心理学とコーチング ~アドラー その8~(2020/09/16)

心理学とコーチングでアドラーを取り上げて以降8回目を数えることになりました。石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」ではありませんが、「アドラーの言葉」「アドラーの理論の概括」…と、大きなカテゴリーからスタートし、「ライフスタイル」という中心理論、そして、個別テーマに落とし込んでいく、という流れで進めてきました。

アドラー心理学のすそ野は広く、語ることはいくらでも存在するのですが、今回は切り口を変えてみようと思います。それは「アドラー心理学への批判」です。

私は多くの心理学、コーチングに関わる著作を読んできました。フロイト、ユング、アドラー、そしてロジャーズ、エリス…今日名を成している心理学者が提唱する理論や考え方に接すると、そのいずれにも新鮮な気づきを覚え、読書の喜びに浸ってきました。

批判を受け入れ、補い修正されることで理論は強靭化する!

彼らは、それまで「まだ説明がつかなかった」「説明されていない」現象を、「彼らなりの視点」「彼らなりのアプローチ方法」で本質に迫ろうとしてきました。その結果、今日オーソライズされた各理論は、多くの人に「なるほど…」と、「腑に落ちる」理解のあり方を提供してくれます。

さらに私の受けとめ方、ということで許していただければ、ある理論に対して批判されている場合でも、その多くは、「とらえ方の違い、フォーカスのポイントの違いであり、いわば、英語、中国語、日本語といった言語構造の違いで、類似の現象面を説明しているのではないか」、とも感じています。
一方で、近年のSNS等によるヘイト現象とは一線を画す「健全な批判」は重要です。まずは「批判を受け入れた」上で、その「批判の意味するところ」を冷静に分析し、「確かにその通りかもしれない」と受容し、理論を補完し、修正していくことに取り組みます。そうすることで、理論そのものが強靭化していくのだと考えています。

実際に、フロイト、アドラーは没後80年が経過しても、色あせるどころが、さらに輝きを増している、ともいえるでしょう。

私はアドラーを取り上げるにあたって、多くは『現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年』を引用しています。タイトルが物語るように、今日におけるアドラー心理学の中心人物であるモサック氏(シカゴのアドラー心理学専門大学院博士課程教授)と、マニアッチ氏(同大学院で教鞭をとっている)が、アドラー心理学の現代における思考体系と位置づけを明らかにすることを目的に著されています。そしてその最後の章(第11章)が、「個人心理学理論への批評」なのですね。
非常に興味深い内容となっていますので、いくつか取り上げてみたいと思います。

アドラーの誤りを認めるアドリアンたち…「批判のすべてが不当であったわけでもありません」

『完璧なものはありません。この著書を通じて詳述しようとしてきたように、完璧であろうと懸命に努めることは神経症的目標とさえなりえます。それは達成できないものだし、通常は他者を遠ざける結果となります。個人心理学は完璧ではありません。そして、アドラー自身も私たちと同様、一人の人として、だけでなく、理論家としても間違いを犯しました。 アドラーが創造したものは時の試練に際立って良く耐えましたが、多くの批判に晒されなかったわけではありません。そして批判のすべてが不当だったわけでもありません。私たちは、アドラーが言い過ぎたことやとてもわかりきった点には、関与していくつもりはありません。というのは、私たちは細部よりもアドラーの思想の領域に興味があるからです。』

非常にわかりやすいスタンスです。師であるアドラーに間違いがあったことを明瞭に認めており、このような後継者に恵まれたからこそ、アドラー心理学は発展することができた、ということです。風雪に耐えて生き残る理論というのは、師を慕う後継者や弟子による批判を受け入れ、吸収し、そして包摂することで、さらにファンを獲得していく、ということですね。
著書では、「伝統的批判」を5つ、個人心理学の「空所」を6つ取り上げています。代表的なものをピックアップしてみましょう。まずは「伝統的批判」です。

『アドラー初期の講義の中で、次のような逸話があったと聞いています。聴衆の一人が立ち上がって「しかしアドラー先生、あなたの話すことは全て常識です!」と発言しました。アドラーは、「ですが、それで何が悪いのですか? 私はもっと多くの精神科医がそうであってほしいと思います」と答えたと言われています。アドラー派は、伝統的に「常識」を話すという批判を受けてきました。アドラー派は、その批判を受け入れます。それは「正当な批判」で、アドラー派は、実際に常識を話します。アドラーは専門用語が嫌いで、自分の体系は科学ではなく、哲学に基づかせたいと望み、必ずしも学問的訓練を受けていない人々にも呼びかけました。』

アドラーは精神科医の枠を超えて社会啓もう活動に取り組みました。

聴衆の一人の考えは「常識を語るのはナンセンスだ」という思いがあるのでしょう。この人からは、「誰しもが当たり前に思うことを、個人心理学という呼称で“学問”に位置付けるのは傲慢だ」というくらいの強い“圧”を感じてしまいますが、アドラーはあっさりと、その批判をかわしています。

アドラーはフロイトと違って、個人心理学を科学(医学の一分野)として確立することには、こだわっていなかったようです。むしろ「心理学的な視点・考察」を用いれば、日々の暮らしで生じる人間関係の悩みに対して、解決が困難だと思い込み立ち往生している人たちに、「実はそれらは決して解決が難しいわけではなく、○○というアプローチによれば、しっかりとクリアできるのですよ」、ということを広めたかったのだと思います。もちろんアドラーは医者でしたから、精神病理に誠実に向き合い、多くの患者の治療に当たっています。ただそれ以上に一般の人々への啓もう活動に力を入れた人生でした。

今日のコーチングの体系化に当たって、アドラー心理学が大きく貢献しているのは、このような背景に基づいているからなのです。
このことに関連する批判もあります。その批判は「アドラー心理学は、健常者にだけ機能する」、です。この批判に対しては、

『全てのものが健常者に機能します。そういう点から健常者の多数がクライエントとなるのです。アドラー心理学はアドラーの伝統に従ってきました。数多くのさまざまな人を対象としてきました。その中には、精神病者、犯罪者、子どもたち、青年期の人々、家族、そして、異文化間の治療が含まれます。フロイト派は患者と感情転移関係に入ることができないので、精神病者を対象としませんでしたが、アドラー派は比較的感情転移に無関心なため、初期の時代から精神病者を治療してきました。 アドラー心理学が、「子どもたち」を対象とすることで「長所を持つ」とされることに対して、類似の批判が向けられましたが、それが概して意味することは、アドラーの体系が子どもたち「だけ」を対象とするというものです。そう、アドラー心理学の原理は子どもたちをよい対象とします。そして、アドラー、ドライカース、その他のアドラー派の人々は、児童指導に対して幅広く著述してきました。しかし、それは等しく他の多くの個々人にも適用可能なのです。』

児童教育には、世の中に広く適用できる“原理”が存在する。

前回のコラムは「児童教育」を取り上げました。上記にあるように、批判に対して、繰り返し「そう、…」と素直に肯定しています。私はアドラー心理学のファンに女性が多いことは当然だと感じています。人生にとって“最も偉大な事業”は「子育て」だと私は確信しています。ですが、世の中には「性役割分業」の価値観がぬぐえないためか、「子育ては女性が主体」という社会的圧力が存在しています。

アドラー心理学は、その実相を踏まえた上で、子育てに悩む多くの女性に処方箋を与えてきました。子育ての責任を一身に受けている(と思い込まされている)女性は、ともすれば「煮詰まってしまい、どうしようもない不安‘」にさいなまれます。多くの実践を蓄積し、歴史的に厚みある体系を構築している「アドラー心理学の児童教育」は、このような批判に対して、余裕をもって「そうですよ」と受容した上で、「子どもと大人は違う」という世の中の思い込みを上手に外し、「児童指導こそが、大人を含めた世の中の多くの人びとに適用できる“原理”である」と述べているのです。

「ライフスタイル」で果たして全てを説明できるのか?

最後にもう一つ「批判」を取り上げておきましょう。「伝統的な批判」とは別の、個人心理学の「空所」と分類される、「ライフスタイルが全てだ、全てがライフスタイルに帰する」についてです。

『いいえ、そうではありません。ある人の行うこと全てが、ライフスタイルの問題というわけではありません。目的地に辿り着くためには認知に基づく地図が必要ですが、それは目標を示すもので、私たちは他者の車を注視し、道路状況を考慮したり、道路標識を見たりもします。(中略) ライフスタイルは私たちが述べてきたように、どのように所属すべきかを私たちに教え、誘導し、指導するために発達します。私たちがどのようにして絆を形成し、馴染み、自分の居場所を見つけるかという問題は、私たちのライフスタイルによっています。(中略) 私たちの行動や生活パターンにさえも一貫性は見られるでしょうが、それはライフスタイルの問題ではありません。というのは、どのように所属するかという問題を含まないからです。例えば、私たちは昼食に何を食べるかということに関して、かなり一貫した好みを持つでしょう。しかし、それはたいてい、私たちのライフスタイルを貫く信念に基づく決定ではありません。 こうした行動を組織するのは何でしょうか? それは「自己」でしょうか? ライフスタイルの内部に含まれない「自己」という要素はあるのでしょうか? こうした分野についてはより詳細に探求することが必要です。今のところ、私たちは仮説を有するだけであり、はるかに多くの理論や研究がこの問題に関して探求される必要があります。ライフスタイルと相互に作用する状況的要素というものがあり、こうした要素により多くの注意を向ける必要があります。』

少し切れ味の薄い(わかりにくい)記述になっています。「ライフスタイル分析」については、臨床におけるアドラー最大の功績だとされています。その有用性が認められた訳ですが、この批判は「人の行動原理は全てライフスタイルによるものだ、と安易に(便利に)使いすぎており、理論そのものに空白がある」と言っているのです。それに対して、「ライフスタイルをそのように捉えていない。ライフスタイル以外(相互に作用する、と表現した上で)にも、その人そのものを表す要素がある」と回答しています。

ただ、批判されているように、アドラー心理学では「ライフスタイル」をその人の態度全体の裏付けるもの、すなわち自己(概念)も包含して捉えようとするニュアンスが存在します。「それは違うのではないか」という批判なのですね。

このあたりは、言葉の定義、捉え方ともいえるのですが、「自己」は心理学において、ある意味で最も重要な概念であり、「人とは何か」という命題に対する、本質な回答が求められます。
アドラー心理学は、この「自己」に対して特に突き詰めておらず、したがって回答もあいまいな印象を受けます。

もっとも、最後に「私たちは仮説を有するだけであり、はるかに多くの理論や研究がこの問題に関して探求される必要があります。」とまとめていますので、当該批判に対しては謙虚に受けとめていることが理解されますね。

今回のコラムは、アドラー心理学への批判に対して、現代のアドリアンがどのように回答しているのか、について取り上げてみました。その回答のあり方は、単純な「抗弁」ではなく、まずは「受容し」、その上で「誤解を正し、あるいは主張すべきところを冷静に述べる」という流れです。そこはアドリアンの第一人者の回答ですから、回答のスタイルについても「なるほど… そのように応えていくのか…」と感じることができます。

次回のコラムも引き続きアドラーを語ってまいりましょう。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その7~(2020/09/07)

アドラーは大人向けのカウンセリングだけでなく、児童教育に強い関心を持ち、後継者たちもアドラーの考え方を引き継ぎ、発展させていきました。

今日、アドラー心理学では、児童教育の方法について、
「勇気づけ」
「子どもが行う不適切な行動の4つを理解すること」
「自然の結末と論理的結末の使用」

の3つの要素を取り上げ、説明しています。
今回のコラムは、児童教育について解説してまいりましょう。

親が伝えたいメッセージを子どもはどのように受け取るのか?

アドラーは「子どもというのは、独自の世界の受け取り手であり、また創造者である」と捉えます。 まずは、このことを物語る面白い例話を紹介しましょう。

『六歳と五歳の二人の兄弟がいた。二人はつねづね悪い言葉を使ってみたくて、兄は「こん畜生め」という言葉を、弟は「ケツ野郎」と言える日を待ち望んでいた。そしてとうとうその日を迎えた朝、二人は母親に朝食の用意ができたことを告げられたあと、あわててキッチンに駆け込んでテーブルについた。母親が二人に朝食は何が欲しいかと尋ねた。すると六歳の兄は、「シリアル(朝食用の穀物加工食品)を出せ、こん畜生め!」と間髪入れず答えたので、母親に平手打ちをくらい、恥ずかしくて泣きながら自分の部屋に駆け込んだ。母親は恐ろしい形相で今度は弟の方に何を食べたいか聞いた。すると弟はふるえる声で、「シリアルだけはいりません、ケツ野郎……」と答えた。(現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)』

思わず笑ってしまいます。
まず、二人の兄弟は、「こん畜生め」と「ケツ野郎」という言葉が、社会的に使ってよいかどうかの程度を理解できていない、という点です。平たく言うと、「下品度」が甚だしい言葉にも関わらず…ということをです。

テレビや保育園で発せられた、これらのことばを聞いた際に、意味そのものはあまり理解できていなくても、シチュエーションを“カッコいい”と受けとめたのかもしれません。
そして、この母親が日ごろ、どのような態度で二人の兄弟に接しているのか定かではないのですが、ただ、いつも平手打ちをくらわせているのであれば、兄は泣きながら部屋に駆け込むことはないでしょうし、弟もそれほど驚くことなく、別のことを母親に告げたでしょう。

つまり、日ごろの母親とは違う厳しい態度に接して、二人とも驚き、恐怖を覚えたのです。そして最後の弟の言葉である“ケツ野郎…”(この笑い話の“オチ”ですね)については、母親の恐い態度の意味するところを「シリアルを食べてはいけないのだ!」と受けとめた、ということですね。

子どもと同じ目線で世の中を見ることができたら、それはとても素晴らしいこと!

一方の母親は、あまりにも下品な言葉を発した兄に対して、瞬間的に反応したといえます。母親は「そのような汚い言葉を使ってはいけません!」というメッセージを送ったつもりが、弟は「シリアスは食べちゃあいけないんだ!」と解釈したのですね。

子どもの観察は“するどいなぁ”と感じさせられる反面、“とんでもない解釈”に驚かされることも、また事実です。

子育てとは相互関係です。親は子どもに対して教育を施す立場ですが、 “子どもと同じ目線で子ども一緒になって同じ感覚で楽しめる親‘’ 、というのがとても素敵だなぁ、と日頃より感じています。
ひと呼吸を置かないすぐさまの母親の“態度(教育方針?)”が、今後二人の生育にどのような影響を与えるのか…想像してみるのも一興ですね。

世の中は「勇気をくじく」要素に満ちている…

3つの要素について、まず「勇気づけ」について、現実の世の中は、多くはその逆であることを『現代に生きるアドラー心理学』ではコメントしています。

『世の中には、人々にやる気を失わせる非常に多数の要素が存在します。社会的にはそのような状況は、戦争やそれから生じる脅威、貧困、飢餓、犯罪、多種多様な形の差別として現れ、人々はそれらの問題に対する解決を求められます。家族のレベルでは、育児活動における親の期待、要求、モデリング、そしてきょうだい間の競争が隠れた原因として子供たちの勇気をくじきます。教育システムはそれ以上に子どもたちの勇気をくじいています。こうした勇気くじきの影響を受けながら、子どもたちは、バーン「Berne,E.」の言葉でいう、「勝者」(「プリンス」もしくは「プリンセス」)、あるいは「敗者』(「カエル」)として育つのでしょう。』

アドラー心理学は、このような世の中だからこそ、「勇気づけ」を社会的関係と教育に不可欠なものである、と強調しているのです。「勇気づけ」については、以前のコラム『アドラー その4』でも取り上げていますが、アドラー心理学では広い概念で捉えており、その考え方が以下の流れで浮かび上がってきます。

子どもはどうして不適切な行動目標を選んでしまうのか?

「不適切な行動の4つの目標」

有益な場所を見つけようとする過程で勇気をくじかれると、子どもたちは「4つの不適切な行動目標」のうち一つを遂行しようとする、とアドラー心理学では捉えます。その4つとは以下の目標です。

<目標1>注意を得ること
<目標2>権力を求めること(権力闘争)
<目標3>復讐を実行すること
<目標4>無気力を誇示すること

「勇気づけ」の反対である「勇気をくじかれる」も幅広く解釈されます。「やりたいことが妨害されている」「望むことが与えられない」「とにかくムシャクシャする」、といった子どもに現れている状況を想定していただくことでもかまいません。アドラー心理学では、子どもが選ぶ上記目標1~4について、なぜそれを選ぶのか、その「目的(目標)」を探る方法を、3つ挙げています。

(方法1)子どもが不適切な行動を行った後に、何が起こるか観察する。

アドラー心理学は、目的論に立ちます。すなわち「全ての行動には目的がある」ということですから、不適切な行動にも目的があり、それによって起こる現象が彼らの目的である、と類推するのです。つまり、「周りの大人が受け取る反応」を子どもたちは求めているのかもしれない、ということです。

(方法2)不適切な行動によって大人がどう感じているかをチェックする。

子どもの行動で大人が「困った…」、あるいは「面倒を見てやらなければ…」と感じるのであれば、目的は<目標1 注意を得ること>かもしれません。大人がもっと強い反応、例えば「怒り」を覚え、それを子どもにストレートに伝えた場合(伝え方はさまざまあるでしょう)、それによって子どもは<目標2 権力闘争>を選ぶかもしれません。<目標3 復讐>は、それをされた大人はダメージを受けます。<目標4 無気力の誇示>は、引きこもりを想定してみてください。大人にさまざまな反応が起こることは必定ですね。

(方法3)単純に子どもの不適切な行動を正そうとした場合に、何が起こるかを観察する。

“単純に”というところがポイントです。もちろんアドラー心理学では、子どもの問題行動を最終的に改めさせることを目的にしますから、そのプロセスについては“単純”ではありません。ここでいう“単純に”正そうとする行為によって、子どもは少しの間、その行動を止めるのですが、その後問題行動を繰り返す場合が多いのも事実です。問題行動は、大人の関心を呼び起こします。本当に大切なことは、大人が関心を持った後の、子どもに対する関わり合いの内容です。この方法によって、次のステップが見えてくるのです。

アドラー心理学の「勇気づけ」と「結末の使用」の関係とは?

「自然の結末」と「論理的結末」

翻訳語なので、少し分かりにくいかもしれません。「自然の結末」とは、大人があえて関与しないで、極端に言えば「様子を見る」にとどめる、ということです。親として当たり前に感じることは、「子どもが苦労しないように」「子供が病気にならないように」「子供の成績が上がるように」手を差し伸べてあげることです。ただ、このことで親が気づくことなく「過干渉」「甘やかし」となってしまい、子どもの“本来発揮できる力”まで削いでしまっている可能性がある、ということです。この積み重ねが問題行動につながっているのかもしれません。

とはいえ「自然の結末」ですべてのケースが解決できるわけではありません。社会には、その構成メンバーが共同して、コンフリクトを発生させないよう形成されているルールが存在します。それから逸脱している場合には、その社会秩序を認識させ、問題行動を改めることが、結果的に本人自身のメリットにつながっていくことになるのです。これが「論理的結末」です。

アドラー心理学の「勇気づけ」とは、この「結末の使用」であり、単純な「励まし」とは異なることが理解いただけたと思います。
次回も引き続きアドラーを解説してまいります。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~インターミッション~(2020/08/29)

アドラーについては、「アドラー心理学の理論」に基づいて、オーソドックスな解説を心がけてきました。
今回のコラムは「インターミッション」という意味合いを持たせたいと思います。そこで恐縮ですが、以前私が執筆した『格闘するコーチング/日向薫・かんき出版2003年』を引用させていただきます。
この本は、コーチングを専門にしている方々ではなく、コーチングにあまりなじみのない人たち、という前提(想定は30~40代の主任係長世代)で書いていますので、少し肩の力を抜いていただけるかな、とも感じています。

「思い込みの世界から自由になる」とは…

『この本のキーワードは「思い込みの世界から自由になる」です。極端に言えば、この本はこれがすべてです。このことについてあらゆる視点からアプローチしていきます。具体的には、カウンセリングの一理論である「論理療法」を柱としていますが、それは追々解説します。(中略)たとえば民族、宗教の異なる人と接する場合、我々は相手に対して謙虚になれます(逆に傲慢になる方もいらっしゃいますが…)。
これは「相手は自分たちと異なった文化をもっているから思考・行動パターンが違っているのは当たり前だ」と解釈(無意識・自然に)しているからです。
イスラム教徒がラマダンで断食しているのに接しても「イスラム教の人だからそうなんだよね」と自然に受けとめます。ところがそうでないコテコテの日本人が「私は今日から思うことがあって1週間断食します」と宣言すると、「何考えているの? そんなにガマンすることないじゃない。変な人…」となるのが一般的です。したがって、「いまどきの新入社員は、30~40代の主任係長世代である我々とは異なる価値観の世界で生きている」と解釈すればよいのです。 彼らと接して、憤りを感じてしまうそのメカニズムを解明してみましょう。まずいえることは、部下のことを、価値観を共有している“仲間”だと無意識に「思い込んで」いる点です。仲間にもかかわらず掟とは異なる思考、言動、行動をとる…だから腹が立つのです。 このようなパターンと類似なものに、親の子どもに対するとらえ方があります。最も近い存在だからこそ、冷静になれないのもまた現実で、「子供のくせに何で口答えするんだ」と声を荒げる親はたくさんいます。 この前提として「子供は自分の血を分けた存在であり支配下にあり、素直であるのが当たり前のことなのだ」という「思い込み」が存在します。子供は「血を分けている」ということで「親の言うことをきく」のではなく、実は「親の言うことをきく理由がある」からそのような態度をとっているのです。 その理由は、「口答えすると殴られる」「言うことをきいていると何かご褒美がもらえる」「親の話に納得し“なるほど”と思っている」など、さまざまあるでしょう。いずれにしても「相手は自分と一緒なんだ」という「思い込み」から、いろいろな問題が発生してしまうのです。』

私たちはどうしても「思い込み」にとらわれてしまいます。ただこの「思い込み」が強く出てしまう事象や対象が一人ひとり異なっているわけで、これがアドラーの言う「ライフスタイル」です。

スパゲッティは音を立てて食べてはいけない!

少し恥ずかしいのですが、スパゲッティを食べる際に、考えごとをしていたり、自分ひとりで食べるときは、どうしても音を立ててしまいます。そしてもう一つ付け加えると、妻の前で食べる場合は、意識して音を立てないで食べることを心がけています(10回に1回くらいは失敗しますが)。というのも、結婚前、付き合い始めて1年くらいたった時に「スパゲッティは音を立てて食べるものじゃないわよ」と言われ、それがマナーであることを知ったのです(21歳の時でした)。

1年間もそのことを話してくれなかったのは、少しばかり(?)遠慮していたようで、さすがに言っておかなければ、とのことでした。

考えてみれば、ショーペンハウアーの「ヤマアラシジレンマ」(以前のコラム『アドラー その2』)にあるように、「付き合う(結婚生活も同様)」ということは、相手のクセのうち、自分にとっての不快指数が高いものを相手に告げて何とか是正してもらう、一方で相手から指摘された要求を可能な限り是正する、ということです。

「恋愛」とは、好きになった相手から好きであるという態度(報酬)が返ってきたとき、無上の喜びを感じることのできる関係性です。「恋愛状態になると、どんなモノグサな人も、世界一のマメ人間に変身する」は、私のささやかな格言ですが、アドラーの言う「動因」が高いレベルで発動する状態です。

恋愛こそ頑迷なライフスタイルをチェンジするチャンスなのかもしれませんね。
さて「スパゲッティを音を立てないで食べる」という行為について、論理療法で少し分析してみましょう。その特徴は以下の通りです。

論理療法で「スパゲッティを音を立てないで食べる」ことの意味を分析する。

(1)人間は目で見える世界(これは物理的な現象世界です)を、どう受けとっているか(感情の世界です)、その「受けとり方」によって世界を築いている。これがライフスタイルです。

(2)スパゲッティを目の前で音を立てて食べている人に対して「不快である」と感じているのは、通常の解釈をすれば、「音を立てる(音がする)」という物理現象=出来事(Activating Event : A)が、「不快だ」という感情(Consequence : C) を起こさせている、となります。

(3)ところが論理療法は、そうではなく「スパゲッティは音を立てないで食べるべきだ」という「受け取り方(思い込み)」が「不快感」を発動させる、と捉えます。すなわちAとCの間に、考え(Belief : B)が介在することで、次の感情が起こっている、と解釈します。一般に論理療法で「ABC理論」と呼ばれているのは、このプロセスを指します。

(4)論理療法では、受け取り方には2種類あり、まともな受け取り方「ラショナル・ビリーフ(rational belief)」、おかしな受け取り方「イラショナル・ビリーフ(irrational belief)」と呼称します。カウンセリングのセッションでは、「その受け取り方に論理的必然性はありませんよ(イラショナル・ビリーフ)」と指摘し、「○○○がまともな受け取り方ですから、あなたが正しいと思い込んでいること(イラショナル・ビリーフ)は、実は誤った受け取り方なので、そのために悩む必然性はありませんよ」と、立ち直りに向かわせていくのです。

コーチングの具体的場面を紹介しましょう。以前のコラム『「自分は思い込んでいない」という思い込み???(2019年6月2日)』のなかの事例を再掲します。

「率先垂範こそマネージャーのあるべき姿」…はセオリーなのか?

「部下を指導するにあたって“率先垂範”が何よりも重要だ!」と考えているAさんがここにいるとします。Aさんは、部下をぐいぐい引っ張り、お客様に対するプレゼンも自分ですべてやってしまいます。ところが…チームの成績は上がりません。部下の動きからも覇気が感じられません。Aさんは悩みます。そんなAさんからコーチングしてほしいと依頼があったとします。

コーチ:「Aさんにとっての率先垂範とはどういうことだと思いますか?」
Aさん:「先頭に立って模範を見せることですよね?彼に任せても失敗するだけだから、私のやり方を真似てほしいと思って、いつもやってあげているんです。」
コーチ:「彼に任せても失敗するだけと言いましたが、何回やらせてみました?」
Aさん:「そういえば、まだ1回もやらせていないですね。」
コーチ:「Aさんは優れたプレゼンターだと思いますが、初めの頃はどうでしたか?」
Aさん:「私も最初の頃は今のようにうまくできていたわけではありません。試行錯誤を繰り返しながらでしたね。部下にも私のやり方を見て真似してほしいと思いましたが、私も先輩の良さを取り入れつつ、やりながら今の自分の型を作ってきたのを、すっかり忘れていました。・・・」

いかがでしょうか?

このコーチング・セッションでは、特に「論理療法」を意識しているわけではありません。
Aさんが悩んでいる内容について、「どうすることが部下の一番の成長につながるのか、部下の立場に立って考えることが必要である」ことをコーチがAさんに伝えています。

結果的には、「率先垂範こそが正しい」と思い込んでいるイラショナル・ビリーフを、「部下を信じて任せること必要ですよ」というラショナル・ビリーフに、意識を変えていくことを説いているのです。

スパゲッティと音の関係は、果たしてイラショナル・ビリーフなのか?

さて、コラムの終わりが近づいてきました。せっかくスパゲッティで始めたインターミッションなので、最後もスパゲッティ談義で〆ることにします。

スパゲッティはイタリアの郷土料理です。「音を立てないで食べる」というスタイルと共に日本に入ってきたと考えられます。

一方で、日本そば(特にモリやザル)をつるつると食べたらどうでしょうか? テレビの旅番組などで、外国籍の人が、日本そばを食べる際に、どうしても音を立てて食べることができないシーンを取り上げて、その場にいる店の人や関係者の微笑む姿を映し出す、ということが定番で見受けられます。

不思議なもので、妻も「日本そばは音を立てないと食べている感じがしないわよね」と言うのですね。
スパゲッティに戻りますが、マッチョな男性を好む女性が、スパゲッティを音を立てないで食べる男性を見て、「お行儀はいいけど、何だか男らしくないわね」と受けとめるだろうことは、大いにありそうです。
「スパゲッティと音」が果たして、イラショナル・ビリーフかどうかは、何ともいえませんが、論理療法との関連を理解していただけたとしたら、今回のコラムの目的は達成です。
次回のコラムは、引き続きアドラーを取り上げてまいります。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その6~(2020/08/20)

「劣等性」は客観的なものである…この捉え方は、すごい発見だと感じています。ただ、そもそもは心理学用語であるinferiorityを訳した際に「劣等」を用いたので、日本語の響きとしては、「劣等性」と言われても、どうしてもネガティブに解釈してしまうのはやむを得ないところです。
「劣等」以外の訳語はないかと探してみたのですが、下級、粗悪…など、あまり響きはよくありません。
ただ一つ「遜色」という表現がみつかりました。広辞苑では「他と比べて劣るようす。見劣り」とありますので、同じ意味なのですが、「遜色性」とすると、イメージがちょっと違ってきますね。
脱線しました。

「狐と酸っぱい葡萄」の寓話で「劣等コンプレックス」を解明する。

「劣等性」、そして客観的であるにも関わらず劣等性に起因して発生する「劣等感」、さらに「劣等コンプレックス」、この三者の関係をアドラー心理学では次のように説明しています。

『例えば、狐と酸っぱい葡萄の寓話では、欲しい葡萄が見えていて手を伸ばしますが、背が低いために手が届かないとわかります。この場面ではストレスを経験しています。もし、自分が劣っていると感じるならば、それは苦悩になります。劣等性に伴う感情は、以前述べたように客観的な状況への私たちの評価なのです。その状況に適応する必要がありますが、もし、葡萄に到達するという難題に自分が劣っていると感じて尻込みし、しかも他人には劣っていると思われたくないときには、劣等コンプレックスが表れています。 そのような態度は、自分の創造性を駆使して葡萄に到達する方法を工夫する妨げとなります。人生の要求よりも外観や劣等性を優先していることになります。課題志向性というより名声志向性です。適応して生き抜き、栄える能力が弱まります。この名声志向性の態度は、個人の適応を妨げるのみならず、効果的に支援システムを利用する能力を弱めます。換言すれば援助を求めなくなるでしょう。 名声と金銭的価値を強調しすぎて課題を重要視しなくなり、効果的に機能できなくなります。見かけだけを保ち、恥と失敗を恐れるために選択の自由と選択力が弱まります。これは自分にとってのみならず周囲の人にとっても不適応なことです。(現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)』

新しい部署に異動したAさんが陥ってしまった負のスパイラル…

私たちに起こりがちな現象・態度をうまく説明してくれるなぁ、と感じます。
例えば、新しい部署に異動となったAさんに、本人にとっての新しいがタスク(課題)与えられます。そのことに取り組む場合に、「一応マニュアルとなっているけど、この部分は理解できないなあ…マニュアル作成者の個性が前面に出すぎていて、マニュアルとは言い難いよ。ただ、このチームにとってはどうも常識のようだ…異動前の部署では、業務知識が高いと評価されていたので、変に質問して、『Aさんって、こんなことも知らないんだ』と思われるのもイヤだし…」と感じ、質問することに二の足を踏んでしまう場合です。

ただ、その知らないことが業務遂行に当たって極めて重要なことであり、質問をしないまま次のフローに進もうと思っても頓挫してしまいます。周りは、特に質問が来ないので、そのことは当然知っていると解釈します。Aさんはあせります。時間経過とともに、ますます質問しづらくなります。ただ、プライドが邪魔をし(劣等コンプレックス)、質問する機会をどんどん遠ざけてしまいます…
多かれ少なかれ、ありがちのことですよね。

上記で「この名声志向性の態度は、個人の適応を妨げるのみならず、効果的に支援システムを利用する能力を弱めます」と記述されていますが、まさに、負のスパイラルに陥っていく典型的なパターンです。
解決は「質問すればよい」のです。たったそれだけのことですが、その簡単なことができないことが往々にして発生してしまう…これが人生の営みなのかもしれませんね。

「劣等コンプレックス」に捕らわれた場合に、それを隠したいという意識がメインになってしまうと、そのために膨大なエネルギーを費やしてしまうことになります。いわば不必要なエネルギー浪費です。そして結局のところ本人のみならず、周囲の人たちも“大きな損”を被ってしまう、という流れです。
今、目の前にあるちょっとした面倒を、ほんの小さな気力体力を使ってクリアしていけば、最終的に大きな困難を回避することができる」、というのは、わたしが作ったささやかな格言です。

アドラーが提起した「ライフタスク」とは?

ここでアドラー心理学の用語を解説します。Aさんの事例で、“本人にとっての新しいタスク(課題)が与えられます”、と表現しました。あえて英語の「タスク」を使っていますが、アドラーは「ライフタスク(人生の課題)」というワードを提示しています。『現代に生きるアドラー心理学』の中で関連するところを紹介してみましょう。

『アドラーは、人間が向き合わねばならない三つの主な挑戦について述べました。自分のライフスタイルがどうであろうと、これらの問題には見解をはっきりしなければなりません。すなわち「仕事」、「社会的関係」、そして「性」が三つのライフタスク(人生の課題)であり、後世のアドラー心理学者たちは、アドラーが示唆していたものとして、これらの他に二つを挙げています。それは「自己」と「スピリチュアル(霊的)なもの」の問題です。(中略)しかし、人生とそれに付随する責任は、必ずしも私たちの要求に適合しません。 人生に対し、私たちのライフスタイルや価値観、期待を通そうとすればするほど、押し戻されてしまうかもしれません。結局、私たちが人生に適応しなければならなくなります。(中略)「挑戦」と呼んだものが、私たちが生き残り、栄えていくのにふさわしいかどうか、私たちの能力を厳しく査定するのです。私たちの認知地図は、差し出される新しい地形を案内できるように修正され、再起動されていく必要があります。 もし、私たちが自分の要求や信念、認知に強くこだわっていれば、状況からの要求に対応しきれませんし、タスク(課題)にまともに向き合う準備がされておらず、柔軟でもオープンでもなければ、これらのタスクはストレスになるし辛いものとなります。』

「スピリチュアル(霊的)なもの」とは?

5つのライフタスクのうち、「スピリチュアル(霊的)なもの」は、一神教文化圏では自明のもののようです。少し解説しておきましょう。このタスクにはサブタスクとして、神との関係性、宗教、宇宙、永遠性、人生の意味、があります。この中の、神との関係性について、同じく『現代に生きるアドラー心理学』から抜萃してみましょう。

『神に関した自分の意見とは何か? 私は神を信じているか? そうでないか? もし信じているなら、許さないで罰をあたえたり、愛したり、あるいは冷淡だったりというような神をどう判断するのか? どのように神への理解とつき合うべきか? つまり、どのように神を理解するか、あるいはしないかでライフスタイルの多くのダイナミズムがはっきりとわかるのです。神がいないと思い込んでいるのなら、「何を自分が信じるのか?」という問いも同様です。』

私があえて「一神教文化圏」とした理由については、類推していただきたいと思います。宗教というのは、それを信じている人と、そうでない人との間で、他の宗教への“本質的”理解という点で、もっとも困難なテーマだと感じています。多くの日本人が宗教に抱いている“漠然とした感覚”とは異なる、“苛烈なとらえ方”が、ひしひしと伝わってきます。

ユダヤ人であるフロイトは、「精神分析の世界化」を人生の目的としました。そのためユダヤ教からもキリスト教からも距離を置くことを終生自分に課していたと言われています。ただ、その生きざまを見るに、超自我の力で抑え込んでいたのでは? と想像してしまいます(私の飛躍的解釈なのでご容赦のほど)。

ユングはスイスの牧師館で生を受けているので、生まれたときからキリスト教に包まれた環境でした。ユングは、牧師である父親の神に対する姿勢に疑問を持ちます。つまり父親以上に「神とは」を突き詰めた人生であり、スピリチュアルという意味では、ユングその人がスピリチュアルを体現しているのかもしれません。そして面白いことに、普遍的無意識を探求するうちに、キリスト教をも超えたスピリチュアルの世界に没入していくのです。

アドラーはユダヤ人です。宗教に対してフロイトのようなスタンスはとっていません。後半生からは、特定の宗教を超えた広がりを持った宗教観での発言が増えています。もっともその基盤は、一神教の世界観に立っていることは上述からも伝わってきますね。

「仕事のタスク」を通じてアドラーの世界観を理解する。

今回のコラムの最後に、ライフタスクの最初に登場する「仕事のタスク」に触れておきます。アドラーの発言です。

『最初のやっかいなタスクは、職業のタスクである。私たちはこの惑星を犠牲にして生きている。この惑星が唯一の源なのだ。こうした状況のもとで問題に正しい答えを見つけることが人類の課題であった。どの時代でも、人類は一定のレベルの解決までは到達した。しかし、いつでもより以上に改善し、完成していくことが必要とされた。(現代に生きるアドラー心理学)』

この発言から、私はSDGsをすぐに連想しました。「仕事のタスク」についての発言なのですが、地球規模、そして持続可能な開発(Sustainable Development)について言及しています。アドラーは1937年に亡くなっています。今日では、地球環境問題こそが世界中に人々にとって、最もリアルに共有できる課題ですが、世界がこの環境問題を認識するようになったのは、ローマクラブが『成長の限界』を発表した1972年以降と言われています。

「地球は太陽エネルギーの恩恵はあるものの、基本的には物質の出入りのない閉鎖系である。したがって、有限の物質を資源や燃料として使用する活動は、高エントロピーの廃熱や廃物を蓄積させることになる。資源やエネルギーの有効利用、環境汚染の防止など、エントロピーの増大を抑制することが、地球の存続にとって重要な課題となる。」というのがその内容です。

アドラーは「仕事のタスク」の説明で、大きな世界観を示しているのです。アドラーが人生の最終目的としたのが「共同体感覚」ですが、その根幹がこの発言にあることをわれわれは知ることができます。

今後のコラムもアドラーを取り上げてまいりますが、次回はインターミッションとして、趣の異なったテーマを取り上げたいと思います。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その5~(2020/08/10)

アドラー心理学は常に新鮮な気づきを与えてくれます。

私も折に触れ、アドラー、およびアドラーの後継者が書いた著作を引っ張り出して、自分を省みるのですが、そのたびに新鮮な気づきを得ることができます。面白いもので、昔読んだ本を再読すると、当時とはまったく違うパラグラフに目が留まったり、初読時は「すばらしい作品だ!」と興奮したその昂りを追体験しようと思って手に取ったところ、「色あせた作品」と感じてしまうことがありますよね。

アドラーは「ライフスタイルは変わっていく」と言います。経験を積み重ねることで、人は「世界の捉え方」も変わっていくのかもしれません。
私の場合は、アドラーを読み重ねていくと、その思想が「遠ざかる」どころか、どんどん「迫ってくる」のです。しみじみと「そうなんだよなぁ」と腑に落ちてくると言いますか、精神の機微にしみ込んでくる感じです。
前置きが長くなってしまいました。今回のアドラーは、「自己理想」から始めることにしましょう。

アドラーの「自己理想」とは?

アドラーは「自己理想」という概念を取り上げ(この表現を創りだしたのはアドラーだと言われています)、ひも解いていきました。
さて、みなさんはこの言葉から何を連想しますか? 「理想」とありますので、肯定的な意味、そして「それに向かっていくことの大切さを語っている」と受けとめるかもしれません。ところがアドラーは、「自己理想」をシンプルには捉えていません。

『現在の自分を変えたり、よりよい世界を創ったり、より大きな可能性を心に描こうとする私たちの能力は自己理想の中にありますが、それと同時に、私たちが自分自身を失望させ、生地獄に住むようになり、夢に描いていたものを達成していないことで、自分を責めてしまうのも自己理想のせいなのです。(現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)』

自己理想は、現在自分が獲得していないものですから、これに向かって努力していく、ということは誰しもが思い描くことですし、これによって素晴らしい人格の陶冶につながっていくことはあります。ただし、この「獲得していないもの」を切望するのが強すぎる、それに「こだわりすぎること」で、それが獲得できていない自分に対して「自信が持てない」、「劣等感を抱いてしまう」ということにアドラーは関心を持ちました。

自己理想は「私は~すべきだ(またはすべきでない)」という文脈に縛られている?

『現代に生きるアドラー心理学』の中に、次のような一節がありました。

『…典型的な自己理想の特徴を表す文脈は次のようです。「場所を確保するために、私は……すべきだ(またはすべきでない)」、「~の一員であるためには/意義あるためには/人から評価してもらうには/自分のことに気づいてもらうには、私は~すべきだ(またはすべきでない)」、「自分を考慮してもらうには、私は~すべきだ(またはすべきでない)」などです。人格形成の長期的目標は自己理想につながります。それには命令的な特徴があり、予定通りいかないと、エリスが「破局的な見込み」と呼んだ感覚が育ってしまいます。(現代に生きるアドラー心理学)』

ここで登場するエリス(1913年~2007年)は、米国の臨床心理学者で「論理療法(Rational Therapy)」というカウンセリング技法を創設しています。カウンセリングの分野において特に米国では、ロジャーズ(来談者中心療法の創設者)に次いで大きな影響を与えている、との調査結果(1982年)も発表されています(ちなみに第三位はフロイト)。私もエリスの理論には大きな影響を受けていますので、いずれコラムで紹介したいと思います。

アドラーに戻りましょう。
「自己理想が劣等感の原因になりうる」ことをアドラーが指摘しています。
続いて、アドラーが提起した、「劣等性」「劣等感」「劣等コンプレックス」を取り上げます。
以前のコラム『心理学とコーチング~フロイト、ユング、アドラー~(6月2日)』で、コンプレックスについて、以下のようにコメントしました。ここはアドラー心理学を理解するために重要なところなので、再掲させていただきます。コンプレックスという言葉を心理学用語として初めて使ったのはユングですが、アドラーはその概念を拡張したのです。

『…コンプレックスという言葉は日本語では「劣等感」をイメージしますが、この場合「複合的な感情」と理解してください。コンプレックスという概念は心理学の中心概念であり、フロイト、そしてアドラーも積極的に用います。

特にアドラーは、初の出版である『organ inferiority(1907年)』でその概念を提示し深めていくのですが、その著書の日本語訳は『器官劣等性の研究』です。「特定の臓器が欠損するなどするとそれを補おうとする機能が働く」という内容で、生物学的な基本機能を心理学的な観点に置き換えて発展させていきます。organは「器官・臓器」で、inferiorityは「劣等性」なので直訳ですね。

そしてアドラーの理論は「劣等コンプレックス(inferiority complex)」とあえて“劣等”を付すので、日本語的に正確です。なお日常の会話で「それってコンプレックスじゃない」と言う場合、「劣等感」の意味で使っていますから、心理学としての捉え方とは異なることを理解してください(そうでないと狭い視野にとどまってしまいます)。』

「劣等性」「劣等感」「劣等コンプレックス」は意味が異なります。

それぞれの定義は以下の通りです(現代に生きるアドラー心理学)。

(1)劣等性

客観的なものです。それは外的基準をもとにして測ることも可能で、もし外的基準が身長であれば、ある人の身長の優劣は簡単に決定されます。外的基準として、マイケル・ジョーダンをバスケットボールの基準におくなら、彼より下手な人は劣っているといえるのです。このような劣等性は背景に影響され、状況によって決定され、必ずしも価値によって決定されるわけではありません。

(2)劣等感

主観的な評価で、必ずしも情動的感覚とは限りません。また現実との関係性を持つ場合もあれば、そうでない場合もあります。もし、誰かと比べて背が低くても、それを理由に自分の方が劣っているとは感じる必要はないのです。劣っていると思ってもいいし、そう思わなくてもいいのです。もし、自分が劣等感を感じていても、それを何かで埋め合わせたり、隠したりしてしまえば周りの人もそれに気づかないかもしれません。

(3)劣等コンプレックス

劣等性に対する主観的感情を行動で示すことです。自分が劣っていることをあえて周りに知らせようと、自分の劣等コンプレックスを提示することもあります。

いかがでしょうか。私は「腑に落ちる」という表現をよく使いますが、心理学を学んでいると、この感覚が頻繁に訪れます。上記(2)劣等感 のところで、…劣っていると思ってもいいし、そう思わなくてもいいのです…とあります。「劣等感はよくない!」「劣等感を感じてはいけない!」とは、多くの人が抱く感情です。要は「思い込み」なのですが、アドラーに限らず心理学は、この「思い込み」を外してくれます。フロイトでいうところの「超自我」であり、ユングの「無意識の広がり」です。

アドラーは、この両者と違い、一般の人が日常生活、社会生活で通常に覚える感情について、それを合理的に解釈してくれることが特徴であり、だからこそコーチングに直接的に適用が可能なのです。
劣等感を持っていない人はいないでしょう。もしそのように感じている人がいるとしたら、劣等感を抑圧しているか、防衛機制を働かせて上手に(?)回避するテクニックを体得している人かもしれませんね。

前回のコラムで、アドラーがライフスタイルを4つに類型化していることに触れています。理想(自己理想ではなく)は、「理想/共同体感覚タイプ」としており、他の3つを、建設的か非建設的、または破壊的という基準で分けています。

『アドラーは、「正常なライフスタイル」などはなく、予期しなかったことが起こって「弱点」が表に出るまでは、どんなライフスタイルでも適切であると考えました。圧力を加えられるとどんな構造物も歪みが出るように、人格も同様であると考えました。従って行動については役に立つ、立たないという二面的な概念の代わりに、建設的・非建設的または破壊的というように考えることにしました。建設的な行動とは、人々が協力しながら社会的に有益な方法で目的へと進む行動のことを言い、非建設的な行動とは、目的に向かってはいても他者には有益とは言えず、しかし、害にもならない行動のことを言います。また目的のためには、周りに有害になる行動を破壊的行動と言います。そのスタイルでは、他者も自分も傷ついてしまいます。(現代に生きるアドラー心理学)』

今回のアドラーは、「自己理想」と「劣等性・劣等感・劣等コンプレックスの概括」をテーマに解説いたしました。次回は、「劣等性・劣等感・劣等コンプレックス」をさらに深掘りしてまいります。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その4~(2020/08/01)

前回は、ライフスタイルはどのようにして形成されるのか? ライフスタイル形成に影響を与える要因とは何なのか? というテーマについてアドラーの考え方を解説しています。では、それが理解できた次のステップはどのように展開していくのでしょうか?

『この世に二つとして同じライフスタイルは存在しません。それは指紋のようにそれぞれ異なり、雪の結晶のように類がなく、空に浮かぶ雲のようにさまざまと違います。アドラーは、「同じ家族でも生まれる順番や家族布置の違いによって、子供たちは同じように育つことはなく、常に新しいパターンが生まれ、展開する」と言いました。ライフスタイルが異なるように人間も異なるのですが、あらゆる面において全く異なるわけではありません。私たちは共通する面も持ち合わせているのです。 私たち一人ひとりは違いますが、認識できる共通点もあるのです。心理学者が一世紀以上も研究し、また、哲学者や作家たちが永遠に追求しているように人間は他の人々の行動を予測し、次に何が起こるか推測するのです。アドラーが記したようにアドラー心理学者たちの鍵となる研究の一つは、推測の技術ですが、アドラーは晩年においても、この技術の診療における創始者としてフロイトの功績を讃えました。(現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)』

前半の流れは、前回のコラムで繰り返しお伝えしたトーンですが、後半になると「あれっ?」と感じるかもしれません。実は、アドラーは「類型化」を全否定しているのではなく、アドラーらしい「類型化」を試みています。

アドラーはフロイトの“推測に関する探偵的技術”を極めて高く評価しています

多くの点でアドラーとフロイトの考え方は異なっていますが、決別した以降も、アドラーは、フロイトの優れているところをしっかりと記述しています。フロイトは、「類型化」が理論の基盤であるというスタンスであり、アドラーはそれを導き出すフロイトの能力を高く評価しているのです。

『フロイトと私は科学的な相違点がたくさんあるが、彼が必死の努力で多くを明らかにしてきたことに私はいつも賛同してきた。特に彼が、実証哲学主義的な(materialistisch一唯物論)神経学の地位を揺るがし、補助的な科学でしかなかった心理学に医学への門戸を開かせたことは、彼の推測に関する探偵的技術に次ぐ功績である(現代に生きるアドラー心理学)』

アドラーのフロイトに対する評価は少しアイロニーを含んでいるような気がしますが、アドラーが間違いなくフロイトの凄さを実感しているのが最後の下りである、“推測に関する探偵的技術”です。実際、フロイトの評価として世界的に最もオーソライズされている“補助的な科学でしかなかった心理学に医学への門戸を開かせたこと”を凌駕している、と讃えているわけですから。

フロイトが理論を導き出すプロセスは、多くの症例を見て共通点を探していく、というより、数少ない個別的な症例から、その意味、理由は何なのかを、深く探究していくという特徴があります。博覧強記な知識はもちろんのこと、ユダヤ教やキリスト教からも自由でしたから、当時の知識人一般に備わっていた“常識”に縛られてもいません。したがって解明した結論は、誰しもが驚くべき内容だったのです。

実際、エディプス・コンプレックスを見出したのは、「馬恐怖症の少年ハンスの症例」です。もちろん、これだけで理論が確立したわけではないのですが、フロイトが説明する「意味づけ」が見事である、ということで多くの人が納得し、賛同したのです。
アドラーの言う“フロイトの探偵的技術”とは、「一を聞いて(診て)十を知る」ということなのかもしれません。

アドラーは共同体感覚の度合いと活動量で、ライフスタイルを4つに類型化しています

A「理想的/共同体感覚タイプ」

アドラーの根本思想は「共同体感覚」です。これについては、さまざま解説されていますが、一言で説明すると「利他の精神」だと私は解釈しています。このAタイプは、共同体感覚も豊かで、かつ活動的です。ネーミングの通り、アドラーが理想として描いているライフスタイルです。そして他の三つのタイプとは違って、唯一破壊的な性質がない、としています。後の三つのタイプは、建設的か非建設的、または破壊的という基準で分けています。

B「ゲッタータイプ」

活動の量は多くなく、共同体感覚も低いレベルのタイプです。もっとも、自分が求めるものに対しては関心が高いのですが、それを他者に依存し、他者にやらせようとするタイプです。

C「独裁的タイプ」

活動の量は多いのですが、共同体感覚に欠けており、他者を支配し、自分の思う通りにさせようとします。

D「逃避的タイプ」

何かに立ち向かうことを回避し、距離を置こうとします。「ゲッタータイプ」と似ており、共同体感覚も活動の量も少ないタイプです。

アドラーは、基本的に類型化には反対でした。特定の疾患の徴候で人間を分類することはできない、という立場です。ただ、自分が打ち立てた理論を閉じたものにとどめるのではなく、多くの人に知ってもらう、そして関心を持った人を教育していくためには、理論の基本である「分類し体系化していく」、そして「受け手が勝手な解釈や誤った受け取り方を防ぐ」ために、法則性についてのガイドラインを提示することに理解を示していたのです。
このことから、アドラーに薫陶を受けた後継者、さらに広がっていくアドリアンたちは、むしろ積極的とも感じる「類型化」を試みています。

ライフスタイル分析とは?

代表的なのは、ニックネームを用いた分類です。モサックは14の類型を示しました。現在では、そのうちの代表的な5~6のタイプでライフスタイル(ゲッター、コントローラー、ドライバー、ベイビー、エキサイトメント・シーカー、プリーザーなど)を当てはめ、それぞれのタイプがライフタスクと呼ばれる「人生の課題」に直面した際、どのような行動を示すのか、その行動は、ライフタスクをクリアしていく場合に有効に機能していくのか、それとも失敗する確率が高まるのか、といった分析が行われます。これが「ライフスタイル分析」であり、アドラー心理学における有効なメソッドとなっています。

アドラー心理学は、「ライフスタイルは変えることができる」というスタンスに立ちます。もっとも、ライフスタイルは、「ルールを司るルール」であり、簡単に変えられるものではありません。アドラー心理学はそのことを十分に理解した上で、それでも誤った意識、行動の変容に注力します。

最後に、カエルをプリンスにする「勇気づけ」を語ります

アドラーについて、4回シリーズでコラムを進めてきました。最後にアドラーの「勇気づけ」を取り上げようと思います。「勇気づけられることで人は変わることができる」とアドラーは言います。

『アドラー心理学では、カエルをプリンスに変容させるプログラムを勇気づけとして記述します。勇気づけられた人は、自己と人生に対する信頼を身をもって示します。極端な楽天家ではないし、完璧を追求することもなく、普通に勇気づけられた人は、進んで自己を信頼して人生の課題を直視し、結果が分からないか、あるいは否定的な結果に直面しても、全てを信頼して危険を引き受けます。 後者を個人心理学では勇気と呼んでいます。勇気(courage)は語源的に勇気づけ(encouragement)と関連があります。(中略)アドラー心理学はその上、失敗(敗北)と失敗者(敗北者)であること、行為と行為者、宗教用語では罪と罪人を区別します。毎日、誰もが何かに失敗します。それにより私たちが敗者になることはありません。梅毒の初めての治療薬を発見して、1908年にノーベル賞を受賞したパウル・エーリッヒで例証します。 その薬、サルバルサンは非公式に606として知られていました。その前に605の実験薬が失敗したからです。また、三割の打率を誇る野球選手は莫大な俸給を要求できます。ヒットを1本打つたびに二回以上凡退していてもです。敗者とは自分が敗者であると信じているか(劣等感情)、敗者であるかのように振る舞う(劣等コンプレックス)人のことです。私たちが他者を勇気づければ勇気づけるほど、自分自身を勇気づけることになるのは確かです。他者がプリンスもしくはプリンセスに変容することを助けることで、私たち自身もプリンスもしくはプリンセスになります。親や教育者、セラピストならば、意味することはわかるでしょう。勇気づけによる心理療法の実践が、患者さんとセラピストの双方にとって実りあるものとなるからです。(現代に生きるアドラー心理学)』

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その3~(2020/07/22)

アドラーが臨床医として、カウンセリングに臨む際に最も重視したのは、「クライアントのライフスタイルを見極めること」でした。今回のコラムでは、臨床医の側面として、アドラー最高の功績とされている「ライフスタイル」を取り上げます。

ライフスタイルという言葉は、今日広く使われています。広辞苑ではライフスタイルを「生活様式。特に、趣味・交際などを含めた、その人の個性を表すような生き方。」と説明しています。“個性”というワードが含まれていますが、「ライフスタイル≒個性」と捉えてもよさそうです。

日常の会話において、「Aさんは変わっている。実に個性的だよね。」というフレーズを使ったことのない人はおそらくいないでしょう。ただこの会話だけで終わってしまうと、その会話の場にいる一人ひとりが、Aさんの言動、振る舞いについて、それぞれ勝手に思い浮かべ、その“個性”を“個別“に解釈するでしょう。

そもそも“個性”とは、その人特有の態度であり、異なってしかるべきです。つまり100人いれば100通りの態度が存在するわけで、それを言語化しようとするとしたら、膨大なエネルギーを必要とし、まさに一人ひとりの小説が成り立ちます。

臨床医としてのフロイトのスタンスはクライアントを類型化することでした。つまり“個性”を一旦外において、さまざまな患者を共通するパターンに落とし込むことです。その上でメソッドに沿って治療を進めていきます。

一方アドラーは、“個性”を重視します。ということは、100人100通りの態度を個別に見極める、ということなのでしょうか? アドラーはこのことに挑戦しました。

ライフスタイルはどのようにして創られるのか?

『ライフスタイルとはルールの集積であり、私たちの人生をガイドする認知地図なのです。それは、私たちが情報を受けて反応するだけでなく、情報を送り出すように私たちを導いてくれる、「ルールを司るルール」なのです。 子供の成長とは、環境や自分の内側から発信されるデータを理解しようとしたり、コントロールしようとしたりすることです。すなわち、内・外部から情報を受け取り、処理しなければならないのですが、ライフスタイルはいかにデータを使うかという鍵なのです。(中略) ライフスタイルは個人の創造的・芸術的産物です。それは、子供時代に掲げた目標に導く認知地図なのです。それは、人生に対して柔軟で順応性があるのですが、一方で変化には反対に頑固で、適応を拒むことがあります。ライフスタイルはまた善でも悪でもありません。(中略) 私たちがライフスタイルを創り、対処し、習慣化し、変化させているのです。私たちはただそれに気づかず、理解せず、変える必要があることを知らないでいるのかもしれません。それは指紋のように一人ひとり異なっていますが、限りなく複雑で難解なものです。私たちは、善くても悪くても、自分のスタイルで生活しているのです。
(現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)』

この「複雑で難解なライフスタイル」は、どのようにして創られていくのか、アドラーはまずそのことから思考をめぐらしていきます。その過程で、ライフスタイルを形成する影響要因として、精神社会的要因に注目します。その内容として、以下の4つを挙げています。

「家族的」「父親的」「母親的」「社会的」という4つの影響の強弱により価値観・ライフスタイルが形成される

私の場合で恐縮ですが、父親は大の愛飲家です。私に対して「酒の味を知るのは早いほうが良い」という価値観を持っており、私は、某年齢よりアルコールを嗜むことを覚えています(大きな声ではいえませんが…)。妻は、私の接酒スタイルには厳しい視線を向けているものの、これに同調する気持ちはないので、したがって「父親的価値観」の影響を受けたライフスタイルが形成されている、と言えるでしょう。

なお、日本の家族に多いのは「母親的」価値観の影響が「家族的」価値観を形成している、というケースではないでしょうか。子どもの発達に直接影響するのは親の態度である、というのは言うまでもないことですが、アドラーはそのことについて、「一般的に甘やかしは無視よりさらに良くない」と述べています。

アドラーは、「無視をされている子どもたちの多くは、自分がそうされているとは思っていない」、一方で「自分が出来るにも関わらず、親からやってもらうことに慣れた子どもの方が、むしろほったらかしにされた、と感じたりする」、と言います。甘やかしが常態になると、ほんの少しの否定でも“無視されている”と受けとめてしまう、ということですね。

兄弟姉妹、子供同士がいかに影響し合うかを最初に提起したのはアドラーです

上記の4つの影響要因を、アドラー心理学では一般論としています。その上で、「こういう一般論を語る前に、状況の特殊性と全体像をよく見極めなくてはならない」と説きます。そこで提起したのが「きょうだいの存在」「文化・地域・学校が発達段階で及ぼす影響」です。
このことを最初に提起したのがアドラーなのです。

私は以前のコラム『家族心理学(6月10日)』で、「家族サブシステムには夫婦、兄弟姉妹、親子などが該当しますが、それだけではなく祖父母や親せきといった拡大家族、加えて学校、企業、そして地域社会なども当然家族のあり方に影響を及ぼします。今日に至っては、デジタルネイティブがメジャー世代となりつつありますので、関係性は世界に広がっています。絶界の孤島で1家族だけで暮らしているのであれば別ですが、家族は本来オープンなシステムなのです。」と記述しました。

現代におけるこの家族心理学の中心概念は、まさにアドラーが提起した上記の内容が源流になっていることに気づかれると思います。

出生順がライフスタイル形成に大きな影響を与える。

「長男と次男では、やっぱり性格が違ってくるよね」
「末っ子は、どうしても甘えん坊に育つよね」
「長女は、妹に対して常に“お姉さん”として振る舞おうとするよね」

このように現在では、当たり前のように受けとめられることが、アドラーの時代ではそうではありませんでした。フロイトは、自我形成にあたって、兄弟姉妹のことを重視していません。有名なエディプス・コンプレックスの理論は、両親(特に父親)との関係性から導き出された理論であり、兄弟姉妹というヨコの関係性に触れることは、エディプス・コンプレックスの理論にはマイナスに働くので、意識的に避けているきらいがあります。

フロイディアンとして積極的に意見を述べている妙木浩之氏の『エディプス・コンプレックス論争 性をめぐる精神分析史(講談社選書メチエ 2002年)』をここで紹介したいと思います。

『アドラーはこう考えた。最初に生まれた子どもは、二番目に生まれたときに、自分の立場を脅かされる。親の目が次の子どもに向くからである。そのため両親に対して、この傷を克服するために、長子は、過度に法や秩序を重視して「力を求める保守的な態度」をとろうとする。 そしてこの両親の愛情をめぐる競争に敗れると、長子はしばしば反抗的になる。それに対して第二子は、長子よりも社交的で、いつも上の子にキャッチアップするために、努力しなければならないのでやんちゃである。彼はいつも長子を超えるように努力するため、他人に服従するのには我慢ならない。さらにもっと小さい末っ子は、他者に脅かされることなく、怠け者になって甘やかされやすい。そのため独立心が育ちにくい。ちなみに勢力関係、競争関係、同胞関係を重視したアドラーの理論は、主に教育現場に受け入れられる素地を持っていたし、ウィーンのアドラー児童学校は人気があり、アメリカでは教育関係者がアドラー心理学に親近感を抱いた。アドラー理論が教育などに取り入れられるようになった背景は、学校が基本的に学習社会で、競争や同胞との関係が重要な場だからである。』

ちなみにアドラーは次男、フロイトは長男です。

7月6日のコラム『アドラー その1』で、 『アドラーは決して「優しい人」ではなく、臨床心理学、カウンセリングのスタンスとしては、もっとも「厳しい人」と言えるかもしれません。』とコメントしています。それは、「人は優越性を求め、そのために努力する。そして社会は競争が常態であり、その中で居場所を自らがつくっていかなければならない」、という前提としての考えが、アドラーの中に存在していることがその根拠です。

今回のコラムは、『現代に生きるアドラー心理学』の中から、このことに触れている箇所を紹介することで終えたいと思います。次回も引き続きアドラーを取り上げてまいります。

『アドラーは、誰もが優越性のために努力しているように感じました。それが全ての生き物の唯一の動機なのです。究極の虚構的目標は、人に優越性をもたらすための目標です。人が示す共同体感覚の度合いは、努力する方向を決定します。もし他者のための福祉に興味があれば、努力は愛情や思いやり、社会的協力や社会福祉などの人生の有益な面に向けられるでしょう。もし、共同体感覚の度合いが低ければ、努力の方向は社会を支持するものではなく、むしろ反社会的(広い意味での)なものになります。 こうした場合は周囲を犠牲にして優越性を手に入れようとします。(中略)…もっと例を挙げてみましょう。自傷行為が、どうやってプラスの状況を作ることができるでしょうか? 短期間では現実的にマイナスかもしれません。しかし長い目でみると、その人は周りから注目され、近づいて来る人からは「卵の殻の上を歩くように扱われ」、痛みに耐える主観的な安心感を得るかもしれません。 自傷行為をする人は、キリストの(マルコによる福音書[Mark9の47])「もし、あなたの目があるためにつまずくならば、それを取ってしまいなさい。目を二つ持って地獄に落ちるより、目が一つだけで神の宮殿に入るほうがいいのです」を引用して、道徳上の優越を育むのかもしれません。 優越性のために努力することは、長期的には幸福感や福祉となり得ますし、また人生でそうすることによって間違いが起こることはまずありません。しかし、優越性のための努力が他人の犠牲の上に成り立ち、単なる目先のためだけであれば、人々の利益にならないと言えるでしょう。』

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その2~(2020/07/13)

前回のコラムはアドラーの言葉を紹介しました。今回はアドラー心理学の理論を解説してまいります。
構成は、最初に「どうしてアドラーはフロイトと袂を分かったのか」に触れます。その後で、アドラーの特徴的な理論についていくつかひも解いてみましょう。

フロイトとアドラーの根本的考え方の違いとは?

アドラーとフロイトの関係は、フロイトが1899年に出版した『夢判断』がきっかけです。
この初版は全く売れませんでした。当時としてはタブーとされていた性欲について正面からとりあげたことが原因だと言われています。性欲は意識(自我)からは抑圧されているが、エス(無意識)においては、本能として願望の発露を求めている。夢とは、それがメタファー(隠喩)としてイメージ化したものだ、つまり願望の充足を夢によって補っている、としたのです。

フロイトは夢の解釈において性欲を重視したので、この点であまりフロイトを理解していない人は、フロイトその人を“性的な人間”と看做してしまう場合が多いようですが、実際のフロイトは極めて抑制的(禁欲的)であり、ユングと比較して、女性関係はいわゆる“まじめな人”だったようです。

フロイトが失意に沈んでいる中、アドラーは『夢判断』への多くの中傷や批判に対して、フロイトを擁護する主張を発表しました。フロイトはそれを喜び、アドラーを自宅で開催している「水曜夜の会」に招待します。1902年11月のことでした。この「水曜夜の会」は、有名な「精神分析サークル」に発展していくのですが、その初代会長にアドラーが就任します。

ところが、フロイトとアドラーの関係は1911年に、決定的な問題(考え方の相違)が解消されず、終焉を迎えます。

アドラーが発表した「男性的抗議」、そして「抑圧の本質と起源」とは?

「男性的抗議」という表現は分かりにくい訳語なのですが、当時「男らしさが過剰に評価されている」ことに対する態度のあり方のことです。この過大評価を肯定する男性は「よりパワフルでありたい」と願い、そのように振舞います。

ところが神経症を患っている男性の中には、女性的な性徴が顕著で受身性が強く、これに劣等感を抱き、それを見せまいとして、過度に男性的であろうとする「男性的抗議」が行われている場合がある、とアドラーは主張しました。

他方、「男らしさの社会的過剰評価」を受容している女性の場合は、男性に伍そうとし、あるいは過度に同調し、そのことが精神のバランスを歪ませ、疾患に至るというのです。アドラーの中には男女同型という概念が存在し、「女性の権利と性の平等」「女性の堕胎権利」といった論文や講演を積極的に展開しています。

男性女性の双方にそれぞれ異性的な要素が共存している、というのは以前のコラムで紹介した、ユングの「アニマ」「アニムス」と共通するとらえ方ですね。

この「男性的抗議」の考え方をアドラーは1911年に発表したのですが、フロイトはこれを真っ向から否定します。フロイトはあくまでも性差、男女差を前提とします。

そして「抑圧」の捉え方の本質的な違いが顕在化します。フロイトによると、無意識(エス)は快楽原則に基づいており、欲求の解放を求める衝動が強いので抑制すべきである、とします。ヒステリーなどの神経症は、その抑制が、超自我の作用が強すぎるために“適度を超えて”しまった状態、これが抑圧であり、したがって、抑圧は個人が社会に適応しようとして発生する、という理論です。

一方アドラーは、精神をそもそも、エス・自我・超自我という層として捉えておらず、無意識は抑制しなければならない、とは考えていません。抑圧は、フロイトとは逆に社会に適応できていない状態だといいます。したがって、抑圧が神経症の原因であることを否定します。

この対極の考え方は「精神分析サークル」で賛否を問われ、結果、多数決でアドラーが敗れ、サークルを去るのです。独立したアドラーは、個人心理学を提唱します。「個人はパーツの集まりではなく全体的である」というのがアドラーの思想であり、「個人(individual)」はラテン語の「全体的なもの(individuum)」に由来することで、命名しています。

アドラーの理論を紹介します。

全体論

個人心理学のネーミングを体現する理論です。アドラーは、意識・無意識を分けていないと説明しました。特に考えることなく行動したことが、その後になってよい結果をもたらした、ということがあると思います。アドラーは、人の内部には行動を促す動因があり、楽しい状態、ネガティブな考えにとらわれてしまった状態、相反する考えが頭の中を行ったり来たりしている状態など、それぞれの状態すべてが自分であり“分割できない”といいます(“分割することに意味がない”と言い換えてもよいでしょう)。そして人は、その全体性に基づき、“自然に形成される目的(無自覚と表現してもよいかもしれません)に向かって動いている”というのです。“この動き”は具体的なアクションだけではなく、精神内部の動きも含めての捉え方です。

目的論

アドラーは、最初に発見した精神の傾向として、“その動きがある目的に向けられていることである”と言っています。この目的とは、社会への適応です。最も共通する目的は「所属すること」であり、「敵対する可能性のある社会の中で孤立し、無力であることの感情」と定義される“根本的不安”の解消を目指します。登校拒否は「それによって親に甘えられる」という目的のための行動かもしれません。離婚が原因とされる「うつ状態」は、実は、周りの人たちから同情され、手を差し伸べてもらい、別れた夫がいかに理不尽であったかを認識してもらうことが目的であるのかもしれません。つまり目的論は、原因ではなく、問題行動の目的は何であるのかを探るのです。

さて、目的についてネガティブな事例を挙げていますが、目的の本質についてアドラーは、「子供は、自分のために選んだ目的に向かって発達するよう努力している」と言います。その目的は多くは無自覚であるため、結果として誤った方向に進んでしまうことを指摘するのです。そして大切なことは、「誤った目的は変えることができる」ということです。

人間関係論

アドラーは言い切ります。「人が抱えるすべての悩みは人間関係である」と。したがって、精神的に満たされている状態は、好ましい人間関係が形成されているからであり、好ましい人間関係の中に居場所を見出すことができているから、ということになります。

人間関係について、心理学では『ヤマアラシジレンマ』で説明することがあります。これはショーペンハウアーの寓話で、二匹のヤマアラシが寒いので暖をとろうとしてお互いに近づきます。近づきすぎるとトゲが刺さるので痛い。そこで離れます。すると寒い。これを繰り返すことで、適度な距離感を見出す、という内容です。

アドラーは、好ましい人間関係をつくるために、自分を知ることを説きます。それは誤った理解の場合が往々にして存在します。内向的な性格を否定している人、つまり短所として受けとめている人に対して、「優しく繊細な感情を持っておりそれは長所であり、好ましい人間関係づくりにあたってプラスに働きますよ」と勇気づけるのです。そして同時に他者を知る努力について強調します。アドラーは他者を理解することは容易ではない、だからこそ自分の思い込みを排し、謙虚な態度で接することが大切である、と言うのです。

自己決定論

「自分の性格は受け身であり、親の言うままに生きてきた」という人がいると思います。アドラーに言わせれば、それは真実ではなく、責任転嫁となります。決定という日本語は、そこに“意志”が存在しているように感じるので“選択”と置き換えてもよいかもしれません。

私たちは日々選択しているのです。それは欲求に基づくものだけではなく、危険が迫り、それを回避すべくとっさに判断して行動することも選択と言えます。つまり受身と思っていても、ある範囲のもとで選択の自由を有しているのです(アドラーは、選択の自由を無限の選択とは言っていません)。

したがって、自分の行動(決定≒選択)には責任があり、他者を責めることを否定します。アドラー心理学は、「自身の問題は他者のせいである」と思い込んでいる人に対して、その考えを改めることに注力します。つまり再教育を重視しているのです。

個別記述性

アドラー心理学の理論の捉え方については、さまざまなアプローチが存在します。例えば、「アドラーの理論は5つに体系化されています」という表現は馴染みにくい、ということです。この「個別記述性」というのは、理論というより、アドラーの人間観といえるでしょう。アドラーはこう言います。「もちろん私たちはみな、一般的な法則を使わないわけにはいかない。というのも、それによって私たちは概括できるからである。しかし、それによって得られる特定のケースについての知識や治療法はわずかなのである。(『現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)」

理論(この場合は法則)の本質は、「バラバラに見える現象に対して共通する部分を見出しカテゴリー化してパターンに落とし込むこと」、と説明できるでしょう。アドラーは、現象、対象を把握するためには、それは必要であるが、頼りすぎるのはよくない、と言います。「人とはそもそもが個性的存在なのだから」、ということですね。今日ダイバーシティの視点が広がっていますが、そのコアにアドラーの思想を感じることができます。

前回のコラムの冒頭で、“今日のコーチングが成立する過程において、アドラーの思想、そして提唱した理論の影響は大きなものがあります。”とコメントしました。今回のコラムで、そのことにつき理解につながったとしたら本望です。
次回のコラムでも引き続きアドラーを取り上げてまいります。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その1~(2020/07/06)

心理学における3巨人のうち、フロイト、ユングについてコラムを進めてきました。今回からはアドラーを紹介してまいります。
今日のコーチングが成立する過程において、アドラーの思想、そして提唱した理論の影響は大きなものがあります。というのも、フロイトやユングが精神医学を立脚点にしたのに対し、アドラーの出発点は社会医学であり、アドラーの興味は当初から教育や家庭といった人との関わり、すなわち人間関係にありました。そして生涯を貫いた思想は「共同体感覚」です

さて、アドラーの紹介をどこから始めたらよいのか… アドラーの生涯について、アドラーの理論について、アドラー理論が臨床でどのように活用されているのか、など切り口はさまざまです。少々悩んだ末、まずは「アドラーの言葉」からスタートすることに決めました。

アドラーの言葉は至言に満ちています。

アドラーの著作(日本語訳)は数多く出版されていますが、『人間の本性 人間とはいったい何か(長谷川早苗訳)/興陽館(2020年2月15日)』を取り上げることにします。この本の最後にアドラーは「謝辞(ロンドン、1926年)」を添えています。

<謝辞 本書の成り立ち>
「この本では、個人心理学の揺るぎない基本はどのようなものか、人間を知ることに対して個人心理学がどれほど有用か、また、他者とつきあい、自分の人生を作っていく上でどれほど重要かを、できるだけ多くの読者に示そうとしています。本書はウィーンの国民集会所で何百人もの聴衆を前に行った1年間の講座がまとめられています。(後略)」

この本を読むと、アドラーが聴衆に向かって熱く語っている姿が彷彿とされます。さっそく紹介してみましょう。

・わたしたちはみんなあまり人間のことをわかっていないのです。これはわたしたちの孤立した生活に関係しています。現代ほど人が孤立して生きている時代はないでしょう。 ・他者との関係は人間を知る能力を伸ばすのに絶対に必要なものです。人間を知ることとほかの人とつながることは、互いに関係しています。理解が足りないせいで長らく他者と離れていると、ふたたび関係を築くことができなくなるからです。理解不足で起こるもっとも深刻な結果は、周囲の人とつきあい、ともに生きていくことにたいてい失敗してしまうという事態です。 ・人が共生するためには、お互いを理解することが絶対に欠かせません。人に対する私たちの態度は、すべて相手への理解に左右されるのです。

アドラーが重視するのは他者との関係性。

この3つのフレーズは、全体200ページの最初の3ページの中で登場しています。アドラーがいかに他者との関係を重視しているか、そのためには他者を知ること、理解することが好ましい人間関係を作っていく上でいかに大切か、を説いています。

・本当に人間を知ろうと望む人は、自分の体験や他者の精神の苦しみに対する共感から、なにかしら人間の価値に気づいた人だけです。この状況からは、わたしたちが仕事をする際になんらかの戦略を立てる必要性も生じてきます。相手の精神から得た認識を無遠慮に突きつけるほど嫌味で批判的に見られる行為はないからです。嫌われたくない人には、この点に気をつけるように忠告します。 ・人間を知るにはつつしみ深さが要求されるのです。 ・わたしたちは、立ち止まり、自分をよく見て、人間の本性を学ぶ過程で得た認識で他者を妨げないよう、ここで提言したいと思います。

ここは少し分かりにくい表現となっています。「つつしみ深さ」の大切さを説いていることは理解できますが、「得た認識」をどう解釈すればよいのか疑問が生じます。「得た認識」について否定的にとらえているようにも感じます。これについては、この後につづく言葉で像が結ばれるでしょう。

・経験というのはさまざまな意味に解釈されることを考慮しなければいけません。2人の人間が同じ経験から同じ教訓を引き出すことはほぼないのはわかるでしょう。ですから、人は経験から賢くなるとは限りません。特定の困難を避けることを覚え、困難に対して特定の態度をとるようになるでしょう。 ・人が経験から非常にさまざまな結論を引き出す様子は、日常的に観察されます。たとえぱ、なんらかの誤りをくりかえす人がいます。誤りを認めさせることができたとしても、その後の結果はさまざまです。本人自らもう誤りから脱しようと考えることもあります。ただしこの結論はまれです。あるいは、もうずっとこうしてきたから、いまさら変えられないと答える人もいます。別の人は自分の誤りを親のせいだと言ったり、漠然と教育のせいにしたりします。そして、自分にかまってくれる人がいなかったとか、 甘やかされたとか、ひどく厳しく扱われたとか言って、誤った認識にとどまるのです。けれど、この態度からわかるのは、ただ隠れていたいという思いだけです。こうしていれば、いつも用心深くうわべを正当化して、自己批判から逃れられるのです。自分は責任を負わず、達成できなかったことはいつでもすべて他人のせいにします。このような人は、誤りを克服する努力を自分ではほとんどしていないことに気づいていません。むしろ、ある種の情熱をもって誤りに固執しながら、自分が望むときだけひどい教育のせいにしているのです。

アドラーは決して「優しい人」ではありません。

アドラーの言葉は、さまざまの本で数多く紹介されていますが、私は、このフレーズこそがアドラーらしさを物語っていると感じています。
アドラーは決して「優しい人」ではなく、臨床心理学、カウンセリングのスタンスとしては、もっとも「厳しい人」と言えるかもしれません。
「自分が不遇であることを他者のせいにしてしまう」ことは、自覚無自覚は別として、多くの人に共通して現れる心理状況です。そのことをアドラーは全否定するのですね。ここを起点としてアドラーの理論は展開し、だからこそ多くの人が共感するともいえるのです。

・「悔い改める罪人」は現代でも、あらゆる宗教の発展の時代でも最高の価値を認められ、あまたの心の正しい人よりも優れているとされるようです。その理由を考えて出てくる答えは、人生の困難から立ち上がって泥沼からはいだした人、困難をすべて乗り越えて立ち上がる力を見つけた人は、人生のよい面もわるい面も一番よく知っているに違いないということです。人間を知る学問で「悔い改める罪人」に並ぶ人はいません。とくに、よい面しか知らない人はかないません。 ・人間の精神について知ると、自ずとやるべきことが見えてきます。要するに、人間の型、パターンが人生に適していないと判明するときにはそれを打ち壊し、人生の道を迷わせる視点を取り除くのです。そして他の人と生きて幸せになる可能性により適した視点をすすめ、哲学で言うところの思考の節約、いえ、不遜にならないためにやはり型という言葉を使いますが、他の人と生きる共同体感覚が中心となる型をすすめることです。

「悔い改める罪人」に最高の価値を置いていることについては、親鸞の「悪人正機説」を連想しますね。
親鸞の根本思想は「絶対他力」ですが(親鸞自身はこの表現を用いていないようです)、「善い行いをしよう」、「善い行いをしたい」、「善い行いをしたことで心が満たされる」ことを全否定するのです。ここはものすごく深い思索が求められます。連想して親鸞を語りたくなりましたが、ここではガマンしておきます。
アドラーは「人間の型」という表現を用いています。これもアドラー心理学における重要な概念であり、その「型」を見出すために「ライフスタイル分析」というアプローチを確立します。これについては、今後のコラムで取り上げたいと思います。

・長所や短所というのは相対的な考えです。なんらかの能力や身体器官が長所なのか短所なのかは、人によってまったく異なるからです。長所も短所も、個人がどのような状況にあるかで決まってきます。 ・だいたいからして劣った部分とは、個人の人生においても、あらゆる民族の人生においても、つねに短所であるというまったくの負担のように見るべきものではありません。劣った部分が短所になるかは状況によって決まってくるのです。

短所は短所とは限らない。

以前のコラムでアドラーが最初に出版した『器官劣等性の研究(1907年)』に触れました。内容は「特定の臓器が欠損するなどするとそれを補おうとする機能が働く」というものです。生物学をベースとしており、精神分析的なものではないのですが、フロイトは、これを高く評価しています。ちなみにアドラーがフロイトから離反するのは1911年で、そして自分自身で「個人心理学(individual psychology)」を創設しました。

アドラーが短所と長所を別のものと捉えなかったのは、劣等器官であっても代償とう行為で、その劣等性を補おうとする。すなわち、劣等性は状況によっては、劣等ではなくなるという生物学的な現象(事実)を得て、精神的にもそれが機能するという確信をもつに至ったのです。
アドラーは。そのことを発展させ、「劣等コンプレックス」という概念を提示しています。劣等性を意識しているからこそ、それを補おうと、また克服しようと努力することで、優れた能力を獲得することがある、という考え方です。これは実に腑に落ちるところですね。「劣等コンプレックス」についても今後のコラムで取り上げます。

・精神の動きで最初にわかるのは、目標に向かって進む動きがあるということです。ですから、人間の精神を静止した1つの全体のように思うのは誤りなのです。それぞれに動く力が、一貫した同じ理由から生まれ、一貫した目標を目指すのだと考える以外にありません。「適応する」という概念にはすでに目標の追及の要素が含まれています。目標のない精神生活は考えられません。精神生活のなかにある動きや活力が向かう先には目標があります。つまり、人間の精神生活は目標によって決まるのです。考えるにしても、感じるにしても、望むにしても、そして夢を見るにしても、ぼんやりと浮かぶ目標によって決められ、条件がつけられ、制限され、方向が定められるのです。これは個人の要求や外界の要求、また要求に対して返す必要のある答えと関連して、ほぼ自然に行われます。人間の身体や精神の現象は、この基本的見解と符合しています。精神はこうした枠にはまって展開し、力の作用から自然と生まれてただよう目標へ向かうとしか考えられません。その目標は変わることも、固定していることもあります。ですから、精神の現象はすべて、これから起こることに対する準備のようにとらえることができます。精神器官にはまず目標があるとしか思えません。個人心理学では、精神の現象はすべて、目標に向けられているととらえます

人は自然に生まれる目標に向かって進んでいく。

今回のコラムの終着は、この言葉の紹介することにしました。 アドラーが打ち立てた個人心理学の根本思想が、このフレーズに込められていると感じたからです。
アドラーの特徴は「未来志向」です。自分がよくない状況に陥っている原因を過去に求め、そこにこだわることは無意味だと言うのです(アドラーは明快に“責任転嫁”としています)。上記で「ぼんやりと浮かぶ目標」と表現しています。これは、売上“目標”●●億円といった場合に使う“目標”とは異なります。上記で、「ほぼ自然に行われます」「力の作用から自然と生まれてただよう目標へ向かうとしか考えられません」とアドラーは言うのです。
「未来に向かって自然に形成されている目標があるのだ」、このことをアドラーは確信しているのです。

次回もアドラーを取り上げます。いくつかの理論について説明してまいりましょう。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~ユングの無意識の世界 その2~(2020/06/30)

今回のコラムは、前回に引き続き、ユングの無意識の世界を探訪してみましょう。
ユングは無意識を、個人的無意識と普遍的無意識の2層に分けてとらえていることを前回のコラムで紹介しました。
河合隼雄氏は、『ユング心理学入門(岩波現代文庫…刊行は 焙風館/1967年 )』の中で、中学2年生の学校恐怖症の男子(約2ヵ月学校を欠席)の事例から、普遍的無意識、そしてキー概念である元型を説明しています。

太母(great mother)は、生の神であり、同時に死の神である。

<夢>
自分の背の高さよりも高いクローバーが茂っている中を歩いてゆく。すると、大きい大きい肉の渦があり、それに巻き込まれそうになり、恐ろしくなって目が覚める。

『この夢について、この少年は何も思いつくことがない。(中略)…この夢の中心をなす恐ろしい渦は、われわれに多くのことを思い浮かばせる。この場合の渦は、渦巻線というよりは、何ものも吸い込んでしまう深淵としての意義が大きいが、このような深淵は多くの国の神話において重い役割を演じている。すなわち、地なる母の子宮の象徴であり、すべてのものを生み出す豊穣の地として、あるいは、すべてのものを吞み尽くす死の国の入口として、常に全人類に共通のイメージとして現れるものである。(中略)…このような深い意味を持った母なるもののイメージは、全人類に共通に認められるものであるが、これを個人的な実際上の母親像とは区別して、ユングは太母(great mother)と呼んでいる。地なる母、太母が、生の神であると同時に死の神である二重性は、渦巻線によって象徴されることもある。渦巻はまた、太母の乳房の象徴として用いられるもので、太古からある太母の像には、よく現れるものである。』

ユングは、普遍的無意識は「想像力の原点として存在する集合的な力をもった無意識」であるとし、そこに存在している共通するイメージを生み出す力を、上記の、太母に加え、アニマアニムスペルソナなど基本的な型元型として見出しています。

・太母(great mother)
自立が問題となってその背景を見出そうとする場合に、イメージされるのがこの太母です。この元型がプラスとして働く場合は、大いなるものに包まれた安心感を抱くことができます。ところが、そこからの自立を志向し、意識が外界に向かおうとした場合に、そのプラス面に浸っている環境が長く強すぎてしまうと、太母のマイナス面が象徴的に現れてくるのです。自立の不安(分離不安)、恐れを感じているのはあくまでも本人なのですが、そこに自立を阻害する太母に吞み込まれるようなイメージ、自分(太母)の監視下から逃れようとしても、それを絶対許さない、といった強大なる管理者(太母)に支配されるイメージです。ここでジェンダーにとらわれて、「“太父”ではダメなのか?」という疑問を抱かれる方がいるかもしれません。ユングも言っているように、多くの神話で共通に認められるイメージから、この太母を考え出しました。父(父性)のイメージとは結びつかないという点で、太父はオーソライズされないだろうことは自明ですね。
ちなみに、太母が、母親をイメージする元型であるのに対し、父親と関連の深い元型についてユングは、老賢人(old wise man)を充てています。私はネーミングも含めて、この元型については若干違和感を覚えているので、解説は省略させていただきます。

影(shadow)は悪とは限らない。自分の中で取り上げられ、生きていかねばならない側面を持つ。

・影(shadow)
河合氏は『ユング心理学入門』で、影を次のように説明しています。

『多くの元型のうちで、そのひとの個人的な心的内容と関連性が深く、したがって理解しやすいものが、影である。影の内容は、簡単にいって、その個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が許容しがたいとしている心理内容であり、それは文字通り、そのひとの暗い影の部分をなしている。われわれの意識は一種の価値体系をもっており、その体系と相容れぬものは無意識下に抑圧しようとする傾向がある。(中略)…影は常に悪とは限らない。今後自分の中に取り上げられ、生きていかねばならない面と考えられる。つまり、今までそのひととしては否定的に見てきた生き方や考えのなかに、肯定的なものを認め、それを意識のなかに同化していく努力がなされねばならないのである。』

河合氏は、影を同化することのむずかしさを国家レベルの事例により説明しています。おなじく『ユング心理学』の中から紹介しましょう。

『影を認知し同化することのむずかしさは、われわれに投影の機制をフルに用いさせることになる。自分の内部にある認めがたい影を他人に投影し、とにかく悪いのは他人で自分はよしとするのである。(中略)われわれ日本人にしても、戦争中は鬼畜米英などと教えられ、アメリカ人はすべて鬼のように恐ろしいと信じ、また、アメリカ人も日本人の残虐さを確信していたことだろう。実際、一国すべてが鬼に等しいなどという単純な現象は起こりようもないが、この単純な考えを、一国のほとんどの人が信じるという現象が、しばしば起こるという事実を認識することは大切なことである。内部にあるはずの悪を他にあるように信じることは、何と便利なことか。このことを知っている狡猾な為政者は、適当に影を投影する方法を探し出すことによって、全体の団結を高める。その顕著な例として、ヒトラーによるユダヤ人の排斥をあげることができるだろう。ヒトラーの強力な全体主義体制によって生じる問題を、すべて悪としてのユダヤ人に国民の目を転じさせることによって、免れようとしたとも考えることができる。』

人は「善と悪の両方を抱え込んだ存在」である。

河合氏は、『ユング心理学入門』で、この影についての記述を多くとっています。ユングの特徴は、あらゆる現象を“相補性”でとらえることにあります。“善悪二元論”ではなく、「善でもあり悪でもある」というスタンスです。太母は、まさに両面を併せ持ったイメージであり、この影についても個人の内部で、相補的なものとしての存在を指摘しているのです。この「悪を併せ持つ」ことを、村上春樹氏との会話の中で、河合氏は面白く表現しています。

<村上> 「昨年、先生とお目にかかったときに悪についてお話をして、それでいろいろ考えたんですが、悪というのは人間というシステムの切り離せない一部として存在するものだろうという印象を僕は持っているんです。それは独立したものでもないし、交換したり、それだけつぶしたりできるものでもない。というかそれは、場合によって悪になったり善になったりするものではないかという気さえするんです。つまりこっちから光を当てたらその影が悪になり、そっちから光を当てたらその影か善になるような。それでいろんなことの説明がつきます。ところがそれたけでは説明がつかないものもたしかにあるんです。たとえば麻原彰晃を見ていても、少年Aを見ていても、純粋な悪というか、悪の腫瘍みたいなものがわっと結集して出てくる場合があるような気がしています。そういうものが体内にあって、「悪の照射」とでも言うべきものを起こすんじゃないかと。そういう印象を強く持ちました。うまく説明できないんですが。
<河合> 「それはやはり、我々の社会がそういうものを見ないように、見ないですますようにしすぎるからだと僕は思います。そうなるとどうしても、固まったものがばんっと出てきます。たとえばね、少年A事件が起こったときに、子供たちが陰に隠れて悪いことをしたらいかんからということで、そのへんの樹木を全部切ってしまったんです。僕はそれを聞いてものすごく腹が立ちました。話はまるっきり逆なんですよ。子供たちは大人の見ていないところで、子供なりに悪いことをして成長するんです。いつもいつも大人から見られているから、あんなことが起こってしまうわけですよ。ほんまに腹が立つ。僕は樹が好きやからね、木を切るというだけで腹がたつんやけど(笑)」

(『約束された場所で/文芸春秋 1998年』より)

相互に関係の深い3つの元型とは?

・アニマ(anima)、アニムス(animus)、ペルソナ(persona)
続いて元型を3つまとめて紹介します。この3つは相互に関係の深い元型とされています。『ユング心理学入門』の該当部分をピックアップしてみます。

『ユングは、夢のなかに現れる異性像、すなわち、男性であれば女性像、女性の場合は男性像が、心理的に非常に大きい意味をもつことに気づき、それらの元型として、女性像の場合をアニマ、男性像の場合をアニムスと呼び、その意味を探求したのである。(中略)ペルソナという言葉は、もともと古典劇において役者が用いた仮面のことである。ユングがこのような言葉を借りてきた意図は明らかであり、ペルソナとはわれわれが外界に対してつけている仮面であるということができる。(中略)一人の男性が「男らしさ」を強調するペルソナをもつとき、それは内に存在する女らしさ、アニマによって平衡が与えられ、女性の場合は、その女らしさをアニムスによって補償される。しかし、これが相補的に働くよりも、極端な同一化の機制によって、むしろ破壊的に作用を及ぼすこともある。つねに強く、厳しい男性が、浅薄な同情心に動かされて失敗したり、いつも愛想のよい奥さんが、新聞に書いてあった偉い先生の意見を基にして、お客様に演説を始めたりするのも、このためである。こんなとき、われわれは、あのひとはまったく別人のようだといったりするが、これは、まさに男性の背後から一人の女性が、あるいは女性のなかから他の男性が出てきて行動しているかのような感じさえいだかせるのである。われわれは、このような危険性を防ぐためには、あくまでもペルソナやアニマ・アニムスとの同一視をさけ、それらを分化し、よく認識していくように努めねばならない。』

元型のイメージをつかめていただけましたでしょうか?
前回のコラムでの河合氏のコメントである、
「…元型そのものはわからないんだということです。元型そのものは意識されることはなくて、人間は元型的なイメージをいろいろと意識する。ところが、その元型的なイメージをいろいろ取り上げていくと、それらの背後に一つの型を予想していいんじゃないだろうかと思うんです。」
この意味を、ユングが見出した具体的な元型を一つひとつひも解くことで、像(イメージ)が結ばれたとしたら今回のコラムの目的は達成です。

村上春樹氏はコーチングにおける「傾聴」の優れた使い手

さて、『約束された場所で』のなかで、村上春樹氏が地下鉄サリン事件の被害者に対して取材している際のスタンスが、まさにコーチングとしての「傾聴」であることを河合氏が指摘しているところがありました。最後に当該シーンを引用し、今コラムを終了したいと思います。

<村上> 「…僕は多くのマスコミや評論家がやっているように、オウム真理教の側の精神性とか思想性をとりあげて今ここで解析していっても、とりあえずどうしようもないんじゃないかという気がしたんです。そういう、意味の言語化みたいな迷路にはまりこんでしまうよりは、いったん出来事を普通の人の立場に戻して、テクニカル・タームをとっぱらって、そこからあらためて事件を眺めたほうがいろんなことが見えやすいんじゃないかということです。」
<河合> 「でもこれは村上さんが聞いている態度によって、これだけのもんが出てきたんだと思います。僕は内容を見ていると、それがすごくよくわかります。村上さんはここでは聞き役で、ほとんど前には出てこないんだけれども、こういうことをしゃべるというのは、村上さんが聞いているから出てくるんであって、普通の人が聞いても出てきません。ほんとにそうですよ。」
<村上> 「それは具体的に言うと、どういうことなんでしょうか? 僕は夢中になって聞いていただけなんで、よくわからないんですが。」
<河合> 「たとえば私が震災のところに行くとしますね。“じゃ、ちょっとこの震災の体験談を聞かせてください。本に書きますので” なんてやったら、こんなふうに話は出てきません。“いや、もう大変でした” と言うかもわからんし、“家が潰れました” と言うかもわからん。でもそんな話をしているうちに、いやになってくると思います。つまりね、話をしていても、相手にわかってもらえないと、気持ちは出てこないのです。相手によっては、話がものすごく簡単になってしまったりする。でもこの本の中ではみんな話がいきいきとしているでしょう。なかなかそういう感じでは人はしゃべれないものなんです。」

(日向 薫)

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