心理学とコーチング ~アドラー その11~(2020/10/16)

「遊ばないで、ちゃんと勉強しなさい!」
この言葉を子どもに対して発したことのない親は、果たしているでしょうか? 今回のコラムは「子どもの遊び」について考えてみたいと思います。

アドラーによる1年間の連続講演(1926年)をまとめた、『人間の本性 人間とはいったい何か(長谷川早苗訳)/興陽館(2020年2月15日)』のなかに、次のような発言があります。

遊びは子どもの精神の成長と強く結びついている。

・個人心理学の原則は、精神生活の現象はすべて、頭に浮かぶ目標に向かう準備だと解釈できるということです。これまで記してきた精神生活のありさまは、個人の願望を満たしてくれそうな未来に対して準備しているということを示しています。これはごく人間的な現象で、だれもがこのプロセスを経験すると考えられます。 ・子供の生活には、未来への準備をはっきりと示す遊びという現象があります。親や教育者は、遊びを気まぐれな思いつきととらえてはいけません。遊びは教育を補助し、精神や空想や適応能力を刺激するものです。遊びのなかには決まって未来への準備が示されています。子どもがどうふるまうか、何を選ぶか、どのような意味を感じているかといったところにそれは現れます。同じように遊びのなかには、周囲とどのような関係を作っているか、周囲の人への態度はどうか、友好的か敵対的か、支配する傾向がとくに強く出ているかが示されます。さらに、人生にどのくらい適応しているかも観察できます。つまり、遊びは子どもにとって非常に大切なのです。子どもの遊びを未来への準備ととらえることをわたしたちに教えてくれたのは、教育学者のグロース教授です。教授は、動物の遊びの根底にもこうした傾向があることを証明しました。しかし、これですべてではありません。遊びは共同体感覚を実証するものでもあるのです。こどもの共同体感覚は強いため、子どもはどんなときにもそれを満たそうとし、力強く引き動かされます。 ・遊びのなかにははっきりと現れるもう1つの要素は、命令や支配の傾向がある優越という目標です。これを把握するには、子どもが強引に前に出ようとするか、その場合どの程度か、自分の傾向を満足させ、支配する役割を演じられる遊びをどのくらいしたがるかを見ます。人生への準備、共同体感覚、支配欲、という3つの要素を含まない遊びはほぼ見つかりません。 ・遊びがもつ要素はもう1つあります。子どもが示す仕事の可能性です。遊んでいるときの子どもは多少なりとも自立した存在であり、他者とのつながりのなかで成果を出すことが求められます。この創造的な要素が強い遊びはたくさんあります。なかでも、子どもが想像力を大いに働かせることができる遊びには、将来の仕事に深く関わる要素が隠れています。ですから、多くの人の経歴には、最初は人形に服を作っていて、のちに大人用の服を作るようになったなどのケースがあるのです。 ・遊びは子どもの精神の成長と強く結びついています。いわば子供の仕事のようなものであり、また、そう解釈すべきものです。そのため、遊んでいる子どもの邪魔をするのはとても害のあることです。遊びの時間を無駄と考えてはいけません。未来への準備という目標に目を向ければ、将来どんな大人になるかが多少見えてきます。ですから、子ども時代について知ることは、人を判断するのに役立つ重要なプロセスなのです。

「交流分析」で用いるエゴグラムとは?

PCのキーでこの引用を打っていると、並行してさまざまなことが思い返されます。私には娘が2人、そして2人の孫娘がいます。自分が親として、大きく成長した2人の子どもに接してきたプロセス、最初の孫娘が生まれてからの4年の歳月…いろいろなことを想起します。

妻は私の振る舞いに対して、多くは厳しい視線でもって応えるのですが、数少ないプラス評価だと私が解釈していることに、「あなたがすごいなぁ、と思うのは、子どもと同じレベルで遊べることね」という点です。

自分では意識していないのですが、最も身近な存在である妻の評価なので、そうなのでしょう。ただ、自分の性格分析をエゴグラムでやってみると、FC(Free Child)が強く出ているので、本来がそういうキャラクターなのだと自分で受けとめています。

エゴグラムはエリック・バーンが創設したカウンセリングの一分野である「交流分析」に基づき、バーンの直弟子であるデュセイが開発した性格診断法で、人が本来持っているパーソナリティを5つの要素に分類し、それぞれがどの程度の強さで表れているかをグラフにして示していく、というものです。グラフが高く出ている要素が、その人の自我を形成する上で大きく影響を及ぼしていると分析されます。

<自我を構成する5つの要素>

  • CP(Critical Parent)…厳しい親としての要素
  • NP(Nurturing Parent)…優しい親としての要素
  • A(Adult)…大人としての要素
  • FC(Free Child)…自由奔放な子どもとしての要素
  • AC(Adapted Child)…従順なこどもとしての要素

交流分析については、今後のコラムで取り上げようと思うので、解説はこのあたりにしておきます。

「遊び」はネガティブ、「勉強」はポジティブ…?

冒頭の「遊ばないで、ちゃんと勉強しなさい!」という言葉には、遊びと勉強は異なる概念であり、「遊びはネガティブ」、「勉強はポジティブ」と捉えている前提があります。ここにとどまっていると、アドラーの発想は当然生まれてこないでしょう。

遊びをネガティブに捉えてしまい、勉強に向かわせようと思い込んでいる親は、アドラーの指摘である、

「遊びは子どもの精神の成長し強く結びついています。いわば子供の仕事のようなものであり、また、そう解釈すべきものです。そのため、遊んでいる子どもの邪魔をするのはとても害のあることです。遊びの時間を無駄と考えてはいけません。未来への準備という目標に目を向ければ、将来どんな大人になるかが多少見えてきます」、

という重要な機会を逃しているのかもしれませんね。

言葉は言い換えられることによって、別の視座が与えられる。

さて、私はこのアドラーの発言の中の「いわば子どもの仕事のようなものであり」に着目しようと思います。ある現象を共通なイメージとして浮かび上がらせる手段が「言葉」であり、特に名詞は、そのことを端的な表現で象徴化させることです。

すなわち「遊び」というと、人はその行為について一定のイメージを持ちます。ただ人には個性、そして受けとめ方の違い、というライフスタイルが存在しますので、解釈には幅があります。ただし、同じ言葉をそれぞれの人がバラバラにとらえてしまうと共同体そのものが成り立ちませんので、共通した概念として普遍性を持たせます。

この普遍性が存在するまとまりが、文化を共有するグループであり、それを成立させているのが「言語」です。最も広義な「言語」は、日本語、英語、中国語などですが、仲間内だけでしか通じない「閉じた言語」の存在も指摘されるところです。言葉とは、そのフレームの中で、定義づけられていきます。

言葉は便利である反面、「言語」によって本人が意識する、しないに関わらず、「統制されてしまう」という傾向も生じます。「思い込むよう導かれている」と言えるでしょうか。つまり、多くの人が「遊びは勉強や仕事と比べて尊さという点で価値が低い」と受けとめてしまう現象です(特に日本語…日本文化においてはその傾向が強いのではないでしょうか)。

アドラーは、これを崩します。崩す方法は「言葉の言い換え」です。子どもにとっての“遊び”とは、大人になったあなたたちが感じている遊びとは異なり“仕事のようなもの”である、と説明するのです。多くの大人は、仕事の方が遊びと比べて価値は高い、と思っていますから、そこにストンと落とし込むのです。このことで、子どもの目線に一歩近づくことができるのですね。

人は事実を見ているのではなく、主観を介在させて対象を把握している!

8月29日のコラムで「エリスの論理療法」を取り上げました。
あることがらに対して特定の感情が生じるのは、物理現象=出来事(Activating Event : A)が、その感情=結果(Consequence : C)を招いているのではなく、「受け取り方(思い込み)」が、特定の感情を発動させる。すなわちAとCの間に、考え(Belief : B)が介在することで、次の感情が起こっている、と捉えます。「ABC理論」です。

アドラーはこう明言します。「人の行動は、その人の考えを源としている……なぜなら私たちは事実ではなく、単に主観的なイメージを受け入れているからである」、と。

今回のコラムは、「子どもは、遊び≒仕事を通じて認知力を高め、成長している」がテーマです。子どもたちが、ある現象について言葉を発する際の「認知」は、成長の過程で獲得してきた情報の質と量に基づいて形づくられます。次の例話は、そのことを分かりやすく説明しています。

『子どもが父親に、「月と中国はどちらが近いの?」と尋ねた。道理を重視する父親は「中国の方が近いよ」と答えたが、子どもは強く反論した。それは、中国は「一度も見たことがないけれども、月は見えるので、月の方が近い」という理由からであった。(現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)』

いかがでしょうか?

子どものこの無邪気な回答に、自分のことを大人だと自認している人たちは、余裕をもって微笑むことでしょう。
でも考えてみれば、すべての大人にも子どもの頃があったわけで、ここで微笑む大人も、子ども時代は同じように答えたのではないでしょうか。

人が“健全に”成長を辿っていくと、幼いころに感じていた「情緒」については、どうも忘れてしまうようです。「大人になる」とは、「それを巧みに成し遂げた人たち」なのではないか、と私は感じるのですね。

大人である私がFCであるのは、果たして恥ずかしいことなのか?

さて、コラムの終わりです。
私のキャラクターは、FC(Free Child)の傾向が強く出ているとコメントしました。そしてそのことを、妻の言動を借りて、半ば自慢するように語っていると受け取られるかもしれません。
実はそうではなく、私の内部にはコンプレックス(複合的な感情)が去来しています。
……「子どもの心を忘れていない」と、評価のニュアンスを込めて語られることを真に受けてはいけない。その言葉の裏には、「大人にもかかわらず、子どもっぽくて困ったものだ」という捉え方が存在する。これこそが、世の中の大人たちが作り上げている価値観なのだから……
と、アラートを鳴らす声が響いているのです。
これこそが、アドラーの言うところの「劣等コンプレックス」なのかもしれませんが…(笑)。

(日向 薫)

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