心理学とコーチング ~行動経済学とコーチング 『ケースメソッドMBA実況中継04 行動経済学/岩澤誠一郎』~(2021/06/15)

行動経済学の「理論」について、これまで数回に亘って解説してきました。今回のコラムは、行動経済学の「理論」が「実際のビジネス」の中でどのように生かされているのか、いかに「実践」に役立つのか、そのことをリアルに実感できる格好な著作を紹介しようと思います。

『ケースメソッドMBA実況中継04 行動経済学/名古屋商科大学ビジネススクール教授 岩澤誠一郎(2020年9月25日第1刷)』です。
まずは、そのなかの「第3章 Key Takeaway(まとめ)」を引用してみましょう。

臨場感あふれるセッションが再現されています。

<岩澤>
最後の質問です。ロン・ジョンソン氏の失敗から、我々は何を学ぶことができるでしょうか?
<受講生t>
顧客を知ることの重要性です。顧客が自分と同じとか、自分はわかっているとかという思い込みは大変危険で、顧客のことを知ろう、勉強しようというように思っていなければいけないと思いました。
<受講生u>
顧客のシステム1、特にセイリアンスの対象、顧客は何に惹かれて来店しているのかを、よく考えないといけないのだと思います。システム1はなかなか合理的に理解しがたいものですが、それだけに理解しようという心を持っていないと見えてこないのだと思いました。
<受講生v>
(第3講の)A学長のケースでもやりましたが、システム1で動いている顧客のことを理解するためには、自分自身が顧客に共感しなければいけなかったのだと思います。ジョンソン氏は自分でクーポンを使ってみたりして、クーポンで動く顧客のことを理解すべきでした。
<受講生w>
思い込みや自信過剰は危険です。自信を持つのは良いことだと思いますが、自信過剰を避けるには、やはり他人の意見に耳を傾ける姿勢を持つことが大事だと思います。
<岩澤>
ありがとう。とても良い議論でした。

この著作は「行動経済学」に関する最先端の知見について「ケースメソッド」で展開した講義を「実況中継」として紙面に再現したものです。実にスリリングで、自分が参加しているような臨場感を覚えます。

ケースメソッドは、直訳すると「事例研究」となりますが、第1章でその意義を4つ挙げ、多角的に説明しています(竹内伸一 : 名古屋商科大学ビジネススクール教授 日本ケースセンター所長)。そのうちの2つは、次のように記述されています。

ケースメソッドの意義とは…

  1. ケースには、現実の企業等、そしてそこに従事するキーパーソン等を主人公とした経営上の出来事が客観的に記述されている。また、そこには、ケース作成者による問題への分析や考察は、一切書かないことになっている。ケースが掲示している問題の分析や解決に向けたアクションの構想は、すべてケースの読み手である学生の仕事であるべきなので、読み手が担うべき大切な仕事はしっかりと残されたかたちで、ケースは書かれている。
  2. 教師はケースに記述された内容そのものを教えるのではなく、ケースに関する教師自身の分析や考察がどのようなものであるかを教えるのでもない。教師の役割はあくまでも、参加者に、その問題がどこからなぜ生じ、いまどのような状況にあり、これからどうなっていくかを理解させたうえで、どう対処すべきかの「議論」をさせることである。もし教師が、ケースの内容や、「このケースはこう考えるべきだ」という自説を朗々とレクチャーしていたとしたら、教材にケースを使ったとしても、ケースメソッド授業としては「不十分」だと言わざるを得ない。

私が特に印象に残ったフレーズを太字にしました。
この意義を確認された上で、著者である岩澤教授とビジネススクール社会人受講生のやりとりを再読してみてください。

もちろん岩澤教授は、250ページを超える著作の中で、行動経済学に関するキーワードを要所で解説しています。それは、受講生の回答や議論の流れをとめることなく、「自然な思考水路」のごとく、受講生の内部に浸透していくような印象を受けます(「自然な思考水路」は村上春樹氏の言葉です…1月13日のコラムを参照ください)。なお、引用の箇所に2つキーワードがありますので解説しておきましょう。

<システム1(とシステム2)>

「速い思考」をシステム1、「遅い思考」をシステム2と呼称します(5月6日のコラム)。カーネマン教授は、『ファスト&スロー』の中で次のように説明しています。

  • システム1は、何の努力もせずに印象や感覚を生み出す。
  • システム1の能力には、動物に共通する先天的なスキルが含まれている。すなわち人間は、周囲の世界を感じ、ものを認識し、注意を向け、損害を避け、蜘蛛を怖がるように生まれついている。
  • システム2は、複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。

<セイリアンス>

「セイリアンス」には「顕著」という訳語が与えられています。「目立つ特性」という意味です。人間は何かを見たときに、視野に入る対象に均一に注目しているのではなく、無意識のうちに—システム1の働きで—セイリアントなものに焦点を与えます(『同書157ページ』)。

行動経済学を岩澤教授は次のように説明します。

行動経済学には、それまでの伝統的な経済学と大きく異なる特徴がありました。学問的に理論を展開するうえで、想定する人間像が異なっていたのです。伝統的な経済学では、人間が経済活動を営むときは、合理的な意思決定を行い、合理的に行動するものと想定していました。 一方、行動経済学は、そのような想定が必ずしも妥当ではなく、経済活動の様々な場面で、人間は非合理的な意思決定を行うことがある、非合理な行動をとることがあると考えます。 伝統的な経済学の想定の背後には、経済活動のような重要な意思決定が行われる場面では、人間はよく考え、まともな意思決定を行うだろうという観念がありました。その観念がすべて間違いというわけではありません。実際、まともな経済的意思決定が行われる場面もあるでしょうし、そのような想定に基づいて展開された経済理論がすべて誤りであるわけでもありません。 しかし他方、経済活動のすべてにおいて、人間が合理的な意思決定を行うというのは、実証的に無理があります。

岩澤教授が同書で取り上げるテーマは国内外で展開されている(現在・過去)ビジネスを中心とした事例です。成功失敗を含めたそのケースについて、「どうしてそのような結果に至ったのか…」、そのことを行動経済学の知見を敷衍しつつ、深い思考へと(システム2を起動させるよう)社会人受講生を誘います。

以前のコラム(5月6日・5月11日)で紹介した『行動経済学の逆襲/リチャード・セイラー 遠藤真美訳』の中で、セイラー教授は「お得感とぼったくり感」という第7章を設け、JCペニーのジョンソン氏がどうして失敗したのかを分析しています。私はこの第7章を読み終えた後、成功体験をもつ経営者が、どうして失敗してしまうのか(成功体験の強度に比例…?)、もう少し深く考えてみたい、と感じていました。

「失敗は成功の母」という格言はすぐ出てくるのですが、私はその含蓄とは別次元で「成功は失敗の友(父では不穏当なので友とします)」であると強く認識するところです。岩澤教授も、当該事例を同書の中で取り上げています。社会人受講生のみなさんが、このジョンソン氏の失敗をどう解釈しているのか…興味深く読み進めました。

「小売業界のスティーブ・ジョブズ」と称されたジョンソン氏でしたが…

岩澤教授と受講生の会話で登場する、ロン・ジョンソン氏について補足しておきましょう。
インターネットの検索で、上位に出てきた日経新聞の記事を以下に引用します。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0903Y_Z00C13A4EB2000/

<JCペニー、アップル出身のCEO更迭 米百貨店大手 /2013年4月9日 10:15> JCペニー(米百貨店大手)は8日、ロン・ジョンソン最高経営責任者(CEO)が辞任すると発表した。米アップルの直営店を成功させた実績を買われて2011年にCEOに就任したが、「セールをしない」といった価格戦略などでことごとく失敗。業績の悪化に歯止めがかからず、取締役会が更迭した。 アップル直営店の責任者を務めたジョンソン氏は、JCペニーでも店舗イメージの向上戦略を重視。セール品を廃止したことで、低価格志向を強める消費者が離れ、売上高が急減した。11年11月のCEO就任から株価は半値の水準まで下落。アップル流の経営が裏目に出た格好だ。 後任には前CEOのマイロン・ウルマン氏が返り咲く。ジョンソン氏辞任の報道を受け、JCペニー株は時間外取引で一時急騰。ウルマン氏のCEO就任が伝わると、失望感から株価が一転して急落するなど不安定な値動きになった。(米州総局)

なお、その後JCペニーはどう推移していったかというと、アマゾンエフェクトに象徴されるネット通販の急拡大もあって経営不振に拍車がかかります。そして2020年の5月には、米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用が申請され、破綻に至るのです。

著作では、第3章の最初に「J.C.ペニーのフェア・アンド・スクエア戦略」というタイトルを付し、ロン・ジョンソン氏が取り組んできた戦略とその結果について、受講生に情報提供します。それを踏まえ、「アサインメント(課題)」を3つ提示し、議論を促します。

  • 2012年1月に発表されたJ.C.ペニーの「フェア・アンド・スクエア戦略」とはどのようなものだったのか。ロン・ジョンソンCEOにその決断させた背景には何があったのか。また、ジョンソン氏がこの戦略の成功を確信していたのはなぜか。
  • J.C.ペニーの顧客は「フェア・アンド・スクエア戦略」にどのように反応したか。何が問題だったのか。
  • 2012年8月にジョンソンCEOが採用した価格戦略を評価せよ。この戦略は事態を打開するのに十分だろうか。

この後13ページにわたって受講生のディスカッションが繰り広げられ、冒頭に引用した「Key Takeaway(まとめ)」で、セッションが終結するのですね。

受講生が語る言葉はコーチングを彷彿とさせます…

ロン・ジョンソン氏という人物に関して、受講生は次のように語っています。

  • 顧客が自分と同じとか、自分はわかっているとかという思い込みは大変危険…
  • 顧客は何に惹かれて来店しているのかを、よく考えないといけないのだと思います…
  • 顧客のことを理解するためには、自分自身が顧客に共感しなければいけなかったのだと思います…
  • 自信を持つのは良いことだと思いますが、自信過剰を避けるには、やはり他人の意見に耳を傾ける姿勢を持つことが大事だと思います…

このコラムシリーズの横断タイトルは「心理学とコーチング」です。私の頭の中には、常にコーチングの考え方が存在しています。なぜ行動経済学をコラムのテーマに取り上げたのか…については、その人間観がコーチングの人間観とハーモナイズしていると感じているからなのですね。

受講生のみなさんが、コーチングを意識されているかどうかはわかりませんが、語る言葉の一つひとつがコーチングを彷彿とさせます。スティーブ・ジョブズ(アップル共同経営者)、エリック・シュミット(グーグル元会長兼CEO)、ラリー・ペイジ(グーグル共同創業者)には、ビル・キャンベルというコーチの存在がありました(『1兆ドルコーチ/ダイヤモンド社』)。

ロン・ジョンソン氏にはコーチがいなかった…と、断言するつもりはありませんが、コーチングを知っていれば、その人生はまた違ったものになっていたかもしれませんね。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~行動経済学とコーチング 「ヒトラーは犬と小さな子供が大好きだった」…!?~(2021/06/10)

…ある人のたった一つの目立つ特徴についての判断に、すべての資質に対する評価を一致させるよう仕向けるのがハロー効果だからである。たとえばあるピッチャーが精悍な顔つきの大男だと、きっとすごい球を投げるだろうと考えやすい。 ハロー効果はマイナス方向にも作用し、ある選手が軟弱な顔立ちだと感じると、運動能力まで過小評価しがちである。ハロー効果は、「よい人間のやることはすべてよく、悪い人間のやることはすべて悪い」という具合に評価に過剰な一貫性を持たせる働きをする。 そこで、講釈も単純で一貫したものになる。「ヒトラーは犬と小さな子供が大好きだった」という文章が何度聞いてもショッキングなのは、あれほど残酷な人間にこのような情愛の痕跡を認めることが、ハロー効果によって作り上げられた人物像に反するからである。こうした不一致があると私たちは落ち着かなくなり、自分の感覚に確信が持てなくなる。

今回は『ファスト&スロー』の第19章「わかったつもり」を取り上げます。

前回のコラムで、「ハロー(後光)効果」と「逆ハロー効果」について簡潔に紹介しています。カーネマン教授は、『ファスト&スロー』のなかの19章で、「後知恵とハロー効果」について詳述しています。

私が「心理学とコーチング」という横断テーマを冠し、伝えたかったその本質は、「人間には思い込みにとらわれてしまうという性(さが)が存在する。そのことから自由になるためにはどうすればよいのか? という命題を設定する。その解明のために心理学を学び、そしてコーチングを実践する。そうすることでメタ認知を体得できる(だろう…)。その結果素敵な人生を送ることができる(にちがいない)」…ということなのだな、という認識に至っています。

コラムを書き始めてしばらくは、そこまで顕在化した意識ではなく、心理学とコーチングの知見を、広い視野で紹介したい、という考えでした。したがって、認知心理学、社会心理学が掲げるさまざまのテーマを網羅的に紹介しています。

それがアドラー(20回目から)、そしてロジャーズ(34回目から)という人物をシリーズとして書き綴っていくうちに、両巨人が訴えたいことが、まさに、 “…ということ” なのではないか、という思いにつながってきたのですね。

ノーベル経済学賞を受賞したカーネマン教授が心理学者であることは、これまでのコラムで触れています。『プロスペクト理論』というわかりやすく明瞭な理論で脚光を浴び、これまでの経済学の前提を流動化させてしまいそうなパワーを有する「行動経済学」は、 “…ということ” を科学的に洗練させて、世に送り出したのだ、と私は感じています。

カーネマン教授は、ヒトラーを例に挙げて(確かにショッキングです)、「あるある…」という、多くの人が陥ってしまう傾向を語ります。

カーネマン教授の語るグーグルの創業秘話とは…

説得力のある講釈は、不可避性という幻想を助長する。グーグルがIT産業の巨人になったサクセスストーリーを考えてみよう。スタンフォード大学計算機学科の博士課程にいた二人の創造性あふれる大学院生がインターネットで情報を検索する高度な方法を思いついた。 二人は資金調達に成功して起業し、一連の意思決定はどれもすばらしくうまくいった。数年後には同社の株はアメリカで最高値を付け、二人は世界でも有数の大富豪になる。彼らが非常に幸運だったことを示す印象的なある出来事が、このストーリーを一層感動的なものにしている。 グーグル設立から一年が経った頃、二人は100万ドル足らずで身売りしようとしたのだ。ところが買い手は、高すぎると言った。たった一つの幸運な出来事を書き添えることで、偶然がほかにもさまざまな方法で効果に関わっていることは、見落とされやすくなる。

私はこの箇所を読んで、カーネマン教授がどのように論を展開していくのか…わくわくしながら、読み進めています。そして、私の思考のクセでもあるのですが、これまでの人生の折々で感じた事柄が、連想ゲームのように記憶の底から浮かび上がってくるのですね。

今回は「アサヒ・スーパードライ」でした。1987年に遡ります(昭和ですね…笑)。酒販店の冷蔵ケースの中にある、銀色の「アサヒ・スーパードライ」のラベルが目に留まり(目立ちました…AIDMAのAです)、「あれっ? アサヒの新製品かな…特に宣伝していないようだが…とりあえず飲んでみようか…」、と手に取ったのですね。

ここで「アサヒ・スーパードライ」のサクセスストーリーを、マーケティングコラム(風)に記述してみましょう。

「アサヒ・スーパードライ」は市場・業界に地殻変動をもたらした怪物商品!

企業の商品ミックスの構成上、メインでないにも関わらず、思いがけなく大ヒットすることがある。「アサヒ・スーパードライ」はその典型的な商品だ。当時、アサヒビールが企業イメージを統合させるために「アサヒ生ビール」に販売促進を傾注していた。

したがってサブラインと位置付けた「アサヒ・スーパードライ」については、派手な宣伝を控える様子見の市場導入であった(経営陣は「アサヒ・スーパードライ」の発売について、「アサヒ生ビール」とのカニバリゼーションを不安視し、ネガティブのスタンスをとっていた)。ところが結果的に想定を覆す大ヒット。思惑とは異なり、「アサヒ生ビール」は市場から姿を消すことになる。

「ヒットさせるべくヒットする」という商品は実はまれで、何がヒットするのか、当初はわからないものだ。成功失敗ともに、後に分析することでその理由が浮かび上がってくる。つまり、後知恵で判断され、組み立てられるのだ。

成功した第一の要因は「味の斬新性」、というのが私の実感だ。ではなぜこのタイプのビールが市場に登場しなかったのか…? その背景は、絶対王者であり続けた「キリン・ラガービールの苦い味」が市場のスタンダードを形成しており、それとは異なるテイストのビールを投入することに、他社が成功のイメージを抱くことができなかったためだ。

そう思い込まされてしまったのも理解できる。ビール業界におけるキリンは、巨大すぎで「ガリバー」と称されていた。1970年代~1986年の間の企業シェアは60%以上を誇り、デ・マーケティング(販売促進を極力控える)こそが戦略だった時期が常態化していた。

1987年のとある日、私は酒販店の冷蔵ケースの中に見慣れないビールを視認する。銀色のラベルが妙に目立っていた。アサヒから発売された新製品のようだ。自宅で私は633mlの瓶を傾けグラスに注ぐ。そして一口ゴクリと飲む。すると…「あれっ? すっきり飲める。炭酸飲料みたいだなぁ~」と意外感にとらわれて、しげしげと銀色のラベルを見直してみた……

「アサヒ・スーパードライ」の大ヒットは偶然? 結果としての成功なのか…

小説風になってしまいました。私の通常の文体に戻します。
私の個人的な感覚を書いていますが、当時初めてこのビールを飲んだ多くのユーザーが同様な実感を抱いたと想像します。この「味の斬新性」によって、ビールの味も多様性があることを市場が認識します。その効果は絶大でした。これまでの不毛な容器戦争から味の違い、製法の違い(結局味のこと…キリンの「一番搾り」に代表されます)に、差別化の内容を大きく転換させるきっかけとなった画期的商品なのですね。

もっとも、味覚というのは学習効果を伴うので、いずれ慣れてしまい、その感覚は鈍麻していくのが通常です。だからこそ、パイオニアとしての「アサヒ・スーパードライ」は、マーケティング上の先行者利益を獲得することができ、ブランド化につながったのです。

「アサヒ・スーパードライ」は発売同年で1350万ケースを販売。アサヒのシェアは10.4%から12.9%に急上昇します(翌1988年には20.6%)。長年の間、キリン、サッポロに、大きく水をあけられていたシェアは、「アサヒ・スーパードライ」の貢献により、1988年にサッポロを抜き2位となり逆転しました。

そして、その勢いはとどまることを知らず、絶対王者であったキリンビールをも1998年に抜き去ってしまいます。その年のアサヒのシェアは40%、キリンは37.7%となり、名実ともに業界のトップに君臨することになるのです。

カーネマン教授の語りから、なぜ「アサヒ・スーパードライ」を連想したのか…その回答も踏まえ、記述してみました。このマーケティングコラム(風)の執筆コンセプトは…「偶然性」と「結果としての成功譚」です。カーネマン教授の論は次のように展開します。

無敵のオーラで包まれる二人のグーグル創業者…!?

私は意図的に素っ気なく書いたが、読者にはきっと、これがとても心地よいストーリーであることがおわかりいただけたと思う。くわしく細部を肉付けしたストーリーを読んだなら、あなたはきっと、なぜグーグルが成功したのかわかったと感じるはずだ。 さらに言えば、どうすれば企業は成功するのか、貴重な教訓を学んだと感じることだろう。だが残念ながら、さまざまな理由から、あなたがグーグルについて学んだと感じたことの大半は幻想だと言わざるを得ない。ある説明を読んでその後の出来事が予測できるかどうかが、その説明の正しさを裏付ける究極の試験だとしたら、グーグルの成功を説明するストーリーはどれも、この試験に堂々と合格するだろう。 なぜならどれも、結果を変えたかもしれない膨大な事象には言及しない(できない)からだ。人間の脳は、平凡な出来事、目立たない出来事は見落とすようにできている。 現に起きた重要な出来事の多くが選択を伴っていたという事実を読むと、ますますあなたは能力の果たした役割を過大評価し、結果を左右した運の役割を過小評価するようになる。 重大な決定はどれも正しかったことがわかっているのだから、結果から見れば、創業者には完璧な先見の明があったように思える。不運が紛れ込んだだけで成功への階段のどれかが崩れ落ちたかもしれない、などとは考えもしない。そして最後の仕上げはハロー効果で、主役の二人に無敵のオーラが加わる。

カーネマン教授のクールな視点に、異を唱えたくなる向きもあろうことが想像されます。「夢をこわさないで!」といったところでしょうか。
コラムの最後に、カーネマン教授の印象に残る記述を抜き出して引用しておきましょう。

心理学者であるカーネマン教授のクールな視点が浮かび上がってきます。

・後講釈する脳は、意味づけをしたがる器官だと言える。予想外の事象が起こると、私たちはただちにそれに合わせて自分の世界観を修正する。 ・自分の脳の一般的限界として、過去における自分の理解の状態や過去に持っていた自分の意見を正確に再構築できないことが挙げられる。新たな世界観をたとえ部分的にせよ採用したとたん、その直前まで自分がどう考えていたのか、もはやほとんど思い出せなくなってしまうのである。 ・過去の自分の意見を忠実に再現できないとすれば、あなたは必然的に、過去の事象に対して感じた驚きを後になって過小評価することになる。この効果を初めて取り上げたのはバルーク・フィッシュホフで、エルサレムの大学生だったときのことである。彼はこれを「私はずっと知っていた」効果と呼んだ。すなわち「後知恵バイアス(hindsight bias)」である。 ・実際にことが起こってから、それに合わせて過去の自分の考えを修正する傾向は、強力な認知的錯覚を生む。後知恵バイアスは、意思決定者の評価に致命的な影響を与える。評価する側は、決定に至るまでのプロセスが適切だったかどうかではなく、結果がよかった悪かったかで決定の質を判断することになるからだ。 ・標準的な事務手続きに従ってさえいれば後からとやかく言われる心配はない、というわけで、自分の決定が後知恵で詮索されやすいと承知している意思決定者はお役所的なやり方に走りがちになり、リスクをとることをひどくいやがるようになる。 ・後知恵バイアスや結果バイアスは、全体としてリスク回避を助長する一方で、無責任なリスク追求者に不当な見返りをもたらす。たとえば、無茶なギャンブルに出て勝利する将軍や起業家などがそうだ。たまたま幸運に恵まれたリーダーは、大きすぎるリスクをとったことに対して罰を受けずに終わる。 それどころか、成功を探り当てる嗅覚と先見の明の持ち主だと評価される。その一方で、彼らに懐疑的だった思慮分別のある人たちは、後知恵からすると、凡庸で臆病で弱気ということになる。かくして一握りの幸運なギャンブラーは、大胆な行動と先見性のハロー効果によって、「勇気あるリーダー」という称号を手に入れるのである。 ・何にでも意味づけをしたがるシステム1の作用によって、私たちは世界を実際よりも整然として、単純で、予測可能で、首尾一貫したものとして捉えている。過去の認識の錯覚は心地よい。事態がまったく予測不能だったら感じるはずの不安を和らげてくれるからだ。私たちはみな、勇気づけられるメッセージを必要としている。行動はきっとよい結果をもたらすとか、知恵と勇気は必ず成功で報われるとか。まさにこのニーズに応えてくれるのがビジネス書である。

カーネマン教授の、第19章「わかったつもり」は、次の言葉で締めくくられます。

・企業の成功あるいは失敗の物語が読者の心を捉えて離さないのは、脳が欲しているものを与えてくれるからだ。それは、勝利にも敗北にも明らかな原因がありますよ、運だの必然的な平均回帰だのは無視しても構いませんよ、というメッセージである。こうした物語は「わかったような気になる」錯覚を誘発し、あっという間に価値のなくなる教訓を読者に垂れる。そして読者の方は、みなそれを信じたがっているのである。

太字下線は私が付しています。一連のカーネマン教授のコメントを書き連ねてきて、最後は少々疲れました。改めて自分は…「そして読者の方は、みなそれを信じたがっている」という人間であることを理解したからです。やはり「ロマン」は感じたいですから…

私は「アサヒ・スーパードライ」のマーケティングコラム(風)をカーネマン教授寄りのスタンスで記述しています。ただその大成功は、住友銀行出身の樋口廣太郎氏ならではの意思決定(バンカーとしての本領発揮です)によるところが大きい、と感じているのですね。そこで私は次の質問をつくってみました。

マーケターの視点で質問させていただきます。

Q : 「アサヒ・スーパードライ」は、味の斬新性、そしてネーミングが素晴らしいからヒットした、という声がありますが、どのように評価しますか。

考えた末、私は以下を解答とします。
A : もちろん、味の斬新性、そしてネーミングがコンセプトとして合致し、消費者に受容されたのは確かです。これなくしては、成功はあり得なかったでしょう。一方、意思決定という視点で捉えた場合、導入後の早いタイミングでその動向を察知した経営トップが、大量のエクイティファイナンス、および借入を実施します。樋口廣太郎氏が社長に就任する1986年以前の年間設備投資額は70億円程度でした。それが、在任期間である1991年までの累計設備投資額は5千億円をはるかに超えているのです。

これを原資として短期間に工場を増設、供給力を飛躍的にアップさせました。今日に至るブランドヒストリーを鑑みると、このときの意思決定の的確さが際立っています。最終的には、店頭での商品露出量が勝敗を決しますから。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~行動経済学とコーチング カーネマン教授の『ファスト&スロー』の序論を語ります~(2021/06/02)

本を書く人なら誰でも、読者が自分の本から得た知識をどんな場面で活用するのか、頭の中に思い描いているのではないだろうか。
私の場合には、それは、オフィスでの井戸端会議である。意見を交換し噂話に盛り上がる、あれだ。

「序論」はカーネマン教授の想いが、“ギュッ”と凝縮されています。

前2回のコラムで、太宰治の『走れメロス』と『新ハムレット』について試論を展開しました。今回のコラムは、行動経済学で最初のノーベル賞を受賞したカーネマン教授の『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?(早川書房)』を題材に、オーソドックスに筆を進めてまいります。

行動経済学をテーマにしたコラムは今回で6回目です。その2回目のコラム(4月27日)で同書の下巻に収録されている「プロスペクト理論(第26章)」に触れています。上下巻で850ページ、序論+全38章+結論(謝辞、解説、原注、付録B、付録A)の構成の同書を引用しながら、行動経済学とビジネス、そしてコーチングを語っていこう、という方針はスタートで決めていました。

その最初に何を語るかは、少し迷ったのですが、ノーベル賞の選考委員会が経済学賞(2002年)の業績として挙げたプロスペクト理論は、決して難解なものではない…と、私は感じていたこともあり、まずはその紹介を…という判断のもと、取り上げました。

さて今回です。行動経済学について少し脱線しつつも、回数を重ねたところで、カーネマン教授の想いが凝縮されている「序論」を綴ってみようと思います。

冒頭の引用は、そのスタートです。私は、この「井戸端会議」から、以前勤めていた会社の「喫煙ルーム」を想起しました。タバコを吸う担当取締役とそこでよく遭遇する部下が、「今日取締役が〇〇〇について、■■■って言っていましたよ。今度の立案で、■■■という表現を盛り込めば経営会議で通ると思います…」と、嬉しそうに語るその表情を思い出しています。

担当取締役は、「喫煙ルーム」で紫煙をくゆらせるとわきが甘くなる…ということをその部下が察知しており、そこで質問すると結構本音で応えてくれる、ということをつかんでいたのですね(笑)
カーネマン教授がアナロジー(わかりやすい例えで説明すること)として、「井戸端会議」を使っています。その趣旨は次の通りです。

「井戸端会議」は言い得て妙!ですね。

なぜ、井戸端会議に狙いを定めたのかといえば、他人の失敗を突き止めてあれこれ言うほうが、自分の失敗を認めるよりずっと簡単でずっと楽しいからだ。自分の信念や願望を疑ってみるのは、ものごとがうまくいっているときでも難しい。しかも、それを最も必要とするときに一段と難しくなる。だが、ちゃんと事情を通じた第三者の意見が聞こえてくれば、いろいろと得るものが多いことだろう。

「井戸端会議」は、本音を交し合うのが通常です。そこには忖度はなく、「ねばならない」という自己理想(昨年8月10日のコラム/アドラーその5)からも自由ですから、「内省につながる場」として、カーネマン教授は、その意義を語っているのです。
カーネマン教授は、続いて「判断と選択」についての見解を述べます。心理学者らしい話の展開です。

事情通の噂話からは、人間が犯すエラーの顕著なパターンが見つかると期待できる。エラーの中でも特定の状況で繰り返し起きる系統的なエラーはバイアスと呼ばれ、予測が可能だ。たとえば自信たっぷりの美男子が講演会の壇上に上がったら、聴衆は彼の意見に本来以上に賛同すると予想がつく。このバイアスには「ハロー効果(Halo effect)」という診断名がついているので、予測することも、認識し理解することも容易になっている。

ハロー効果は心理学者のソーンダイクが1920年に発表した論文に由来します。

ハロー効果について、昨年2月18日のコラム「対人認知その2」で取り上げているので、再掲しておきます。

<ハロー(後光)効果>

ある一面の優れた能力を対象者の全体能力としてとらえてしまう傾向のことです。その優れた能力を、例えば「偏差値の高い某大学出身者」であることを根拠にしてしまうと、ステレオタイプ的認知と重なってしまうことになります。

そしてハロー効果とは逆のバイアスに陥る場合も生じます。

<逆ハロー効果>

ハロー効果は対象者を実力以上に評価してしまう場合ですが、逆とあるように、対象者の一面の欠点を全体に拡大し評価してしまう傾向です。事業や芸術の分野で大成功した人たちが、全体観を持ったバランスある人たちばかりか、というと決してそうではなく、むしろ特化した能力を最大限発揮し、欠点とされる部分を自らコントロール、あるいは理解者を得てその欠点をサポートしてもらえる環境があったことで偉大な発明につながった、という事例はたくさんあります。

この後でカーネマン教授は、本書で論じるテーマについて概説します。

本書で論じることの大半は、直感のバイアスと関係がある。とはいえ、医学書が病気に注意を払うからと言って健康を否定するわけではないのと同じように、エラーを取り上げるからといって人間の知性を過少評価するつもりは毛頭ない。 私たちの大半は、たいていは健康で、判断や行動もほとんどの場合まずまず適切である。日常生活を送るうえで、ふだんはとくに迷わず印象や感覚に従い、自分の直感的な判断や好みがだいたいは正しかったと自信を持っている。だが、いつも正しいわけではない。私たちは、まちがっていながら自信たっぷりのことがよくある。そんなとき、客観的な第三者なら当人より間違いを発見しやすい。 井戸端会議に私が期待することをまとめておこう。まずは他人について、そして最終的には自分自身について、判断や選択のエラーを突き止め理解する能力を高めることである。そのために、本書ではより正確で適切な語彙を紹介していく。そして少なくともいくつかのケースでは、エラーの適切な診断によって、不適切な判断や選択が引き起こしがちなダメージを防ぐ治療法を提案できると考えている。

私は「AIDMAの法則」の流れ通りに同書を購入しています(笑)

850ページの同書を手にしたとき、そのボリュームに圧倒されますが、私は、導入である序論の「井戸端会議」、そして太字にした箇所に引き付けられました。これらの文言によって、私はマーケティング施策でいうところの「AIDMAの法則」の最初の段階である「A」が喚起されたのです。つまり、カーネマン教授の意図にはまった、ということですね(笑)

「AIDMAの法則」は、マーケティングの基本的(古典的)キーワードです。マーケティング活動が成功し、最終的に購入につながった場合(最後のAction)の心理の過程を分析すると、それぞれがポジティブになっているとわかるのです。逆に購入につながっていないケースでは、どこかの段階でネガティブな心理が生じているのであり、その原因を探り対策に生かしていきます。 その流れは次のプロセスで説明されます。

A(Attention:注意・注目)→I(Interest:興味関心)→D(Desire:欲求)→M(Memory:記憶)→A(Action:行動・購入)

少し脱線しました。
私が「行動経済学」をコラムのテーマとして取り上げることにしたのは、行動経済学が実際のビジネスにおいて、特に「意思決定」について有意義な知見を与えてくれること、そして、行動経済学の人間観とコーチングの人間観に共通するところが見いだせること、等がその背景にあります。ただ、それ以上に私がカーネマン教授、セイラー教授のことを紹介したくなるのは、パートナーであるところのトヴェルスキー氏について熱く語っているところに強く共鳴するからです。

このコラムシリーズは、コーチングが有する素晴らしさ、そして可能性を読者のみなさまにお伝えすることが目的です。たからこそ、カーネマン教授やセイラー教授がパートナーによって、どんなに力づけられているのか、パートナーなき場合には自分たちの業績は絶対的に生み出すことができなかった、そのことを何度も繰り返して語る両教授の人柄そのものに、私は感銘を受けるのですね。

太字にした「第三者」としての役割を、心の底から信頼できる友人やパートナーが担ってくれたとしたら…その人の人生は真に幸せであることを私は確信しています。

本日のコラムの最後に、「本書のルーツ」と見出しを付して、カーネマン教授が語っている箇所を引用することにします。

カーネマン教授とトヴェルスキー氏の交歓が目に浮かぶようです。

本書では、判断と意思決定に関して私が現在持っている知識を披歴する。これらの知識は、ここ数十年ほどの心理学的発見を通じて形成されたものだ。だが、そもそものルーツは1969年の幸運な出会いに遡る。
この年、私は同僚に、セミナーでゲストスピーカーとして何かしゃべってくれと頼んだ。
当時私はエルサレム・ヘブライ大学の心理学部で教えていたのだが、教授陣の中で意思決定に関する若手有望株と目されていたのがエイモス・トヴェルスキーだった。エイモスを知る人の多くは、これまでに会った中でいちばん優秀な頭脳の持ち主だと断言する。それほど頭がよく、しかも話し好きで、カリスマ性も備わっている人物だった。 大量のジョークを頭の中にしまい込んでいて、それを当意即妙に使いこなすすばらしい能力にも恵まれていた。だからエイモスがいたら、退屈するなんてことはない。当時エイモスは三十二歳、私は三十五歳だった。(中略) 私たちは、研究で扱う統計問題の現実的なシナリオを用意するなど調査の準備をし、エイモスが数理心理学会の参加者から回答を集めてきた。回答者の中には、統計の教科書の執筆者も数名含まれている。予想通り、専門の研究者も私たちとさほど変わらない反応をしていた。 つまり、標本サイズが小さいにもかかわらず、現実の世界を忠実に再現していると過大評価しがちだったのである。彼らは、(架空の)大学院生が集めるべき標本の数についても、ひどくお粗末なアドバイスをした。たとえ統計の専門家であっても、直感ではうまく統計処理はできないということである。 これらの発見について論文を書くうちに、私たちはウマが合うとお互いに感じた。エイモスはいつだって愉快で、彼といると私も愉快になる。だから私たちはまじめな研究をしながら、延々と楽しい時間を過ごすことができた。 こうした喜びがあるおかげで、私たちはいつになく忍耐強くなった。まったく退屈を感じないときは、完璧をめざして努力するのもじつに容易になる。そして、何より重要なのは、私たちがどちらもお得意の武器を使わなかったことだろう。私たちはどちらも批判や議論が好きだが(エイモスのほうがとくにそうだが)、共同研究をしていた数年間というもの、相手の発言を頭から否定するようなことは、二人とも一度もしなかった。いやむしろ、自分の漠然としたアイデアをエイモスがクリアにしてくれることを、私は大いに楽しんだ。 エイモスは私より論理的に思考し、方向感覚が正しく、理論形成に長けている。私はより直感的だ。もともと知覚心理学を学んでいたので、この学問領域から多くのアイデアを拝借した。私たちはお互いに容易に理解できる程度には似ていたが、お互い相手を驚かせる程度にはちがっていた。私たちは平日の多くの時間を共にする日課を決め、よく散歩しながら議論を戦わせた。その後の十四年間、共同研究は私たちの生活そのものであり、どちらにとっても生涯最高の一時期となった。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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コーチングをビジネスとして成り立たせるための5つの戦略(2021/05/29)

コーチングをビジネスとして成り立たせるには何が必要でしょうか?
コーチングを学び、コーチの資格を取り、スキルを磨き、コーチング・セッションの経験を積むことでしょうか?

もちろん、これらはとても重要ですが、これだけではビジネスとして成り立たせるには十分とは言えません。
もしあなたがプロフェッショナルコーチとして成功したいのであれば、次のことについて考えてみるとよいでしょう。

戦略その1. コーチとしてのストーリーをつくる

「あなたがコーチになりたいと思ったのは何故でしょうか?」

「高校生の時に友達の誕生日でサプライズプレゼントとしたら、めちゃめちゃ喜んでくれました。その時の感動が忘れられなくて、自分は人の喜ぶ顔を見るのが好きなんだなぁ、と思いました」

「大学生の頃、スターバックスでアルバイトをしていた時に、『価値観の共有』『お互いの良さを認め合う』『自分で考えて行動する』ことの大切さを学びました。
そして大学卒業後、別の会社に就職しましたが、スターバックスの社風の素晴らしさがずっと心に残っていました。いろいろ経験する中で、スターバックスで経験したことは、実はコーチングの考え方そのものだということを知りました。そこで、自分もコーチングを学んで実践できるようになりたいと思いました。」

「会社で後輩の相談にのることが多かったのですが、自分は人の話を聴くのが好きなんだと改めて思いました。そして後輩の多くが同じような悩みを抱えていることを知りました。子育ても一段落したし、もう一度自分を輝かせたい、今度は自分の『個育て』をしつつ、そんな後輩の人たちの力になりたいと思いました。」

など、コーチになろうと思った動機は様々だと思いますが、まずは、それをきちんとストーリーとして語れるようにしておくことが第一のポイントです。

クライアントがあなたをコーチとして選んでくれる要素は、実績などもありますが、あなたのストーリーに共感して、あなたを選んでくれることが多いからです。

そのうえで、次のことについても、自らの言葉で語れるようにしておきましょう。

「あなたはコーチになって何を成し遂げたいのでしょうか?」
「そのことが実現できると、あなたにとって何が変わるのでしょうか?」

戦略その2. コーチとしてのポジショニングを明確にする

ポジショニングは、あなたの『位置づけ』をどのようにお客様に認知して頂きたいかを考えることです。つまり、「誰に」「どんなメッセージ」を伝えるかを明確にして、あなたがどんな領域で、どんなビジネスをやるのかを決めることです。これによって、あなたの独自性を打ち出し、他者との差別化を行うことができます。

ビジネスの80%はポジショニングで決まるとも言われるくらい重要な戦略になります。

競合となりうる製品・サービス群の中からあなたを選択してもらうには、あなたの位置づけを明確にする必要があります。あなたの強みを際立たせて、あなたの魅力がより伝わるように感じてもらえるようなポジショニングを決めます。

 

ポジショニングを検討するときには、戦略的に有効な2つの軸を決めます。そして、図表のように2軸のマップ(ポジショニング・マップ)で表現することが多いです。

戦略その3. 魅力的なコーチング・パッケージを創る

コーチングは、「1回60分 〇〇円」というような決め方をすることが多いですが、通常、コーチングは一定期間継続して実施していきます。クライアントの新たな挑戦やありたい姿をサポートしていくためには、複数回のコーチング・セッションが必要になります。

あなたが経営者の想いをカタチにするビジョン・コーチだとします。
その場合、例えば「経営者の想いを引き出すピジョンづくりの方法」などをテーマにしたコーチング・パッケージをつくり、クライアントが期待する結果や成果を明確に見える化します。次に、期間6か月間、毎月2回(1回90分)のセッションを実施、というように、具体的なコーチング・セッションの回数や期間を決めます。
いかに魅力的なコーチング・パッケージをつくることができるかどうかが、コーチとして成功するか否かを決めるといっても過言ではありません。

戦略その4. 適正な価格を設定する

コーチングは形のないものであるだけに、価格設定は最も難しいものの一つです。

「私のコーチングでこんなにお金を頂いていいのだろうか?」多くのコーチが悩んでいます。価格をつける時に注意したいのは、あなた自身が自ら評価した価格をつけないことです。
多くの人は、自分の価値を過小評価していて、低すぎる価格設定をしています。

あなたが考えなければいけないのは、あなたが生み出せる成果に対して価格をつけることです。もしあなたがビジネスコーチであれば、あなたのコーチングによってクライアントがビジネスで得られる価値はどのくらいでしょうか?あなたはクライアントに対して、どの程度お役に立てることができるでしょうか?

実績が少ない段階では、自分の提供できる価値が分からず、価格をつけにくいと感じられると思います。その時は、最初は無料ないしは低価格で設定し、結果や成果が出た時に料金を頂くというように『成果報酬』にするのも一つの方法です。

戦略その5. 「選ばれ続ける」情報発信

 

プログやメルマガ、SNSなどを通して、あなたの考えを発信していくことも大切です。
情報は、あなたのコーチングを選んで頂く人とつなぐものです。
情報には製品やサービスの紹介など『機能的価値』と、創業秘話、顧客の声などの『情緒的価値』がありますが、特に『情緒的価値』の発信が有効と言われています。

「選ばれ続ける」には地道な情報発信が必要です。このことは大企業であっても個人であっても同じです。

 

「あなたはどんなコーチを目指したいですか?」
 「あなたがコーチングで大事にしていることは何ですか?」
「あなたはどんなコーチだと認知してもらいたいですか?」

現代は一人一人が情報発信する時代です。コーチングに関わらず、どんなビジネスをするにしても、あなた自身を知らしめたいパーソナルブランドを明確にすることが求められます。

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心理学とコーチング ~行動経済学とコーチング 太宰治の『新ハムレット』~(2021/05/27)

……お父さんが、なくなってからは、僕の生活も滅茶滅茶だ。お母さんは僕よりも、山羊のおじさんのほうに味方して、すっかり他人になってしまったし、僕は狂ってしまったんだ。僕は誇り高い男だ。僕は自分の、このごろの恥知らずの行為を思えば、たまらない。僕は、いまでは誰の悪口も言えないような男になってしまった。卑劣だ。誰に逢っても、おどおどする。 ああ、どうすればいいんだ。ホレーショー。父は死に、母は奪われ、おまけにあの山羊のおばけが、いやにもったいぶって僕にお説教ばかりする。いやらしい。きたならしい。ああ、でも、それよりも、僕には、もっと苦しい焼ける思いのものがあるのだ。 いや、何もかもだ。みんな苦しい。いろんな事が此の二箇月間、ごちゃまぜになって僕を襲った。苦しい事が、こんなに一緒に次から次と起こるものだとは知らなかった。苦しみが苦しみを生み、悲しみが悲しみを生み、溜息が溜息をふやす。自殺。逃れる方法は、それだけだ。

今回のコラムは、『走れメロス』の1年後に発表された『新ハムレット』を取り上げます。

前回のコラムで、太宰治の『走れメロス』を取り上げました。その意図は……行動経済学は従来の経済学とは大きく異なり、学術的な説明をしなくても(数式は不要です)わかりやすく伝えられる、とはいえ、理論を理解するためには、“システム2”(頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる)の思考を使う必要があるので、少し頭を休めていただこうと考えた上でのテーマ選定なのですね。そして今回のコラムから、また行動経済学に戻って、オーソドックスに紹介しようと考えたのですが……もう一回、太宰について書いてみようと思います。

『走れメロス』は、太宰が西洋の古典に触発されて世に送り出しました。同じく『新ハムレット』は、題名からもわかるようにシェークスピアの戯曲である『ハムレット』をベースにした太宰のパロディ作品です。太宰は、めずらしく「はしがき」で作品を始めています。その最後のところで、次のようにコメントしています。

此の作品の形式は、やや戯曲にも似ているが、作者は、決して戯曲のつもりで書いたのではないという事を、お断りして置きたい。作者は、もとより小説家である。戯曲技法については、ほとんど知るところが無い。これは、謂わば LESEDRAMA ふうの、小説だと思っていただきたい。 二月、三月、四月、五月。四箇月間かかって、やっと書き上げたわけである。読み返してみると、淋しい気もする。けれども、これ以上の作品も、いまのところ、書けそうもない。作者の力量が、これだけしか無いのだ。じたばた自己弁護をしてみたところで、はじまらぬ。

謙遜していますが、はじめての長編をものにした安堵とともに、満足できる作品であることが伝わってきます。ちなみに、LESEDRAMAとは、「上演を意図するものではなく、読まれることを目的に書かれた、脚本形式の文学作品」です。

冒頭の引用は、叔父のクロージャス(先王であったハムレットの父の弟)が王を引き継いだ二箇月後に、城内の大広間に皆を集め、ハムレットに対して長い話(ほぼ一方的に)をした後、一人になったハムレットが独白するシーンです。全150ページ(新潮文庫)の18ページ目に登場します。

『走れメロス』は昭和15年5月に書かれ、そして『新ハムレット』は16年初夏に出版されています。収録されている新潮文庫の解説で、この時期を、

……昭和13年の後半、太宰の三十歳からはじまる中期は、生活も安定し、健康もすぐれ、太宰の生涯中でもっとも平穏な落着いた時期であった。井伏鱒二氏の媒酌で結婚した美知子夫人と三鷹下連雀に新居を構え、シナ事変の非常時のさなかであるが、一市民としてつつましく、サラリーマンのごとく規則正しく、創作に打ち込んでいる(奥野健男)。……

と書かれているように、多くのすぐれた作品が世に送り出されました。

同じ戯曲調でも『走れメロス』と『新ハムレット』は全く異なる作風です。

『新ハムレット』は、太宰による天才的文(ふみ)使いが隅々にちりばめられ、驚嘆させられる作品です。諧謔とユーモア、同時にアイロニーに富んだ展開です。ただ、『走れメロス』が、肯定としての「信」を描いているのに対し、『新ハムレット』は、ホレーショー(ハムレットの親友)を除き、すべての登場人物が「疑心暗鬼」の塊なのですね。太宰は、微に入り細に入り、その「不信感」を詳述しています。“モザイク状の多面体”である小説家としての太宰の本領発揮です。

その他にも違いが見いだせます。『走れメロス』は、会話以外のト書風の描写を多く用いています。したがって、会話はシンプルです。ところが『新ハムレット』は、太宰がLESEDRAMA(脚本形式の文学作品)と説明しているものの、ト書が無いのですね。つまり、登場人物のセリフのなかにト書的なところ(自分の感情の流れなど)をすべて含めているのです。その結果、登場人物の1回の語りが異様に長いのです。3ページを超えるシーンもあります。それは特定の人物に限ったことではなく、ハムレット、王、王妃、ポローニアス(侍従長)それぞれなのですね。読者からすれば、相手が眼前にいるにも関わらず、反応が書かれていない(わからない)一人語りといえるシーンのオンパレードなのです。そして、それぞれの長回しの一人語りには共通するパターンがあることに気づきました。それは……

長広舌の語りは、最初・中間・最後で内容がどんどん変化していく…!?

最初と中間、そして最後というふうに区分した場合、言うことがどんどん変わっていくのですね。とりあえず人はある事象に関して、一定の見解を持っています(いるはずです)。ところが、登場人物たちは、いろいろ話していくうちに内省がはじまり…『実は言っていることと違うことを考えている…』ことに気づきます(と推察されます)。それをまた語りに組み込みます。

聞く側(読む側)からすると、混乱します。支離滅裂と感じてしまいます。『新ハムレット』で太宰は、この人の思考の一貫性の無さ、別の言い方をすると、人の内部にはさまざまな感情が蠢いていることを描きたかったのではないか、と私は受けとめました。

私はこのことに気づいたときに、実際のコーチング・セッションをイメージしました。
コーチングにおけるコーチを経験された方は、実感できると思うのですが、セッションが進んでいくと(好ましく展開していくと)、クライエントの考え込むシーンが訪れます。つまり内省が始まるのですね。「これまで話したことは、ひょっとして表層のことだったのではないのか…本心は別のところにあるのでは…」という思いです。

そしてクライエントの口から回答がなかなか出てきません。コーチは静かに待ちます(ただし、クライエントが考えることに疲れてしまっての沈黙もありますので、コーチの五感が試されるシーンでもあります)。

ハムレットにコーチングをやってみたら…

コーチングではない現実の会話において、『新ハムレット』の登場人物のような、独白調の語りはめったにないと考えられます。居酒屋で会社の上司と思しきおじさんが、酔って部下らしき若者に延々と語っているシーン(お説教?)を想起されるかもしれませんが、それは「同じことをくどくど繰り返している」わけで、上司らしき人が内省しているのとは違います(内省とは真逆ですね)。

『新ハムレット』にはコーチは登場しませんが、長い一人語りを分析すると、各人の内部に架空のコーチがいて、無意識的な質問や囁きによって、内省がはじまっているような印象です。ただ、そのコーチは自分であるので、どうしても限界があります。結果的に「支離滅裂」のままにとどまってしまい、セッションとしてのゴールに至らないのですね。

そこに訓練を積んだコーチがいたら、どうであろうか…と思考実験をしてみました。もちろんハムレットのような難敵には苦労するでしょうが、『新ハムレット』のあらゆるシーンが、交流分析における「交差的交流」「裏面的交流」、さらに「交差的裏面交流…ゲーム」となっているので(3月9日のコラム~交流パターン分析と伊坂幸太郎の「AX」)、そのことをメタ認知で相対化させ…そしてコーチとしての自分が、ハムレットへのコーチングにチャレンジしてみると…ハムレットが陥っている負のスパイラルから脱する援助ができるかもしれない…と想像しました(笑)。
https://coaching-labo.co.jp/archives/3050

コラムの最後に、もう一つ引用してみます。
ハムレットのキャラクターは、太宰が自身のネガティブだと自覚している一面の人格を投影し造形しています。そして、それを指摘されることを回避したがる自分(太宰)を糾す役割を、ハムレットの子を身ごもったオフィリア(ポローニアスの娘)に与えます。

これは太宰作品によくあるパターンで、太宰が自分の内部に存在する複数の人格を使い分けて、キャラクター化させるのですね。そしてダメなキャラクター(男性です)を糾すのはきまって女性です。恋愛体質の太宰と符合させてしまうのは考えすぎでしょうか…(笑)

太宰は女性を立ててハムレット(自分?)の意気地の無さを糾します!

<オフィリア>
ハムレットさま、あなたは本当にいいのがれが、お上手です。ああ言えば、こうおっしゃる。しょっていると申し上げると、こんどは逆に、僕ほど、みじめな生きかたをしている男は無いとおっしゃる。本当に、御自分の悪いところが、そんなにはっきり、おわかりなら、ただ、御自分を嘲って、やっつけてばかりいないで、いっそ黙ってその悪いところをお直しになるように努められたらどうかしら。ただ御自分を嘲笑なさっていらっしゃるばかりでは、意味ないわ。ごめんなさい。
きっと、あなたは、ひどい見栄坊なのよ。ほんとうに、困ってしまいます。ハムレットさま、しっかりなさいませ。愛の言葉が欲しい等と、女の子のような甘い事も、これからはおっしゃらないようにして下さい。みんな、あなたを愛しています。あなたは少し欲ばりなのです。ごめんなさい。だって人は、本当に愛して居れば、かえって愛の言葉など、白々しくて言いたくなくなるものでございます。 愛している人には、愛しているのだという誇りが少しずつあるものです。黙っていても、いつかは、わかってくれるだろうという、つつましい誇りを持っているものです。それを、あなたは、そのわずかな誇りを踏み躙って、無理矢理、口を引き裂いても愛の大声を叫ばせようとしているのです。(中略) <ハムレット>
意外だね。君から愛の哲理を拝聴しようとは、意外だね。君は、いつから、そんな物知りになったのですか。いい加減に、やめるがよい。(中略)

この後、1ページ以上にわたってハムレットの反論が続きます。それに対してオフィリアも反論し、ハムレットのオフィリアを否定する言葉はヒートアップしていくのですね。

<ハムレット>
おさない事を言っている。君の信仰しているものは、それは邪教の偶像だ。

さらにハムレットの反論は1ページ続きます。

次回は、行動経済学に戻ってコラムを進めてまいります。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~行動経済学とコーチング 太宰治の『走れメロス』~(2021/05/18)

<王>
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」(太宰のト書的表現省略)
<メロス>
「市を暴君の手から救うのだ」(同省略)

まずは『走れメロス』のなかの、王とメロスのやりとり(会話)だけをピックアップしてみます。

<王>
「おまえがか?」(同省略)
「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ」
<メロス>
「言うな!」(同省略)
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる」
<王>
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心はあてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ」(同省略)
「わしだって、平和を望んでいるのだが」
<メロス>
「何のための平和だ。自分の地位を守る為か」(同省略)
「罪のない人を殺して、何が平和だ」
<王>
「だまれ、下賤の者」(同省略)
「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ」
<メロス>
「ああ、王は悧巧だ。己惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟でいるのに。命乞いなど決してしない。ただ、……」(同省略)
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑まで三日間の日限を与えてください。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰ってきます」
<王>
「ばかな」(同省略)
「とんでもない噓を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか」
<メロス>
「そうです。帰って来るのです」(同省略)
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい。この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の親友だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮れまで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ。そうして下さい」(同省略)
<王>
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りをきっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ」
<メロス>
「なに、何をおっしゃる」
<王>
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ」
メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりに相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で首肯き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、出発した。初夏、満点の星である。

「囚人のジレンマ」を実験室で行うと、想定とは違った結果が出た…!?

前回のコラムで、ゲーム理論の「囚人のジレンマ」を取り上げました。
別々に取り調べを受ける共犯関係の2人の容疑者に対して、トレードオフの条件(あちらを立てればこちらが立たず)が設定された場合に、人はどう意思決定すれば合理的な結果がもたらされるのか、という内容です。

セイラー教授は、

……2人とも裏切りを選択すると予測される。なぜなら2人にとって、相手がどうしようと、そうすることで自分の利益が最大化されるからだ。だが、このゲームを実験室で行うと、40~50%の人が協力を選択する。これは、プレーヤーの半分がゲームのロジックを理解していないか、協力することこそが正しいことだと感じているか、あるいはその両方だということになる。……

と解説しています。裏切りを選択するのは、従来の経済学が想定している「エコン」です。ところが、「ヒューマン」であるプレーヤーの半分は、協力を選択する、というのですね。

「囚人のジレンマ」は、1950年に数学者のアルバート・タッカーが考案しています。以来、社会科学の中心テーマ(解決されていない大問題)として、経済学をはじめとする多くの分野で取り上げられています。つまり人が「信じること」、そして「信じきれないこと」とは、どういうことであるのか、を探求する上での“舞台装置”の役割を果たしてくれているのですね。

感動の“ありか”がつかめていない気持ちを行動経済学でひも解いてみる…

今回のコラムは、太宰治の『走れメロス』を取り上げます。太宰の代表作ですが、前回のコラムを綴るなかで、大昔に読んだときの感覚がほのかに浮かんできました。それは「確かに感動なのだが、その感動に浸りきれないモヤモヤした感情」を抱き続けていたのです。本日、このコラムを書き始めたところで、その正体が像を結び、気持ちが落ち着くような気がしています(行動経済学の力を借りることで…)。ということで、トライしてみます。

冒頭は、新潮文庫の短編集『走れメロス』からの引用です。この短編集には、“モザイク状の多面体(中野信子さんの言葉…3月1日のコラム)”である太宰の心が、安定していた時期の代表作である『富嶽百景』なども収録されています。このとき太宰は、師である井伏鱒二(太宰にとってのメンターですね)のはからいで、美知子夫人と結婚しています。この美知子夫人について、『文豪ナビ 太宰治/新潮文庫』のなかにつぎのような記述があります。

……富士山から掘り出された玉のような美知子夫人は「平穏な人生」をもたらす宝物だった。自分も他人も堕ちてしまえばいいという破壊願望の強い太宰とは対照的に、太宰を引き上げて健全な暮らしをさせる賢婦人だった。「太宰と初代」は似た者同士ゆえに失敗したが、「太宰と美知子夫人」は、互いに相手に欠けているものを補いあうカップルだった。……

美知子夫人は、太宰にとってのかけがえのないコーチとしての存在だったのかもしれませんね。 さて、『走れメロス』です。作品の最後に、(古伝説とシルレルの詩から)と記述されているように、太宰が西洋の古典を題材に創作した作品です。

私は、試みとして王とメロスの会話の合間に、太宰がト書き風に、両者の感情を描いているところを省略してみました。(太宰のト書的表現省略)(同省略)です。『走れメロス』は、舞台や映画、そしてTVでも取り上げられていますが、ト書的表現は、俳優や演者によって表現される部分です。ちなみに最初の、王とメロスの(太宰のト書的表現)は以下の通りです。太字にしています。

「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以って問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ」とメロスは悪びれずに答えた。

暴虐の王は、感情を持たない悪の権化たる人物なのか…

心理学者のメラビアンによると、相手が何を考えているのかを把握しようとする場合に(たよりとする情報です)、「話の内容…バーバル」の情報量は1割にも満たず、声の調子、抑揚、大きさ、話す速さ、といった「話し方」や、視線の動き、笑顔か否か、顔をしかめていないか、そわそわした態度かどうか、腕組みをしているか…といった「ボディランゲージ」であるノン・バーバル情報が9割以上を占める(メラビアンの法則)、とされています。この割合は、多くの人が無自覚なのですね。

コーチングにおいてコーチは、このことを認識した上で、クライエントに接します。言葉で表現されていない本音をつかみとる“感性”もコーチには求められるのです。

太宰は、登場人物のキャラクターをより鮮明にする(読者に印象付ける)ために、ト書的説明で補っています。「顔面蒼白で眉間に深いしわが刻まれている」という表現からは、会話からだけでは把握しきれない複雑な王の心理状態が伝わってきます。
なお、(太宰のト書的表現)を省略しておりますので、引用では読みやすくするために<王><メロス>を付記しております。

『走れメロス』は、印象的な「メロスは激怒した」、という言葉から始まります。メロスは、妹の花嫁衣装や祝宴の御馳走を買いに、2年ぶりに十里はなれたこのシラクスの市にやってきました。2年まえに来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであったのに、市全体がやけに静かで寂しいことに気づきます。不安になったメロスは、最初に出会った若い衆に尋ねてみるのですが、首を振って答えてくれません。しばらく歩くと老爺に逢います。語勢を強くしても答えないので、メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねたところ、あたりをはばかる低声で、わずかに答えます。

「王様は人を殺します」
「なぜ殺すのだ」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心をもっては居りませぬ」
「たくさんの人を殺したのか」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、ご自身のお世嗣を。それから妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアキレス様を」
「おどろいた。国王は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を信ずることができぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少し派手な暮らしをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。今日は、六人殺されました」
聞いて、メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かしておけぬ」
メロスは単純な男であった。買い物を背負ったままで、のそのそ王城に入って行った。たちまち彼は、巡らの警史に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。

「信」とは何か?…を考えてみる。

この後より、冒頭の<王><メロス>の会話となります。なお、下線太字は私が付しています。理由は後ほど説明します。
さて、この後は、ストーリーを簡潔に紹介しつつ、私なりの“受けとめ方”で綴ってまいります。

『走れメロス』のテーマは「信」です。過酷な状況下にあって、人はどこまでその「信」を全うできるのか、に挑んだ小説ですね。

人は、自身のキャパシティを超えた“現実”に遭遇すると、思考を超えた「シンプルな則」に立ち返る、と日頃より感じています。非常に過酷な状況に至ったとき何を拠り所にするか…それは「信」なのではないか、と思うのですね。

メロスの中には明快な最優先事項がありました。一度は善から見放されそうになったものの、復活した後はその「信」を抱き、刑場まで走り続けます。「友を裏切るわけにはいかない!だから絶対その期限までに帰る!」…自身への絶対規範です。友を人質にしたのは自分の提案ですから。

前提として、「友は私を信じているということを私は信じている」…これがメロスのなかに確固として存在しているのです。それは「思い込み」かもしれません。でも、こういう状況になると「思い込むこと」、すなわち「他の考えを放棄すること」が何にもまして力を持ちます。

そして、あらゆることの決定権をもつ最高権力者である暴虐の王。自分の気持ちひとつで、何でもやれちゃう人です。王のスタンスは、「バカめ、死を前にして友情なんてもんはなぁ、うすっぺらいものよ」です。王はこの考えを「信じて」彼らを試し、いたぶります。

メロスが名作といわれるのは、一途ではない心理をしっかりと描ききっているからですね。志賀直哉の『范の犯罪』にもつながるところです。

物語のヤマは…アクシデントもあってメロスは約束を守ることを放棄するところですね。その理由も描きながら…まず不可抗力であった、という理由。自分は限界まで頑張った、という自己弁護。まさに防衛機制です。補償あり、合理化あり、投射ありです。ここが実に太宰的で小説の楽しみを実感できます。
メロスはヘトヘトになって眠る(もう自暴自棄です…時間をさらに無駄にするわけですから)。

そして目が覚めた…復活しました。精神に善がみなぎります。メロスは一心不乱に走り続けます。そして間に合う…超ギリギリに。小説の真髄をここで描きます。
メロスは友に告白、「私は君を一度裏切った」と。セリヌンティウスに思いっきり右頬を殴らせます。この後のセンヌンティウスの語りが、この小説のクライマックスですね。

「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」
そして暴虐だった王の言葉をつなぎます。
「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしを仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」

太宰は「シンプルな人」に強いあこがれを抱いていたのでは……?

太宰ほど心理学的にいうところの「コンプレックス」に苛まれた人は存在しないのではないか…と想像します。小説家とは、自身の内部に存在するさまざまな人格を使い分けて(意識的、無意識的に限らず)、作品に投影していきます。

太宰が悩んだ(かもしれない)のは、メロスのキャラクター設定なのではないか、と私は感じました。多くの人は、「メロスのように、セリヌンティウスのようになりたい…」と思っています。ただ、そのような人物はなかなか身近に存在しないことを、多くの人が感じているのですね。小説はリアル感が命です。メロスが嘘っぽかったら、感動にはつながりません。そこで太宰がメロスの性格を表すために、どのような表現を用いているのか…探してみました。それが、下線太字にした、「メロスは単純な男であった」なのだと私は受けとめています。

コンプレックスの意味は「複合的な感情」です(昨年6月2日のコラム/「フロイト、ユング、そしてアドラー」)。つまりメロスは、そうではない「シンプルな人」なのですね。そのようなタイプの対極にある太宰は、実はそのような人格にあこがれていたのではないか……私の想像力は広がっていきます。
https://coaching-labo.co.jp/archives/2790

大昔に読んだ際は、気づいていなかったことがあります。それは、太宰が自分に最も近い人物の造形を、王として描いたのではないか… 太宰は「信じることができる」という姿を求め続けていた人なのではないか、ということをです。
行動経済学の人間観は、これまでの経済学の人間観である、複雑な思考を駆使する(もてあそぶ…?)エコンとは異なります。それは…単純な思考である「システム1」に左右されやすいヒューマンなのですね。
私はそのヒューマンの代表を「メロス」と符合させました(少々牽強付会かもしれませんが…笑)。

ヒューマンはどこにでもいる(はずの)人です。ただ、それは理想であって本当は存在しない、と思い込んでいるだけなのではないか…と、私は今感じています。

ファクトを積み重ねてきた行動経済学は、新しい視座を与えてくれます。“私が陥りがちな思い込みをほぐしてくれる” …そんな感覚を私は行動経済学に抱いています。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~行動経済学とコーチング 「不公正な人を罰したい」とは…!?~(2021/05/11)

私たちはみんな、ただの人間、つまりホモサピエンスである。問題はむしろ、経済学者が使っているモデルのほうにある。そのモデルでは、ホモサピエンスの代わりに「ホモエコノミカス」と呼ばれる架空の人間が設定される。「ホモエコノミカス」というのは長ったらしいので、私は「エコン」と短く略して呼ぶようにしている。エコンのいる架空の世界と比べると、ヒューマンは誤ったふるまいをたくさんする。 それはつまり、経済モデルが誤った予測をたくさんするということを意味する。経済学モデルの予測が、学生たちを怒らせるどころではすまないような重大な結果を招くこともある。実際、2007年~08年の金融危機を予測した経済学者はほとんど誰もいなかった(※)。それどころか、クラッシュもその余波も起こるはずがないと多くの者が考えていた。
(※)住宅市場のクラッシュを予見していたのが、私と同じ行動経済学者のロバート・シラーである。

4月22日以降、メタ認知ができているのかを自問自答してみました。

4月22日のコラムで、私は次のようにコメントしています。
……さて、ロジャーズのコラムを終え、私も一つの区切りをつけたいと感じています。そこで、これまでの56回のコラムを振り返ってみようと思ったのですが、ただ、そのことを通じて「新たな気づきが訪れるだろうか…」ということに関して、私は村上春樹氏がよく語る「創作の宝庫としての無意識の領域」は、残念ながら「限られているなぁ」と感じています。つまり「心理学とコーチング」という横断テーマを掲げ、そしてコツコツ書き綴ってきたことの「意味」については、どうも自覚的なのですね。……

と、書きながら、ふと、「自覚的だ」としているのはひょっとして「思い込みかもしれない…」と、改めて自問自答してみました。コーチングのセッションにおいて、コーチはメタ認知が求められます。これは、自分を客観視し相対化することです。自分から距離を置いて自分を見ている状態(幽体離脱ではありませんが…笑)をイメージしてみてください。

その自覚のもとに、クライエントとメタ・コミュニケーションを進めていきます。この重要性については、2019年11月29日のコラム(五十嵐代表執筆)で紹介しています。

私がコラムで取り上げてきた巨人への想いは、別の視点が内在化されていたのかもしれない…?

フロイト、ユング、アドラー、ロジャーズ…、心理学を学ぶと必ず登場する巨人たちです。コラムでは、もちろん各氏の業績や理論を紹介していますが、私がこだわり、字数を費やしたのは、「既存の権威・価値観に強い違和感を覚え、その解体に挑戦し続けた結果、その姿が(もちろん理論についても)世に認められ、結果的に新たなオーソリティ(新たな価値観の提供者)として屹立するに至ったそのプロセス」であることに気づいたのです。

各氏がよりどころとしたのは「科学的アプローチ」です。
科学(的枠組み)とは……“そのときの最先端の知見でしかない”という限界が内包されており、いずれは覆され、新たな知見の登場により価値観もまた大きく変化していく(私見であることをご容赦ください)……このダイナミズムに私は興奮を覚えていたのですね。

今回のコラムは、行動経済学を取り上げての4回目ですが、動機は、コーチングとビジネスの融合を語る上で、格好の理論群であると感じての選択です。ただ改めて考えてみると、カーネマン教授、トヴェルスキー氏、そしてセイラー教授は、既存の経済学の枠組み・根幹に疑問を抱き、その反証としてのエビデンス(科学的根拠)をコツコツと積み上げてきた結果、「盤石だとされていた経済学というカテゴリー」そのものを流動化させてしまいそうな大きなパワーを有する存在となっているのですね。

「不公正な人間を罰したい」とは…!?

少し前置きが長くなってしまいました。
冒頭の引用元は、前回でも取り上げた『行動経済学の逆襲/リチャード・セイラー 遠藤真美訳』です。この著作は、2017年にセイラー教授がノーベル経済学賞を受賞する少し前に発刊されていますが、セイラー教授は、経済モデルが想定する人間像から大きくかけはなれたふるまいをするヒューマンについて、無数にあるストーリーを大学院時代から40年間、ひたすら考えてきたと語ります。

今回のコラムは、上巻の第15章「不公正な人は罰したい」を取り上げます。

・公正性を研究するプロジェクトに取り組んでいるとき、ダニエル・カーネマン、ジャック・クネッチ、私の頭には、ある疑問が強くあった。人は不公正なふるまいをする企業を罰したいと思うのだろうか。通常のタクシー料金が50ドルのときに500ドルを請求された利用客は、たとえサービスを気に入っても、そのタクシーを二度と使わなくなるのか。そこで私たちは、ゲーム形式の実験を設計して、この問題を調べることにした。(中略) ・エコンは純粋に利己的であるとされているが、人は(少なくとも見知らぬ他人と相対するときには)ほんとうに利己的なのかという疑問を解き明かそうとするゲームは他にもある。それが協力ゲームと呼ばれるものであり、この種の古典的ゲームが、有名な「囚人のジレンマ」だ。オリジナルの条件設定は次のとおりである。 ある事件の共犯と考えられている2人の容疑者が逮捕され、それぞれ別室で取り調べを受けている。ここで2人が取りうる選択肢は、罪を告白するか、黙秘するかの2つとなる。2人とも黙秘したら、懲役1年の軽い刑しか求刑できない。2人がともに自白したら、2人とも懲役5年になる。しかし、1人が自白し、もう1人が黙秘したら、自白したほうはその場で釈放されるが、黙秘したほうは10年の刑を受ける。

これを2人のプレーヤーによるゲームとして一般化すると、プレーヤーが取りうる戦略は、協力(黙秘)か裏切り(自白)かの2つとなる。ゲーム理論では、2人とも裏切りを選択すると予測される。なぜなら2人とって、相手がどうしようと、そうすることで自分の利益が最大化されるからだ。だが、このゲームを実験室で行うと、40~50%の人が協力を選択する。 これは、プレーヤーの半分がゲームのロジックを理解していないか、協力することこそが正しいことだと感じているか、あるいはその両方だということになる。囚人のジレンマのストーリーはよくできているが、ほとんどの人はそうそう逮捕されるものではない。このゲームは日常生活とどう関係してくるのだろう。この問題と関連のある「公共財ゲーム」と呼ばれる実験を考えてみよう。

公共財は全員が同時に、かつ費用負担者以外も享受できる財やサービスのこと。

公共財は日頃より見聞きするワードですが、「その便益を多くの個人が同時に享受でき、しかも対価の支払者だけに限定できないような財やサービス。公園・消防・警察など(広辞苑)」のことです。
「公共財ゲーム」を通じて、エコンとは異なるふるまいをとるヒューマンについて、セイラー教授は解説します。

・経済学者、心理学者、社会学者はそろって、次のようなさまざまなバリエーションの単純なゲームを用いて、この問題を研究している。いま、お互い面識のない10人に実験室に来てもらって、それぞれ1ドル札を5枚ずつ与えるとする。そして、“公共財”に拠出したいかどうか、拠出するとしたらいくら拠出するかそれぞれ決めてもらう。お金は無記名の封筒に入れて回収されるので、誰がいくら拠出したかはわからない。実験者は拠出額を合計し、それを2倍にした金額を全員に均等に分配する。 公共財ゲームにおける合理的かつ利己的な戦略は、何も拠出しないことだ。いま、ブレンダンは1ドル拠出することを決めるとしよう(そして他は誰も拠出しない場合…坂本補足)。これを2倍した2ドルが全員に分配されるので、ブレンダンの取り分は20セントになる。 つまり、ブレンダンは1ドル拠出するごとに80セントを失うということだ。他の被験者も20セントもらえるので、ブレンダンが匿名で拠出したことをもちろん歓迎するが、拠出は匿名だったのでブレンダン個人に感謝することはない。サミュエルソンのロジックに従うと、経済理論に基づくなら、誰も何も拠出しないと予測される。 ここで注目してほしいのは、被験者グループがこのような利己的かつ合理的にふるまうと、全員が与えられた金額をすべて拠出していたら手にしていたであろう金額の半分しか受け取れないで終わることだ。全員が5ドル出していたら、分配される総額は50ドルの2倍の100ドルになって、全員が10ドルもらって家に帰ることになる。 著名な経済学者であり哲学者のアマルティア・センは、このゲームにおいてつねに何も拠出しない人を、物質的な私利私欲だけを盲目的に追及する「合理的な愚か者」と呼んだことは有名である。「純粋な経済人はむしろ、社会的には愚者に近い。これまでの経済理論は、こうした合理的な愚か者に大きく占領され続けてきたのである」 標準的な経済学では、公共財ゲームでは誰も協力しないと予測されるが、囚人のジレンマと同様、この予測も外れる。平均すると、参加者は与えられた金額の約半分を公共財に拠出するのだ。

サミュエルソンの評価は20世紀最高の経済学者…!?

セイラー教授が別の章で、サミュエルソンにふれた箇所(第11章)があります。

……「エコンが経済学に忍び込むようになったのは、フィッシャーがエコンはどう行動すべきかを示した理論を構築し始めた頃からだが、その仕事の仕上げは、当時大学院生だった22歳のポール・サミュエルソンにゆだねられた。20世紀最高の経済学者との呼び声が高いサミュエルソンは16歳でシカゴ大学に入学した天才で、すぐにハーバード大学の大学院に進んだ。」……

ここで、サミュエルソンの略歴を「ウィキペディア」から引用しておきましょう。

……1947年に出版された『経済分析の基礎』で一躍有名になり、その後は、ジョン・ベイツ・クラーク賞受賞(1947年)、計量経済学会会長(1953年)、アメリカ経済学会会長(1961年)、ノーベル経済学賞受賞(1970年)、アメリカ国家科学賞受賞(1996年)など、数々の栄誉に輝いた。また、戦時生産局、財務省、経済顧問会議、予算局、連邦準備銀行など、多くの政府諸機関で補佐官を務めた。2009年 にマサチューセッツ州の自宅で死去。94歳であった。……

なお、セイラー教授はサミュエルソンについてバランスをもってコメントします。

……サミュエルソンが自分の理論は人間の行動を正しく記述したものだと考えていたわけでは必ずしもない。この短い論文(「効用の測定に関する覚書(7ページ)」…坂本補足)の最後の2ページは、「深刻な限界」とサミュエルソンが呼ぶものについての議論にあてられている。……

そして、カーネマン教授の言葉を借りて、サミュエルソンが発表した理論の華やかさに幻惑されてしまうエコンを信奉する経済学者たちの姿を、次のように描きます。

……この論文だけを転機として取り上げるのはフェアではないだろう。経済学者はその前から、それまで一般的だった素朴心理学とでもいえるものから離れつつあった。先頭に立っていたのがイタリアの経済学者、ヴィルフレド・パレートで、経済学に数学的厳密さを加えた先駆者である。だが、サミュエルソンがこのモデルを書き上げ、それが広く取り入られるようになると、ほとんどの経済学者は、カーネマンが理論による幻惑(theory-induced blindness)と呼ぶ重い病に陥った。 新たに発見された数学的厳密さを組み込むことに誰もが熱をあげ、現実の人間の行動に即した異時点間選択に関する研究はきれいに忘れ去られた。わずか7年前に発表されたアーヴィング・フィッシャーの研究も例外ではない。指数関数型割引効用モデルは人間の行動を正確に記述したものではないというサミュエルソンの警告も忘れられた。……

セイラー教授は、「道ばたの無人販売所」を使ってアナロジーを語ります。

少し回り道をしましたが、第15章に戻りましょう。「公共財ゲーム」の続きです。アナロジーとは、解明がむつかしい現象に対して、身近なものごとを使って説明することですが、セイラー教授らしさが伝わってくる文章です。

・利己的になることの有利さに被験者たちが気づいていたのであれば、ゲームが再開された後も、協力率は低いままであるはずだ。だが、そうはならなかった。追加ゲームの1回目で、協力率は最初のラウンドの1回目で観察されたものと同じ水準に振れ戻ったのだ。つまり、公共財ゲームを繰り返し行っても、参加者はタダ乗りを決め込むようにはならない。むしろ、参加者の中にはズルいやつが1人あるいは複数いることに気づく。誰もそんな人間のカモにはされたくない。 エルンスト・フェールらがさらに調査を進め、その結果、アンドレオーニの発見と同様に、多くの人は、他の人が協力的であるならば、自分も協力するという条件付き協力者(conditional cooperators)であることを示している。最初は他の参加者を好意的に解釈しようとするが、協力率が低いことがわかると、こうした条件付き協力者はタダ乗りに転じる。 ところが、協力しない人を罰する機会が与えられると、ゲームが繰り返し行われる場合でも協力率が低下しないケースがあることが、公共財ゲームの実験で確認されている。先に述べた罰則ゲームが実証しているように、人々は自分のお金を使って、不公正なふるまいをした人にそんなことをしたらどうなるか思い知らせようとする。そして、そんな懲罰行動がタダ乗りをしようとする人間への戒めとなり、協力関係が拡大し、維持される。 ダニエルとバンクーバーで研究の場を共にしてから数年後、協力行動に関する論文を、心理学者のロビン・ドウズと共同で執筆した。論文の結びに、イサカ周辺の農村地域でよく見られるような、道ばたの無人販売所のアナロジーを置いた。農民たちは、自分の農場の前に台を置いて、そこに新鮮な野菜を並べて売っている。台には箱が置かれていて、そこに代金を入れるきまりになっている。 代金箱には細長い切れ目があり、お金を入れることはできても、取り出すことはできない。箱は台にクギで打ちつけてある。私は当時、このシステムを使っている農民たちは、人間の本性を正しくモデル化していると考えたのである。その考えは今も変わっていない。 正直な人は世の中にたくさんいるので、農家にとって、とれたてのトウモロコシやルバーブを台に並べて置く価値はある(小さな町はとくにそうだ)。しかし、代金箱にふたがついていなくて、誰でもお金を取り出せるような状態のままにしておいたら、きっと誰かが持っていくだろうこともわかっている。
経済学者に必要なのは、農民たちが持っているような多面的な人間観だ。全員がいつもタダ乗りするわけではないが、隙あらば相手を食い物にしてやろうとする連中もいる。私は野菜の無人販売所の写真を1枚、研究室に貼って、思考に刺激を与えている。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~行動経済学とコーチング その3~(2021/05/06)

<問題>
あなたはコイン投げのギャンブルに誘われました。
裏が出たら100ドル払います。
表が出たら150ドルもらえます。
このギャンブルは魅力的ですか? あなたはやりますか?

前回のコラムの最後にこの質問を提示していますが、いかがでしょうか?
『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』の中で、カーネマン教授は、次の解説を続けます。

損失の二倍の利得が見込めないと、ギャンブルには乗らない…!?

やるかやらないかを決めるにあたっては、150ドルもらう心理的利得と100ドル支払う心理的損失を天秤にかけなければならない。どうだろう、あなたはやってみる気になっただろうか。払う可能性のある金額よりもらう可能性のある金額の方が多いのだから、ギャンブルの期待感は明らかにプラスである。 それでもあなたは大勢の人と同じように、きっとこのギャンブルが嫌いだろう。このギャンブルを断るのはシステム2だが、その決定的な要因となるのはシステム1による感情反応である。たいていの人にとって、100ドル損をする恐怖感は、150ドル得する期待感よりも強い。 私たちはこうした例を多数調査した結果、「損失は利得よりも強く感じられる」と結論し、このような人々を「損失回避的」であると定義した。 自分が損失に対してどの程度回避的かを知るためには、次のように自問してみるとよい。100ドル失うのと同じ確率で最低何ドルもらえるなら、自分はこのギャンブルに応じるだろうか、と。つまり、損失の二倍の利得が見込めないと、ギャンブルには乗らない。多くの実験の結果、「損失回避倍率」はおおむね1.5~2.5であることがわかった。 もちろんこれはあくまでも平均値であって、もっとリスク回避的な人はいくらでもいる。逆に金融市場で取引をするプロの場合には、損失許容度が高い。これはおそらく、価格変動に対していちいち感情的に反応しないためだろう。実際、被験者に「トレーダーになったつもりで答えてください」と指示すると、損失許容度が高まり、損失に対する感情反応(感情喚起指数で計測)は大幅に減る。

トレーダーの損失許容度が高い理由が、カーネマン教授の指摘であることは理解できます。私はそれに加えて、金融市場で取引するプロを、企業の投資部門に属しているスペシャリストであることを前提として、扱うお金が基本的に自分のお金ではないことも、その理由に挙げられると考えています。

私が大手企業に属していたとき、立案した新規ブランドの事業計画が経営会議で審議された際、専務取締役が「坂本いいか、そのお金は会社から提供されたお金ではなく、お前が汗水たらして自分の努力で蓄積したお金であると思って使え!」と強く言われています。今も心の中で響き続けている言葉です。

「システム1」「システム2」と『ファスト&スロー』の関係について…

専門用語を解説しておきましょう。システム1とシステム2とは、『ファスト&スロー』という著作のタイトルを意味する言葉であり、上下巻全38章の1章に登場します。

「システム1」は自動的に高速で働き、努力はまったく不要か、必要であってもわずかである。また、自分のほうからコントロールしている感覚は一切ない。
「システム2」は、複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。システム2の働きは、代理、選択、集中などの主観的経験と関連付けられることが多い。
システム1および2という名称は心理学で広く使われているものだが、本書では他の本より踏み込んだ形で使う。読者は、二人の登場人物が出てくる心理劇を読んでいるように感じることだろう。

「プロスペクト理論」がノーベル経済学賞を受賞した理由について、カーネマン教授が推定とともに語っている箇所を引用します。明確な目的をもって意思決定をしたことが(システム2を起動させて)、結果的にノーベル賞につながっただろうことは、多くの方に同意いただけると思います。

ノーベル経済学賞につながった裏話をカーネマン教授は語ります。

私たちは論文をエコノメトリカ誌に送った。エコノメトリカは、経済学と意思決定理論に関して重要な論文を掲載している学術専門誌である。掲載誌の選択が重要だったことは、あとになって判明した。もし心理学の専門誌で論文を発表していたら、経済学にはほとんど影響を与えられなかっただろう。とはいえ私たちは、経済学に影響を与えたくてエコノメトリカを選んだわけではない。同誌は意思決定に関するすぐれた論文を過去に多数掲載してきたので、私たちも仲間入りしたかっただけである。 この選択をしたのは幸運だった。プロスペクト理論は私たちの研究業績を代表するものとなり、論文は社会科学の分野で引用頻度が最も高いものの一つとなった。その二年後には、フレーミング効果に関する小論をサイエンス誌に発表した。この小論では、選択問題でささいな言葉遣いを変えるだけで選好が大きく変わるなど、重要ではない事柄に選択が左右されることを論じている。 選択の研究では、最初の五年間は人々が意思決定をする状況をひたすら観察し、リスクを伴う選択肢の間でどのような選択が行われるかについて、十数項目の事実を確認した。そのうちのいくつかは期待効用理論に真っ向から対立するもので、その中には以前からわかっていたものもあれば、新たに気づいた点もあった。これらの事実に基づいて、私たちの観察を説明できるように期待効用理論を修正して構築したのが、プロスペクト理論である。

「プロスペクト理論」の生みの親であるカーネマン教授が語る“ノーベル賞裏話”を知ってしまうと、一つの意思決定が、その後の人生を大きく変えてしまうということを実感します。「システム1」による意思決定が、結果的にその後の人生にプラスに働くことはあるでしょう。

ただし、人生において重要な選択が迫られていると自覚できる局面(ライフタスクです)では、「システム1」に陥りやすいことを冷静に受けとめた上で「システム2」を起動させ、納得できたその後で、意思決定につなげていく…人生のリスクヘッジのための大きなヒントとなると感じています。

ノーベル賞について改めて考えてみる…

ノーベル賞は、物理学、化学、生理学・医学、文学、平和、および経済学の「5分野+1分野」で構成されています(経済学賞はアルフレッド・ノーベルの遺言にはないので、ノーベル財団は正式なノーベル賞ではないとのスタンスです)。その歴史と伝統により、世界が認める最高の賞であり権威となっていますが、森羅万象のこの世界にあって、6分野のカテゴリーの枠だけで“評価”することに、いくばくかの疑問を感じています。

もっとも、心理学者のカーネマン教授が経済学賞をとったことで経済学者がとまどい(強く不満を感じた人も多いとのこと)、その“評価”のあり方に疑義を挟む向きもあるのですが、同じ“評価”でも、私の捉え方と真逆なので、私の疑問は“つぶやき”にとどめておこうと思います。そのつぶやきをもう少し続けてみます。

「ダイバーシティ」が今日声高に叫ばれるのは、そもそも「分類されてしまう」ことが前提にある、と私は感じています。心理学、そして行動経済学が根幹のテーマとしている「認知のバイアス」が脳裏に浮かぶのですね。ノーベル財団が、このことを認識しているのかどうかは定かではありませんが、衆目による各賞にふさわしいのは「〇〇〇である!」、というカテゴリー化(思い込み…)をあえて崩すチャレンジを試みているように受けとめています。ボブ・ディランに文学賞を授与したことを私は想起しました。

さて、行動経済学が世に広く認知される端緒となった「プロスペクト理論」について、カーネマン教授を中心に解説してまいりました。2002年に行動経済学が最初のノーベル経済学賞を獲得して以降、2013年、そして2017年に同分野の研究が経済学賞を取得しています。

今回のコラムの最後に、2017年経済学賞の受賞者であるシカゴ大学のリチャード・セイラー教授の著作である『行動経済学の逆襲/リチャード・セイラー 遠藤真美訳(ハヤカワ文庫)』の「まえがき」を引用します。次回のコラムも引き続き、行動経済学を取り上げることにしましょう。

ノーベル賞受賞者セイラー教授の長所は「ぐうたら」なところ…!?

・本論に入る前に、私の友人であり、メンターであるエイモス・トヴェルスキーとダニエル・カーネマンについて、少し話をさせてほしい。この2つのストーリーを読めば、本書でこれからどんなことが語られるのか、多少なりとも感じとることができるだろう。 いつも鍵をどこに置いたか忘れてしまうような人にも、人生で忘れられない瞬間がある。その中には社会の出来事もある。私と同じくらいの歳の人であれば、ジョン・F・ケネディが暗殺された日がそうだろう(当時、私は大学1年生で、大学の体育館で友人とバスケットボールに興じていたときにそのニュースを知った)。この本を読むような年齢の人だったら、2001年9月11日の同時多発テロもそうだ(そのとき私は寝起きの頭で、公共ラジオ局NPRから流れてくるニュースを聞きながら、何が起きたのか把握しようとしていた)。 そしてまた、個人的な出来事もある。結婚もあれば、ホールインワンもあるが、私にとっては、ダニエル・カーネマンからかかってきた1本の電話がそうだ。私たちはことあるごとに話をしているし、電話はそれこそ何百回もしていて、もはや記憶の欠片もないが、この電話に関しては、どこで受けたか、はっきりと覚えている。 それは1996年初めのことだった。ダニエルから、彼の友人で、共同研究者であるエイモス・トヴェルスキーが末期がんを患い、残された時間は約半年だと知らされた。私は愕然とし、受話器を妻に預けて、気持ちを落ち着かせた。親しい友が余命わずかであると知れば誰だってショックを受ける。 だが、エイモス・トヴェルスキーは、59歳で死ぬような人間ではけっしてなかった。論文も発言も的確かつ完璧で、机の上には紙とエンピツだけが、きちんと並んで置かれていた。そんなエイモスは、最後までエイモスであり続けた。(中略) ・エイモスの鋭いウイットは最後まで健在だった。主治医であるがん専門家には、がんはゼロサムゲームではないと説いている。「がんにとって悪いことが、私にとっていいことだとは限りません」。ある日、私はエイモスに電話をかけて、体の具合はどうですかと尋ねた。するとこんな答えが返ってきた。「じつにおもしろいよ、インフルエンザになったときにはいまにも死にそうに感じるのに、もうすぐ死ぬとなると、とても元気に感じるんだ」 エイモスは6月に帰らぬ人となり、家族とともに暮らしていたカリフォルニア州パロアルトで葬儀が営まれた。エイモスの息子のオーレンは参列者に短い言葉を述べ、エイモスが最後に記した言葉を紹介した。 この何日かで、子どもたちに逸話や物語を伝えられたのではないか。少なくともしばらくの間は、それを記憶に刻んでおいてほしい。歴史や知恵を次の世代に伝えるときには、講義や歴史書を通じてではなく、逸話や笑い話、気の利いたジョークを通じて伝えるというのが、長く息づくユダヤの伝統だろうから。(中略) ・本書を書くにあたっては、エイモスがオーレンに宛てて残した言葉を胸に刻んだ。この本はおよそ経済学の教授らしからぬ本である。学術論文でもなければ、学術論争でもない。もちろん研究の議論はあるが、逸話もあれば、(たぶん)笑い話もあるし、たまにジョークまで登場する。 2001年初めのある日、私はバークレーにあるダニエル・カーネマンの自宅を訪れていた。私たちはよく長話をするのだが、その日も居間であれこれおしゃべりをしていた。するとダニエルが突然、予定が入っていたことを思い出した。 ジャーナリストのロジャー・ローウェンスタインから電話がかかってくるのだという。『最強ヘッジファンドLTCMの興亡』などの著作で知られるロジャーは、ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌向けに私の研究に関する記事を書いており、その流れで私の古くからの友人であるダニエルに話を聞きたいと思ったのだった。私は迷った。席を外すべきか、このまま残るべきか。「ここにいなさい」。ダニエルは言った。「これは楽しくなりそうだぞ」 かくしてインタビューが始まった。友人が自分の昔話をしているのを聞いたところで何もわくわくしないし、誰かが自分をほめるというのは、居心地が悪いものだ。退屈しのぎにそこいらにあるものを手に取って読んでいたところで、ダニエルの言葉が耳に飛び込んできた。「そうです。セイラーのいちばんよいところは、彼がぐうたらであることです。セイラーはほんとうにぐうたらなんです」 私は耳を疑った。自分がぐうたらであることを否定する気は毛頭なかったが、それが私のいちばんよいところだというのか? 私は手と首をぶんぶん振ったが、ダニエルは話をやめず、私がいかにものぐさであるか、口をきわめて褒めそやした。ダニエルはいまも、あれは最高のほめ言葉だったと言い張っている。何でも私がぐうたらだというのは、生来の怠けグセを吹き飛ばすくらい強く好奇心をかきたてる疑問しか追求しないという意味なのだそうだ。私の怠けグセを長所だと言ってくれるのは、ダニエルくらいのものだろう。 そういうわけで、この本を読み進めるにあたっては、これはどうしようもなくぐうたらな男が書いた本だということを頭に入れておいたほうがいい。だからといって、悪いことばかりではない。ダニエルの言葉に従うなら、この本にはおもしろいこと、少なくとも私にとっておもしろいことしか書かれていないのだから。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~行動経済学とコーチング その2~(2021/04/27)

あなたならどちらを選びますか?
A コインを投げて表が出れば100ドルもらえるが、裏が出たら何ももらえない。
B 確実に46ドルもらえる。

カーネマン教授とトヴェルスキー氏の同志的つながりについて語ります。

ノーベル経済学賞を受賞した心理学者のカーネマン教授とトヴェルスキー氏は、1970年代の半ばに、このような質問を作成し、自分ならどう選ぶかを自問自答することに取り組み始めます。

ノーベル賞は存命者に与えられる賞なので、すでに故人であったトヴェルスキー氏は、受賞者ではありません。ただし、カーネマン教授の著作を読むと、トヴェルスキー氏なしのノーベル賞はありえなかったことが実感されます(カーネマン教授の論文の多くはトヴェルスキー氏との共同執筆です)。

深い信頼、そして尊敬を共有する二人の関係に想いを馳せるとき、すぐれた経営者、そしてリーダーには、その人格を含めたトータルな人間的能力を最大に引き出してくれるパートナーの存在があることを(また必要であることを)想起します。

私は昨年5月27日のコラムで「素晴らしい経営者は信頼のおけるパートナーによってつくられる」ことを、ソニーの井深大さんと盛田昭夫さん、ホンダの本田宗一郎さんと藤沢武夫さんの関係に触れてコメントしました。両社の例では昭和色が出てしまいますね(笑)。平成、そして令和となると、私は宮崎駿監督と鈴木敏夫プロデューサー、庵野秀明監督と妻であり漫画家の安野モヨコさんの関係をイメージします。

今日アニメは、日本が世界に誇るソフト・パワーの地位を築くに至りました。サブカルチャーがいつの間にか、日本文化の王道といえるまでの存在です。改めて変化のダイナミズムを実感します。

社会によき影響を与える活動に心から信頼できるパートナーの存在は不可欠!

そして世界に目を向けると…スティーブ・ジョブズ(アップル共同経営者)、エリック・シュミット(グーグル元会長兼CEO)、ラリー・ペイジ(グーグル共同創業者)には、ビル・キャンベルというコーチの存在がありました(『1兆ドルコーチ/ダイヤモンド社』)。語るまでもなく、コラムのテーマである「コーチングとビジネスの融合」にリアル感を覚えます。
どのような分野を問わず、心から信頼のおけるパートナーの存在はその人を豊かにするだけでなく、関係する人たち、そして社会も素敵にしていくことを私は確信しています。

カーネマン教授とトヴェルスキー氏は、毎日たくさんの時間を(オフィスで、ときにはレストランで、そして多くはエルサレムの静かな通りを散歩しながら)、意思決定…特に“直感的な選考”を深く確かめるための会話に費やします。そして5年後に「プロスペクト理論」という論文を書き上げるのです(1979年)。

さて、冒頭の質問ですが、読者の皆さんはどちらを選択されましたか?
別にひっかけ問題ではありません。私はすぐにBを選んでいます。そしてカーネマン教授とトヴェルスキー氏もBでした。

ノーベル賞につながる研究のスタートをカーネマン教授は語ります。

この問題で私たちが知りたかったのは、最も合理的な選択や解釈ではない。直感的な選択、すなわち回答者が迷わず選ぶのを知りたかった。エイモスと私が選ぶ答えは、ほとんどいつも同じだった。この例では、二人ともBである。たぶん読者も同じだと思う。二人の意見が一致し、大方の人も自分たちと同じ意見だろうと自信が持てると(実際、ほとんどの場合にこの自信は正しかったことがあとで確かめられた)、確たる証拠が得られたかのように先へ進む。もちろん、直感を裏付けるデータ集めをあとでしなければならないことはわかっていたが、とりあえずの実験者と被験者の一人二役をしておくと話が早かった。

引用は、『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?/ダニエル・カーネマン 村井章子訳』からのものです。2012年に早川書房より単行本が発刊され、その後文庫化(ハヤカワ文庫)されています。今回のコラムは、文庫版(下巻)の第25章「ベルヌールの誤り」と第26章「プロスペクト理論(Prospect Theory )」を取り上げます。

プロスペクト理論は、リスク下において人はどのような意思決定を行うのか…を解明した理論です。

プロスペクトは、予想、見通し、展望と訳されます。この理論には「リスク下における意思決定の分析(An Analysis of Decision under Risk)」という副題が付されており、この理論を端的に説明しています。カーネマン教授(とトヴェルスキー氏)は、理論は次の「3つの認知的特徴」を備えていると述べます。

第一の特徴は、評価が中立の参照点に対して行われることである。なお参照点は、順応のレベル(AL)と呼ばれることもある。このことは、簡単な実験で実感できる。三つのボウルを用意し、左のボウルには氷水を、右のボウルには湯を入れる。一分間、左手を氷水、右手をお湯に浸してから、両方の手を真ん中のボウルに入れてほしい。すると、同じ水を左手はあたたかく、右手は冷たく感じるだろう。金銭的結果の場合には、通常の参照点は現状すなわち手持ちの財産だが、期待する結果でもありうるし、自分に権利があると感じる結果でもありうる。たとえば、同僚が受け取ったボーナスの額が参照点になることは大いにありうるだろう。参照点を上回る結果は利得、下回る結果は損失になる。 第二の特徴は、感応度逓減性(diminishing sensitivity)である。この法則は、純粋な感覚だけでなく、富の変化にも当てはまる。暗い部屋ならかすかなランプをともしただけでも大きな効果があるが、煌々と輝く部屋ではランプが一つ増えたくらいでは感知できない。同様に、100ドルが200ドルに増えればありがたみが大きいが、900ドルが1000ドルに増えてもそこまでのありがたみは感じられない。 第三の特徴は、損失回避性(loss aversion)である。損失と利得を直接比較した場合でも、確率で重みをつけた場合でも、損失は利得よりも強く感じられる。プラスの期待や経験とマイナスのそれとの間のこうした非対称性は、進化の歴史に由来するものと考えられる。好機よりも脅威に対してすばやく対応する生命体のほうが、生存や再生産の可能性が高まるからだ。

学術論文が硬質な言葉で綴られる訳を考えてみる…

専門用語はどうしても硬質の言葉(加えて漢字表現)に訳されるのが通常です。他方、プロスペクト理論のように原語(カタカナ)のままとする場合もあります。いずれも、「意味の曖昧性を回避する」という背景があるからです。「なぜプロスペクトを理論名としたか」については、カーネマン教授自ら説明していますので、後ほど紹介することにします。

「参照点」「感応逓減性」「損失回避性」も少しわかりにくいですね。「難解な表現」を用いることが、“学術論文の権威性を高める”ことにつながるのかは定かではありませんが、翻訳に限らず、日本語で書かれる論文も同様な傾向を感じます。これは幕末から明治維新にルーツがありそうです。

西周がフィロソフィーを哲学と訳したのは有名な話です。もともと日本には、文語と口語という“二つの言語”が併存していました。文語は「教養」です。現代に通じる「言文一致体」を完成させたのは夏目漱石ですが、森鴎外の格調高い文体に触れると、両者の寄って立つバックボーンの違いに符合させてしまいます(これは、認知のバイアスかもしれませんが…笑)。

ちなみに、哲学という言葉は中国語にはもともと存在しておらず和製漢語です。哲、学、は漢字ですから中国語由来です。ただしこの二文字を合体させ熟語としたのは日本なのですね。例えば、議会、規則、義務、宗教、人民、共和国、共産主義、社会主義、資本主義…、いずれも同様です。中国でも当たり前のように使われています。中華人民共和国が中国の正式な国家名称です。ただ“中華”以外は日本由来の用語なのですね。“中華”は中国のナショナリズムを象徴的に表す2文字ですが、これはさすがに中国固有の言葉です。
日本では開国という強烈な外圧により、いやがおうでも、西欧の概念を早急に日本人の内部にビルトインする必要に迫られました。西周に代表される知識人が、懸命に日本語(漢字を用いて)に翻訳することに取り組んだのです。

文字を持っていなかった日本は中国から漢字を輸入します…

少し脱線しますが、中国語と日本語の異同に関して、私が中国に駐在したときに感じたことを書いてみます。

漢字は表意文字であり、文字を見ただけで概念が浮かびます。そして文字の組み合わせにより、次々と新しい言葉を作り出すことができます。日本語はさらに、ひらかな、カタカナという表音文字もありますので(世界中見渡しても特異な言語/文字ですね)、今日洪水のように押し寄せる外国語の多くは、カタカナとして流通していきます(IT用語はその最たるものです)。

その点、中国語はすべて漢字に変換しなければならないので大変です。私のような日本育ちの人間は、同じ漢字を使う中国語に接したとき、「さすがだなぁ」と感じること、そして「笑みがこぼれること」がたびたびです。例えば、「電脳=コンピューター」は、日本人にとっても納得です。そしてインターネットは「因特網」となり、イントゥワンと発音します。因特は意味ではなく発音が類似、網はネットですから、「因特網」は音と意味の合体語です。

ここで冒頭のカーネマン教授ではないですが、私からも質問させてください。

麦当労、肯徳基、星巴克、は国際的な外食チェーンです。さて…?

<答え>

  • 麦当労(発音:マイダンラオ)→ マクドナルド
    麦は関連する意味を感じますが、当労は音であり表音文字的(まったく意味はありません)に使用。
  • 肯徳基(発音:ケンドゥジー)→ ケンタッキー
    3文字とも音として表音文字的に使用(ただし好ましい意味がイメージされる文字)。
  • 星巴克(発音:シンバークゥ)→ スターバックス
    星は意味、巴克は音として表音文字的に使用。

興味が尽きませんね。
中国語の習い始めに必ずといってよいほど紹介される、同じ2文字でも意味が異なる言葉として「手紙」があります。中国語ではトイレットペーパーのことです。また老婆(ラオポー)は中国語で妻となります。この場合の老は、年寄りという意味とは別に、老には敬うというニュアンスもあるのでそちらですね。ちなみに動物に老を頭につけることが多く、老鼠(ラオシュー)、老虎(ラオフォ)は、老若を問いません。
あと、日本では漢字に複数の発音があることを自然に受けとめますが(音読み・訓読み等)、中国では、個々の文字は一つの音で成り立ちます。銀行(インハンと発音…これも和製漢語)の「行」は数少ない例外の一つで、通常シンと発音されます。短く「行(シン)!」は「よろしい、OKです」の意味。「不行(ブーシン)!」は「だめです!」となります。

子音、母音の種類が多く、かつ四声という一つの文字に4つの声調(イントネーション)が存在すること、文字(漢字)の量が膨大であること(日本の当用漢字は一部にすぎません)によって、音を聞くと該当する特定の文字が浮かんでくる仕組みなのですね。

「プロスペクト理論」は原語の理論名称がそのまま日本でも使われています。

「プロスペクト理論」に戻りましょう。
原語は「Prospect Theory」なので、漢字に変換されずカタカナのままです。カーネマン教授が「Prospect」と名付けた理由については、行動経済学の理論で3番目にノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学のセイラー教授が『行動経済学の逆襲/リチャード・セイラー 遠藤真美(2016年に早川書房より単行本が発刊、2019年に文庫化)』のなかで次のようにコメントしています。

2002年にダニエルがノーベル賞を受賞することになる論文の初期の版で、当時は「価値理論」と題されていた(もしエイモスが存命であったら共同受賞していただろう)。その後、タイトルが「プロスペクト理論」に変更された。ダニエルになぜタイトルを変えたのか尋ねると、こんな答えが返ってきた。「『価値理論』だと誤解を招くおそれがあるので、あえて何の意味もない名称をつけることにした。もしこの理論が有名になるようなことがあるとすれば、そのとき初めて意味を持つような言葉の方がいいだろうと考えた。それで『プロスペクト』にしたんだ」。

多くの学術論文と比べてカーネマン教授の文章(翻訳も貢献していると思います)は、とてもわかりやすいですね。それは専門用語の解説に、“だれもが実感できるたとえ話”を多く用いているからだと私は解釈しています(この点も行動経済学以外の学者から、ネガティブに捉えられている要因かもしれません)。

今日、行動経済学のメインストリームの講義は、ダニエル・カーネマン教授とエイモス・トヴェルスキー氏が理論のエビデンスとした数多くの問題(質問)や事例(ケース)を、受講生に投げかけることからスタートします。講義はグループ形式の場合、より効果的(促進的)です。メンバー各々が回答の理由を発表しあい、議論が進んでいきます。回答が収斂していく過程で、行動経済学の理論がクローズアップされます。そして講義の終着点として、各自の内部に「腑に落ちる理解」が形成されることになります。

そこで今回のコラムの最後にもう1つ質問をいたします。2人が“直感的な選考”を確かめるために考えた多くの質問なかの1つです。「3つの認知的特徴」を読み込むまでもなく、どちらの答えが多かったのか、想像がつくと思います。

<問題>
あなたはコイン投げのギャンブルに誘われました。
裏が出たら100ドル払います。
表が出たら150ドルもらえます。
このギャンブルは魅力的ですか? あなたはやりますか?

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~行動経済学とコーチング その1~(2021/04/22)

「心理学とコーチング」というタイトルを冠したコラムを昨年の2月8日からスタートし、今回で57回目を数えることになりました。
そして、前回のコラムで16回にわたって書き続けてきたロジャーズを終える、とコメントとしています。ロジャーズは晩年になって、ある「気づき」を得ます。私はそのことを、晩年のロジャーズとして、3回のコラムで詳述したのですが、その姿を次のよう記しました(3月16日)。

「気づき」とコーチングの関係とは…

ロジャーズは、「これが始まりであった……遅すぎたのだろうか……。それが対人関係の政治学についての、私の学習のはじまりであったのである」、と語るように、自分は「政治学(politics)」とは無縁であり(興味がない…というニュアンスも感じます)、政治学者ではなく一人の心理学者として研究を続けてきた、と思い込んでいたのです。

アドラーの内部に存在する哲学的概念は「人は権力を求める」です。それに対してロジャーズは、72歳になるまで、そのことに気づいておらず(防衛機制…?)、膨大な数におよぶ論文のなかで、「権力」についての考察は存在していません。ロジャーズの立ち位置は「人間性心理学」であり、ヒューマニストとしての「理想型」を多くの人がロジャーズに仮託していた、と言えそうです。

だからこそ、同時に多くの人が、「ロジャーズは現実を理解していない、人間は権力を得ようとし、そして権力に支配され、その人そのものは善であるかもしれないけれど、正義は自分にあると確信し、置かれた環境の作用によって悪が這い出してくることもあるのだ」という、ロジャーズに対して「両義的な視線」で捉えていたと考えられます。

ロジャーズ自身は、気づくのを避けていた(?)自分に対する「社会の見方」を自覚します。「そこ」にコミットメントしていくのです。そして、ここからもロジャーズなのですね。

ヒューマニストとしての看板は最後の最後まで降ろしていません(と、私は解釈しています)。その上でリアルな「政治的コンテクスト」を自分なかに取り込んでいくのです。では、「気づき」を受けてロジャーズが、まず取り組んだのは何であったのか? それは、来談者中心療法の起点となった1940年以降の自分の活動を徹底的に振り返ることでした。ロジャーズは「自分のやってきたことを全部再検討し、再評価せざるを得なくなった」と語ります。

太字にした箇所に注目していただきたいと思います。
72歳になって、「思い込んでいた」「気づいた」ロジャーズが取り組んだのは、自分がこれまで30年以上続けてきた活動を「徹底的に振り返ることでした。」

コーチングの人間観は、「答えはその人の内部に存在している」です。ただ、人は往々にして持っているはずの答えを自覚できておらず、「思い込み」にとらわれています。コーチングとは、セッションを通じて、その「答え」を共に探し、クライエントが見つけることのできるようサポートすることです。

「灯台下暗し」という言葉がありますが、面白いもので、ロジャーズは30年以上にわたって、人のために、真剣に必死になって取り組んできたにも関わらず、自分の肝心なところについては「気づいていなかった」ことに、やっと「気づくことができた」のです。

「自分の活動を徹底的に振り返る」ということは、ある意味での「自分に対するコーチング」です。ロジャーズは、そのことに取り組みました。

「日常生活の営み」を豊かにしてくれるコーチングを綴ってきました。

さて、ロジャーズのコラムを終え、私も一つの区切りをつけたいと感じています。そこで、これまでの56回のコラムを振り返ってみようと思ったのですが……ただ、そのことを通じて「新たな気づきが訪れるだろうか…」ということに関して、私は村上春樹氏がよく語る「創作の宝庫としての無意識の領域」は、残念ながら「限られているなぁ」と感じています。つまり「心理学とコーチング」という横断テーマを掲げ、そしてコツコツ書き綴ってきたことの「意味」については、どうも自覚的なのですね。

「生きていく上で、頻繁に訪れるライフタスクをどうクリアしていくか… その都度、合理的で正しい判断をしている、と感じながらも、結局は思い込みにとらわれ、どうしてそのような判断をしてしまったのか、と振り返る…このことの繰り返しだよなぁ」という継続体験を踏まえ、「心理学、そしてコーチングとは、思い込みの隘路に引き寄せられないようナビゲートしてくれるありがたい存在」であることを、このコラムを通じてお伝えしている、と「気づいている」からです。 少し回りくどい説明となってしまいました。

これまでは、この「気づき」を得て、心理学の理論、そしてコーチングという実践が、日常生活における人間関係の機微にどう関わっているのか、さらに心理学とコーチングを理解することが、日常生活の営みをいかに豊かにしてくれるのか…このことを念頭に語ってまいりました。

そして、今後については、「心理学とコーチング」というシリーズタイトルは踏襲しつつ、内容については趣(おもむき)を変えてまいります。そのテーマとは…「コーチングとビジネスの融合を探求していく!」です。その探求のスタートとして、まず「行動経済学」を取り上げることにします。

今後のコラムは「コーチングとビジネスの融合」について語ってまいります!

行動経済学は経済学の新しい分野です。基礎となる研究は1970年代から始まり、1990年代以降、名称の定着とともに、大きなトレンドとなっています(伝統的な経済学の立場をとる学者は「異端である」と言っているようですが…)。
行動経済学は、これまでの伝統的な経済学が想定していた人間像とは大きく異なります。

「人間が経済活動を営むときは、合理的な意思決定を行い、合理的に行動する」というのが伝統的な経済学の想定です。それに対して行動経済学は、「人間が経済活動を営むときは、合理的だと思っているにもかかわらず、それが非合理的な意思決定であり、非合理的な行動をとることが往々にしてある」と考えます。
理論において、想定(前提とも言えます)が異なる、というのは「革命的」といえるかもしれませんね。

行動経済学は経済学に「人間味」を持ち込んだ学際としての新分野…!?

2002年にダニエル・カーネマン(当時プリンストン大学教授)とエイモス・トヴェルスキー(1996年に死去)、2013年には、イェール大学のロバート・シラー教授、そして2017年に、シカゴ大学のリチャード・セイラー教授が、行動経済学の研究成果でノーベル経済学賞を受賞します。

面白いのは、「行動科学の創始者」と呼ばれているカーネマン教授とトヴェルスキー氏は、実は心理学者なのですね。ノーベル賞を受賞する以前より2人の名前は、認知心理学者として有名でした。ただ経済学賞を受賞したことで「経済学者」としてのイメージが広がります。だからなのでしょうか、心理学会からは「カーネマンは経済学者ではなく心理学者なのだ!」という声が強く発せられているようです。2007年には、アメリカ心理学会より「生涯貢献賞」 が授与されています。

私は、コラムを通じて「分類すること」は便利であるが、それを自明とする風潮には違和感を覚える…ということを折に触れてコメントしています。経済学者なのかそれとも心理学者であるのか…という問いについてはメタ認知でとらえたいと感じています(笑)。

行動経済学(心理学+経済学)は現代ビジネスの解明につながります!

カーネマン教授は認知心理学者ですから、行動経済学は心理学と経済学が融合したもの、と言えます。私が中小企業診断士の資格を取得するための学習を始めたのは1980年代の半ば過ぎですが、「行動科学」「学際研究」というワードが新しい概念として登場していました。人間の行動を科学的な視点で理解分析する場合に、従来の学問分野の枠組みでは総合的な人間像がどうしても描けない、というジレンマを多くの科学者(自然科学者、社会科学者を問わず)が感じていました。それが、学際研究としての行動科学が生まれた背景です。心理学はその発展に大きく貢献しています。

余談ですが、私が大手化粧品会社に入社して最初に部下を持ったのは、1984年です。彼はK大学の経済学部卒で「計量経済学」を専攻しており(当時の経済学の主流でした)、何かあれば、すぐその概念を使って私を煙に巻きます。私は心理学、特に社会心理学を学んできたので、そのドライ(合理的?)な思考に対して、「まいったなぁ~」と、ため息をついていたことを思い出しています。

CBLのコラムを担当することになって、最初に取りあげたのが「対人認知(2020年2月8日)」です。認知心理学と社会心理学で取り上げられるテーマですが、“私の1984年以来の思い”が、そうさせたのかもしれません(笑)

「行動経済学」というワードをインターネットの検索サイトに入力すると、既存の経済学とは異なり、具体的なビジネスの事例が数多くヒットします。そこでは、「人間がいかに思い込んだ意思決定をしているのか」、ということを行動経済学の理論が見事に説明してくれているのです。その人間行動を企業が研究してマーケティング戦略に落とし込んでいます。だからこそ、コーチング視点で、行動経済学にアプローチすることの意義を私は感じているのです。

さて、「コーチングとビジネスの融合」にアプローチしていくことの初回として、行動経済学が誕生した背景と概要について、解説してみました。その創始者であるカーネマン教授は「プロスペクト理論」でノーベル賞を受賞しています。次回のコラムでは、その具体的内容も紹介しつつ、コーチングがどのように結びつくのか、そのあたりについて解説してまいります。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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