心理学とコーチング ~ロジャーズ その2~(2020/11/24)

前回のコラムの最後に取り上げたロジャーズの言葉は、『ロジャーズ選集 カウンセラーなら一度は読んでおきたい厳選33論文(H.カーシェンバウム, V.L.ヘンダーソン編/誠信書房(2002年2月15日第3刷)』のなかの一節です。

この選集は上下2巻、併せて600ページを超える大著です。理論だけでなく実際のカウンセリングシーンやロジャーズの思想、そして「私を語る」というテーマの講演等、ロジャーズのすべてが盛りこまれている、とも言えそうな構成です。今回のコラムは、この本を取り上げてみようと思います。

ロジャーズは他者を受容するということについて深く洞察しています。

前回のコラムの最後に引用した、
「私が他人を受容することができると、それはとても報いられるものである」
の後は、以下のような言葉が続きます。

他人とその感情を心から受容することは、理解することと同じようになまやさしいことではない。
私に敵意を持っている人を本当に許せるだろうか。彼の怒りが彼の本当のものであり、正当なものとして受容できるのだろうか。人生観がまったく異なっている人を受容できるだろうか。
私に大変な好意を持ち、尊敬し、私を人生のモデルにしようとしている人を受容できるだろうか。これらすべてのことが、受容の中に含まれており、だからそれはたやすく得られるものではない。
現代文化では、「誰でも私と同じように感じ、考え、信じなければならない」とすべての人が信じることが、ますます一般的になってきたと思う。自分の子どもたちや親たち、配偶者たちが、特定の論争や問題について、自分と異なる感じをもつことをなかなか許せない傾向がある。 またクライエントや学生たちが、私たちと異なる行動をしたり、自分の経験を自分流に解釈したりすることを許さない。国家レベルでは、わが国と異なった考えを他国がもつことを許せないのである。しかしこうした人間の独立性、あるいは各自の経験を自分流に使い、そこに自分流の意味を見つける権利があること……このことが人生の最も貴重な潜在力のひとつであると私は考えるようになった。 人間ひとりひとりが、極めて現実的な意味で、自分自身という島である。人はみずから進んで自分自身になろうとし、自分自身であることを許されるならば、そのときはじめて他の島に橋をかけることができるのである。そこで、私が他人を受容できるとき、それをもっと具体的にいえば、彼の感情や態度、信念などを彼の生きている現実のものとして受容できるならば、私は彼がひとりの人間になる援助をしているのである。このことにはとても大きな価値があると思われるのである。

「他人を受容することができると報いられる」ということばを聞いて、「うん、そうだ」と思える人がとれだけいるでしょうか。

私のこの「座右の銘」の一行だけで、ロジャーズの思いが伝わるとはとても思えないので、それに続くロジャーズの語りを引用してみました。ロジャーズの言葉は、自らがいろいろな機会を通じて「逆説的」とコメントするように、一見ではわかりにくい内容です。

他者が、自分と異なる感じをもつことをなかなか許せない。私たちと異なる行動をしたり、自分の経験を自分流に解釈したりすることを許さない。

このコメントに触れたとき、どう感じるでしょうか。ネガティブな考えともいえ、「それはよくない」と否定し、戒めようと思うのが通常の反応だと思います。
ところがロジャーズは「人間の独立性」ととらえ、さらに「自分流に意味を見つける権利」であるとし、肯定します。
そして、この「現実的な意味で、自分自身という島」であることが、「人生の最も貴重な潜在力」であると評価し、その上ではじめて「他の島に橋をかけることができる」と言うのです。

伝わりにくいだろう自分の気持ちを「東洋的な観点」と語るロジャーズ。

ロジャーズの言葉を続けます。

次の体験はとても伝えにくいものである。私が自分自身や他人のなかの現実にひらかれていればいるほど、ことを急いで「処理」しようとしなくなってきている。私が自分の内部に耳を傾けようとし、私のなかに進んでいるその体験過程に耳を傾けているとき、そしてまた、その同じ傾聴の態度を他人にも広げようとするとき、それだけ私は、複雑なプロセスを尊重するようになってきている。私は、ただ自分自身になること、他人がその人自身になるように援助をすることにますます満足するようになった。このことが、聞きなれない、ほとんど東洋的な観点と思われるだろうことはよく承知している。

前段でロジャーズは、「他者が、自分と異なる感じをもつことをなかなか許せない」ことを否定していません。否定してしまったら「無条件の肯定的受容」ではなくなり、自分が提唱する理論との矛盾が生じます。では、それにとどまってよいのか…

そうではないことを説明しようとしているのが、その後の言葉です。つまり、まずとにかく受容するのです(それが明らかにおかしな考え方であっても)。それがゆっくりとした時間の流れのなかで(複雑なプロセスを経て)、自分が変容し、そして他人も変わっていくことをロジャーズ自身が体験したのです。ここは論理ではありません。とにかく体験し実感できたのです。

ロジャーズは、この心の中の不思議な動きについて、他者に何とか伝えようと、言葉を選びながら語ります。それでも「果たして理解してくれるだろうか、共感してくれるだろうか…」と感じているのでしょう。「東洋的な観点」と、禅問答“的”であることの自覚を含めて言葉を続けます。

他人のために何かをやってあげないならば人生とは何のためにあるのだろうか。私たちの目的のために、他人を型に押し込まないなら、人生に何の意味があるのだろうか。私たちが学ぶべきと考えていることを教えないなら、いったい人生は何の意味があるのだろうか。私たちと同じように考え、感じさせようとしないならば、人生には意味があるだろうか。

ロジャーズは、「たいていの皆さんは、心の中でこのような態度を持っていることと思う」と語ります。
アグレッシブです。使っている言葉もあえて「押しつけがましい表現」を選択しているように感じます。
このように多くの言葉を費やして、「私の最も生々しい経験、自身の私生活や専門職の生活から学んだ最も深い経験」として、一つの到達点を語るのです。

自分自身や他人の現実を理解し受容しようとすればするほど、それだけ変化が起こり出してくるように思われる。非常に逆説的なのであるが、誰でも進んで自分自身になろうとすればするほど、自分が変化するばかりでなく、自分と関係する人たちもまた変化していくのである。

来談者中心療法における、カウンセラーに必要な3つの態度条件である、「無条件の肯定的受容」「共感的理解」「自己一致(純粋性)」は、ロジャーズ理論の核ともいえるものです。

ロジャーズが独自性の高い理論を打ち立てたその背景に、自身の経験を通じて「自分の心が何を感じているのか」を究めようとしたことが伝わってきます。そして「その感じ」がどのようなときに「変化する」のか、どのように「自分が変わっていく」のか、そして「実際に変わったのか」を、他人事ではなく、忠実な自分事として確信できるまで、自問自答を繰り返してきたのですね。その徹底ぶりが、ロジャーズ自身の語りから伝わってきます。

そして自分が「“本当に”変わったとき」、他者も「変わっていく」ことを確信したのです。

ロジャーズは「自己開示」を自身の終生の哲学としました。

ロジャーズは、この自分の思いを知ってほしいと、言葉を尽くし語り続けます。「自己開示」です。
最後に、「私はもう47年余りも結婚生活をつづけているが読者に私の結婚生活についてお伝えしたいと思う」という言葉から始まる、70歳のときに執筆した内容(タイトルは「私の結婚」)を取り上げます。
妻ヘレンとの出会いから、70歳の現在の気持ちについて、時系列でその時々の思いを綴っています。最後のくだりを紹介すると…

私が、自分たちの結婚でいえる最も意味深いことは(あまりうまく説明できないが)、お互いがいつも、相手の成長を喜び、熱望しているということである。私たちは個人として成長してきたし、その過程の中で一緒に成長してきたのである。

まさに、社会学上の概念であるロマンチック・ラブですね。
40代のときの重大な危機についても虚心に語ります。

もっと重大な危機があった。それはある重症の分裂病(2002年の出版なので旧の病名です)の若い女性とかかわっていたときに訪れた。長い治療期間を費やしたにもかかわらず良い結果が得られなかったセラピー関係から起こったと思われる。 そのことを話すと長くなるが、彼女を助けなければと思い詰めたので、私が彼女の自己から私の「自己」を切り離すことができないところまできていた、ということを述べておけば十分だろう。私は文字どおり、私自身を失ったし、自分自身の境界を見失った。 私を助けようとする同僚の努力もあまり役に立たなかったし、私は気が狂うのではないかと(それももっともだと思うのだが)思うようになった。 ある朝、研究室へ来て1時間ばかりたってから、私はすっかりパニック状態になった。私は家まで歩いて帰り、ヘレンに「ここから出ていかなきゃいけない、ずっと遠くへ」と言った。ヘレンはもちろん、私がどういうことになっていたのかある程度わかっていた。 彼女の答えは、私の心を和らげた。彼女は「いいわ、すぐいきましょう」と言った。私の仕事を引き継いでもらうための電話を何本かしてから急いで荷造りをして、2時間も経たないうちに道路に出ていた。その後6週間以上帰らなかった。 私はよくなったり、悪くなったりであった。それから帰ってきて、同僚の一人からセラピーを受けることになり大変助かった。しかし、私のいいたいことは、このときヘレンは、最悪の状態を乗り越えている。私は狂っていないと確信していて、あらゆる方法で私に援助の手をさしのべてくれたことである。 わあ! 私はこのようにしてしか感謝の念を表現することができない。これが私の危機にいつもそばにいてくれたという意味である。私は彼女が何か苦しんでいたり、悩んでいたりすることがあったら、同じようにしたいと思っていた。

「逆転移」です。プロのカウンセラーにとって、絶対回避しなければならない態度です。ところがロジャーズはそうなってしまった自分を赤裸々に語ります。その原因は患者である女性との関係から生じており、妻であるヘレンにとっても過酷な状況です。

その妻ヘレンの存在によって、ロジャーズは元の世界に戻ることができました。ロジャーズがヘレンへの感謝の思いを、読者に伝えようと必死になっていることが伝わってきます。

私は今ここで、「ロジャーズさん、あなたのお気持ちは私に十分に伝わっています!」とメッセージを送ることにします。

今回のコラムは、ロジャーズの言葉を通じて、ロジャーズ理論の背景にある“何ものか”にアプローチしてみました。どこまで接近できたかは、不確かなところですが、次回もロジャーズについて語ってみようと思います。

(日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~カウンセリング理論の歴史とロジャーズ~(2020/11/16)

今日コーチングが広がりを見せている、その背景に心理学が存在していることを、「心理学とコーチング」という大きなタイトルを冠にシリーズ化してきました。そのコラムの回数も34を数えます。その心理学の中でも、特にコーチングとの親和性が高い、アドラー心理学については、13回にわたって解説を重ねています。

心理学は幅広い学問であり、自然科学に分類される理論から、アドラー心理学のように哲学のカテゴリーとしても成立しそうな理論も存在します。

コーチングは、多くの心理学理論の影響を受けていますが、そのなかでの濃淡はあるものの、特定の分野に偏った体系ではありません(もし偏っているとするならば、それはコーチングではなく、その心理学理論の派生理論といえます)。

そこで、今回よりアドラーから少し離れ、その濃淡のある心理学の各理論を紹介してまいります。もっとも、コーチングと離れすぎるのも、いかがなものかと思われますので、カウンセリングを中心とした心理学理論について解説することにします。

まずは「カウンセリング理論の歴史」を簡潔な説明を付して流れを紹介します。

  1. フロイトが「ヒステリーの研究」から体系化し創設した「精神分析(理論)」…1900年~
  2. 本質的性格の違いからフロイトとは早期に決別し、「共同体感覚」を理論の中心に据えて社会啓もうに意欲的に取り組んだアドラーの提唱する「個人心理学」…1911年~
  3. フロイトに傾倒したユングが、後に袂を分かって確立した「分析心理学」…1913年~
  4. ビネーソーンダイクがリードした「精神(教育)測定運動」を母体とする、心理テストを活用した「特性・因子理論」…20世紀初頭~
  5. ①古典的条件付け(パブロフの条件反射理論)、②オペラント条件付け(スキナーの実験で実証)を母体として、具体的な精神療法として確立していった分野であり、他のカウンセリング理論とは一線を画する自然科学的アプローチの「行動療法」…1940年代~
  6. カウンセラーに必要な態度条件として、「無条件の肯定的受容」「共感的理解」「自己一致(純粋性)」の3つを挙げ重視した、ロジャーズ「来談者(クライエント)中心療法」…1940年~
  7. 「今、ここ」にいる自分を覚知し、未完成な問題を完結させるために、ゲシュタルト(部分の単純な総和ではない意味のある全体構造)を再構成することに注力するパールズが提唱した「ゲシュタルト療法」…1951年~
  8. あやまった受け取り方(イラショナル・ビリーフ)の存在を指摘し、まともな受け取り方(ラショナル・ビリーフ)に変えていくよう働きかけていく、エリスが提唱した「論理療法」…1955年~
  9. 自我を5つに細分化し(CP・NP・A・FC・AD)、その強弱、バランスで性格を把握する①構造分析をベースに、②交流パターン分析、③ゲーム分析、④脚本分析の4つで構成されているバーンが創始した「交流分析」…1950年代半ば~
  10. 「生きる意味が見いだせない」という、それまでは存在しなかった理由で発症する実存神経症に対して、哲学をカウンセリングの中心軸に据えてクラスエントに接していく「実存主義的アプローチ」…1960年代~
  11. 複数のカウンセリング理論・技法を柔軟かつ積極的に用いる実用的な立場でクライエントに接していく、アイビィの「マイクロ技法の階層表」を端緒として体系化されていった「折衷主義」…1983年~

ロジャーズの「来談者(クライエント)中心療法)」とコーチングの関係とは?

フロイト、アドラー、ユング、そしてパブロフ、スキナー(行動療法)は、これまでのコラムで取り上げてきましたので、今回のコラムは、ロジャーズの「来談者(クライエント)中心療法)」を解説することにします。

コーチングは多くのカウンセリング理論の影響を受けて、体系化されてきました。そのなかで、ロジャーズが提唱した「来談者中心療法」こそが、もっとも濃厚にコーチングとの関わりが見いだせると言えそうです。
というのも、カウンセリングは、そもそも医者でなければ行ってはならない、というのが不文律でした。それに対して初めて正面から異議を唱えたのがロジャーズです。その結果、非医者でもカウンセリングの実施が可能であるという、今日に至る流れが形成されました。

そして理論の名称もポイントです。クライエント(client)の日本語訳は「依頼人、顧客」です。ロジャーズ理論の日本語訳では「来談者」となりますが、同様な印象を受けるネーミングです。一方、医者が接する心理療法では、患者(patient)となります。患者にとって医者は先生です。つまり対等とは言いづらい関係性です。

「非医者でもOK」、ということで多くの人にカウンセラーを目指そうというモチベーションを与え、その結果、カウンセリング、カウンセラーのすそ野が広がりました。対象者もクライエントですから、カウンセラーとの関係は対等です。もしロジャーズが「クライエント中心療法」を始めていなかったら、今日、コーチングの広がりは限定的なものになっていたかもしれません。

ロジャーズの理論はコーチングのバックボーンとなっている。

さて、ロジャーズとコーチングの関係を、理論名称という外側からの説明で始めていますが、理論内容についても、深い関わりがあります。というよりベースとなる概念は、ロジャーズの考えをそのまま適用していると解釈できます。

ロジャーズはクライエントを徹底的に信頼します。「よくなる力が人間には内在している」という人間への信頼感です。
ロジャーズの世界には、ジャッジメントがありません。つまり「これはよい」「これはわるい」という評価軸がないのですね。「無条件の肯定的受容」と、少し格調の高い表現で一般化されていますが、「丸ごと受け入れる」ということですから、真の意味でこれを実現するには、カウンセラーにとってよほどの覚悟が求められます。コーチングと異なり、カウンセリングでは精神的にかなり不安定な人もロジャーズのもとに訪れます。その人たちに対しても何かのフィルターを通して見ることを否定したのです。

「共感的理解」についても、コーチングにおけるコーチに求められる基本的要件となります。共感とは「ともに感じる」ということですから、簡単ではありません。人はそれぞれ別々の個体ですから、つまり自分ではないので、考え方、捉え方、感受性は当然異なります。ですから「私はあなたと同じ感覚です」とは、言えないのが自明です。つまり厳密に言えば、同じ感覚にはなれないのです。だから「共感“的”理解」なのです。

クライエントは私ではない。したがって同じではない。その上で、どのように考えているのか、どのように感じているのかを、五感をフルに働かせて、クライエントの気持ち、感じ方を想像します。謙虚に、思い込みを排してクライエントに寄り添うのです。その「努力と思い」がクライエントに伝わって信頼関係が形成されていくのです。
言い換えれば、「私はあなたの気持ちがわかる!」と言い切ることに慎重になる心持が、「共感的理解」につながっていくと言えそうです。

「…ねばならぬ」から解放されることで自己一致に近づいていく。

「自己一致(純粋性)」についても説明しておきましょう。

自己概念は、「自分とはこういう人間である」と受けとめている認識です。経験は、そのような考えとは別に日々体験していくことです。その経験に当たって、自分の認識とズレていなければ、自然に受容できます。ところが、その認識では対処できない場面に遭遇すると、その自己概念を変えることに抵抗を覚え、原因を他に求めて責任を転嫁したり、さまざまな防衛機制を働かせて自己概念を守ろうとします。自己概念が壊されることは自分を失うことになるという恐れから、そのズレを他人からも、また自分自身からも隠してしまう傾向があるようです。

このことを図で表すと、
Ⅰの領域…自己概念と経験が一致している領域
Ⅱの領域…経験は自己概念に合っていないので、歪曲(合理化)されて受け入れられることになります。
Ⅲの領域…経験は自己概念と著しく矛盾するので、意識の外へ締め出され(抑圧され)てしまいます。

ロジャーズは、このズレが縮まるほど、つまりIの領域が大きくなればなるほど、自己一致に近づくとしています。自己一致とは、あるがままの自分、つまり「泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑い、悲しいとき、楽しいとき、その気持ちを純粋に受けとめ素直な感情として表現できる人」ということです。
人は往々にして「…ねばならぬ」にとらわれてしまいます。このことから自由になることで、人間的で健全な自己が形成される、とロジャーズは言うのです。

最後に、私が座右の銘にしているロジャーズの言葉を紹介します(4月4日のコラムでも取り上げていることをご承知おきください)。

「私が他人を受容することができると、それはとても報いられるものである」
「誰でも進んで自分自身になろうとすればするほど、自分が変化するばかりでなく、自分と関係している人たちもまた変化していくのである」

(日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~アドラー その13~(2020/11/05)

今回のコラムは、奥の深いテーマを取り上げたいと思います。「女性と男性」です。まずは、アドラーの発言の紹介から始めましょう。『人間の本性 人間とはいったい何か(長谷川早苗訳)/興陽館(2020年2月15日)』の中からの引用です。

分業は社会の維持に絶対欠かせない要素です。分業するには、だれもがなにかしらの立場で自分の責務を果たす必要があります。もしこの要求にくみしなければ、共生の維持、ひいては人類の存続を否定することになります。仲間としての役割から抜け落ち、共生を乱す存在になってしまうでしょう。 この種の分業は、人間に2つの性があるということからも行われています。一方の性である女性は、身体的な特徴を理由に、最初から特定の仕事から締めだされています。対して、男性には、もっとほかにできることがあるのだからしなくてもよいとされている仕事があります。こうした分業は、本来、偏見のない基準に従って行われなければならないでしょう。 特定の性格が「男らしい」とされ、別の性格が「女らしい」とされますが、なにかしらの基本事実があってそう評価されているわけではありません。なぜなら、男児と女児の精神状態を比べ、こうした分類が確認できたように見えたとしても、当然の事実だということはできないからです。確認できたように見えるのは、その人がすでに特定の枠にはまり、力について偏った判断をして人生のラインを狭めているからです。力関係を信じる人たちは、その認識を育てていくしかなくなります。要するに、男らしい性格と女らしい性格の区別には、正当な理由はないのです。男女の性格がどのように力の追及という要求を満たすかを見ていきましょう。 男児が大きくなると、男らしくあることの重要性はほとんど義務になります。野心と、力や優越の追求が完全に結びつき、男らしくあることの義務と同じになります。力を追求する子供の多くは、男らしいと意識するだけでは満足せず、自分が男であり、特権があるということをつねに示して証明しようとします。自分を目立たせて男性的な性格を強調しながら、周囲の女性に対しては暴君のようになり、相手の抵抗に応じて攻撃するのです。強情や激しい怒り、あるいは狡猾な手段を使って、自分の優越を示そうとします。 能力検査の結果を比べると、実際、数学などの特定の教科では男児が、語学などでは女児が能力を示していました。男性の仕事の予習となるような教科では、男児の方が能力が高かったのです。けれど、これはただそう見えるだけです。女児の状況をよく観察すれば、女性の方が能力が低いという話は作り話であり、真実のように見えるうそだとわかります。 現在の文化で、女児が自信や勇気を持ちつづけることは簡単ではありません。一方、能力検査では、おもしろい事実が判明しています。14~18歳の女児の一部が、男児を含めたどのグループよりも優れた能力を示したのです。調べてみると、こうした女児の家庭では、母親も、あるいは母親だけが自立した職業についていました。つまり、女児たちは家庭で、女性の方が能力が低いという偏見がない状況、または偏見をほぼ感じない状況であったのです。これは、母親が才腕で生計を立てている様子をじかに目にしたことが理由です。そのため、女児たちはずっと自由に自立して育つことができ、女性への偏見につきまとう妨害からほぼ影響を受けずにすんだのです。 つまり、女性への偏見の証拠となる数々の現象は、よく観察すると、精神の成長が妨げられたからこそ生まれたものなのです。わたしたちは、どんな子どもも、通常言われる意味で「才能がある」、能力が高い人間に育てることができると主張するつもりはありません。けれど、子どもを才能がない人間に見えるようにすることはできると思います。 こうした現象すべての根底にあるのは、わたしたちの文化の誤りです。ここに偏見が入り込めば、いたるところに混入し、たるところで見つかることになります。 男女がうまく折り合い、バランスがとれているときにはっきりと見られる特徴は、仲間として生きている状態です。民族間の関係と同じように、男女間の関係でも、従属した状態というのは耐えられないものです。従属によって男女それぞれには、ひどく大きな困難や負担が生じます。ですから、だれもがこの問題に注意を払うべきでしょう。この問題はあまりにも広く及ぶので、だれの人生にも関わります。

アドラーは「偏見が生じてしまうのは、わたしたちの文化のあやまりが作用している」と語ります。

アドラーは「男女同型」を前提として、そこから、女性と男性について語りを進めていきます。私は、アドラーがどのように女性と男性をとらえているのか…どこかのタイミングでテーマにしようと思っていました。アドラーを取り上げて以降13回目のコラムとなり、頃合いだと判断しています。

上記はアドラーの1926年の講演の中の一節です。今日、“亭主関白”という言葉は、ほぼ死語となっていますし、“草食性男子”がクローズアップされているように、「時代は変わった。女性の性を100年前と同様に捉えている人はそうそう多くないのではないか…」と受けとめるのではないでしょうか。
私が冒頭で「奥の深いテーマ」とコメントしているのは、この受けとめ方に対して分け入ってみようと考えたからです。女性と男性の性を語ることは、ときに大きな議論を招きます。それはジェンダーという概念について、本人が意識的か無意識的かは別にして、一つの価値観を表すことになるからです。

さて、ここからどのように展開していこうかと思案するなかで、昨年の東京大学の入学式で、上野千鶴子氏(東京大学名誉教授)がスピーチした内容を想起しました。多くの新聞やマスコミが取り上げており、一つの社会現象としての広がりが見出されます。以下は、MBS(番組供給系列:TBSネットワーク)のアーカイブからの引用です。

女子は子どものときから可愛いことを期待されます。

「学内にも社会にも性差別が横行しています。」とズバリ発言。「男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとの間にはねじれがある。女子は子どものときから可愛いことを期待されます…だから女子は自分が、成績がいいことや東大生であることを隠そうとするのです」と指摘した。 さらに、「(東京大学に入学し)がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。あなたがたの恵まれた環境と能力とを、恵まれない人々を貶めるためにではなく、そういう人々を助けるために使ってください…ようこそ東京大学へ」と語りかけた10分間の祝辞に「感動した」と共感の声が沸き起こる一方で、「祝辞にふさわしいのか?」と賛否両論が噴出し、Twitterで「上野千鶴子」がトレンド入りにするほど大反響を産んだ。

https://www.mbs.jp/jounetsu/2019/06_30.shtml

いかがでしょうか。
アドラーが100年前に語っているところと、それほどの違いがないようにも感じられます。
なお、上野氏の発言は、女性にフォーカスして社会を洞察していますが、一方で「有毒な男らしさ」という今日的ウイットをまぶしたワードがネットの世界を中心に広がっています。当時アドラーが語った、「男性的抗議」(7月13日のコラム~アドラーその2)についても、息絶えることなく継続中なのかもしれませんね。

アドラーは、「14~18歳の女児の一部が、男児を含めたどのグループよりも優れた能力を示したのです。…女児たちは家庭で、女性の方が能力が低いという偏見がない状況、または偏見をほぼ感じない状況であったのです」と語っています。つまり、偏見のない環境で育った。ある意味で“恵まれた環境”であったから「自由に自立して育つことができ、女性への偏見につきまとう妨害からほぼ影響を受けずにすんだ」のだ、ということですね。

上野氏の「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。」という発言がもっとも物議をかもした点ですが、成功を勝ち得た人たちが、「自分が寝食も惜しんで努力したその結果である」と自明のように感じることに対して、別の視座を提起することで、「より深く考えてみてください」と投げかけているのでしょう。

もし自分が成功していると感じられるとしたら、それは環境のおかげである。

「努力の成果ではなく」と言い切っているのは、「環境のおかげ」を強調するためのテクニックとも解釈できますが、東大生となった人たちに対し、エリート意識が膨れあがってしまうことで、ともすれば、努力していないと感じる(あくまでもエリート意識をもった人の価値観で)人を選別してしまうことのないよう、強い言葉で訴えているのだと私は感じました。 「ノブレス・オブリージュ」です。

男女の性差について、脳科学の見地での解明も進んでいます。ただ、それは「優劣」という概念ではなく、つまり価値観とは別次元の内容です。
居酒屋で、「女性ってさあ…」、「男性はね…」という会話の多くは、その人の価値観に基づいての発言です。その価値観とは、その時代におけるマジョリティとしての文化を背景としています。
女性と男性についての捉え方は、100年前とはかなり変わっていると想像しますが、それでも言葉で表しにくい(あえて言葉で表さない)違いを多くの人が意識しているのは確かでしょう。

「日向さんはどうなんですか?」と訊ねられた場合… 私はアドラーが唱えている「男女同型」という考え方を、意識に取り込みます。女性と男性は、まず“外形的に”多くの点で異なります。ここから、まず「違っている」と捉えて、以後、多くの現象を、そこに結び付けてしまうという傾向が生じます。

なので、「そもそも女性と男性を分類しないで、“人”という種のレベルで考えてみよう」と自分に言い聞かせます。すると…見え方が変わってくるのですね。「女性男性という分類そのものは、自明とされているが、“人”という種について、それとは別の“なじむ分類”も存在するのではないか…」といった概念がもたげてきます。その別の“なじむ分類”は、現時点では提起できていませんが(笑)、自分自身の密かなテーマとして持ちつづけていこうと思っています。

「総論は賛成」、でも…

コーチングの前提には「ダイバーシティ」があります。私がもっとも大切にしたい理念です。多くの人がそのことを理解しています。ただ、人というのは「総論賛成」でも、自分に身近な問題が降りかかってきたとき、そう思っていたにも関わらず、そうではない“何か”が浮上してくることがあるでしょう。

その葛藤に直面したとき、その“何か”は、“自分の素”が捉えているのではなく、「時代の価値観」、場合によっては「偏見」に侵蝕されているのではないか…と疑ってみることが大切なのかもしれませんね。

「男女がうまく折り合い、バランスがとれているときにはっきりと見られる特徴は、仲間として生きている状態です。」

アドラーのこの言葉をしっかり噛みしめることで、今回のコラムを終えたいと思います。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その12~(2020/10/26)

これまでのコラムで、アドラーの無意識の捉え方が、フロイト、そしてユングと異なっていることを何度かコメントしています。アドラーは、意識と無意識をあえて分割しないで、全体的であるとし、「人は自然に形成される目的に向かって動いている」、と説明しています。今回のコラムでは、このあたりのことに迫ってみたいと思います。

『人間の本性 人間とはいったい何か(長谷川早苗訳)/興陽館(2020年2月15日)』のなかに、アドラーが、“意識と無意識の関係”を語っているところがあるので、抜萃してみましょう。

『集中力が制限されると、人は忘れやすくなったり、大事なものを紛失したりします。ある程度の注意力や関心はあるのでしょうが、それが十分でなく、なにか不快なことで低下しているのです。この不快感が、ものをなくしたり忘れたりする行為を導き、うながし、起こさせています。 たとえば、子どもが本をなくす場合などがそうです。たいていはすぐに、子どもが学校の環境にまだなじんでいないことが確認されます。また、しょっちゅう鍵をどこかにおき忘れたりなくしたりする主婦もいます。この場合も、家事に慣れないということが判明するのです。(中略) ここまで読めば、出来事や現象について、体験者本人はたいてい十分には言い表せないことがわかったでしょう。たとえば、注意深い人がなんでもすぐに気づく理由を自分で言えることはほとんどありません。
つまり、意識の領域では見つからない精神器官の能力があるのです。無理に意識して注意することはある程度までできるとしても、注意に対する刺激は、意識のなかでなく関心のなかにあります。この関心もまた、¬ほとんどが無意識の領域に存在するのです。(中略)
たとえば、虚栄心の強い人はたいてい自分の虚栄心に気づいておらず、反対に、控えめに見えるようにふるまいます。虚栄心が強くあるためには、虚栄心を自覚している必要などないのです。それどころか、自覚してしまうと、その人の目的にとって都合がわるくなります。知ってしまえば、控えめにふるまうことができないからです。自分の虚栄心には目を閉じて、注意をほかにそらしているときだけ、見せかけの安全をつかめます。こうして、プロセスの大部分は暗がりのなかで進行します。』

「人は自然に形成される目的に向かって動いている」をひも解いてみると…

忘れやすくなる原因に「不快感」を挙げていますが、心配事や、ある行為をしながら別のことに“関心”があると、その行為そのものを忘れてしまうことがありますよね。メガネやスマホをどこに置いたのか…その置き場所を忘れてしまうことはありがちです。
アドラーが指摘しているのは、意識の領域では見つからない精神の働きがあり、注意深さが発揮されている状態は、意識的というより“関心”がそこに機能している。そして“関心”は意識して強まるわけではなく、無意識のなかに存在している。「プロセスの大部分は暗がりの中で進行します」とアドラーは、文学的な喩(たとえ)を用いてそのことを語っています。

「人は自然に形成される目的に向かって動いている」とは、アドラーの「目的論」を端的に説明する広く使われる表現ですが、抽象的であることは否めません。私はもう少し腑に落ちる説明はできないだろうか…と考えを巡らせていたところ、上記のアドラーの言葉に出会い、「なるほど…」と感じました。
「自然に形成される目的」とは、“関心”のことであり、“純粋な関心”は、無意識の領域に存在する、とアドラーは説明しているのです。

「虚栄心の強い人」の例示もわかりやすいですね。「虚栄心」をあからさまにすることは、この社会において否定されます。そして、アドラーの説く「人は優越性を求めて努力している」ということに関連して、それが獲得できていない状態にもかかわらず、「自分は優れている」と思いたい人は、「虚栄心」を持つことで、そのギャップを埋めようとします。劣等コンプレックスです。

ただ「虚栄心」は偽りの優越性であり、したがって意識されません。パラドックスですが、「自分には虚栄心があるなぁ」と自覚できる人は、このことで「虚栄心」から解放されているのです。

アドラーの語りは、ときに逆説を交えた展開になることが多いのですが、アドラーが「意識と無意識は分割できるものではない」ということを、このような例で示しているのです。

フロイトの「自我構造論」はとてもロジカルです。対してアドラーは哲学的です。

ここで、フロイトの「自我構造論」を復習してみましょう。
フロイトは、「無意識(エス)」を、快楽原則に基づくさまざまな欲求を求めるエネルギーが集積している層と捉えました。ただそれを解放してしまうと、健全な社会生活が営めないので、それをコントロールする層が必要です。それを司るのが「意識」であり、「自我(エゴ)」と名付けました。

ただし、自我が健全に機能していればよいのですが、何らかの事象や体験によっては、自我では支えきれなくなることがあります。その場合、登場するのが「超自我(スーパーエゴ)」です。「無意識」でもあり「意識」でもある、というフロイトが独自に編み出し概念です。

私は、『聖なるズー』の著者である濱野ちひろさんが、「長期間にわたって、パートナーからの身体的・精神的暴力を受け続けたにも関わらず、どうしてその環境から抜け出すことができなかったのか(6月10日のコラム)」…その背景について、フロイトの「自我構造論」を用いてコメントしました。
濱野さんは、著書の中で「環境による作用で、思春期を通してキリスト教的教育は私の思考回路に影響を与えていた」、と記述しています。フロイト理論を援用すれば、典型的ともいえる「超自我」が作用していることが推察できるのです。

フロイトのこの理論はとてもロジカルであり、わかりやすい説明を私たちに提供してくれます。
一方アドラーは、さまざまの現象に対して、ロジックを用いて一刀両断に裁く、というアプローチをとりません。ここが「アドラーは哲学的である」と言われる所以です。

フロイトは、無意識と意識について、意識の割合を少し大きくした図式を描いてイメージに落とし込んでいます。アドラーは当然ながら図式は描いていません。そもそも「無意識と意識は分割できない」、という捉え方ですから、図式化は困難ですよね。

意識と無意識の大きさは人によって異なるのではないか…

フロイト理論を復習したところで、今回のコラムのまとめに入ります。
思い返すと、「心理学とコーチング」という大きなテーマを掲げてスタートしたコラムの第1回(2月8日)は「対人認知」がテーマでした。そこで「ジョハリの窓」に軽く触れているのですが、「意識と無意識」を考える上で、示唆を与えてくれます。再掲してみましょう。

なお、本来の表(2月8日のコラムで掲載)には「意識」「無意識」の欄はありませんが、付記してみました。

「Ⅰの窓」は、自分にとっての「意識」の層であり、かつ自己開示によって他者も「そのことを把握」できています。
「Ⅱの窓」は、自分にとっては「無意識」ですが、他者は「気づいている」性質です。
「Ⅲの窓」は、自己開示を行っていないので、他者は「気づいていない」性質です。
「Ⅳの窓」は、自分は無意識で、かつ他者も知ることのないミステリアスな性質です。

私は、アドラーの唱える「目的論」を踏まえて、「意識」と「無意識」に思いを巡らせると、「人によって意識と無意識の大きさは異なるのではないか」、と考えるに至っています。その尺度が、「ジョハリの窓」Ⅰ~Ⅳのそれぞれの窓の大きさです。

コーチングにおけるコーチに求められる要件の一つに「自己開示」があります。素直に、ありのままに、虚心に、自分のことを相手に伝えることです。これができていれば、相手側はコーチに対する理解が深まり、信頼感の醸成につながっていきます。

他方、Ⅰの窓が小さく、それ以外の窓が大きい場合は、コーチとしては未熟の段階にあるといえるでしょう。Ⅱの窓が大きい人は、自分を相対化できていないということです。独りよがりに陥る可能性が高い人ですね。Ⅲの窓が大きくなっている人は、他者に対して距離を置こうとする秘密主義者といえるでしょう。信頼感の形成にはマイナスに働きます。Ⅳの窓が大きい人は、自我そのものが発達していないことが想像されます。

「無意識」は無意識ゆえに、実際はどのくらいの大きさなのかは「神のみぞ知る」のかもしれません。ただ、「意識」のもつ力を健全に働かせて、自らを省察し、Ⅰの窓を大きくする努力を継続していくことで、人間的に成長していくのだと私は感じています。
このことが、まさに「優れたコーチへの道標(みちしるべ)」になるのではないでしょうか。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その11~(2020/10/16)

「遊ばないで、ちゃんと勉強しなさい!」
この言葉を子どもに対して発したことのない親は、果たしているでしょうか? 今回のコラムは「子どもの遊び」について考えてみたいと思います。

アドラーによる1年間の連続講演(1926年)をまとめた、『人間の本性 人間とはいったい何か(長谷川早苗訳)/興陽館(2020年2月15日)』のなかに、次のような発言があります。

遊びは子どもの精神の成長と強く結びついている。

・個人心理学の原則は、精神生活の現象はすべて、頭に浮かぶ目標に向かう準備だと解釈できるということです。これまで記してきた精神生活のありさまは、個人の願望を満たしてくれそうな未来に対して準備しているということを示しています。これはごく人間的な現象で、だれもがこのプロセスを経験すると考えられます。 ・子供の生活には、未来への準備をはっきりと示す遊びという現象があります。親や教育者は、遊びを気まぐれな思いつきととらえてはいけません。遊びは教育を補助し、精神や空想や適応能力を刺激するものです。遊びのなかには決まって未来への準備が示されています。子どもがどうふるまうか、何を選ぶか、どのような意味を感じているかといったところにそれは現れます。同じように遊びのなかには、周囲とどのような関係を作っているか、周囲の人への態度はどうか、友好的か敵対的か、支配する傾向がとくに強く出ているかが示されます。さらに、人生にどのくらい適応しているかも観察できます。つまり、遊びは子どもにとって非常に大切なのです。子どもの遊びを未来への準備ととらえることをわたしたちに教えてくれたのは、教育学者のグロース教授です。教授は、動物の遊びの根底にもこうした傾向があることを証明しました。しかし、これですべてではありません。遊びは共同体感覚を実証するものでもあるのです。こどもの共同体感覚は強いため、子どもはどんなときにもそれを満たそうとし、力強く引き動かされます。 ・遊びのなかにははっきりと現れるもう1つの要素は、命令や支配の傾向がある優越という目標です。これを把握するには、子どもが強引に前に出ようとするか、その場合どの程度か、自分の傾向を満足させ、支配する役割を演じられる遊びをどのくらいしたがるかを見ます。人生への準備、共同体感覚、支配欲、という3つの要素を含まない遊びはほぼ見つかりません。 ・遊びがもつ要素はもう1つあります。子どもが示す仕事の可能性です。遊んでいるときの子どもは多少なりとも自立した存在であり、他者とのつながりのなかで成果を出すことが求められます。この創造的な要素が強い遊びはたくさんあります。なかでも、子どもが想像力を大いに働かせることができる遊びには、将来の仕事に深く関わる要素が隠れています。ですから、多くの人の経歴には、最初は人形に服を作っていて、のちに大人用の服を作るようになったなどのケースがあるのです。 ・遊びは子どもの精神の成長と強く結びついています。いわば子供の仕事のようなものであり、また、そう解釈すべきものです。そのため、遊んでいる子どもの邪魔をするのはとても害のあることです。遊びの時間を無駄と考えてはいけません。未来への準備という目標に目を向ければ、将来どんな大人になるかが多少見えてきます。ですから、子ども時代について知ることは、人を判断するのに役立つ重要なプロセスなのです。

「交流分析」で用いるエゴグラムとは?

PCのキーでこの引用を打っていると、並行してさまざまなことが思い返されます。私には娘が2人、そして2人の孫娘がいます。自分が親として、大きく成長した2人の子どもに接してきたプロセス、最初の孫娘が生まれてからの4年の歳月…いろいろなことを想起します。

妻は私の振る舞いに対して、多くは厳しい視線でもって応えるのですが、数少ないプラス評価だと私が解釈していることに、「あなたがすごいなぁ、と思うのは、子どもと同じレベルで遊べることね」という点です。

自分では意識していないのですが、最も身近な存在である妻の評価なので、そうなのでしょう。ただ、自分の性格分析をエゴグラムでやってみると、FC(Free Child)が強く出ているので、本来がそういうキャラクターなのだと自分で受けとめています。

エゴグラムはエリック・バーンが創設したカウンセリングの一分野である「交流分析」に基づき、バーンの直弟子であるデュセイが開発した性格診断法で、人が本来持っているパーソナリティを5つの要素に分類し、それぞれがどの程度の強さで表れているかをグラフにして示していく、というものです。グラフが高く出ている要素が、その人の自我を形成する上で大きく影響を及ぼしていると分析されます。

<自我を構成する5つの要素>

  • CP(Critical Parent)…厳しい親としての要素
  • NP(Nurturing Parent)…優しい親としての要素
  • A(Adult)…大人としての要素
  • FC(Free Child)…自由奔放な子どもとしての要素
  • AC(Adapted Child)…従順なこどもとしての要素

交流分析については、今後のコラムで取り上げようと思うので、解説はこのあたりにしておきます。

「遊び」はネガティブ、「勉強」はポジティブ…?

冒頭の「遊ばないで、ちゃんと勉強しなさい!」という言葉には、遊びと勉強は異なる概念であり、「遊びはネガティブ」、「勉強はポジティブ」と捉えている前提があります。ここにとどまっていると、アドラーの発想は当然生まれてこないでしょう。

遊びをネガティブに捉えてしまい、勉強に向かわせようと思い込んでいる親は、アドラーの指摘である、

「遊びは子どもの精神の成長し強く結びついています。いわば子供の仕事のようなものであり、また、そう解釈すべきものです。そのため、遊んでいる子どもの邪魔をするのはとても害のあることです。遊びの時間を無駄と考えてはいけません。未来への準備という目標に目を向ければ、将来どんな大人になるかが多少見えてきます」、

という重要な機会を逃しているのかもしれませんね。

言葉は言い換えられることによって、別の視座が与えられる。

さて、私はこのアドラーの発言の中の「いわば子どもの仕事のようなものであり」に着目しようと思います。ある現象を共通なイメージとして浮かび上がらせる手段が「言葉」であり、特に名詞は、そのことを端的な表現で象徴化させることです。

すなわち「遊び」というと、人はその行為について一定のイメージを持ちます。ただ人には個性、そして受けとめ方の違い、というライフスタイルが存在しますので、解釈には幅があります。ただし、同じ言葉をそれぞれの人がバラバラにとらえてしまうと共同体そのものが成り立ちませんので、共通した概念として普遍性を持たせます。

この普遍性が存在するまとまりが、文化を共有するグループであり、それを成立させているのが「言語」です。最も広義な「言語」は、日本語、英語、中国語などですが、仲間内だけでしか通じない「閉じた言語」の存在も指摘されるところです。言葉とは、そのフレームの中で、定義づけられていきます。

言葉は便利である反面、「言語」によって本人が意識する、しないに関わらず、「統制されてしまう」という傾向も生じます。「思い込むよう導かれている」と言えるでしょうか。つまり、多くの人が「遊びは勉強や仕事と比べて尊さという点で価値が低い」と受けとめてしまう現象です(特に日本語…日本文化においてはその傾向が強いのではないでしょうか)。

アドラーは、これを崩します。崩す方法は「言葉の言い換え」です。子どもにとっての“遊び”とは、大人になったあなたたちが感じている遊びとは異なり“仕事のようなもの”である、と説明するのです。多くの大人は、仕事の方が遊びと比べて価値は高い、と思っていますから、そこにストンと落とし込むのです。このことで、子どもの目線に一歩近づくことができるのですね。

人は事実を見ているのではなく、主観を介在させて対象を把握している!

8月29日のコラムで「エリスの論理療法」を取り上げました。
あることがらに対して特定の感情が生じるのは、物理現象=出来事(Activating Event : A)が、その感情=結果(Consequence : C)を招いているのではなく、「受け取り方(思い込み)」が、特定の感情を発動させる。すなわちAとCの間に、考え(Belief : B)が介在することで、次の感情が起こっている、と捉えます。「ABC理論」です。

アドラーはこう明言します。「人の行動は、その人の考えを源としている……なぜなら私たちは事実ではなく、単に主観的なイメージを受け入れているからである」、と。

今回のコラムは、「子どもは、遊び≒仕事を通じて認知力を高め、成長している」がテーマです。子どもたちが、ある現象について言葉を発する際の「認知」は、成長の過程で獲得してきた情報の質と量に基づいて形づくられます。次の例話は、そのことを分かりやすく説明しています。

『子どもが父親に、「月と中国はどちらが近いの?」と尋ねた。道理を重視する父親は「中国の方が近いよ」と答えたが、子どもは強く反論した。それは、中国は「一度も見たことがないけれども、月は見えるので、月の方が近い」という理由からであった。(現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)』

いかがでしょうか?

子どものこの無邪気な回答に、自分のことを大人だと自認している人たちは、余裕をもって微笑むことでしょう。
でも考えてみれば、すべての大人にも子どもの頃があったわけで、ここで微笑む大人も、子ども時代は同じように答えたのではないでしょうか。

人が“健全に”成長を辿っていくと、幼いころに感じていた「情緒」については、どうも忘れてしまうようです。「大人になる」とは、「それを巧みに成し遂げた人たち」なのではないか、と私は感じるのですね。

大人である私がFCであるのは、果たして恥ずかしいことなのか?

さて、コラムの終わりです。
私のキャラクターは、FC(Free Child)の傾向が強く出ているとコメントしました。そしてそのことを、妻の言動を借りて、半ば自慢するように語っていると受け取られるかもしれません。
実はそうではなく、私の内部にはコンプレックス(複合的な感情)が去来しています。
……「子どもの心を忘れていない」と、評価のニュアンスを込めて語られることを真に受けてはいけない。その言葉の裏には、「大人にもかかわらず、子どもっぽくて困ったものだ」という捉え方が存在する。これこそが、世の中の大人たちが作り上げている価値観なのだから……
と、アラートを鳴らす声が響いているのです。
これこそが、アドラーの言うところの「劣等コンプレックス」なのかもしれませんが…(笑)。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その10~(2020/10/06)

前回のコラムではコーチングというより、カウンセリングに軸足を置いて記述しています。アドラー心理学においてもそのスタートは、臨床心理学(精神病理への対応)としてのカウンセリングです。ただしアドラー心理学は、そこにとどまっていたのではなく、健常な人にも関わり合っていくスタイル、すなわち広義としてのコーチングですが、その有用性が広く認められることで今日に至っています。

今回は、本来のテーマに戻って、アドラー心理学とコーチングの関わりについて記述を進める想定でしたが、前回のコラムのままでは、アドラー心理学とカウンセリングの関わりが希薄に感じられてしまう懸念があるので、アドラー心理学が精神病理をどのように捉えているのか、このことについて取り上げたいと思います。

アドラー心理学は精神病理をライフスタイルの視点で捉えている。

『フロイトはトラウマについて語りましたが、アドラーは「ショック」について語りました。フロイトにとってトラウマは、概して客観的で普遍的なものでした。エディプス期など、誰もが遭遇しなければいけないような問題があり、そしてそれらが首尾よく乗り越えられない場合、そのトラウマは神経症の苦しみに終わるだろうというものです。(典型的には症状神経症で、最も古典的にはヒステリー性の転換症状を伴う精神神経症的反応です)。 アドラーはショックについて大部分は主観的なものとして一しかし、排他的ではなく一、かつライフスタイルの産物として見ていました。つまりその人のライフスタイルが何らかの偶発性に対して準備しなかった場合、それはショックとして経験されるということです。 それまでは、ライフスタイルは私たちを正常にしています。確かに私たちは全て準備できませんから、時にはショックをもたらす出来事が起こります。不注意で縁石を踏み外したり、目の前で車が急停車したりした場合のようにです。私たちはある一定の問題について、処理するための準備ができていないものです。 例えば、コントローラーでは次の三つの問題を処理するための準備はできていません。死、身体的疾病、精神的疾病の三つです。これらの問題のどの「兆候」も彼らを脅かします。コントロールにこだわらない他の人たちにとっては、これらの問題は不快なものであっても、それほど恐ろしいものではないでしょう。 (中略)精神病理を発現させる人の特徴は、アドラーによると、「ショックによる効果への固執」です。誰もが人生においてショックを受ける可能性がありますが、ショックの大きい人もいて、彼らは決して先に進みません。彼らは「それを育み、何度も繰り返し」、心の中に何度も何度も浮かべては考え込みます。まるで彼らはその思いの奴隷にされたようにです。ショックによる効果への固執によって、彼らは人生を先へ進んでいかないための言い訳を作ります。例えば「それはとてもひどかった、私は再びそれが起こったら耐えられないのだ」ということです。 共同体感覚と社会的関心を用いれば、これらの人々は出来事とショックから学び、問題解決に従事し、サポートネットワークを活用し、乗り越えていきます(もちろん時間はかかります)。しかし、社会的関心がより少ない人々は、共同体からどんどん引きこもり、故に、支援と成長の機会を逃してしまいます。(現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)』

私は7月6日のコラム「アドラー その1」で、『アドラーは決して「優しい人」ではなく、臨床心理学、カウンセリングのスタンスとしては、もっとも「厳しい人」と言えるかもしれません。』とコメントしました。そのことが如実に表れていることを上記から感じます。

辛いのは病の状況にある患者本人です。ただ、患者が陥っている“「それを育み、何度も繰り返し」…まるで彼らはその思いの奴隷にされたよう”な状態から脱するためには、患者自身がそのことを自ら認識しなければならない、ということなのです。

プロであるカウンセラーにとっても、過酷なシチュエーションです。精神病理に立ち向かうカウンセリングの一端を感じていただければ、と思います。

フロイトは「トラウマ」に、アドラーは「ショック」にフォーカスしています。

さて、引用のなかのいくつかのキーワードについて解説しておきましょう。
エディプス期とは、フロイトが1905年の発表した「性理論三扁」の中の、幼児の発達理論で使われている用語です。

発達段階は、口唇期(~1歳)、肛門期(2~3歳)、エディプス期(5~6歳)、潜在期(学童期)、性器期(思春期以降)で区分され、例えばディプス期では、前期の肛門期とは異なる発達上の課題が現れ、ここを首尾よくクリアすることで、比較的感情が安定する「潜在期(学童期)」に移行できる、としています。

発達心理学については、6月7日のコラムでエリクソンを取り上げています。発達心理学には「人間が成長する過程において、期間ごとに達成すべき課題があり、それを克服していくことでバランスのとれた社会的存在となっていく」、という考えがあります。上記の引用で、フロイトが指摘したトラウマは、その課題をクリアしそこなったことで生じるとしています。

一方、アドラー心理学では「ショック」に着目しています。あえてフロイトとの違いを訴求しているのは、同じショックでも、ライフスタイルの違いにより、そのショックに対する感受性が異なる、ということなのです。これについては多くの人が実感できるでしょう。

同一の現象に対して、Aさんは大きなショックと感じるが、Bさんはそれほど感じていない、というケースです。そのことについて私たちは「性格が違うから受けとめ方が異なるんだよね…」と一応納得します。アドラー心理学では、ライフスタイルと結びつけて、その違いを説明しているのです。

ライフスタイル分析については、8月1日のコラムで次のように解説しました。

『代表的なのは、ニックネームを用いた分類です。モサックは14の類型を示しました。現在では、そのうちの代表的な5~6のタイプでライフスタイル(ゲッター、コントローラー、ドライバー、ベイビー、エキサイトメント・シーカー、プリーザーなど)を当てはめ、それぞれのタイプがライフタスクと呼ばれる「人生の課題」に直面した際、どのような行動を示すのか、その行動は、ライフタスクをクリアしていく場合に有効に機能していくのか、それとも失敗する確率が高まるのか、といった分析が行われます。これが「ライフスタイル分析」であり、アドラー心理学における有効なメソッドとなっています。』

コントローラーは「完璧主義者」と評されるライフスタイルの人です。

冒頭の引用で登場したコントローラーは、平たく言うと「きっちりとした人」で、完璧主義者と評されるタイプの人です。コントローラーと呼称されるように、自分の行動や感情をコントロールすることを求め、そのことができる自分に自信を持ちます。細かいことにも気が付くので、それがプラスに作用した場合、「配慮に富んだ人」として、周りからの信頼を得ることができます。一方で、「柔軟性に欠ける人」と言われることもあり、傾向が強くなりすぎると、相手の思考や感情を決めつけてしまうことで、信頼の獲得に失敗してしまいます。

引用では、過度にコントロールすることを自分のライフスタイルの基軸に置いているタイプの人は、コントロールが難しい、あるいは制御不可能な事象が生じると、脆さを露呈してしまうことを指摘しています。

ニックネームを用いたライフスタイルの類型化について紹介します。

アドラー自身は、ライフスタイルの類型化には消極的な姿勢をとっていました。ただ概括的な4つの区分を発表しており、その中の一つが、このゲッターです。自分が期待しているもの、欲しいものの獲得にとても熱心で、かつ、それを得る手法について他者にやってもらうことを当然視するタイプです。このように説明するとネガティブな印象が強くなりますが、自分の意見をはっきりと述べるので、求める方向が同一であれば、共同戦線によるシナジーの発揮が期待できる人、とも評価できます。

ドライバーは、「仕事中毒」と分類されるタイプです。アドラー心理学では、ドライバーを時代の文化に適応しており、報いが多いタイプだとしています。優越を求めナンバー1になることに価値を置いています。ただ、このタイプがアドラー心理学でいうところの破壊的(他者に対して強迫的で野心が前面に出すぎる)スタイルを用いると、周りからは敬遠され、距離を置かれることになります。

ベイビーは、他者からの保護を求めるタイプです。注意を払われるのと支えられることが大好きで、同時に、注意を向け協力的であることが得意です。4月14日のコラム『自己呈示』で、「自己呈示の5つの方略」に触れましたが、その中の「取り入り…相手に同調する、相手をほめる」、および「哀願…あえて短所を述べる、自分を卑下する」を選択することの多いタイプです。

エキサイトメント・シーカーは、絶えず刺激を欲しており、興奮を求めます。したがって、大胆で斬新な考えを持ち活動的です。新しいことにチャレンジすることを好むことから、大きなトラブルに陥ったり、トラブルに巻き込まれたりする、というのもこのタイプの特徴です。

プリーザーのことを『現代に生きるアドラー心理学』で、「プリーザーと一緒にいると心地よいのですが、彼らの一番愛しくもあり、また当惑してしまう点は、彼らが周りにいることを気づかせないことです」と、巧みな表現で説明しています。平和と静寂の維持を求めるこのタイプは、「人の心を読むこと」に卓越しています。ただ、人に嫌われることを恐れるあまり、カメレオンのように振る舞ってしまうことで、しばしば主体性という感覚を失くしてしまいがちです。

今回のコラムのテーマは、「アドラー心理学と精神病理の関わり」です。最終的に「アドラー心理学のライフスタイル分析」を語ることになりました。思い出すのは、前々回のコラムで、アドラー心理学への批評の中に、「ライフスタイルで全てを説明できるのか」があったことです。おそらくアドラー自身もこの点について意識していたのでは、と私は推定しています。

「類型化」と「個別記述性」の整合はなかなか困難なテーマです。

上記のニックネームによるライフスタイルの類型化は、アドラー自身が手掛けたことではなく、アドラー心理学をより広めていくことを目的として、アドラーの後継者たちが開発したものです。それは「とても分かりやすい」ので、人口に膾炙していきました。

ただ、その一方で、上記引用の事例で、「コントローラーは、その意識が過剰になってしまうと、症状神経症につながっていく可能性がある」と記述されていますので、仮にコントローラーに類型化された人が、「私は症状神経症になりやすいタイプなのだ」と受けとめてしまうことは想像できます。

類型化とは、ある意味でレッテルを貼ることですから、アドラー心理学で重視する個別記述性(7月13日のコラム『アドラーその2』)との整合をどうとっていくのか…悩ましいところです。

今回のコラムは、アドラー心理学と精神病理の関わりについて、アプローチしてみました。最後に、コーチビジネス研究所の五十嵐代表のことばを紹介して、本日のコラムを終了することにします。

『私は、コーチングに出会う前に、産業カウンセラー協会というところで1年間カウンセリングを学び、カウンセラーとしてボランティアをしていたことがあります。毎日「死にたい」という電話を受ける中で、「命」を扱うカウンセリングは生半可な知識・経験でやってはいけないと感じています。カウンセリングもコーチングも人の心を扱いますが、治療行為と成長のサポートというアプローチの大きな違いがあります。』

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その9~(2020/09/26)

前回のコラムで「アドラー心理学のどのようなところが批判されているのか」、について取り上げました。その一つに「アドラー心理学は、健常者にだけ機能する」がありますが、裏を返せば「健常者以外、つまり病(やまい)の状態にある人に対して機能すること」を本来の目的とすべきではないのか、という前提の存在です。もし、この前提が一般的なとらえ方でなければ、そもそも批判として取り上げる必要はないので、アドラー心理学のスタンスが一般的イメージの「心理学の概念」とは違っている、ということになります。
今回のコラムはこのあたりのことを考えてみたいと思います。

コーチングとカウンセリングの違いは何か?

心理学、特に臨床心理学においては、「コーチ」の役割に当たる人を「カウンセラー」と呼称します。そして「コーチング」に該当する行為は「カウンセリング」です。

ここで、少し遡って2018年10月30日のコラム『コーチとカウンセラーの違いは?』を抜粋してみましょう。

『コーチングとカウンセリングの違いは何ですか? とよく質問されます。コーチングとカウセリングは、どちらもスキルとしては非常に近いものがあります。
一番大きな違いは、クライエント(お客様)、つまり対象となる相手の状況が異なることです。カウンセリングは、精神心理的な悩みを抱えた人を対象とした相談援助であり、治療的・予防的な処置に重点があります。そのため、どちらかというと現在の状態に至った原因や過去に遡ってアプローチしていきます。
一方、コーチングは、相手の方の目標達成や能力発揮を支援し、将来どうありたいかを重視したアプローチをとります。カウンセリングにもいろいろな手法がありますので、ひとくくりにはできませんが、両者の違いを簡単にいえば、通常の平静な心の状態が「ゼロ」の位置にあるとすると、カウンセリングはマイナスに陥ってしまった人を「マイナスからゼロの状態に戻すこと」を目指します。
それに対して、コーチングは、クライエントのありたい姿になることを目標に、「ゼロからプラスの方向に向かって支援をすること」にあります。』

いかがでしょうか。心理学の知見を活用して実際に人と関わり合いを持つ体系は「臨床心理学」という分野です。「clinical psychology」の訳で、文字通り医学の範疇とされ、スタートは精神科医が患者であるクライエントに治療として接していく、という分野でした。

ただ今日では、専門の教育を受けた医師以外の有資格者もカウンセリングを行っています。 最近ではこの「カウンセラー」を、百貨店1階の化粧品コーナーの販売スタッフの呼称(美容カウンセラー)として用いるなど、本来の定義から離れて使われることも特に否定されていませんので、かえってわかりにくくなっているかもしれませんね。

コーチングと親和性の高いアドラー心理学

2020年2月より当コラムは「心理学とコーチング」という大きなテーマを掲げ、回を重ねてきました。実は開始早々よりアドラーを取り上げることも考えました。その理由は、コーチングとアドラー心理学の親和性がとても高いからです。結果的には20回目のコラムからアドラーを取り上げることになりましたが、あえて視点を変え、「心理学全体に網を広げて、その結果としてコーチングとの関わりが見いだせれば、ユニークなコラムが書けるのではないか」、というのがその動機です。

今回がアドラーについての9回目のコラムとなりますが、書き続けることで、「コーチングの背景にはアドラー心理学が確固として存在している」ことを再確認しています。言い換えれば、アドラーを綴れば綴るほどコーチングがとても身近なものとして自分の中に落とし込まれていく、と表現できるでしょうか。アドラーは、医学の枠にこだわらない「哲学」としての広がりを目指していたことが、実感として伝わってくるのですね。

今日心理学の知見が医学、つまり精神医学として広く認識されるようになり、確立していく過程における最大の功労者はフロイトです。そこには、精神に疾患を抱えている病の状態にある人たちの苦しみを除去する、という医者としてのスタンスが明快に存在します。すなわちフロイトが描く対象者は患者です。一方でアドラーが、精神に関わる病理を極めようとするのではなく、そこから距離を置いていることに不満を持ちます。フロイトからすれば、健常と病理は異なり、カテゴリー化して分類します。そのことに一生を捧げたと言ってよいでしょう。

それに対してアドラーは、分類することに疑問を持っており、フロイトにとっては、当たり前である、「意識(自我)と無意識(エス)、そして超自我」という構造に対して、「分割できるものではない、心は全体的なものだ」というスタンスですから、そもそもの考え方、捉え方が異なります。

他方、フロイトから袂を分かったもう一人の巨人であるユングは、フロイトの提示した自我構造を受けとめています。ただし、無意識についてフロイトの理解を大きく超えてしまう概念にまで拡張、深化させてしまったことで、フロイトから離れざるを得ない状況に至ったのです。ユングはフロイトを師として尊敬していました。フロイトもユングを「私の皇太子」と呼ぶほど、かわいがっていたのです。「国際精神分析協会」の初代会長に、ユダヤ人のアドラーではなくユングを指名したのは、精神分析の世界化を意図したから、と説明されていますが、ユングを自分の一番弟子として評価していたからこそ、といえるでしょう。

フロイトとアドラーの性格分析を通じて自身を省察したユング

そしてユングはフロイトから別れることで、統合失調症のような状態に陥ります。『知の教科書 ユング(講談社選書メチエ 2001年)』には、その頃のこと、そしてユングが、フロイトとアドラーの性格を独自の視点で分析し、発表することで、フロイトのくび木から解放されたことが記されています。

『1913年にフロイトと別れたユングは、しばらく、分裂病(2001年出版のため現在とは異なる病名を使っています)に非常に近い状態を彷徨する。彼は、ほんのわずかな患者たちと交流をもち、かろうじて家族との生活だけは最低限保ったが、他はほとんどすべての公職を辞めてしまい、チューリッヒから30キロ離れた、チューリッヒ湖の上湖のほとりにあるボーリンゲンで、彼自身が石を積んで建てた塔に閉じこもり、もっぱら瞑想に耽った。(中略)そうした生活の7年間、彼は、本だけはよく読み、ようやく1921年になって、『タイプ(心理学的類型)論』を書き上げて、この世に復活してくる。 こうして、ユングはもっとも人口に膾炙し、もっとも早期から理解された仕事に出会ったのである。つまり、外向-内向型性格の理論である。(中略)この二つの性格を分けるきっかけは、まったく同一の症例を、フロイトとアドラーが、まったく異なった理論で、証明したことにある。つまり、前者は、事例の父母との関係性において、後者は、心の内部の劣等感との関わりにおいて考察したのだが、これを、フロイトは外向型なので、もっぱら自己の外部との関係性に、アドラーは内向型なので、自身との内部との関係性で説いた、とみたのである。この仕事によって、ユングは完全にフロイトと決別することができた。』

外向的な性格、内向的な性格、というとらえ方は今日、一般的となっています。このことにつき詳細な分析を試み、それがオーソライズされたのはユングの功績です。ただし、言葉のイメージからくる単純な解釈に陥らないよう注意が必要です。

『H・エレンベルガ―が述べているが、彼らは最初から同じ道を歩けるはずのないほど、異なる発想をもっていたといえる。人柄のことをいうなら、フロイトが控えめできちっとしているのに対して、アドラーはどちらかというと野生派で気さくな人物だった。 フロイトは書く人、文章家だが、アドラーは上手な話し手であった。アドラーもフロイトも医師であったが、その発想はフロイトが生物学に、アドラーは社会医学の方面にあった。(エディプス・コンプレックス論争 性をめぐる精神分析史/講談社選書メチエ 2002年)』

アドラーを「野生派」としているこの記述は、しっくりくるように感じますね。

さて今回は、カウンセリング(臨床心理学)とコーチングの違いを取り上げてみました。一般的解釈は、「2018年10月30日のコラム」の通りです。私たちも、そこを立脚点にして書き進めています。ただ、「区分、分類、カテゴリーという概念について語るのは、なかなか骨が折れるなぁ」というのが私の実感です。

医薬品と化粧品の違いを一言で説明すると、それは「副作用のあるなし」

コラムの最後に化粧品と医薬品の定義について触れておきましょう。

『医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(薬機法)』で、化粧品、医薬品の定義が記されています。それによると、化粧品は「人の体を清潔にし、美化し、魅力を増し、容貌を変え、又は皮膚、もしくは毛髪を健やかに保つために、身体に塗擦、散布その他それらに類似する方法で使用されることが目的とされる物で、人体に対する作用が緩和なものをいう。」となっています。

ポイントは、「人体に対する作用が緩慢なもの」です。この意味は、副作用の否定です。化粧品は毎日使うものであり、健常な人がさらに美しくなるために使用するもので、「副作用があってはならない」、ということですね。それに対し医薬品は、「副作用が認められて」います。

例えば、軟膏(クリーム)という剤型をみただけでは、医薬品と化粧品の違いは判明できませんが、違いは「副作用のあるなし」なのです。
病の状態にある人に対し医薬品が処方されます。その病をまずは治すことが第一優先であり、それに伴って生じてしまう「副作用」は大目に見ざるを得ない、ということです。ただし、副作用によっては、重篤な症状に至ることもありますので、医薬品の処方については医者としてのプロフェッショナルな知見が求められるのは言うまでもありません。

コーチングは、クライエントのありたい姿になることを目標に、「ゼロからプラスの方向に向かって支援をすること」と説明しました。コーチングとカウンセリングについて、化粧品と医薬品に敷衍してみましたが、考える一つの視点として受けとめていただければ幸甚です。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その8~(2020/09/16)

心理学とコーチングでアドラーを取り上げて以降8回目を数えることになりました。石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」ではありませんが、「アドラーの言葉」「アドラーの理論の概括」…と、大きなカテゴリーからスタートし、「ライフスタイル」という中心理論、そして、個別テーマに落とし込んでいく、という流れで進めてきました。

アドラー心理学のすそ野は広く、語ることはいくらでも存在するのですが、今回は切り口を変えてみようと思います。それは「アドラー心理学への批判」です。

私は多くの心理学、コーチングに関わる著作を読んできました。フロイト、ユング、アドラー、そしてロジャーズ、エリス…今日名を成している心理学者が提唱する理論や考え方に接すると、そのいずれにも新鮮な気づきを覚え、読書の喜びに浸ってきました。

批判を受け入れ、補い修正されることで理論は強靭化する!

彼らは、それまで「まだ説明がつかなかった」「説明されていない」現象を、「彼らなりの視点」「彼らなりのアプローチ方法」で本質に迫ろうとしてきました。その結果、今日オーソライズされた各理論は、多くの人に「なるほど…」と、「腑に落ちる」理解のあり方を提供してくれます。

さらに私の受けとめ方、ということで許していただければ、ある理論に対して批判されている場合でも、その多くは、「とらえ方の違い、フォーカスのポイントの違いであり、いわば、英語、中国語、日本語といった言語構造の違いで、類似の現象面を説明しているのではないか」、とも感じています。
一方で、近年のSNS等によるヘイト現象とは一線を画す「健全な批判」は重要です。まずは「批判を受け入れた」上で、その「批判の意味するところ」を冷静に分析し、「確かにその通りかもしれない」と受容し、理論を補完し、修正していくことに取り組みます。そうすることで、理論そのものが強靭化していくのだと考えています。

実際に、フロイト、アドラーは没後80年が経過しても、色あせるどころが、さらに輝きを増している、ともいえるでしょう。

私はアドラーを取り上げるにあたって、多くは『現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年』を引用しています。タイトルが物語るように、今日におけるアドラー心理学の中心人物であるモサック氏(シカゴのアドラー心理学専門大学院博士課程教授)と、マニアッチ氏(同大学院で教鞭をとっている)が、アドラー心理学の現代における思考体系と位置づけを明らかにすることを目的に著されています。そしてその最後の章(第11章)が、「個人心理学理論への批評」なのですね。
非常に興味深い内容となっていますので、いくつか取り上げてみたいと思います。

アドラーの誤りを認めるアドリアンたち…「批判のすべてが不当であったわけでもありません」

『完璧なものはありません。この著書を通じて詳述しようとしてきたように、完璧であろうと懸命に努めることは神経症的目標とさえなりえます。それは達成できないものだし、通常は他者を遠ざける結果となります。個人心理学は完璧ではありません。そして、アドラー自身も私たちと同様、一人の人として、だけでなく、理論家としても間違いを犯しました。 アドラーが創造したものは時の試練に際立って良く耐えましたが、多くの批判に晒されなかったわけではありません。そして批判のすべてが不当だったわけでもありません。私たちは、アドラーが言い過ぎたことやとてもわかりきった点には、関与していくつもりはありません。というのは、私たちは細部よりもアドラーの思想の領域に興味があるからです。』

非常にわかりやすいスタンスです。師であるアドラーに間違いがあったことを明瞭に認めており、このような後継者に恵まれたからこそ、アドラー心理学は発展することができた、ということです。風雪に耐えて生き残る理論というのは、師を慕う後継者や弟子による批判を受け入れ、吸収し、そして包摂することで、さらにファンを獲得していく、ということですね。
著書では、「伝統的批判」を5つ、個人心理学の「空所」を6つ取り上げています。代表的なものをピックアップしてみましょう。まずは「伝統的批判」です。

『アドラー初期の講義の中で、次のような逸話があったと聞いています。聴衆の一人が立ち上がって「しかしアドラー先生、あなたの話すことは全て常識です!」と発言しました。アドラーは、「ですが、それで何が悪いのですか? 私はもっと多くの精神科医がそうであってほしいと思います」と答えたと言われています。アドラー派は、伝統的に「常識」を話すという批判を受けてきました。アドラー派は、その批判を受け入れます。それは「正当な批判」で、アドラー派は、実際に常識を話します。アドラーは専門用語が嫌いで、自分の体系は科学ではなく、哲学に基づかせたいと望み、必ずしも学問的訓練を受けていない人々にも呼びかけました。』

アドラーは精神科医の枠を超えて社会啓もう活動に取り組みました。

聴衆の一人の考えは「常識を語るのはナンセンスだ」という思いがあるのでしょう。この人からは、「誰しもが当たり前に思うことを、個人心理学という呼称で“学問”に位置付けるのは傲慢だ」というくらいの強い“圧”を感じてしまいますが、アドラーはあっさりと、その批判をかわしています。

アドラーはフロイトと違って、個人心理学を科学(医学の一分野)として確立することには、こだわっていなかったようです。むしろ「心理学的な視点・考察」を用いれば、日々の暮らしで生じる人間関係の悩みに対して、解決が困難だと思い込み立ち往生している人たちに、「実はそれらは決して解決が難しいわけではなく、○○というアプローチによれば、しっかりとクリアできるのですよ」、ということを広めたかったのだと思います。もちろんアドラーは医者でしたから、精神病理に誠実に向き合い、多くの患者の治療に当たっています。ただそれ以上に一般の人々への啓もう活動に力を入れた人生でした。

今日のコーチングの体系化に当たって、アドラー心理学が大きく貢献しているのは、このような背景に基づいているからなのです。
このことに関連する批判もあります。その批判は「アドラー心理学は、健常者にだけ機能する」、です。この批判に対しては、

『全てのものが健常者に機能します。そういう点から健常者の多数がクライエントとなるのです。アドラー心理学はアドラーの伝統に従ってきました。数多くのさまざまな人を対象としてきました。その中には、精神病者、犯罪者、子どもたち、青年期の人々、家族、そして、異文化間の治療が含まれます。フロイト派は患者と感情転移関係に入ることができないので、精神病者を対象としませんでしたが、アドラー派は比較的感情転移に無関心なため、初期の時代から精神病者を治療してきました。 アドラー心理学が、「子どもたち」を対象とすることで「長所を持つ」とされることに対して、類似の批判が向けられましたが、それが概して意味することは、アドラーの体系が子どもたち「だけ」を対象とするというものです。そう、アドラー心理学の原理は子どもたちをよい対象とします。そして、アドラー、ドライカース、その他のアドラー派の人々は、児童指導に対して幅広く著述してきました。しかし、それは等しく他の多くの個々人にも適用可能なのです。』

児童教育には、世の中に広く適用できる“原理”が存在する。

前回のコラムは「児童教育」を取り上げました。上記にあるように、批判に対して、繰り返し「そう、…」と素直に肯定しています。私はアドラー心理学のファンに女性が多いことは当然だと感じています。人生にとって“最も偉大な事業”は「子育て」だと私は確信しています。ですが、世の中には「性役割分業」の価値観がぬぐえないためか、「子育ては女性が主体」という社会的圧力が存在しています。

アドラー心理学は、その実相を踏まえた上で、子育てに悩む多くの女性に処方箋を与えてきました。子育ての責任を一身に受けている(と思い込まされている)女性は、ともすれば「煮詰まってしまい、どうしようもない不安‘」にさいなまれます。多くの実践を蓄積し、歴史的に厚みある体系を構築している「アドラー心理学の児童教育」は、このような批判に対して、余裕をもって「そうですよ」と受容した上で、「子どもと大人は違う」という世の中の思い込みを上手に外し、「児童指導こそが、大人を含めた世の中の多くの人びとに適用できる“原理”である」と述べているのです。

「ライフスタイル」で果たして全てを説明できるのか?

最後にもう一つ「批判」を取り上げておきましょう。「伝統的な批判」とは別の、個人心理学の「空所」と分類される、「ライフスタイルが全てだ、全てがライフスタイルに帰する」についてです。

『いいえ、そうではありません。ある人の行うこと全てが、ライフスタイルの問題というわけではありません。目的地に辿り着くためには認知に基づく地図が必要ですが、それは目標を示すもので、私たちは他者の車を注視し、道路状況を考慮したり、道路標識を見たりもします。(中略) ライフスタイルは私たちが述べてきたように、どのように所属すべきかを私たちに教え、誘導し、指導するために発達します。私たちがどのようにして絆を形成し、馴染み、自分の居場所を見つけるかという問題は、私たちのライフスタイルによっています。(中略) 私たちの行動や生活パターンにさえも一貫性は見られるでしょうが、それはライフスタイルの問題ではありません。というのは、どのように所属するかという問題を含まないからです。例えば、私たちは昼食に何を食べるかということに関して、かなり一貫した好みを持つでしょう。しかし、それはたいてい、私たちのライフスタイルを貫く信念に基づく決定ではありません。 こうした行動を組織するのは何でしょうか? それは「自己」でしょうか? ライフスタイルの内部に含まれない「自己」という要素はあるのでしょうか? こうした分野についてはより詳細に探求することが必要です。今のところ、私たちは仮説を有するだけであり、はるかに多くの理論や研究がこの問題に関して探求される必要があります。ライフスタイルと相互に作用する状況的要素というものがあり、こうした要素により多くの注意を向ける必要があります。』

少し切れ味の薄い(わかりにくい)記述になっています。「ライフスタイル分析」については、臨床におけるアドラー最大の功績だとされています。その有用性が認められた訳ですが、この批判は「人の行動原理は全てライフスタイルによるものだ、と安易に(便利に)使いすぎており、理論そのものに空白がある」と言っているのです。それに対して、「ライフスタイルをそのように捉えていない。ライフスタイル以外(相互に作用する、と表現した上で)にも、その人そのものを表す要素がある」と回答しています。

ただ、批判されているように、アドラー心理学では「ライフスタイル」をその人の態度全体の裏付けるもの、すなわち自己(概念)も包含して捉えようとするニュアンスが存在します。「それは違うのではないか」という批判なのですね。

このあたりは、言葉の定義、捉え方ともいえるのですが、「自己」は心理学において、ある意味で最も重要な概念であり、「人とは何か」という命題に対する、本質な回答が求められます。
アドラー心理学は、この「自己」に対して特に突き詰めておらず、したがって回答もあいまいな印象を受けます。

もっとも、最後に「私たちは仮説を有するだけであり、はるかに多くの理論や研究がこの問題に関して探求される必要があります。」とまとめていますので、当該批判に対しては謙虚に受けとめていることが理解されますね。

今回のコラムは、アドラー心理学への批判に対して、現代のアドリアンがどのように回答しているのか、について取り上げてみました。その回答のあり方は、単純な「抗弁」ではなく、まずは「受容し」、その上で「誤解を正し、あるいは主張すべきところを冷静に述べる」という流れです。そこはアドリアンの第一人者の回答ですから、回答のスタイルについても「なるほど… そのように応えていくのか…」と感じることができます。

次回のコラムも引き続きアドラーを語ってまいりましょう。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その7~(2020/09/07)

アドラーは大人向けのカウンセリングだけでなく、児童教育に強い関心を持ち、後継者たちもアドラーの考え方を引き継ぎ、発展させていきました。

今日、アドラー心理学では、児童教育の方法について、
「勇気づけ」
「子どもが行う不適切な行動の4つを理解すること」
「自然の結末と論理的結末の使用」

の3つの要素を取り上げ、説明しています。
今回のコラムは、児童教育について解説してまいりましょう。

親が伝えたいメッセージを子どもはどのように受け取るのか?

アドラーは「子どもというのは、独自の世界の受け取り手であり、また創造者である」と捉えます。 まずは、このことを物語る面白い例話を紹介しましょう。

『六歳と五歳の二人の兄弟がいた。二人はつねづね悪い言葉を使ってみたくて、兄は「こん畜生め」という言葉を、弟は「ケツ野郎」と言える日を待ち望んでいた。そしてとうとうその日を迎えた朝、二人は母親に朝食の用意ができたことを告げられたあと、あわててキッチンに駆け込んでテーブルについた。母親が二人に朝食は何が欲しいかと尋ねた。すると六歳の兄は、「シリアル(朝食用の穀物加工食品)を出せ、こん畜生め!」と間髪入れず答えたので、母親に平手打ちをくらい、恥ずかしくて泣きながら自分の部屋に駆け込んだ。母親は恐ろしい形相で今度は弟の方に何を食べたいか聞いた。すると弟はふるえる声で、「シリアルだけはいりません、ケツ野郎……」と答えた。(現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)』

思わず笑ってしまいます。
まず、二人の兄弟は、「こん畜生め」と「ケツ野郎」という言葉が、社会的に使ってよいかどうかの程度を理解できていない、という点です。平たく言うと、「下品度」が甚だしい言葉にも関わらず…ということをです。

テレビや保育園で発せられた、これらのことばを聞いた際に、意味そのものはあまり理解できていなくても、シチュエーションを“カッコいい”と受けとめたのかもしれません。
そして、この母親が日ごろ、どのような態度で二人の兄弟に接しているのか定かではないのですが、ただ、いつも平手打ちをくらわせているのであれば、兄は泣きながら部屋に駆け込むことはないでしょうし、弟もそれほど驚くことなく、別のことを母親に告げたでしょう。

つまり、日ごろの母親とは違う厳しい態度に接して、二人とも驚き、恐怖を覚えたのです。そして最後の弟の言葉である“ケツ野郎…”(この笑い話の“オチ”ですね)については、母親の恐い態度の意味するところを「シリアルを食べてはいけないのだ!」と受けとめた、ということですね。

子どもと同じ目線で世の中を見ることができたら、それはとても素晴らしいこと!

一方の母親は、あまりにも下品な言葉を発した兄に対して、瞬間的に反応したといえます。母親は「そのような汚い言葉を使ってはいけません!」というメッセージを送ったつもりが、弟は「シリアスは食べちゃあいけないんだ!」と解釈したのですね。

子どもの観察は“するどいなぁ”と感じさせられる反面、“とんでもない解釈”に驚かされることも、また事実です。

子育てとは相互関係です。親は子どもに対して教育を施す立場ですが、 “子どもと同じ目線で子ども一緒になって同じ感覚で楽しめる親‘’ 、というのがとても素敵だなぁ、と日頃より感じています。
ひと呼吸を置かないすぐさまの母親の“態度(教育方針?)”が、今後二人の生育にどのような影響を与えるのか…想像してみるのも一興ですね。

世の中は「勇気をくじく」要素に満ちている…

3つの要素について、まず「勇気づけ」について、現実の世の中は、多くはその逆であることを『現代に生きるアドラー心理学』ではコメントしています。

『世の中には、人々にやる気を失わせる非常に多数の要素が存在します。社会的にはそのような状況は、戦争やそれから生じる脅威、貧困、飢餓、犯罪、多種多様な形の差別として現れ、人々はそれらの問題に対する解決を求められます。家族のレベルでは、育児活動における親の期待、要求、モデリング、そしてきょうだい間の競争が隠れた原因として子供たちの勇気をくじきます。教育システムはそれ以上に子どもたちの勇気をくじいています。こうした勇気くじきの影響を受けながら、子どもたちは、バーン「Berne,E.」の言葉でいう、「勝者」(「プリンス」もしくは「プリンセス」)、あるいは「敗者』(「カエル」)として育つのでしょう。』

アドラー心理学は、このような世の中だからこそ、「勇気づけ」を社会的関係と教育に不可欠なものである、と強調しているのです。「勇気づけ」については、以前のコラム『アドラー その4』でも取り上げていますが、アドラー心理学では広い概念で捉えており、その考え方が以下の流れで浮かび上がってきます。

子どもはどうして不適切な行動目標を選んでしまうのか?

「不適切な行動の4つの目標」

有益な場所を見つけようとする過程で勇気をくじかれると、子どもたちは「4つの不適切な行動目標」のうち一つを遂行しようとする、とアドラー心理学では捉えます。その4つとは以下の目標です。

<目標1>注意を得ること
<目標2>権力を求めること(権力闘争)
<目標3>復讐を実行すること
<目標4>無気力を誇示すること

「勇気づけ」の反対である「勇気をくじかれる」も幅広く解釈されます。「やりたいことが妨害されている」「望むことが与えられない」「とにかくムシャクシャする」、といった子どもに現れている状況を想定していただくことでもかまいません。アドラー心理学では、子どもが選ぶ上記目標1~4について、なぜそれを選ぶのか、その「目的(目標)」を探る方法を、3つ挙げています。

(方法1)子どもが不適切な行動を行った後に、何が起こるか観察する。

アドラー心理学は、目的論に立ちます。すなわち「全ての行動には目的がある」ということですから、不適切な行動にも目的があり、それによって起こる現象が彼らの目的である、と類推するのです。つまり、「周りの大人が受け取る反応」を子どもたちは求めているのかもしれない、ということです。

(方法2)不適切な行動によって大人がどう感じているかをチェックする。

子どもの行動で大人が「困った…」、あるいは「面倒を見てやらなければ…」と感じるのであれば、目的は<目標1 注意を得ること>かもしれません。大人がもっと強い反応、例えば「怒り」を覚え、それを子どもにストレートに伝えた場合(伝え方はさまざまあるでしょう)、それによって子どもは<目標2 権力闘争>を選ぶかもしれません。<目標3 復讐>は、それをされた大人はダメージを受けます。<目標4 無気力の誇示>は、引きこもりを想定してみてください。大人にさまざまな反応が起こることは必定ですね。

(方法3)単純に子どもの不適切な行動を正そうとした場合に、何が起こるかを観察する。

“単純に”というところがポイントです。もちろんアドラー心理学では、子どもの問題行動を最終的に改めさせることを目的にしますから、そのプロセスについては“単純”ではありません。ここでいう“単純に”正そうとする行為によって、子どもは少しの間、その行動を止めるのですが、その後問題行動を繰り返す場合が多いのも事実です。問題行動は、大人の関心を呼び起こします。本当に大切なことは、大人が関心を持った後の、子どもに対する関わり合いの内容です。この方法によって、次のステップが見えてくるのです。

アドラー心理学の「勇気づけ」と「結末の使用」の関係とは?

「自然の結末」と「論理的結末」

翻訳語なので、少し分かりにくいかもしれません。「自然の結末」とは、大人があえて関与しないで、極端に言えば「様子を見る」にとどめる、ということです。親として当たり前に感じることは、「子どもが苦労しないように」「子供が病気にならないように」「子供の成績が上がるように」手を差し伸べてあげることです。ただ、このことで親が気づくことなく「過干渉」「甘やかし」となってしまい、子どもの“本来発揮できる力”まで削いでしまっている可能性がある、ということです。この積み重ねが問題行動につながっているのかもしれません。

とはいえ「自然の結末」ですべてのケースが解決できるわけではありません。社会には、その構成メンバーが共同して、コンフリクトを発生させないよう形成されているルールが存在します。それから逸脱している場合には、その社会秩序を認識させ、問題行動を改めることが、結果的に本人自身のメリットにつながっていくことになるのです。これが「論理的結末」です。

アドラー心理学の「勇気づけ」とは、この「結末の使用」であり、単純な「励まし」とは異なることが理解いただけたと思います。
次回も引き続きアドラーを解説してまいります。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~インターミッション~(2020/08/29)

アドラーについては、「アドラー心理学の理論」に基づいて、オーソドックスな解説を心がけてきました。
今回のコラムは「インターミッション」という意味合いを持たせたいと思います。そこで恐縮ですが、以前私が執筆した『格闘するコーチング/日向薫・かんき出版2003年』を引用させていただきます。
この本は、コーチングを専門にしている方々ではなく、コーチングにあまりなじみのない人たち、という前提(想定は30~40代の主任係長世代)で書いていますので、少し肩の力を抜いていただけるかな、とも感じています。

「思い込みの世界から自由になる」とは…

『この本のキーワードは「思い込みの世界から自由になる」です。極端に言えば、この本はこれがすべてです。このことについてあらゆる視点からアプローチしていきます。具体的には、カウンセリングの一理論である「論理療法」を柱としていますが、それは追々解説します。(中略)たとえば民族、宗教の異なる人と接する場合、我々は相手に対して謙虚になれます(逆に傲慢になる方もいらっしゃいますが…)。
これは「相手は自分たちと異なった文化をもっているから思考・行動パターンが違っているのは当たり前だ」と解釈(無意識・自然に)しているからです。
イスラム教徒がラマダンで断食しているのに接しても「イスラム教の人だからそうなんだよね」と自然に受けとめます。ところがそうでないコテコテの日本人が「私は今日から思うことがあって1週間断食します」と宣言すると、「何考えているの? そんなにガマンすることないじゃない。変な人…」となるのが一般的です。したがって、「いまどきの新入社員は、30~40代の主任係長世代である我々とは異なる価値観の世界で生きている」と解釈すればよいのです。 彼らと接して、憤りを感じてしまうそのメカニズムを解明してみましょう。まずいえることは、部下のことを、価値観を共有している“仲間”だと無意識に「思い込んで」いる点です。仲間にもかかわらず掟とは異なる思考、言動、行動をとる…だから腹が立つのです。 このようなパターンと類似なものに、親の子どもに対するとらえ方があります。最も近い存在だからこそ、冷静になれないのもまた現実で、「子供のくせに何で口答えするんだ」と声を荒げる親はたくさんいます。 この前提として「子供は自分の血を分けた存在であり支配下にあり、素直であるのが当たり前のことなのだ」という「思い込み」が存在します。子供は「血を分けている」ということで「親の言うことをきく」のではなく、実は「親の言うことをきく理由がある」からそのような態度をとっているのです。 その理由は、「口答えすると殴られる」「言うことをきいていると何かご褒美がもらえる」「親の話に納得し“なるほど”と思っている」など、さまざまあるでしょう。いずれにしても「相手は自分と一緒なんだ」という「思い込み」から、いろいろな問題が発生してしまうのです。』

私たちはどうしても「思い込み」にとらわれてしまいます。ただこの「思い込み」が強く出てしまう事象や対象が一人ひとり異なっているわけで、これがアドラーの言う「ライフスタイル」です。

スパゲッティは音を立てて食べてはいけない!

少し恥ずかしいのですが、スパゲッティを食べる際に、考えごとをしていたり、自分ひとりで食べるときは、どうしても音を立ててしまいます。そしてもう一つ付け加えると、妻の前で食べる場合は、意識して音を立てないで食べることを心がけています(10回に1回くらいは失敗しますが)。というのも、結婚前、付き合い始めて1年くらいたった時に「スパゲッティは音を立てて食べるものじゃないわよ」と言われ、それがマナーであることを知ったのです(21歳の時でした)。

1年間もそのことを話してくれなかったのは、少しばかり(?)遠慮していたようで、さすがに言っておかなければ、とのことでした。

考えてみれば、ショーペンハウアーの「ヤマアラシジレンマ」(以前のコラム『アドラー その2』)にあるように、「付き合う(結婚生活も同様)」ということは、相手のクセのうち、自分にとっての不快指数が高いものを相手に告げて何とか是正してもらう、一方で相手から指摘された要求を可能な限り是正する、ということです。

「恋愛」とは、好きになった相手から好きであるという態度(報酬)が返ってきたとき、無上の喜びを感じることのできる関係性です。「恋愛状態になると、どんなモノグサな人も、世界一のマメ人間に変身する」は、私のささやかな格言ですが、アドラーの言う「動因」が高いレベルで発動する状態です。

恋愛こそ頑迷なライフスタイルをチェンジするチャンスなのかもしれませんね。
さて「スパゲッティを音を立てないで食べる」という行為について、論理療法で少し分析してみましょう。その特徴は以下の通りです。

論理療法で「スパゲッティを音を立てないで食べる」ことの意味を分析する。

(1)人間は目で見える世界(これは物理的な現象世界です)を、どう受けとっているか(感情の世界です)、その「受けとり方」によって世界を築いている。これがライフスタイルです。

(2)スパゲッティを目の前で音を立てて食べている人に対して「不快である」と感じているのは、通常の解釈をすれば、「音を立てる(音がする)」という物理現象=出来事(Activating Event : A)が、「不快だ」という感情(Consequence : C) を起こさせている、となります。

(3)ところが論理療法は、そうではなく「スパゲッティは音を立てないで食べるべきだ」という「受け取り方(思い込み)」が「不快感」を発動させる、と捉えます。すなわちAとCの間に、考え(Belief : B)が介在することで、次の感情が起こっている、と解釈します。一般に論理療法で「ABC理論」と呼ばれているのは、このプロセスを指します。

(4)論理療法では、受け取り方には2種類あり、まともな受け取り方「ラショナル・ビリーフ(rational belief)」、おかしな受け取り方「イラショナル・ビリーフ(irrational belief)」と呼称します。カウンセリングのセッションでは、「その受け取り方に論理的必然性はありませんよ(イラショナル・ビリーフ)」と指摘し、「○○○がまともな受け取り方ですから、あなたが正しいと思い込んでいること(イラショナル・ビリーフ)は、実は誤った受け取り方なので、そのために悩む必然性はありませんよ」と、立ち直りに向かわせていくのです。

コーチングの具体的場面を紹介しましょう。以前のコラム『「自分は思い込んでいない」という思い込み???(2019年6月2日)』のなかの事例を再掲します。

「率先垂範こそマネージャーのあるべき姿」…はセオリーなのか?

「部下を指導するにあたって“率先垂範”が何よりも重要だ!」と考えているAさんがここにいるとします。Aさんは、部下をぐいぐい引っ張り、お客様に対するプレゼンも自分ですべてやってしまいます。ところが…チームの成績は上がりません。部下の動きからも覇気が感じられません。Aさんは悩みます。そんなAさんからコーチングしてほしいと依頼があったとします。

コーチ:「Aさんにとっての率先垂範とはどういうことだと思いますか?」
Aさん:「先頭に立って模範を見せることですよね?彼に任せても失敗するだけだから、私のやり方を真似てほしいと思って、いつもやってあげているんです。」
コーチ:「彼に任せても失敗するだけと言いましたが、何回やらせてみました?」
Aさん:「そういえば、まだ1回もやらせていないですね。」
コーチ:「Aさんは優れたプレゼンターだと思いますが、初めの頃はどうでしたか?」
Aさん:「私も最初の頃は今のようにうまくできていたわけではありません。試行錯誤を繰り返しながらでしたね。部下にも私のやり方を見て真似してほしいと思いましたが、私も先輩の良さを取り入れつつ、やりながら今の自分の型を作ってきたのを、すっかり忘れていました。・・・」

いかがでしょうか?

このコーチング・セッションでは、特に「論理療法」を意識しているわけではありません。
Aさんが悩んでいる内容について、「どうすることが部下の一番の成長につながるのか、部下の立場に立って考えることが必要である」ことをコーチがAさんに伝えています。

結果的には、「率先垂範こそが正しい」と思い込んでいるイラショナル・ビリーフを、「部下を信じて任せること必要ですよ」というラショナル・ビリーフに、意識を変えていくことを説いているのです。

スパゲッティと音の関係は、果たしてイラショナル・ビリーフなのか?

さて、コラムの終わりが近づいてきました。せっかくスパゲッティで始めたインターミッションなので、最後もスパゲッティ談義で〆ることにします。

スパゲッティはイタリアの郷土料理です。「音を立てないで食べる」というスタイルと共に日本に入ってきたと考えられます。

一方で、日本そば(特にモリやザル)をつるつると食べたらどうでしょうか? テレビの旅番組などで、外国籍の人が、日本そばを食べる際に、どうしても音を立てて食べることができないシーンを取り上げて、その場にいる店の人や関係者の微笑む姿を映し出す、ということが定番で見受けられます。

不思議なもので、妻も「日本そばは音を立てないと食べている感じがしないわよね」と言うのですね。
スパゲッティに戻りますが、マッチョな男性を好む女性が、スパゲッティを音を立てないで食べる男性を見て、「お行儀はいいけど、何だか男らしくないわね」と受けとめるだろうことは、大いにありそうです。
「スパゲッティと音」が果たして、イラショナル・ビリーフかどうかは、何ともいえませんが、論理療法との関連を理解していただけたとしたら、今回のコラムの目的は達成です。
次回のコラムは、引き続きアドラーを取り上げてまいります。

(日向 薫)

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