<問題>
あなたはコイン投げのギャンブルに誘われました。
裏が出たら100ドル払います。
表が出たら150ドルもらえます。
このギャンブルは魅力的ですか? あなたはやりますか?
前回のコラムの最後にこの質問を提示していますが、いかがでしょうか?
『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』の中で、カーネマン教授は、次の解説を続けます。
損失の二倍の利得が見込めないと、ギャンブルには乗らない…!?
やるかやらないかを決めるにあたっては、150ドルもらう心理的利得と100ドル支払う心理的損失を天秤にかけなければならない。どうだろう、あなたはやってみる気になっただろうか。払う可能性のある金額よりもらう可能性のある金額の方が多いのだから、ギャンブルの期待感は明らかにプラスである。
それでもあなたは大勢の人と同じように、きっとこのギャンブルが嫌いだろう。このギャンブルを断るのはシステム2だが、その決定的な要因となるのはシステム1による感情反応である。たいていの人にとって、100ドル損をする恐怖感は、150ドル得する期待感よりも強い。
私たちはこうした例を多数調査した結果、「損失は利得よりも強く感じられる」と結論し、このような人々を「損失回避的」であると定義した。
自分が損失に対してどの程度回避的かを知るためには、次のように自問してみるとよい。100ドル失うのと同じ確率で最低何ドルもらえるなら、自分はこのギャンブルに応じるだろうか、と。つまり、損失の二倍の利得が見込めないと、ギャンブルには乗らない。多くの実験の結果、「損失回避倍率」はおおむね1.5~2.5であることがわかった。
もちろんこれはあくまでも平均値であって、もっとリスク回避的な人はいくらでもいる。逆に金融市場で取引をするプロの場合には、損失許容度が高い。これはおそらく、価格変動に対していちいち感情的に反応しないためだろう。実際、被験者に「トレーダーになったつもりで答えてください」と指示すると、損失許容度が高まり、損失に対する感情反応(感情喚起指数で計測)は大幅に減る。
トレーダーの損失許容度が高い理由が、カーネマン教授の指摘であることは理解できます。私はそれに加えて、金融市場で取引するプロを、企業の投資部門に属しているスペシャリストであることを前提として、扱うお金が基本的に自分のお金ではないことも、その理由に挙げられると考えています。
私が大手企業に属していたとき、立案した新規ブランドの事業計画が経営会議で審議された際、専務取締役が「坂本いいか、そのお金は会社から提供されたお金ではなく、お前が汗水たらして自分の努力で蓄積したお金であると思って使え!」と強く言われています。今も心の中で響き続けている言葉です。
「システム1」「システム2」と『ファスト&スロー』の関係について…
専門用語を解説しておきましょう。システム1とシステム2とは、『ファスト&スロー』という著作のタイトルを意味する言葉であり、上下巻全38章の1章に登場します。
・「システム1」は自動的に高速で働き、努力はまったく不要か、必要であってもわずかである。また、自分のほうからコントロールしている感覚は一切ない。
・「システム2」は、複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。システム2の働きは、代理、選択、集中などの主観的経験と関連付けられることが多い。システム1および2という名称は心理学で広く使われているものだが、本書では他の本より踏み込んだ形で使う。読者は、二人の登場人物が出てくる心理劇を読んでいるように感じることだろう。
「プロスペクト理論」がノーベル経済学賞を受賞した理由について、カーネマン教授が推定とともに語っている箇所を引用します。明確な目的をもって意思決定をしたことが(システム2を起動させて)、結果的にノーベル賞につながっただろうことは、多くの方に同意いただけると思います。
ノーベル経済学賞につながった裏話をカーネマン教授は語ります。
私たちは論文をエコノメトリカ誌に送った。エコノメトリカは、経済学と意思決定理論に関して重要な論文を掲載している学術専門誌である。掲載誌の選択が重要だったことは、あとになって判明した。もし心理学の専門誌で論文を発表していたら、経済学にはほとんど影響を与えられなかっただろう。とはいえ私たちは、経済学に影響を与えたくてエコノメトリカを選んだわけではない。同誌は意思決定に関するすぐれた論文を過去に多数掲載してきたので、私たちも仲間入りしたかっただけである。
この選択をしたのは幸運だった。プロスペクト理論は私たちの研究業績を代表するものとなり、論文は社会科学の分野で引用頻度が最も高いものの一つとなった。その二年後には、フレーミング効果に関する小論をサイエンス誌に発表した。この小論では、選択問題でささいな言葉遣いを変えるだけで選好が大きく変わるなど、重要ではない事柄に選択が左右されることを論じている。
選択の研究では、最初の五年間は人々が意思決定をする状況をひたすら観察し、リスクを伴う選択肢の間でどのような選択が行われるかについて、十数項目の事実を確認した。そのうちのいくつかは期待効用理論に真っ向から対立するもので、その中には以前からわかっていたものもあれば、新たに気づいた点もあった。これらの事実に基づいて、私たちの観察を説明できるように期待効用理論を修正して構築したのが、プロスペクト理論である。
「プロスペクト理論」の生みの親であるカーネマン教授が語る“ノーベル賞裏話”を知ってしまうと、一つの意思決定が、その後の人生を大きく変えてしまうということを実感します。「システム1」による意思決定が、結果的にその後の人生にプラスに働くことはあるでしょう。
ただし、人生において重要な選択が迫られていると自覚できる局面(ライフタスクです)では、「システム1」に陥りやすいことを冷静に受けとめた上で「システム2」を起動させ、納得できたその後で、意思決定につなげていく…人生のリスクヘッジのための大きなヒントとなると感じています。
ノーベル財団はボブ・ディランに文学賞を授与した
ノーベル賞は、物理学、化学、生理学・医学、文学、平和、および経済学の「5分野+1分野」で構成されています(経済学賞はアルフレッド・ノーベルの遺言にはないので、ノーベル財団は正式なノーベル賞ではないとのスタンスです)。その歴史と伝統により、世界が認める最高の賞であり権威となっていますが、森羅万象のこの世界にあって、6分野のカテゴリーの枠だけで“評価”することに、いくばくかの疑問を感じています。
もっとも、心理学者のカーネマン教授が経済学賞をとったことで経済学者がとまどい(強く不満を感じた人も多いとのこと)、その“評価”のあり方に疑義を挟む向きもあるのですが、同じ“評価”でも、私の捉え方と真逆なので、私の疑問は“つぶやき”にとどめておこうと思います。そのつぶやきをもう少し続けてみます。
「ダイバーシティ」が今日声高に叫ばれるのは、そもそも「分類されてしまう」ことが前提にある、と私は感じています。心理学、そして行動経済学が根幹のテーマとしている「認知のバイアス」が脳裏に浮かぶのですね。ノーベル財団が、このことを認識しているのかどうかは定かではありませんが、衆目による各賞にふさわしいのは「〇〇〇である!」、というカテゴリー化(思い込み…)をあえて崩すチャレンジを試みているように受けとめています。ボブ・ディランに文学賞を授与したことを私は想起しました。
さて、行動経済学が世に広く認知される端緒となった「プロスペクト理論」について、カーネマン教授を中心に解説してまいりました。2002年に行動経済学が最初のノーベル経済学賞を獲得して以降、2013年、そして2017年に同分野の研究が経済学賞を取得しています。
今回のコラムの最後に、2017年経済学賞の受賞者であるシカゴ大学のリチャード・セイラー教授の著作である『行動経済学の逆襲/リチャード・セイラー 遠藤真美訳(ハヤカワ文庫)』の「まえがき」を引用します。次回のコラムも引き続き、行動経済学を取り上げることにしましょう。
ノーベル賞受賞者セイラー教授の長所は「ぐうたら」なところ…!?
・本論に入る前に、私の友人であり、メンターであるエイモス・トヴェルスキーとダニエル・カーネマンについて、少し話をさせてほしい。この2つのストーリーを読めば、本書でこれからどんなことが語られるのか、多少なりとも感じとることができるだろう。
いつも鍵をどこに置いたか忘れてしまうような人にも、人生で忘れられない瞬間がある。その中には社会の出来事もある。私と同じくらいの歳の人であれば、ジョン・F・ケネディが暗殺された日がそうだろう(当時、私は大学1年生で、大学の体育館で友人とバスケットボールに興じていたときにそのニュースを知った)。この本を読むような年齢の人だったら、2001年9月11日の同時多発テロもそうだ(そのとき私は寝起きの頭で、公共ラジオ局NPRから流れてくるニュースを聞きながら、何が起きたのか把握しようとしていた)。
そしてまた、個人的な出来事もある。結婚もあれば、ホールインワンもあるが、私にとっては、ダニエル・カーネマンからかかってきた1本の電話がそうだ。私たちはことあるごとに話をしているし、電話はそれこそ何百回もしていて、もはや記憶の欠片もないが、この電話に関しては、どこで受けたか、はっきりと覚えている。
それは1996年初めのことだった。ダニエルから、彼の友人で、共同研究者であるエイモス・トヴェルスキーが末期がんを患い、残された時間は約半年だと知らされた。私は愕然とし、受話器を妻に預けて、気持ちを落ち着かせた。親しい友が余命わずかであると知れば誰だってショックを受ける。
だが、エイモス・トヴェルスキーは、59歳で死ぬような人間ではけっしてなかった。論文も発言も的確かつ完璧で、机の上には紙とエンピツだけが、きちんと並んで置かれていた。そんなエイモスは、最後までエイモスであり続けた。(中略)
・エイモスの鋭いウイットは最後まで健在だった。主治医であるがん専門家には、がんはゼロサムゲームではないと説いている。「がんにとって悪いことが、私にとっていいことだとは限りません」。ある日、私はエイモスに電話をかけて、体の具合はどうですかと尋ねた。するとこんな答えが返ってきた。「じつにおもしろいよ、インフルエンザになったときにはいまにも死にそうに感じるのに、もうすぐ死ぬとなると、とても元気に感じるんだ」
エイモスは6月に帰らぬ人となり、家族とともに暮らしていたカリフォルニア州パロアルトで葬儀が営まれた。エイモスの息子のオーレンは参列者に短い言葉を述べ、エイモスが最後に記した言葉を紹介した。
この何日かで、子どもたちに逸話や物語を伝えられたのではないか。少なくともしばらくの間は、それを記憶に刻んでおいてほしい。歴史や知恵を次の世代に伝えるときには、講義や歴史書を通じてではなく、逸話や笑い話、気の利いたジョークを通じて伝えるというのが、長く息づくユダヤの伝統だろうから。(中略)
・本書を書くにあたっては、エイモスがオーレンに宛てて残した言葉を胸に刻んだ。この本はおよそ経済学の教授らしからぬ本である。学術論文でもなければ、学術論争でもない。もちろん研究の議論はあるが、逸話もあれば、(たぶん)笑い話もあるし、たまにジョークまで登場する。
2001年初めのある日、私はバークレーにあるダニエル・カーネマンの自宅を訪れていた。私たちはよく長話をするのだが、その日も居間であれこれおしゃべりをしていた。するとダニエルが突然、予定が入っていたことを思い出した。
ジャーナリストのロジャー・ローウェンスタインから電話がかかってくるのだという。『最強ヘッジファンドLTCMの興亡』などの著作で知られるロジャーは、ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌向けに私の研究に関する記事を書いており、その流れで私の古くからの友人であるダニエルに話を聞きたいと思ったのだった。私は迷った。席を外すべきか、このまま残るべきか。「ここにいなさい」。ダニエルは言った。「これは楽しくなりそうだぞ」
かくしてインタビューが始まった。友人が自分の昔話をしているのを聞いたところで何もわくわくしないし、誰かが自分をほめるというのは、居心地が悪いものだ。退屈しのぎにそこいらにあるものを手に取って読んでいたところで、ダニエルの言葉が耳に飛び込んできた。「そうです。セイラーのいちばんよいところは、彼がぐうたらであることです。セイラーはほんとうにぐうたらなんです」
私は耳を疑った。自分がぐうたらであることを否定する気は毛頭なかったが、それが私のいちばんよいところだというのか? 私は手と首をぶんぶん振ったが、ダニエルは話をやめず、私がいかにものぐさであるか、口をきわめて褒めそやした。ダニエルはいまも、あれは最高のほめ言葉だったと言い張っている。何でも私がぐうたらだというのは、生来の怠けグセを吹き飛ばすくらい強く好奇心をかきたてる疑問しか追求しないという意味なのだそうだ。私の怠けグセを長所だと言ってくれるのは、ダニエルくらいのものだろう。
そういうわけで、この本を読み進めるにあたっては、これはどうしようもなくぐうたらな男が書いた本だということを頭に入れておいたほうがいい。だからといって、悪いことばかりではない。ダニエルの言葉に従うなら、この本にはおもしろいこと、少なくとも私にとっておもしろいことしか書かれていないのだから。
坂本 樹志 (日向 薫)
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