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心理学とコーチング ~アドラー その8~

心理学とコーチングでアドラーを取り上げて以降8回目を数えることになりました。石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」ではありませんが、「アドラーの言葉」「アドラーの理論の概括」…と、大きなカテゴリーからスタートし、「ライフスタイル」という中心理論、そして、個別テーマに落とし込んでいく、という流れで進めてきました。

アドラー心理学のすそ野は広く、語ることはいくらでも存在するのですが、今回は切り口を変えてみようと思います。それは「アドラー心理学への批判」です。

私は多くの心理学、コーチングに関わる著作を読んできました。フロイト、ユング、アドラー、そしてロジャーズ、エリス…今日名を成している心理学者が提唱する理論や考え方に接すると、そのいずれにも新鮮な気づきを覚え、読書の喜びに浸ってきました。

批判を受け入れ、補い修正されることで理論は強靭化する!

彼らは、それまで「まだ説明がつかなかった」「説明されていない」現象を、「彼らなりの視点」「彼らなりのアプローチ方法」で本質に迫ろうとしてきました。その結果、今日オーソライズされた各理論は、多くの人に「なるほど…」と、「腑に落ちる」理解のあり方を提供してくれます。

さらに私の受けとめ方、ということで許していただければ、ある理論に対して批判されている場合でも、その多くは、「とらえ方の違い、フォーカスのポイントの違いであり、いわば、英語、中国語、日本語といった言語構造の違いで、類似の現象面を説明しているのではないか」、とも感じています。
一方で、近年のSNS等によるヘイト現象とは一線を画す「健全な批判」は重要です。まずは「批判を受け入れた」上で、その「批判の意味するところ」を冷静に分析し、「確かにその通りかもしれない」と受容し、理論を補完し、修正していくことに取り組みます。そうすることで、理論そのものが強靭化していくのだと考えています。

実際に、フロイト、アドラーは没後80年が経過しても、色あせるどころが、さらに輝きを増している、ともいえるでしょう。

私はアドラーを取り上げるにあたって、多くは『現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年』を引用しています。タイトルが物語るように、今日におけるアドラー心理学の中心人物であるモサック氏(シカゴのアドラー心理学専門大学院博士課程教授)と、マニアッチ氏(同大学院で教鞭をとっている)が、アドラー心理学の現代における思考体系と位置づけを明らかにすることを目的に著されています。そしてその最後の章(第11章)が、「個人心理学理論への批評」なのですね。
非常に興味深い内容となっていますので、いくつか取り上げてみたいと思います。

アドラーの誤りを認めるアドリアンたち…「批判のすべてが不当であったわけでもありません」

『完璧なものはありません。この著書を通じて詳述しようとしてきたように、完璧であろうと懸命に努めることは神経症的目標とさえなりえます。それは達成できないものだし、通常は他者を遠ざける結果となります。個人心理学は完璧ではありません。そして、アドラー自身も私たちと同様、一人の人として、だけでなく、理論家としても間違いを犯しました。

アドラーが創造したものは時の試練に際立って良く耐えましたが、多くの批判に晒されなかったわけではありません。そして批判のすべてが不当だったわけでもありません。私たちは、アドラーが言い過ぎたことやとてもわかりきった点には、関与していくつもりはありません。というのは、私たちは細部よりもアドラーの思想の領域に興味があるからです。』

非常にわかりやすいスタンスです。師であるアドラーに間違いがあったことを明瞭に認めており、このような後継者に恵まれたからこそ、アドラー心理学は発展することができた、ということです。風雪に耐えて生き残る理論というのは、師を慕う後継者や弟子による批判を受け入れ、吸収し、そして包摂することで、さらにファンを獲得していく、ということですね。
著書では、「伝統的批判」を5つ、個人心理学の「空所」を6つ取り上げています。代表的なものをピックアップしてみましょう。まずは「伝統的批判」です。

『アドラー初期の講義の中で、次のような逸話があったと聞いています。聴衆の一人が立ち上がって「しかしアドラー先生、あなたの話すことは全て常識です!」と発言しました。アドラーは、「ですが、それで何が悪いのですか? 私はもっと多くの精神科医がそうであってほしいと思います」と答えたと言われています。アドラー派は、伝統的に「常識」を話すという批判を受けてきました。アドラー派は、その批判を受け入れます。それは「正当な批判」で、アドラー派は、実際に常識を話します。アドラーは専門用語が嫌いで、自分の体系は科学ではなく、哲学に基づかせたいと望み、必ずしも学問的訓練を受けていない人々にも呼びかけました。』

アドラーは精神科医の枠を超えて社会啓もう活動に取り組みました。

聴衆の一人の考えは「常識を語るのはナンセンスだ」という思いがあるのでしょう。この人からは、「誰しもが当たり前に思うことを、個人心理学という呼称で“学問”に位置付けるのは傲慢だ」というくらいの強い“圧”を感じてしまいますが、アドラーはあっさりと、その批判をかわしています。

アドラーはフロイトと違って、個人心理学を科学(医学の一分野)として確立することには、こだわっていなかったようです。むしろ「心理学的な視点・考察」を用いれば、日々の暮らしで生じる人間関係の悩みに対して、解決が困難だと思い込み立ち往生している人たちに、「実はそれらは決して解決が難しいわけではなく、○○というアプローチによれば、しっかりとクリアできるのですよ」、ということを広めたかったのだと思います。もちろんアドラーは医者でしたから、精神病理に誠実に向き合い、多くの患者の治療に当たっています。ただそれ以上に一般の人々への啓もう活動に力を入れた人生でした。

今日のコーチングの体系化に当たって、アドラー心理学が大きく貢献しているのは、このような背景に基づいているからなのです。
このことに関連する批判もあります。その批判は「アドラー心理学は、健常者にだけ機能する」、です。この批判に対しては、

『全てのものが健常者に機能します。そういう点から健常者の多数がクライエントとなるのです。アドラー心理学はアドラーの伝統に従ってきました。数多くのさまざまな人を対象としてきました。その中には、精神病者、犯罪者、子どもたち、青年期の人々、家族、そして、異文化間の治療が含まれます。フロイト派は患者と感情転移関係に入ることができないので、精神病者を対象としませんでしたが、アドラー派は比較的感情転移に無関心なため、初期の時代から精神病者を治療してきました。

アドラー心理学が、「子どもたち」を対象とすることで「長所を持つ」とされることに対して、類似の批判が向けられましたが、それが概して意味することは、アドラーの体系が子どもたち「だけ」を対象とするというものです。そう、アドラー心理学の原理は子どもたちをよい対象とします。そして、アドラー、ドライカース、その他のアドラー派の人々は、児童指導に対して幅広く著述してきました。しかし、それは等しく他の多くの個々人にも適用可能なのです。』

児童教育には、世の中に広く適用できる“原理”が存在する。

前回のコラムは「児童教育」を取り上げました。上記にあるように、批判に対して、繰り返し「そう、…」と素直に肯定しています。私はアドラー心理学のファンに女性が多いことは当然だと感じています。人生にとって“最も偉大な事業”は「子育て」だと私は確信しています。ですが、世の中には「性役割分業」の価値観がぬぐえないためか、「子育ては女性が主体」という社会的圧力が存在しています。

アドラー心理学は、その実相を踏まえた上で、子育てに悩む多くの女性に処方箋を与えてきました。子育ての責任を一身に受けている(と思い込まされている)女性は、ともすれば「煮詰まってしまい、どうしようもない不安」にさいなまれます。多くの実践を蓄積し、歴史的に厚みある体系を構築している「アドラー心理学の児童教育」は、このような批判に対して、余裕をもって「そうですよ」と受容した上で、「子どもと大人は違う」という世の中の思い込みを上手に外し、「児童指導こそが、大人を含めた世の中の多くの人びとに適用できる“原理”である」と述べているのです。

「ライフスタイル」で果たして全てを説明できるのか?

最後にもう一つ「批判」を取り上げておきましょう。「伝統的な批判」とは別の、個人心理学の「空所」と分類される、「ライフスタイルが全てだ、全てがライフスタイルに帰する」についてです。

『いいえ、そうではありません。ある人の行うこと全てが、ライフスタイルの問題というわけではありません。目的地に辿り着くためには認知に基づく地図が必要ですが、それは目標を示すもので、私たちは他者の車を注視し、道路状況を考慮したり、道路標識を見たりもします。(中略)

ライフスタイルは私たちが述べてきたように、どのように所属すべきかを私たちに教え、誘導し、指導するために発達します。私たちがどのようにして絆を形成し、馴染み、自分の居場所を見つけるかという問題は、私たちのライフスタイルによっています。(中略)

私たちの行動や生活パターンにさえも一貫性は見られるでしょうが、それはライフスタイルの問題ではありません。というのは、どのように所属するかという問題を含まないからです。例えば、私たちは昼食に何を食べるかということに関して、かなり一貫した好みを持つでしょう。しかし、それはたいてい、私たちのライフスタイルを貫く信念に基づく決定ではありません。

こうした行動を組織するのは何でしょうか? それは「自己」でしょうか? ライフスタイルの内部に含まれない「自己」という要素はあるのでしょうか? こうした分野についてはより詳細に探求することが必要です。今のところ、私たちは仮説を有するだけであり、はるかに多くの理論や研究がこの問題に関して探求される必要があります。ライフスタイルと相互に作用する状況的要素というものがあり、こうした要素により多くの注意を向ける必要があります。』

少し切れ味の薄い(わかりにくい)記述になっています。「ライフスタイル分析」については、臨床におけるアドラー最大の功績だとされています。その有用性が認められた訳ですが、この批判は「人の行動原理は全てライフスタイルによるものだ、と安易に(便利に)使いすぎており、理論そのものに空白がある」と言っているのです。それに対して、「ライフスタイルをそのように捉えていない。ライフスタイル以外(相互に作用する、と表現した上で)にも、その人そのものを表す要素がある」と回答しています。

ただ、批判されているように、アドラー心理学では「ライフスタイル」をその人の態度全体の裏付けるもの、すなわち自己(概念)も包含して捉えようとするニュアンスが存在します。「それは違うのではないか」という批判なのですね。

このあたりは、言葉の定義、捉え方ともいえるのですが、「自己」は心理学において、ある意味で最も重要な概念であり、「人とは何か」という命題に対する、本質な回答が求められます。
アドラー心理学は、この「自己」に対して特に突き詰めておらず、したがって回答もあいまいな印象を受けます。

もっとも、最後に「私たちは仮説を有するだけであり、はるかに多くの理論や研究がこの問題に関して探求される必要があります。」とまとめていますので、当該批判に対しては謙虚に受けとめていることが理解されますね。

今回のコラムは、アドラー心理学への批判に対して、現代のアドリアンがどのように回答しているのか、について取り上げてみました。その回答のあり方は、単純な「抗弁」ではなく、まずは「受容し」、その上で「誤解を正し、あるいは主張すべきところを冷静に述べる」という流れです。そこはアドリアンの第一人者の回答ですから、回答のスタイルについても「なるほど… そのように応えていくのか…」と感じることができます。

次回のコラムも引き続きアドラーを語ってまいりましょう。

坂本 樹志 (日向 薫)

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