。でも、何が起こってもいいんだ」と内心思っています。「そう、何が起こるか誰にもわからない。けれども、何も心配することはない」と、非言語的に伝えているように思います。自分がリラックスしていて、何も指導しようと思っていないことが、他の人たちを自由にしていくように思っています。

ロジャーズの存在そのものが「安心感を与える」のだと私は感じています。ロジャーズは「非言語的」と表現しているように、「リラックスしてください!」と言葉にしながら、その本人が能面のような無機質な表情であったり、緊張感ただよう態度であったならば、その場にいる人は決してくつろぐことはできません。メラビアンの法則により、相手の印象形成におよぼす影響は、非言語(ノンバーバル)情報が93%を占める(逆に言えば言葉そのものは7%にすぎない)ことがわかっていますから。

孤立しそうなメンバーに安心感を抱いてもらうための方法とは…?

私はまた、メンバーにとって安全な風土を作ることを願って、少し違った方法をとっている。新しい洞察を得るときや成長するときに感じる苦痛、またメンバーから率直なフィードバックを受けたときに感じる苦痛などをなくすることができないことは、私も十分に承知している。しかし、その人に対して、あるいはその人のなかで、何が起ころうとも、成長の兆しとしてよく起こる苦痛や喜び、あるいはその両方を味わう瞬間に、心理的にはどこまでも彼とともにいることを、その人に感じてほしいのである。

私は、参加者が動揺したり傷ついたりしているとき、たいていはそれを感じとることができると思っている。そのようなときに、言語的か非言語的なサインを送って、私がそのことに気づいており、痛みや恐怖のなかにいるときの道連れになっていることを知らせるのである。

1対1のセラピーは、カウンセラーの視線、意識がクライエントにすべて集中しています。それとは違いグルーブでは、そのなかで自分の居場所が定まらず不安を抱いてしまう、他のメンバーが積極的に発言しているにもかかわらず、自分はなかなか意見を言い出せない、といったケースが生じることがあるでしょう。

加えて上記でロジャーズが示すように、他のメンバーから否定的なコメントを受けて、さらに落ち込む、といったケースも起こります。ファシリテーターとしてのロジャーズはそのことを熟知した上で、その人を決して孤独にしないよう、言語、非言語での働きかけが重要であることを説いています。

さて、ファシリテーターがセッションの冒頭で次のような発言をしました。

「みなさん、積極的に発言してください。このグループセッションの経験を有意義なものにするためにコミットメントすることが大切です。受身に終始してしまうと、何のために参加しているのか…実にもったいないことです。」
ファシリテーターを任された多くの人が、当然のごとく口にしそうな内容ですが…

ロジャーズの次のコメントを引用し、今回のコラムを終えたいと思います。次回も引き続き「エンカウンター・グループ」を解説してまいります。

私は、参加者がそのグループに積極的にかかわっていても、いなくても、その人を喜んで受け容れる。ある人が心理的にひっ込んでいたいと思うなら、私はそうすることを暗黙に許している。グループ自身は、そういう人を受け容れるときと受け容れないときがあるが、私個人としては受け容れるのである。ある懐疑的な大学管理者は、彼がグループで学んだ主なことは、個人的に参加しないでひっ込んでいることができ、それでいて居心地がよかったこと、しかも強制されはしないという実感をもてたことだ、と語った。

私には、これは貴重な学習に思われ、その人が次の機会には、本当に参加することができるようになるだろうと思ったのである。彼のまる1年後の行動についての報告によれば、客観的に参加しなかったそのなかから多くのことを学んでおり、彼が変化したことが示唆されている。沈黙したり、まったく発言をしない人でも、それが苦痛や抵抗をあらわしているのではないと確信できるならば、私はそれを受け容れることができる。

坂本 樹志 (日向 薫)

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