心理学とコーチング ~アドラー その13~(2020/11/05)

今回のコラムは、奥の深いテーマを取り上げたいと思います。「女性と男性」です。まずは、アドラーの発言の紹介から始めましょう。『人間の本性 人間とはいったい何か(長谷川早苗訳)/興陽館(2020年2月15日)』の中からの引用です。

分業は社会の維持に絶対欠かせない要素です。分業するには、だれもがなにかしらの立場で自分の責務を果たす必要があります。もしこの要求にくみしなければ、共生の維持、ひいては人類の存続を否定することになります。仲間としての役割から抜け落ち、共生を乱す存在になってしまうでしょう。 この種の分業は、人間に2つの性があるということからも行われています。一方の性である女性は、身体的な特徴を理由に、最初から特定の仕事から締めだされています。対して、男性には、もっとほかにできることがあるのだからしなくてもよいとされている仕事があります。こうした分業は、本来、偏見のない基準に従って行われなければならないでしょう。 特定の性格が「男らしい」とされ、別の性格が「女らしい」とされますが、なにかしらの基本事実があってそう評価されているわけではありません。なぜなら、男児と女児の精神状態を比べ、こうした分類が確認できたように見えたとしても、当然の事実だということはできないからです。確認できたように見えるのは、その人がすでに特定の枠にはまり、力について偏った判断をして人生のラインを狭めているからです。力関係を信じる人たちは、その認識を育てていくしかなくなります。要するに、男らしい性格と女らしい性格の区別には、正当な理由はないのです。男女の性格がどのように力の追及という要求を満たすかを見ていきましょう。 男児が大きくなると、男らしくあることの重要性はほとんど義務になります。野心と、力や優越の追求が完全に結びつき、男らしくあることの義務と同じになります。力を追求する子供の多くは、男らしいと意識するだけでは満足せず、自分が男であり、特権があるということをつねに示して証明しようとします。自分を目立たせて男性的な性格を強調しながら、周囲の女性に対しては暴君のようになり、相手の抵抗に応じて攻撃するのです。強情や激しい怒り、あるいは狡猾な手段を使って、自分の優越を示そうとします。 能力検査の結果を比べると、実際、数学などの特定の教科では男児が、語学などでは女児が能力を示していました。男性の仕事の予習となるような教科では、男児の方が能力が高かったのです。けれど、これはただそう見えるだけです。女児の状況をよく観察すれば、女性の方が能力が低いという話は作り話であり、真実のように見えるうそだとわかります。 現在の文化で、女児が自信や勇気を持ちつづけることは簡単ではありません。一方、能力検査では、おもしろい事実が判明しています。14~18歳の女児の一部が、男児を含めたどのグループよりも優れた能力を示したのです。調べてみると、こうした女児の家庭では、母親も、あるいは母親だけが自立した職業についていました。つまり、女児たちは家庭で、女性の方が能力が低いという偏見がない状況、または偏見をほぼ感じない状況であったのです。これは、母親が才腕で生計を立てている様子をじかに目にしたことが理由です。そのため、女児たちはずっと自由に自立して育つことができ、女性への偏見につきまとう妨害からほぼ影響を受けずにすんだのです。 つまり、女性への偏見の証拠となる数々の現象は、よく観察すると、精神の成長が妨げられたからこそ生まれたものなのです。わたしたちは、どんな子どもも、通常言われる意味で「才能がある」、能力が高い人間に育てることができると主張するつもりはありません。けれど、子どもを才能がない人間に見えるようにすることはできると思います。 こうした現象すべての根底にあるのは、わたしたちの文化の誤りです。ここに偏見が入り込めば、いたるところに混入し、たるところで見つかることになります。 男女がうまく折り合い、バランスがとれているときにはっきりと見られる特徴は、仲間として生きている状態です。民族間の関係と同じように、男女間の関係でも、従属した状態というのは耐えられないものです。従属によって男女それぞれには、ひどく大きな困難や負担が生じます。ですから、だれもがこの問題に注意を払うべきでしょう。この問題はあまりにも広く及ぶので、だれの人生にも関わります。

アドラーは「偏見が生じてしまうのは、わたしたちの文化のあやまりが作用している」と語ります。

アドラーは「男女同型」を前提として、そこから、女性と男性について語りを進めていきます。私は、アドラーがどのように女性と男性をとらえているのか…どこかのタイミングでテーマにしようと思っていました。アドラーを取り上げて以降13回目のコラムとなり、頃合いだと判断しています。

上記はアドラーの1926年の講演の中の一節です。今日、“亭主関白”という言葉は、ほぼ死語となっていますし、“草食性男子”がクローズアップされているように、「時代は変わった。女性の性を100年前と同様に捉えている人はそうそう多くないのではないか…」と受けとめるのではないでしょうか。
私が冒頭で「奥の深いテーマ」とコメントしているのは、この受けとめ方に対して分け入ってみようと考えたからです。女性と男性の性を語ることは、ときに大きな議論を招きます。それはジェンダーという概念について、本人が意識的か無意識的かは別にして、一つの価値観を表すことになるからです。

さて、ここからどのように展開していこうかと思案するなかで、昨年の東京大学の入学式で、上野千鶴子氏(東京大学名誉教授)がスピーチした内容を想起しました。多くの新聞やマスコミが取り上げており、一つの社会現象としての広がりが見出されます。以下は、MBS(番組供給系列:TBSネットワーク)のアーカイブからの引用です。

女子は子どものときから可愛いことを期待されます。

「学内にも社会にも性差別が横行しています。」とズバリ発言。「男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとの間にはねじれがある。女子は子どものときから可愛いことを期待されます…だから女子は自分が、成績がいいことや東大生であることを隠そうとするのです」と指摘した。 さらに、「(東京大学に入学し)がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。あなたがたの恵まれた環境と能力とを、恵まれない人々を貶めるためにではなく、そういう人々を助けるために使ってください…ようこそ東京大学へ」と語りかけた10分間の祝辞に「感動した」と共感の声が沸き起こる一方で、「祝辞にふさわしいのか?」と賛否両論が噴出し、Twitterで「上野千鶴子」がトレンド入りにするほど大反響を産んだ。

https://www.mbs.jp/jounetsu/2019/06_30.shtml

いかがでしょうか。
アドラーが100年前に語っているところと、それほどの違いがないようにも感じられます。
なお、上野氏の発言は、女性にフォーカスして社会を洞察していますが、一方で「有毒な男らしさ」という今日的ウイットをまぶしたワードがネットの世界を中心に広がっています。当時アドラーが語った、「男性的抗議」(7月13日のコラム~アドラーその2)についても、息絶えることなく継続中なのかもしれませんね。

アドラーは、「14~18歳の女児の一部が、男児を含めたどのグループよりも優れた能力を示したのです。…女児たちは家庭で、女性の方が能力が低いという偏見がない状況、または偏見をほぼ感じない状況であったのです」と語っています。つまり、偏見のない環境で育った。ある意味で“恵まれた環境”であったから「自由に自立して育つことができ、女性への偏見につきまとう妨害からほぼ影響を受けずにすんだ」のだ、ということですね。

上野氏の「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。」という発言がもっとも物議をかもした点ですが、成功を勝ち得た人たちが、「自分が寝食も惜しんで努力したその結果である」と自明のように感じることに対して、別の視座を提起することで、「より深く考えてみてください」と投げかけているのでしょう。

もし自分が成功していると感じられるとしたら、それは環境のおかげである。

「努力の成果ではなく」と言い切っているのは、「環境のおかげ」を強調するためのテクニックとも解釈できますが、東大生となった人たちに対し、エリート意識が膨れあがってしまうことで、ともすれば、努力していないと感じる(あくまでもエリート意識をもった人の価値観で)人を選別してしまうことのないよう、強い言葉で訴えているのだと私は感じました。 「ノブレス・オブリージュ」です。

男女の性差について、脳科学の見地での解明も進んでいます。ただ、それは「優劣」という概念ではなく、つまり価値観とは別次元の内容です。
居酒屋で、「女性ってさあ…」、「男性はね…」という会話の多くは、その人の価値観に基づいての発言です。その価値観とは、その時代におけるマジョリティとしての文化を背景としています。
女性と男性についての捉え方は、100年前とはかなり変わっていると想像しますが、それでも言葉で表しにくい(あえて言葉で表さない)違いを多くの人が意識しているのは確かでしょう。

「日向さんはどうなんですか?」と訊ねられた場合… 私はアドラーが唱えている「男女同型」という考え方を、意識に取り込みます。女性と男性は、まず“外形的に”多くの点で異なります。ここから、まず「違っている」と捉えて、以後、多くの現象を、そこに結び付けてしまうという傾向が生じます。

なので、「そもそも女性と男性を分類しないで、“人”という種のレベルで考えてみよう」と自分に言い聞かせます。すると…見え方が変わってくるのですね。「女性男性という分類そのものは、自明とされているが、“人”という種について、それとは別の“なじむ分類”も存在するのではないか…」といった概念がもたげてきます。その別の“なじむ分類”は、現時点では提起できていませんが(笑)、自分自身の密かなテーマとして持ちつづけていこうと思っています。

「総論は賛成」、でも…

コーチングの前提には「ダイバーシティ」があります。私がもっとも大切にしたい理念です。多くの人がそのことを理解しています。ただ、人というのは「総論賛成」でも、自分に身近な問題が降りかかってきたとき、そう思っていたにも関わらず、そうではない“何か”が浮上してくることがあるでしょう。

その葛藤に直面したとき、その“何か”は、“自分の素”が捉えているのではなく、「時代の価値観」、場合によっては「偏見」に侵蝕されているのではないか…と疑ってみることが大切なのかもしれませんね。

「男女がうまく折り合い、バランスがとれているときにはっきりと見られる特徴は、仲間として生きている状態です。」

アドラーのこの言葉をしっかり噛みしめることで、今回のコラムを終えたいと思います。

(日向 薫)

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