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心理学とコーチング ~アドラー その12~

これまでのコラムで、アドラーの無意識の捉え方が、フロイト、そしてユングと異なっていることを何度かコメントしています。アドラーは、意識と無意識をあえて分割しないで、全体的であるとし、「人は自然に形成される目的に向かって動いている」、と説明しています。今回のコラムでは、このあたりのことに迫ってみたいと思います。

『人間の本性 人間とはいったい何か(長谷川早苗訳)/興陽館(2020年2月15日)』のなかに、アドラーが、“意識と無意識の関係”を語っているところがあるので、抜萃してみましょう。

『集中力が制限されると、人は忘れやすくなったり、大事なものを紛失したりします。ある程度の注意力や関心はあるのでしょうが、それが十分でなく、なにか不快なことで低下しているのです。この不快感が、ものをなくしたり忘れたりする行為を導き、うながし、起こさせています。

たとえば、子どもが本をなくす場合などがそうです。たいていはすぐに、子どもが学校の環境にまだなじんでいないことが確認されます。また、しょっちゅう鍵をどこかにおき忘れたりなくしたりする主婦もいます。この場合も、家事に慣れないということが判明するのです。(中略)

ここまで読めば、出来事や現象について、体験者本人はたいてい十分には言い表せないことがわかったでしょう。たとえば、注意深い人がなんでもすぐに気づく理由を自分で言えることはほとんどありません。
つまり、意識の領域では見つからない精神器官の能力があるのです。無理に意識して注意することはある程度までできるとしても、注意に対する刺激は、意識のなかでなく関心のなかにあります。この関心もまた、ほとんどが無意識の領域に存在するのです。(中略)

たとえば、虚栄心の強い人はたいてい自分の虚栄心に気づいておらず、反対に、控えめに見えるようにふるまいます。虚栄心が強くあるためには、虚栄心を自覚している必要などないのです。それどころか、自覚してしまうと、その人の目的にとって都合がわるくなります。知ってしまえば、控えめにふるまうことができないからです。自分の虚栄心には目を閉じて、注意をほかにそらしているときだけ、見せかけの安全をつかめます。こうして、プロセスの大部分は暗がりのなかで進行します。』

「人は自然に形成される目的に向かって動いている」をひも解いてみると…

忘れやすくなる原因に「不快感」を挙げていますが、心配事や、ある行為をしながら別のことに“関心”があると、その行為そのものを忘れてしまうことがありますよね。メガネやスマホをどこに置いたのか…その置き場所を忘れてしまうことはありがちです。
アドラーが指摘しているのは、意識の領域では見つからない精神の働きがあり、注意深さが発揮されている状態は、意識的というより“関心”がそこに機能している。そして“関心”は意識して強まるわけではなく、無意識のなかに存在している。「プロセスの大部分は暗がりの中で進行します」とアドラーは、文学的な喩(たとえ)を用いてそのことを語っています。

「人は自然に形成される目的に向かって動いている」とは、アドラーの「目的論」を端的に説明する広く使われる表現ですが、抽象的であることは否めません。私はもう少し腑に落ちる説明はできないだろうか…と考えを巡らせていたところ、上記のアドラーの言葉に出会い、「なるほど…」と感じました。
「自然に形成される目的」とは、“関心”のことであり、“純粋な関心”は、無意識の領域に存在する、とアドラーは説明しているのです。

「虚栄心の強い人」の例示もわかりやすいですね。「虚栄心」をあからさまにすることは、この社会において否定されます。そして、アドラーの説く「人は優越性を求めて努力している」ということに関連して、それが獲得できていない状態にもかかわらず、「自分は優れている」と思いたい人は、「虚栄心」を持つことで、そのギャップを埋めようとします。劣等コンプレックスです。

ただ「虚栄心」は偽りの優越性であり、したがって意識されません。パラドックスですが、「自分には虚栄心があるなぁ」と自覚できる人は、このことで「虚栄心」から解放されているのです。

アドラーの語りは、ときに逆説を交えた展開になることが多いのですが、アドラーが「意識と無意識は分割できるものではない」ということを、このような例で示しているのです。

フロイトの「自我構造論」はとてもロジカルです。対してアドラーは哲学的です。

ここで、フロイトの「自我構造論」を復習してみましょう。
フロイトは、「無意識(エス)」を、快楽原則に基づくさまざまな欲求を求めるエネルギーが集積している層と捉えました。ただそれを解放してしまうと、健全な社会生活が営めないので、それをコントロールする層が必要です。それを司るのが「意識」であり、「自我(エゴ)」と名付けました。

ただし、自我が健全に機能していればよいのですが、何らかの事象や体験によっては、自我では支えきれなくなることがあります。その場合、登場するのが「超自我(スーパーエゴ)」です。「無意識」でもあり「意識」でもある、というフロイトが独自に編み出し概念です。

私は、『聖なるズー』の著者である濱野ちひろさんが、「長期間にわたって、パートナーからの身体的・精神的暴力を受け続けたにも関わらず、どうしてその環境から抜け出すことができなかったのか(6月10日のコラム)」…その背景について、フロイトの「自我構造論」を用いてコメントしました。
濱野さんは、著書の中で「環境による作用で、思春期を通してキリスト教的教育は私の思考回路に影響を与えていた」、と記述しています。フロイト理論を援用すれば、典型的ともいえる「超自我」が作用していることが推察できるのです。

フロイトのこの理論はとてもロジカルであり、わかりやすい説明を私たちに提供してくれます。
一方アドラーは、さまざまの現象に対して、ロジックを用いて一刀両断に裁く、というアプローチをとりません。ここが「アドラーは哲学的である」と言われる所以です。

フロイトは、無意識と意識について、意識の割合を少し大きくした図式を描いてイメージに落とし込んでいます。アドラーは当然ながら図式は描いていません。そもそも「無意識と意識は分割できない」、という捉え方ですから、図式化は困難ですよね。

意識と無意識の大きさは人によって異なるのではないか…

フロイト理論を復習したところで、今回のコラムのまとめに入ります。
思い返すと、「心理学とコーチング」という大きなテーマを掲げてスタートしたコラムの第1回(2月8日)は「対人認知」がテーマでした。そこで「ジョハリの窓」に軽く触れているのですが、「意識と無意識」を考える上で、示唆を与えてくれます。再掲してみましょう。

なお、本来の表(2月8日のコラムで掲載)には「意識」「無意識」の欄はありませんが、付記してみました。

「Ⅰの窓」は、自分にとっての「意識」の層であり、かつ自己開示によって他者も「そのことを把握」できています。
「Ⅱの窓」は、自分にとっては「無意識」ですが、他者は「気づいている」性質です。
「Ⅲの窓」は、自己開示を行っていないので、他者は「気づいていない」性質です。
「Ⅳの窓」は、自分は無意識で、かつ他者も知ることのないミステリアスな性質です。

私は、アドラーの唱える「目的論」を踏まえて、「意識」と「無意識」に思いを巡らせると、「人によって意識と無意識の大きさは異なるのではないか」、と考えるに至っています。その尺度が、「ジョハリの窓」Ⅰ~Ⅳのそれぞれの窓の大きさです。

コーチングにおけるコーチに求められる要件の一つに「自己開示」があります。素直に、ありのままに、虚心に、自分のことを相手に伝えることです。これができていれば、相手側はコーチに対する理解が深まり、信頼感の醸成につながっていきます。

他方、Ⅰの窓が小さく、それ以外の窓が大きい場合は、コーチとしては未熟の段階にあるといえるでしょう。Ⅱの窓が大きい人は、自分を相対化できていないということです。独りよがりに陥る可能性が高い人ですね。Ⅲの窓が大きくなっている人は、他者に対して距離を置こうとする秘密主義者といえるでしょう。信頼感の形成にはマイナスに働きます。Ⅳの窓が大きい人は、自我そのものが発達していないことが想像されます。

「無意識」は無意識ゆえに、実際はどのくらいの大きさなのかは「神のみぞ知る」のかもしれません。ただ、「意識」のもつ力を健全に働かせて、自らを省察し、Ⅰの窓を大きくする努力を継続していくことで、人間的に成長していくのだと私は感じています。
このことが、まさに「優れたコーチへの道標(みちしるべ)」になるのではないでしょうか。

坂本 樹志 (日向 薫)

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