心理学とコーチング ~アドラー その2~(2020/07/13)

前回のコラムはアドラーの言葉を紹介しました。今回はアドラー心理学の理論を解説してまいります。
構成は、最初に「どうしてアドラーはフロイトと袂を分かったのか」に触れます。その後で、アドラーの特徴的な理論についていくつかひも解いてみましょう。

フロイトとアドラーの根本的考え方の違いとは?

アドラーとフロイトの関係は、フロイトが1899年に出版した『夢判断』がきっかけです。
この初版は全く売れませんでした。当時としてはタブーとされていた性欲について正面からとりあげたことが原因だと言われています。性欲は意識(自我)からは抑圧されているが、エス(無意識)においては、本能として願望の発露を求めている。夢とは、それがメタファー(隠喩)としてイメージ化したものだ、つまり願望の充足を夢によって補っている、としたのです。

フロイトは夢の解釈において性欲を重視したので、この点であまりフロイトを理解していない人は、フロイトその人を“性的な人間”と看做してしまう場合が多いようですが、実際のフロイトは極めて抑制的(禁欲的)であり、ユングと比較して、女性関係はいわゆる“まじめな人”だったようです。

フロイトが失意に沈んでいる中、アドラーは『夢判断』への多くの中傷や批判に対して、フロイトを擁護する主張を発表しました。フロイトはそれを喜び、アドラーを自宅で開催している「水曜夜の会」に招待します。1902年11月のことでした。この「水曜夜の会」は、有名な「精神分析サークル」に発展していくのですが、その初代会長にアドラーが就任します。

ところが、フロイトとアドラーの関係は1911年に、決定的な問題(考え方の相違)が解消されず、終焉を迎えます。

アドラーが発表した「男性的抗議」、そして「抑圧の本質と起源」とは?

「男性的抗議」という表現は分かりにくい訳語なのですが、当時「男らしさが過剰に評価されている」ことに対する態度のあり方のことです。この過大評価を肯定する男性は「よりパワフルでありたい」と願い、そのように振舞います。

ところが神経症を患っている男性の中には、女性的な性徴が顕著で受身性が強く、これに劣等感を抱き、それを見せまいとして、過度に男性的であろうとする「男性的抗議」が行われている場合がある、とアドラーは主張しました。

他方、「男らしさの社会的過剰評価」を受容している女性の場合は、男性に伍そうとし、あるいは過度に同調し、そのことが精神のバランスを歪ませ、疾患に至るというのです。アドラーの中には男女同型という概念が存在し、「女性の権利と性の平等」「女性の堕胎権利」といった論文や講演を積極的に展開しています。

男性女性の双方にそれぞれ異性的な要素が共存している、というのは以前のコラムで紹介した、ユングの「アニマ」「アニムス」と共通するとらえ方ですね。

この「男性的抗議」の考え方をアドラーは1911年に発表したのですが、フロイトはこれを真っ向から否定します。フロイトはあくまでも性差、男女差を前提とします。

そして「抑圧」の捉え方の本質的な違いが顕在化します。フロイトによると、無意識(エス)は快楽原則に基づいており、欲求の解放を求める衝動が強いので抑制すべきである、とします。ヒステリーなどの神経症は、その抑制が、超自我の作用が強すぎるために“適度を超えて”しまった状態、これが抑圧であり、したがって、抑圧は個人が社会に適応しようとして発生する、という理論です。

一方アドラーは、精神をそもそも、エス・自我・超自我という層として捉えておらず、無意識は抑制しなければならない、とは考えていません。抑圧は、フロイトとは逆に社会に適応できていない状態だといいます。したがって、抑圧が神経症の原因であることを否定します。

この対極の考え方は「精神分析サークル」で賛否を問われ、結果、多数決でアドラーが敗れ、サークルを去るのです。独立したアドラーは、個人心理学を提唱します。「個人はパーツの集まりではなく全体的である」というのがアドラーの思想であり、「個人(individual)」はラテン語の「全体的なもの(individuum)」に由来することで、命名しています。

アドラーの理論を紹介します。

全体論

個人心理学のネーミングを体現する理論です。アドラーは、意識・無意識を分けていないと説明しました。特に考えることなく行動したことが、その後になってよい結果をもたらした、ということがあると思います。アドラーは、人の内部には行動を促す動因があり、楽しい状態、ネガティブな考えにとらわれてしまった状態、相反する考えが頭の中を行ったり来たりしている状態など、それぞれの状態すべてが自分であり“分割できない”といいます(“分割することに意味がない”と言い換えてもよいでしょう)。そして人は、その全体性に基づき、“自然に形成される目的(無自覚と表現してもよいかもしれません)に向かって動いている”というのです。“この動き”は具体的なアクションだけではなく、精神内部の動きも含めての捉え方です。

目的論

アドラーは、最初に発見した精神の傾向として、“その動きがある目的に向けられていることである”と言っています。この目的とは、社会への適応です。最も共通する目的は「所属すること」であり、「敵対する可能性のある社会の中で孤立し、無力であることの感情」と定義される“根本的不安”の解消を目指します。登校拒否は「それによって親に甘えられる」という目的のための行動かもしれません。離婚が原因とされる「うつ状態」は、実は、周りの人たちから同情され、手を差し伸べてもらい、別れた夫がいかに理不尽であったかを認識してもらうことが目的であるのかもしれません。つまり目的論は、原因ではなく、問題行動の目的は何であるのかを探るのです。

さて、目的についてネガティブな事例を挙げていますが、目的の本質についてアドラーは、「子供は、自分のために選んだ目的に向かって発達するよう努力している」と言います。その目的は多くは無自覚であるため、結果として誤った方向に進んでしまうことを指摘するのです。そして大切なことは、「誤った目的は変えることができる」ということです。

人間関係論

アドラーは言い切ります。「人が抱えるすべての悩みは人間関係である」と。したがって、精神的に満たされている状態は、好ましい人間関係が形成されているからであり、好ましい人間関係の中に居場所を見出すことができているから、ということになります。

人間関係について、心理学では『ヤマアラシジレンマ』で説明することがあります。これはショーペンハウアーの寓話で、二匹のヤマアラシが寒いので暖をとろうとしてお互いに近づきます。近づきすぎるとトゲが刺さるので痛い。そこで離れます。すると寒い。これを繰り返すことで、適度な距離感を見出す、という内容です。

アドラーは、好ましい人間関係をつくるために、自分を知ることを説きます。それは誤った理解の場合が往々にして存在します。内向的な性格を否定している人、つまり短所として受けとめている人に対して、「優しく繊細な感情を持っておりそれは長所であり、好ましい人間関係づくりにあたってプラスに働きますよ」と勇気づけるのです。そして同時に他者を知る努力について強調します。アドラーは他者を理解することは容易ではない、だからこそ自分の思い込みを排し、謙虚な態度で接することが大切である、と言うのです。

自己決定論

「自分の性格は受け身であり、親の言うままに生きてきた」という人がいると思います。アドラーに言わせれば、それは真実ではなく、責任転嫁となります。決定という日本語は、そこに“意志”が存在しているように感じるので“選択”と置き換えてもよいかもしれません。

私たちは日々選択しているのです。それは欲求に基づくものだけではなく、危険が迫り、それを回避すべくとっさに判断して行動することも選択と言えます。つまり受身と思っていても、ある範囲のもとで選択の自由を有しているのです(アドラーは、選択の自由を無限の選択とは言っていません)。

したがって、自分の行動(決定≒選択)には責任があり、他者を責めることを否定します。アドラー心理学は、「自身の問題は他者のせいである」と思い込んでいる人に対して、その考えを改めることに注力します。つまり再教育を重視しているのです。

個別記述性

アドラー心理学の理論の捉え方については、さまざまなアプローチが存在します。例えば、「アドラーの理論は5つに体系化されています」という表現は馴染みにくい、ということです。この「個別記述性」というのは、理論というより、アドラーの人間観といえるでしょう。アドラーはこう言います。「もちろん私たちはみな、一般的な法則を使わないわけにはいかない。というのも、それによって私たちは概括できるからである。しかし、それによって得られる特定のケースについての知識や治療法はわずかなのである。(『現代に生きるアドラー心理学/ハロルドモサック&ミカエルマニアッチ・一光社2006年)」

理論(この場合は法則)の本質は、「バラバラに見える現象に対して共通する部分を見出しカテゴリー化してパターンに落とし込むこと」、と説明できるでしょう。アドラーは、現象、対象を把握するためには、それは必要であるが、頼りすぎるのはよくない、と言います。「人とはそもそもが個性的存在なのだから」、ということですね。今日ダイバーシティの視点が広がっていますが、そのコアにアドラーの思想を感じることができます。

前回のコラムの冒頭で、“今日のコーチングが成立する過程において、アドラーの思想、そして提唱した理論の影響は大きなものがあります。”とコメントしました。今回のコラムで、そのことにつき理解につながったとしたら本望です。
次回のコラムでも引き続きアドラーを取り上げてまいります。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~アドラー その1~(2020/07/06)

心理学における3巨人のうち、フロイト、ユングについてコラムを進めてきました。今回からはアドラーを紹介してまいります。
今日のコーチングが成立する過程において、アドラーの思想、そして提唱した理論の影響は大きなものがあります。というのも、フロイトやユングが精神医学を立脚点にしたのに対し、アドラーの出発点は社会医学であり、アドラーの興味は当初から教育や家庭といった人との関わり、すなわち人間関係にありました。そして生涯を貫いた思想は「共同体感覚」です

さて、アドラーの紹介をどこから始めたらよいのか… アドラーの生涯について、アドラーの理論について、アドラー理論が臨床でどのように活用されているのか、など切り口はさまざまです。少々悩んだ末、まずは「アドラーの言葉」からスタートすることに決めました。

アドラーの言葉は至言に満ちています。

アドラーの著作(日本語訳)は数多く出版されていますが、『人間の本性 人間とはいったい何か(長谷川早苗訳)/興陽館(2020年2月15日)』を取り上げることにします。この本の最後にアドラーは「謝辞(ロンドン、1926年)」を添えています。

<謝辞 本書の成り立ち>
「この本では、個人心理学の揺るぎない基本はどのようなものか、人間を知ることに対して個人心理学がどれほど有用か、また、他者とつきあい、自分の人生を作っていく上でどれほど重要かを、できるだけ多くの読者に示そうとしています。本書はウィーンの国民集会所で何百人もの聴衆を前に行った1年間の講座がまとめられています。(後略)」

この本を読むと、アドラーが聴衆に向かって熱く語っている姿が彷彿とされます。さっそく紹介してみましょう。

・わたしたちはみんなあまり人間のことをわかっていないのです。これはわたしたちの孤立した生活に関係しています。現代ほど人が孤立して生きている時代はないでしょう。 ・他者との関係は人間を知る能力を伸ばすのに絶対に必要なものです。人間を知ることとほかの人とつながることは、互いに関係しています。理解が足りないせいで長らく他者と離れていると、ふたたび関係を築くことができなくなるからです。理解不足で起こるもっとも深刻な結果は、周囲の人とつきあい、ともに生きていくことにたいてい失敗してしまうという事態です。 ・人が共生するためには、お互いを理解することが絶対に欠かせません。人に対する私たちの態度は、すべて相手への理解に左右されるのです。

アドラーが重視するのは他者との関係性。

この3つのフレーズは、全体200ページの最初の3ページの中で登場しています。アドラーがいかに他者との関係を重視しているか、そのためには他者を知ること、理解することが好ましい人間関係を作っていく上でいかに大切か、を説いています。

・本当に人間を知ろうと望む人は、自分の体験や他者の精神の苦しみに対する共感から、なにかしら人間の価値に気づいた人だけです。この状況からは、わたしたちが仕事をする際になんらかの戦略を立てる必要性も生じてきます。相手の精神から得た認識を無遠慮に突きつけるほど嫌味で批判的に見られる行為はないからです。嫌われたくない人には、この点に気をつけるように忠告します。 ・人間を知るにはつつしみ深さが要求されるのです。 ・わたしたちは、立ち止まり、自分をよく見て、人間の本性を学ぶ過程で得た認識で他者を妨げないよう、ここで提言したいと思います。

ここは少し分かりにくい表現となっています。「つつしみ深さ」の大切さを説いていることは理解できますが、「得た認識」をどう解釈すればよいのか疑問が生じます。「得た認識」について否定的にとらえているようにも感じます。これについては、この後につづく言葉で像が結ばれるでしょう。

・経験というのはさまざまな意味に解釈されることを考慮しなければいけません。2人の人間が同じ経験から同じ教訓を引き出すことはほぼないのはわかるでしょう。ですから、人は経験から賢くなるとは限りません。特定の困難を避けることを覚え、困難に対して特定の態度をとるようになるでしょう。 ・人が経験から非常にさまざまな結論を引き出す様子は、日常的に観察されます。たとえぱ、なんらかの誤りをくりかえす人がいます。誤りを認めさせることができたとしても、その後の結果はさまざまです。本人自らもう誤りから脱しようと考えることもあります。ただしこの結論はまれです。あるいは、もうずっとこうしてきたから、いまさら変えられないと答える人もいます。別の人は自分の誤りを親のせいだと言ったり、漠然と教育のせいにしたりします。そして、自分にかまってくれる人がいなかったとか、 甘やかされたとか、ひどく厳しく扱われたとか言って、誤った認識にとどまるのです。けれど、この態度からわかるのは、ただ隠れていたいという思いだけです。こうしていれば、いつも用心深くうわべを正当化して、自己批判から逃れられるのです。自分は責任を負わず、達成できなかったことはいつでもすべて他人のせいにします。このような人は、誤りを克服する努力を自分ではほとんどしていないことに気づいていません。むしろ、ある種の情熱をもって誤りに固執しながら、自分が望むときだけひどい教育のせいにしているのです。

アドラーは決して「優しい人」ではありません。

アドラーの言葉は、さまざまの本で数多く紹介されていますが、私は、このフレーズこそがアドラーらしさを物語っていると感じています。
アドラーは決して「優しい人」ではなく、臨床心理学、カウンセリングのスタンスとしては、もっとも「厳しい人」と言えるかもしれません。
「自分が不遇であることを他者のせいにしてしまう」ことは、自覚無自覚は別として、多くの人に共通して現れる心理状況です。そのことをアドラーは全否定するのですね。ここを起点としてアドラーの理論は展開し、だからこそ多くの人が共感するともいえるのです。

・「悔い改める罪人」は現代でも、あらゆる宗教の発展の時代でも最高の価値を認められ、あまたの心の正しい人よりも優れているとされるようです。その理由を考えて出てくる答えは、人生の困難から立ち上がって泥沼からはいだした人、困難をすべて乗り越えて立ち上がる力を見つけた人は、人生のよい面もわるい面も一番よく知っているに違いないということです。人間を知る学問で「悔い改める罪人」に並ぶ人はいません。とくに、よい面しか知らない人はかないません。 ・人間の精神について知ると、自ずとやるべきことが見えてきます。要するに、人間の型、パターンが人生に適していないと判明するときにはそれを打ち壊し、人生の道を迷わせる視点を取り除くのです。そして他の人と生きて幸せになる可能性により適した視点をすすめ、哲学で言うところの思考の節約、いえ、不遜にならないためにやはり型という言葉を使いますが、他の人と生きる共同体感覚が中心となる型をすすめることです。

「悔い改める罪人」に最高の価値を置いていることについては、親鸞の「悪人正機説」を連想しますね。
親鸞の根本思想は「絶対他力」ですが(親鸞自身はこの表現を用いていないようです)、「善い行いをしよう」、「善い行いをしたい」、「善い行いをしたことで心が満たされる」ことを全否定するのです。ここはものすごく深い思索が求められます。連想して親鸞を語りたくなりましたが、ここではガマンしておきます。
アドラーは「人間の型」という表現を用いています。これもアドラー心理学における重要な概念であり、その「型」を見出すために「ライフスタイル分析」というアプローチを確立します。これについては、今後のコラムで取り上げたいと思います。

・長所や短所というのは相対的な考えです。なんらかの能力や身体器官が長所なのか短所なのかは、人によってまったく異なるからです。長所も短所も、個人がどのような状況にあるかで決まってきます。 ・だいたいからして劣った部分とは、個人の人生においても、あらゆる民族の人生においても、つねに短所であるというまったくの負担のように見るべきものではありません。劣った部分が短所になるかは状況によって決まってくるのです。

短所は短所とは限らない。

以前のコラムでアドラーが最初に出版した『器官劣等性の研究(1907年)』に触れました。内容は「特定の臓器が欠損するなどするとそれを補おうとする機能が働く」というものです。生物学をベースとしており、精神分析的なものではないのですが、フロイトは、これを高く評価しています。ちなみにアドラーがフロイトから離反するのは1911年で、そして自分自身で「個人心理学(individual psychology)」を創設しました。

アドラーが短所と長所を別のものと捉えなかったのは、劣等器官であっても代償とう行為で、その劣等性を補おうとする。すなわち、劣等性は状況によっては、劣等ではなくなるという生物学的な現象(事実)を得て、精神的にもそれが機能するという確信をもつに至ったのです。
アドラーは。そのことを発展させ、「劣等コンプレックス」という概念を提示しています。劣等性を意識しているからこそ、それを補おうと、また克服しようと努力することで、優れた能力を獲得することがある、という考え方です。これは実に腑に落ちるところですね。「劣等コンプレックス」についても今後のコラムで取り上げます。

・精神の動きで最初にわかるのは、目標に向かって進む動きがあるということです。ですから、人間の精神を静止した1つの全体のように思うのは誤りなのです。それぞれに動く力が、一貫した同じ理由から生まれ、一貫した目標を目指すのだと考える以外にありません。「適応する」という概念にはすでに目標の追及の要素が含まれています。目標のない精神生活は考えられません。精神生活のなかにある動きや活力が向かう先には目標があります。つまり、人間の精神生活は目標によって決まるのです。考えるにしても、感じるにしても、望むにしても、そして夢を見るにしても、ぼんやりと浮かぶ目標によって決められ、条件がつけられ、制限され、方向が定められるのです。これは個人の要求や外界の要求、また要求に対して返す必要のある答えと関連して、ほぼ自然に行われます。人間の身体や精神の現象は、この基本的見解と符合しています。精神はこうした枠にはまって展開し、力の作用から自然と生まれてただよう目標へ向かうとしか考えられません。その目標は変わることも、固定していることもあります。ですから、精神の現象はすべて、これから起こることに対する準備のようにとらえることができます。精神器官にはまず目標があるとしか思えません。個人心理学では、精神の現象はすべて、目標に向けられているととらえます

人は自然に生まれる目標に向かって進んでいく。

今回のコラムの終着は、この言葉の紹介することにしました。 アドラーが打ち立てた個人心理学の根本思想が、このフレーズに込められていると感じたからです。
アドラーの特徴は「未来志向」です。自分がよくない状況に陥っている原因を過去に求め、そこにこだわることは無意味だと言うのです(アドラーは明快に“責任転嫁”としています)。上記で「ぼんやりと浮かぶ目標」と表現しています。これは、売上“目標”●●億円といった場合に使う“目標”とは異なります。上記で、「ほぼ自然に行われます」「力の作用から自然と生まれてただよう目標へ向かうとしか考えられません」とアドラーは言うのです。
「未来に向かって自然に形成されている目標があるのだ」、このことをアドラーは確信しているのです。

次回もアドラーを取り上げます。いくつかの理論について説明してまいりましょう。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~ユングの無意識の世界 その2~(2020/06/30)

今回のコラムは、前回に引き続き、ユングの無意識の世界を探訪してみましょう。
ユングは無意識を、個人的無意識と普遍的無意識の2層に分けてとらえていることを前回のコラムで紹介しました。
河合隼雄氏は、『ユング心理学入門(岩波現代文庫…刊行は 焙風館/1967年 )』の中で、中学2年生の学校恐怖症の男子(約2ヵ月学校を欠席)の事例から、普遍的無意識、そしてキー概念である元型を説明しています。

太母(great mother)は、生の神であり、同時に死の神である。

<夢>
自分の背の高さよりも高いクローバーが茂っている中を歩いてゆく。すると、大きい大きい肉の渦があり、それに巻き込まれそうになり、恐ろしくなって目が覚める。

『この夢について、この少年は何も思いつくことがない。(中略)…この夢の中心をなす恐ろしい渦は、われわれに多くのことを思い浮かばせる。この場合の渦は、渦巻線というよりは、何ものも吸い込んでしまう深淵としての意義が大きいが、このような深淵は多くの国の神話において重い役割を演じている。すなわち、地なる母の子宮の象徴であり、すべてのものを生み出す豊穣の地として、あるいは、すべてのものを吞み尽くす死の国の入口として、常に全人類に共通のイメージとして現れるものである。(中略)…このような深い意味を持った母なるもののイメージは、全人類に共通に認められるものであるが、これを個人的な実際上の母親像とは区別して、ユングは太母(great mother)と呼んでいる。地なる母、太母が、生の神であると同時に死の神である二重性は、渦巻線によって象徴されることもある。渦巻はまた、太母の乳房の象徴として用いられるもので、太古からある太母の像には、よく現れるものである。』

ユングは、普遍的無意識は「想像力の原点として存在する集合的な力をもった無意識」であるとし、そこに存在している共通するイメージを生み出す力を、上記の、太母に加え、アニマアニムスペルソナなど基本的な型元型として見出しています。

・太母(great mother)
自立が問題となってその背景を見出そうとする場合に、イメージされるのがこの太母です。この元型がプラスとして働く場合は、大いなるものに包まれた安心感を抱くことができます。ところが、そこからの自立を志向し、意識が外界に向かおうとした場合に、そのプラス面に浸っている環境が長く強すぎてしまうと、太母のマイナス面が象徴的に現れてくるのです。自立の不安(分離不安)、恐れを感じているのはあくまでも本人なのですが、そこに自立を阻害する太母に吞み込まれるようなイメージ、自分(太母)の監視下から逃れようとしても、それを絶対許さない、といった強大なる管理者(太母)に支配されるイメージです。ここでジェンダーにとらわれて、「“太父”ではダメなのか?」という疑問を抱かれる方がいるかもしれません。ユングも言っているように、多くの神話で共通に認められるイメージから、この太母を考え出しました。父(父性)のイメージとは結びつかないという点で、太父はオーソライズされないだろうことは自明ですね。
ちなみに、太母が、母親をイメージする元型であるのに対し、父親と関連の深い元型についてユングは、老賢人(old wise man)を充てています。私はネーミングも含めて、この元型については若干違和感を覚えているので、解説は省略させていただきます。

影(shadow)は悪とは限らない。自分の中で取り上げられ、生きていかねばならない側面を持つ。

・影(shadow)
河合氏は『ユング心理学入門』で、影を次のように説明しています。

『多くの元型のうちで、そのひとの個人的な心的内容と関連性が深く、したがって理解しやすいものが、影である。影の内容は、簡単にいって、その個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が許容しがたいとしている心理内容であり、それは文字通り、そのひとの暗い影の部分をなしている。われわれの意識は一種の価値体系をもっており、その体系と相容れぬものは無意識下に抑圧しようとする傾向がある。(中略)…影は常に悪とは限らない。今後自分の中に取り上げられ、生きていかねばならない面と考えられる。つまり、今までそのひととしては否定的に見てきた生き方や考えのなかに、肯定的なものを認め、それを意識のなかに同化していく努力がなされねばならないのである。』

河合氏は、影を同化することのむずかしさを国家レベルの事例により説明しています。おなじく『ユング心理学』の中から紹介しましょう。

『影を認知し同化することのむずかしさは、われわれに投影の機制をフルに用いさせることになる。自分の内部にある認めがたい影を他人に投影し、とにかく悪いのは他人で自分はよしとするのである。(中略)われわれ日本人にしても、戦争中は鬼畜米英などと教えられ、アメリカ人はすべて鬼のように恐ろしいと信じ、また、アメリカ人も日本人の残虐さを確信していたことだろう。実際、一国すべてが鬼に等しいなどという単純な現象は起こりようもないが、この単純な考えを、一国のほとんどの人が信じるという現象が、しばしば起こるという事実を認識することは大切なことである。内部にあるはずの悪を他にあるように信じることは、何と便利なことか。このことを知っている狡猾な為政者は、適当に影を投影する方法を探し出すことによって、全体の団結を高める。その顕著な例として、ヒトラーによるユダヤ人の排斥をあげることができるだろう。ヒトラーの強力な全体主義体制によって生じる問題を、すべて悪としてのユダヤ人に国民の目を転じさせることによって、免れようとしたとも考えることができる。』

人は「善と悪の両方を抱え込んだ存在」である。

河合氏は、『ユング心理学入門』で、この影についての記述を多くとっています。ユングの特徴は、あらゆる現象を“相補性”でとらえることにあります。“善悪二元論”ではなく、「善でもあり悪でもある」というスタンスです。太母は、まさに両面を併せ持ったイメージであり、この影についても個人の内部で、相補的なものとしての存在を指摘しているのです。この「悪を併せ持つ」ことを、村上春樹氏との会話の中で、河合氏は面白く表現しています。

<村上> 「昨年、先生とお目にかかったときに悪についてお話をして、それでいろいろ考えたんですが、悪というのは人間というシステムの切り離せない一部として存在するものだろうという印象を僕は持っているんです。それは独立したものでもないし、交換したり、それだけつぶしたりできるものでもない。というかそれは、場合によって悪になったり善になったりするものではないかという気さえするんです。つまりこっちから光を当てたらその影が悪になり、そっちから光を当てたらその影か善になるような。それでいろんなことの説明がつきます。ところがそれたけでは説明がつかないものもたしかにあるんです。たとえば麻原彰晃を見ていても、少年Aを見ていても、純粋な悪というか、悪の腫瘍みたいなものがわっと結集して出てくる場合があるような気がしています。そういうものが体内にあって、「悪の照射」とでも言うべきものを起こすんじゃないかと。そういう印象を強く持ちました。うまく説明できないんですが。
<河合> 「それはやはり、我々の社会がそういうものを見ないように、見ないですますようにしすぎるからだと僕は思います。そうなるとどうしても、固まったものがばんっと出てきます。たとえばね、少年A事件が起こったときに、子供たちが陰に隠れて悪いことをしたらいかんからということで、そのへんの樹木を全部切ってしまったんです。僕はそれを聞いてものすごく腹が立ちました。話はまるっきり逆なんですよ。子供たちは大人の見ていないところで、子供なりに悪いことをして成長するんです。いつもいつも大人から見られているから、あんなことが起こってしまうわけですよ。ほんまに腹が立つ。僕は樹が好きやからね、木を切るというだけで腹がたつんやけど(笑)」

(『約束された場所で/文芸春秋 1998年』より)

相互に関係の深い3つの元型とは?

・アニマ(anima)、アニムス(animus)、ペルソナ(persona)
続いて元型を3つまとめて紹介します。この3つは相互に関係の深い元型とされています。『ユング心理学入門』の該当部分をピックアップしてみます。

『ユングは、夢のなかに現れる異性像、すなわち、男性であれば女性像、女性の場合は男性像が、心理的に非常に大きい意味をもつことに気づき、それらの元型として、女性像の場合をアニマ、男性像の場合をアニムスと呼び、その意味を探求したのである。(中略)ペルソナという言葉は、もともと古典劇において役者が用いた仮面のことである。ユングがこのような言葉を借りてきた意図は明らかであり、ペルソナとはわれわれが外界に対してつけている仮面であるということができる。(中略)一人の男性が「男らしさ」を強調するペルソナをもつとき、それは内に存在する女らしさ、アニマによって平衡が与えられ、女性の場合は、その女らしさをアニムスによって補償される。しかし、これが相補的に働くよりも、極端な同一化の機制によって、むしろ破壊的に作用を及ぼすこともある。つねに強く、厳しい男性が、浅薄な同情心に動かされて失敗したり、いつも愛想のよい奥さんが、新聞に書いてあった偉い先生の意見を基にして、お客様に演説を始めたりするのも、このためである。こんなとき、われわれは、あのひとはまったく別人のようだといったりするが、これは、まさに男性の背後から一人の女性が、あるいは女性のなかから他の男性が出てきて行動しているかのような感じさえいだかせるのである。われわれは、このような危険性を防ぐためには、あくまでもペルソナやアニマ・アニムスとの同一視をさけ、それらを分化し、よく認識していくように努めねばならない。』

元型のイメージをつかめていただけましたでしょうか?
前回のコラムでの河合氏のコメントである、
「…元型そのものはわからないんだということです。元型そのものは意識されることはなくて、人間は元型的なイメージをいろいろと意識する。ところが、その元型的なイメージをいろいろ取り上げていくと、それらの背後に一つの型を予想していいんじゃないだろうかと思うんです。」
この意味を、ユングが見出した具体的な元型を一つひとつひも解くことで、像(イメージ)が結ばれたとしたら今回のコラムの目的は達成です。

村上春樹氏はコーチングにおける「傾聴」の優れた使い手

さて、『約束された場所で』のなかで、村上春樹氏が地下鉄サリン事件の被害者に対して取材している際のスタンスが、まさにコーチングとしての「傾聴」であることを河合氏が指摘しているところがありました。最後に当該シーンを引用し、今コラムを終了したいと思います。

<村上> 「…僕は多くのマスコミや評論家がやっているように、オウム真理教の側の精神性とか思想性をとりあげて今ここで解析していっても、とりあえずどうしようもないんじゃないかという気がしたんです。そういう、意味の言語化みたいな迷路にはまりこんでしまうよりは、いったん出来事を普通の人の立場に戻して、テクニカル・タームをとっぱらって、そこからあらためて事件を眺めたほうがいろんなことが見えやすいんじゃないかということです。」
<河合> 「でもこれは村上さんが聞いている態度によって、これだけのもんが出てきたんだと思います。僕は内容を見ていると、それがすごくよくわかります。村上さんはここでは聞き役で、ほとんど前には出てこないんだけれども、こういうことをしゃべるというのは、村上さんが聞いているから出てくるんであって、普通の人が聞いても出てきません。ほんとにそうですよ。」
<村上> 「それは具体的に言うと、どういうことなんでしょうか? 僕は夢中になって聞いていただけなんで、よくわからないんですが。」
<河合> 「たとえば私が震災のところに行くとしますね。“じゃ、ちょっとこの震災の体験談を聞かせてください。本に書きますので” なんてやったら、こんなふうに話は出てきません。“いや、もう大変でした” と言うかもわからんし、“家が潰れました” と言うかもわからん。でもそんな話をしているうちに、いやになってくると思います。つまりね、話をしていても、相手にわかってもらえないと、気持ちは出てこないのです。相手によっては、話がものすごく簡単になってしまったりする。でもこの本の中ではみんな話がいきいきとしているでしょう。なかなかそういう感じでは人はしゃべれないものなんです。」

(日向 薫)

心理学とコーチング ~ユングの無意識の世界 その1~(2020/06/24)

今回のコラムは、ユングの「無意識」を深堀りしてみようと思います。
無意識をフロイトは構造論で示し、図式化したことは以前のコラムで紹介しました。その図式とは、卵型の楕円を描き、中央を横切る破線で上下に区分し、下方を「エス(無意識的)」としています。面積の配分でいえば、「自我」よりも小さくなっています。

ユングは、無意識には「個人的無意識」と「普遍的無意識」の二つが存在する、としています

一方ユングは河合氏が語っているように自らは図式を書いておらずイメージとしては明快に伝えていないのですが、『無意識の構造/河合隼雄』(中公新書)の中で示された図式では、完全な球体を精神(心)の全体とし、その頂点、いわば北極点にあたるところに小さな丸い点を置き、そこを「自我」としています。そのまわりに遠慮がちなスペースで囲った範囲を「意識」としているのですが、残りのスペースが「無意識」で、割合的には9割以上を占めています。そしてその「無意識」は上層の「個人的無意識」と下層の「普遍的無意識」に分かれており、この「普遍的無意識」は球体全体の半分を占める割合で描かれているのです。ユングの理論はこの「普遍的無意識」の存在を前提としてすべてが構成されているといっても過言ではなく、この無意識を理解することがユングに迫る必要十分条件である、と私は受けとめています。
ここでは「普遍的無意識」としていますが、「集合的無意識」と表現される場合もあります。この点について、河合氏が『フロイトとユング(第三文明社 1989年)』の中で以下のように説明しています。

<小此木> 「(前略)フロイトの場合にはこのように、モデルが意識・無意識・前意識と、自我・超自我・エスと、二つあるんですが、わりあい単純明快なんですね。それに比べるとユングの場合は図を見ても、複雑とは言わないまでも、かなり推敲されたものじゃないですか。」
<河合> 「フロイトとパラレルにいけば、ユングの方がむしろずっと簡単みたいなもので、自我と、そして無意識と、それが個人的無意識と普遍的な無意識に分かれているだけといっていいくらいです。超自我という考えはありませんしね。(後略)」
<小此木> 「コレクティブ・アンコンシャスネス(collective unconsciousness)は集合意識ですか。」
<河合> 「といったり、普遍的無意識と訳したりしていますけどね。私は「普遍的」にしているんです。コレクティブというのは、パーソナルに対してあるわけです。ところが初め、集合とか集団というと、なんかこう無意識の集まりがあるというか、そういうふうに誤解されたりしたんで、人類に普遍的とかいう意味で普遍的無意識としたのですが、いい訳語はないかと、実はまだ迷っているのです。(後略)」

「普遍的無意識」は生まれる以前から、人類に共通して備わっているもの…?

私も普遍的無意識の方がしっくりくるかな、と感じています。この普遍的無意識という概念についてはユンギアンはじめ多くの識者が説明しています。

そもそも、フロイトが提唱した無意識は、幼少期の体験という生後に獲得した外部刺激という“実体”が抑圧されることで意識に浮上していない、という状況で説明していますが、ユングは、生まれる以前に遡って生後に得る外部刺激とは別の無意識がある、と言うのです。そしてそれは人種や文化を超えて共通したパターンとして元々備わっているもの、としました。
『知の教科書 ユング(講談社選書メチエ 2001年)』より、ユングの無意識について説明した箇所を以下に抜き出してみましょう。

「(前略)…このように無意識を位置づけたのは精神分析の祖、フロイトであるが、ユングの心理学も個人の範囲ではフロイト理論を土台としている。ただし、フロイトが「無意識」を原始的、衝動的な内容で混沌としている領域だと考えたのに対し、ユングは、無意識は自然であり、一定の秩序があること、無意識の働きには目的性や創造的な意味がありうることを示した点が大きく違っている。精神症状、失錯行為、夢、ファンタジーといった、自分でも思いがけないこころの内容を垣間見るとき、無意識の自律的な働きを思い知ることになる。
ユングは夢やファンタジーを研究するうちに、個人の生育史や記憶に帰すことのできる個人的無意識だけでなく、人類が連綿と受け継いできた心的内容である集合的無意識が存在することを見出した。集合的無意識の世界には、人類が種として生得的に持っている認識の傾向や、行動のパターンが蓄積されている。神話のモチーフや物語の構造、人間関係のパターンには時代や民族を超えた一定の型があり、夢の分析や心理臨床ではこれらとよく遭遇する。集合的無意識のなかに存在する、こうした生得的なパターンを発現させる傾向を、元型と呼ぶ。元型はファンタジーのなかの、イメージに間接的に現れてくるものであり、直接知覚することができない。
(中略)自我は巨体な球の上にぽつんと浮かんだ小さな島にすぎない。この球を中心として示されるものが「自己」であり、その人の心の動きの中心に定位されるものである。(後略)」

私はこのくだりを読んで、自分が見る夢で、時折驚いてしまうことを想起しました。
夢は「自分が紡ぐ物語」であり「自分が創作するファンタジー」です。多くの夢の中では、現実にありえないことが起こり、場面転換もつじつまが合わないことだらけです。そして、私の場合「たま~に」なのですが、「意識の下では絶対思いつかない、自分がこれまで蓄積した情報をはるかに超越した」ストーリー展開で進んでいくことに、信じられない思いを抱くことがあるのです。
自分が見る夢、すなわち自分という一つの実体が構築しているはずなのに、それとは異なる「第三者によって創り込まれている」としか解釈できない強い印象なのですね。

「元型」とは何者か?

ユングが「普遍的無意識」を強く実感するに至った背景の一つとして、ある統合失調症患者の妄想があります。患者が太陽を見ながら頭を左右に動かしているので理由を尋ねると、「太陽からペニスが下がっており、頭を左右に動かすとそのペニスも同じように動き、それで風が吹く」と言うのです。後に、まったく同じ内容の話をギリシャ語の古い経典に見出したユングは、「患者は経典を知る由もない」ことから、このように同じイメージを抱かせる“何か”が人類に共通して備わっている、と解釈したのです。したがって、それは自分の個人史を超えた“何者か”であり、ユングはそれを「元型」と名付けました。

ユングの無意識にはこの元型というキー概念が存在します。ただ上記でも「直接自覚できない」としており、もやもやするところなのですが、河合氏はこの元型を、『フロイトとユング(第三文明社 1989年)』の中で次のように説明しています。

<河合> 「これがなかなか説明がむずかしくて困るんです。だいたいユング自身も混乱しているといっていいんじゃないですか。私の受け止めている元型というのはわりあい単純であって、元型そのものはわからないんだということです。元型そのものは意識されることはなくて、人間は元型的なイメージをいろいろと意識する。ところが、その元型的なイメージをいろいろ取り上げていくと、それらの背後に一つの型を予想していいんじゃないだろうかと思うんです。たとえぱ、父親の元型があるとして、われわれはそれを見ることはないにしても、父親の元型のイメージを私の父に見たり、ユングに見たり、あるいは師匠に見たりするということはある。ところが、私がその師匠に恐れを感じたり、父親に恐れを感じたりする、その元みたいなもの、共通因子というのはどうしても予想される。それに元型という名前がつけられていると私は思うわけです。
そして何であれ、元型的なものとして表れてくるものには、すごい力があります。(後略)」
<河合> 「ユングかよくいう※ヌミノース、元型的なイメージがもつすごい力っていいますか、それを非常に強調したい場合、ユングはどうしても実在的な言い方をするわけです。元型を実体化するとして、そこが批判されるところだと思うし、また、私が話したようにあまり分かりやすくいうと、ユングの言いたい勢いみたいなものがなくなることもあるというわけです。」

※ヌミノース
ドイツの宗教学者であるオットーが提唱した宗教学の概念で、例えば、神の声を聞く、まばゆい光と共に神の姿を見る、といった非合理的で説明しがたい体験。神が登場する宗教的体験に限らず、芸術を通しての名状しがたい感動、大自然に包まれ一体化したような多幸感、夢にも関わらず起きがけの強烈な現実感を伴った魂を揺さぶられるような情動、といった体験もヌミノースと呼ばれています。

元型にはいくつかの種類があります。その姿は(上記にあるように実体は見出しがたいのですが)興味深い内容に満ちています。次回も引き続きユングを取り上げ、「元型とは何者か」に迫ってまいります。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~発達心理学とコーチング~(2020/06/17)

今回は「発達心理学」にスポットを当てようと思います。(前回のコラムでは「家族心理学」をとりあげました。)人の問題行動を考える場合に、その生育過程における経験や周囲との関わり方が何らかの鍵を握っている、と指摘されています。このことにつき「発達心理学」は一つの回答を与えてくれます。

人が成長する過程において、その発達は一様ではありませんが…

人間は赤ちゃんとして生まれて以降、成長していくのですが、1歳、2歳、3歳…とその発達ぶりには目を見張るものがあります。「身の上相談」は新聞やネット等メディアにおける「鉄板」コンテンツですが、 そのなかに定番ともいえる以下のような投稿があります。

<投稿者>
私には現在2歳の娘(一人っ子)がいます。これまで母子手帳に基づくスケジュールに沿って検診を受けてきました。検診には「発達が順調かどうかの検査」が組み込まれています。1歳半検診で、言葉を話し始める平均的なタイミングからの遅れを指摘されました。「個人差があるので、現時点では何とも言えませんが、話しかけることをしっかりやってみてください」と先生は励ましてくれましたが、今もママとは言ってくれません。大丈夫でしょうか?

ハイハイから伝わり立ち、そして言葉を発する時期…初めて子供をもつ親にとって、少しでも遅れが指摘されると「発達障害だったらどうしよう…」と、考え込んでしまうことは十分理解できます。もっとも兄弟姉妹も多く3世代同居がメジャー、かつ親戚づきあいも頻繁であった二昔(ふたむかし)前は、身近なところに同世代の乳幼児が多く存在したこともあり、個性の違いを実感できていました。したがって、上記の悩みを感じる度合いは低かったように思います。実際、1歳半の段階で発語がままならなかった子供が、3歳頃になると、遅れを挽回するどころか、「3歳でこの言い回しはスゴイ!」「こんな単語どこで覚えたのだろう…」という驚きの連続で「心配は杞憂だった」、がむしろ大勢を占めるといえそうです。

「発達が順調かどうかの検査」は副産物として、このような心配を生み出してしまう(?)のかもしれませんね。発達心理学の前提には「人間が成長する過程において、期間ごとに達成すべき課題がありそれを獲得していくことでバランスのとれた社会的存在となっていく」、という考えがあります。フロイト、クライン、ピアジェなどにより発展してきました。期間の区分や、どの年代に着目するか、で理論に違いがあるのですが、ここではエリクソンが提唱した「心理社会的発達論」を取り上げたいと思います。

エリクソンは、人生を「乳児期」から「老年期」まで8つの段階に分けて、それぞれの期間に特有な課題を整理しました。

その段階ごと、周囲の人たちとの相互作用のあり方により「課題がクリアされ発達に成功」すればよいのですが、「課題のクリアに失敗し発達が停滞」してしまうと「心理社会的に危機が訪れる」と指摘しました。そしてここがエリクソンらしさなのですが、各段階での成功と停滞を「○○VS.△△」と、対立概念で表記し「なるほど~」とわかりやすい説明をしてくれます。

<エリクソンの心理社会的発達段階>

段階 年齢 主たる相互作用 心理的課題 (成功 vs. 停滞)
乳児期 生後~ 母親 基本的信頼 vs. 不信
幼児前期 18ヵ月~ 両親 自律性 vs. 恥、疑惑
幼児後期 3歳~ 家族 積極性 vs. 罪悪感
学童期 5歳~ 地域・学校 勤勉性 vs. 劣等感
青年期 13歳~ 仲間・ロールモデル 自我同一性 vs. 自我同一性の拡散
成人期 20~39歳 友人・パートナー 親密性 vs. 孤立
壮年期 40~64歳 家族・同僚 生産性 vs. 自己停滞
老年期 65歳~ 人類 自己統合 vs. 絶望

主たる相互作用は、その段階において大きく影響を与える対象、と理解してください。
「私の人生において常に母親の存在が大きな影響を占めています。それはどの年代でもそうでした…」と感じる人がいると思います。その受けとめ方については、肯定できるところですが、エリクソンは「社会的発達のためには、関係する他者の拡大は必須であり、関わるべきウエイトは変わっていくことがしかるべき」と捉えます。つまり「母親」をずっと慕うことは素敵なことですが、この「母親」への固着が強くなると…ちょっとマズいよなぁ~ということが理解されるのです。

家族構成の捉え方は時代と共に変化していきます。

二昔前の日本では「妻が夫の両親と同居する」ことが実態として大勢を占めていました。文化的に共有されていたといえるでしょう。ところが今日では、夫婦仲にコンフリクトが起こる最も「あたりまえ」のケースに変化しています。

夫の母親は「私と一緒に住む必要はないから…」と息子である夫に伝えます。でも夫は「それは本心ではない、お母さんは僕と一緒に住みたがっている、そんなお母さんをないがしろにするわけにはいかない。妻も僕の気持ちを分かってくれるはずだ」という解釈で妻に同居を提案します。夫の気持ちはわからないわけではありませんが、妻の心情に想像力を働かせる以前に自分の価値観を優先する“分かってくれるはずだ思考”にとらわれているようです。妻が同意してくれれば問題はありませんが、一般的にはこの夫の“分かってくれるはずだ思考”にずっととどまった場合には…ちょっと夫婦仲が心配ですね。

少し脱線しました。 今日「アイデンティティ」という英語が普通に使われています。日本語では「自我同一性」と訳されます。
「“自分らしさ”に特に疑いを持つこともなく自然に振舞えることを認識できている」、と解釈できるでしょうか。「自分探しの旅」というワードは、このアイデンティティという言葉との関わりを強く感じます。
エリクソンは特に「青年期の段階」に着目し、アイデンティティ・クライシスの概念を広めました。日本で英語表記が使われるようになったのは、エリクソンの影響といえるでしょう。

「ひとり親と子供から成る世帯」は全世帯の1割を占めます。

エリクソンの発達段階は、分かりやすいのですが、この表とは異なる現実が生じた場合はどうすればよいのか、つまり「決定論」と受けとめなければならないのか、という疑問が生じます。

例えば「私は子供が2歳の時に離婚して現在はシングルマザー、4歳の男の子を育てている」といったケースで、「“両親がいることが子供にとって大切なこと”と言われるけど、そんなことわかっている。私だって努力した、でも毎日とんでもない喧嘩ばかり…それを見ている子供がおびえてしまって…だから離婚した」という現実との整合です。

このような明快な理由での離婚ではなく、さまざまな背景により多様な離婚が存在します。現実に「ひとり親と子供から成る世帯」は全世帯の1割まで増加しており、それぞれの家庭は、それぞれのやり方で生活を構築しています。「乳児期~幼児後期は母親、両親、家族の存在が重要」であることは十分理解できますが、家族の形態は大きく変化しています。何事も「最適解」を作り上げてしまうと、自縄自縛の隘路に迷い込んでしまうことになりがちです。

原因論」は、いまここにある不適応が生じている理由の解明には役立ちます。とにかく「よくわからない状況」に陥ってしまうと人は不安にさいなまれます。その理由について「腑に落ちる」理解が得られれば、落ち着きを取り戻すことができるでしょう。問題は「じゃあどうすればよいのか?」、ということです。つまり「目的論」が問われるのです。

心理学とコーチングの関係、そしてコーチングの素晴らしさとは…

私は心理学を学んでいて「気を付けなければいけないなぁ」と常日頃より感じています。私の思いを繰り返しお伝えするとしたら…
「理論は最大公約数であり、個々の事象はさまざま。理論に描かれた“理想”にとらわれすぎて、そこに呪縛されるとしたら何のための学習かわからない、そして理論は一つではない。心理学をベースとするカウンセリングの理論も実にバリエーションにあふれている。フロイディアン、ユンギアン、アドリアン…それぞれ学派のようなグループで語られるけれど、各々が影響を受け合い、理論そのものも変遷している。優秀な孫弟子同士が交流して、初代の提唱者とは異なった理論も広がっている。それがまた心理学の面白いところだ」、というスタンスを心がけています。

そして私が、コーチングが素晴らしい、と感じるのは、「学問・理論に縛られていない」ということです。心理学やさまざまな学問、そして理論を吸収し、でも特定の学派にとらわれすぎることなく、クライエントのパフォーマンス向上にフォーカスして、そのサポートに注力していく、というのがコーチングの“態度”です。
引き続き肩の力を抜いていただき、心理学とコーチングのコラムにお付き合いのほど、お願いいたします。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~『聖なるズー(濱野ちひろ)』と文化人類学、そして『SOSの猿(伊坂幸太郎)』と家族心理学~(2020/06/10)

私は心理学の知見をベースにして、そこからインスパイアしたノンフィクションや小説を読むのが好きなのですが、実に多くの作家が明瞭に、あるいは通奏低音のごとく抑えた響きで、ストーリーを展開しているのを感じることができます。
村上春樹はユングの世界を、村上龍はフロイト派を中心とした精神分析をモチーフにした小説を世に送り出しています。これについては、別の機会で取り上げようと思います。

『聖なるズー(濱野ちひろ)』というノンフィクションについて

最近読んだ本では、開高健ノンフィクション賞受賞の動物との性愛をテーマとした『聖なるズー(濱野ちひろ)』に新鮮な驚きを感じました。これは文化人類学のカテゴリーですが、心理学をテーマとした内容としても読み進められます。著者は本の中で、19歳からパートナーに性暴力を含む身体的・精神的暴力を振るわれたことを告白しています。そして長期間「どうしてその環境から自分は逃れることができなかったのか」を自問自答します。関連するところを抜粋してみましょう。

『…私自身もカトリックだ。といっても、自らの意思でそうなったのではなく、親の意向によって、幼児洗礼を授けられた。父親の仕事の関係で、幼少期はドイツのお隣の国であるベルギーで過ごし、現地のカトリック系の小学校に数年通った。帰国後は、中学も高校もカトリック系の女子校に進学した。敬虔な信者であることを自負したことはないが、環境による作用で、思春期を通してキリスト教的教育は私の思考回路に影響を与えていた。』

フロイトが提起した「自我」と「超自我」の葛藤が描かれています。

自我(エゴ)に強い影響を与えたキリスト教という超自我の存在があったことを自己分析しています。

『…私を殴っていた男は宗教をよく知りもしなかったが、「カトリックのくせに貞操観念がないのか」といった言葉で、処女でなかった私をなじることがよくあった。反論できなかったのは当時の私の幼さゆえだが、その幼さはカトリック的な性の価値観に縛られた悲しい幼さでもあった。その必要はなかったのに、私は男の視点に立ってしまい、キリスト教的な「正しいセックス」から落ちこぼれている自分を認めてしまっていたのだった。』

ここのくだりは、読者として悲しみを感じ辛くなりますが、ページを繰っていくうちに、濱野さんがそのトラウマから解き放たれていく過程が伝わってきます。

文化人類学には、自分たちが“是”としている(あたりまえだと思い込んでいる)“所属文化”を、他の文化(基本は人の文化ですが)と比較し研究することによって、「所属文化の視点だけで他文化をとらえることが果たして正しいことなのか?」、「文化を価値観という軸で評価することは果たして許されるのか?」、「ダイバーシティという概念を科学的なアプローチで提示してみよう」、といった目的意識が存在します。
濱野さんは、それを人と動物の関係性にまで広げて研究対象としました。実にチャレンジャブルですね。

私が感じた心理学的視点とは…

濱野さんは、たまたま選定した「動物性愛者(ズーと呼ばれる人…動物虐待という目線だけでは捉えきれない動物との性愛を肯定する人)」の研究がきっかけとなって、自分自身が抱えている“トラウマの本質”は何なのか、自問自答を始めます。そして“トラウマとの対決”…自ら施した自分自身への精神分析(濱野さんは自覚的に書いていませんが)…のプロセスを通じて自己治癒に向かっていくのです。

私はこの本を新聞の書評(複数の新聞が取り上げていました)で知ったのですが、さすがに研究対象への違和感から、手に取るのをためらっています。ところがページを繰るにしたがって…「濱野さんが伝えたいテーマは別のところにあったのだな」と気づくのです。
私はこの作品を「文化人類学のフィールドを活用した心理学的省察」と名付けることに決めました。

『SOSの猿(伊坂幸太郎)』という実験的小説について

続いてのテーマは家族心理学です。家族心理学で扱う対象は、家庭内暴力、不登校、ひきこもり、育児放棄など、かなり深刻な問題現象です。マスコミ側からすればキャッチーなテーマであり、こぞって取り上げます。そして、多くの視聴者が「きっとその通りだ、その通りに違いない」と直線的に受けとめやすい一義的な(浅い?)コメントが語られ番組は進行していきます。

ここでもう一つ小説を紹介しましょう。『SOSの猿(伊坂幸太郎)』です。伊坂作品は、その多くがベストセラーとなる日本におけるエンターティメント界の巨人ですが、この作品は伊坂ファンを戸惑わせるワールドに満ち溢れています。

『…数日前起きた事件だ。十代の少年が自宅で母親を金槌で殺害し、隣家の少女に同じく金槌で重症を負わせたのだという。…(中略)…野蛮な事件が起きると、マスコミは躍起になって原因を探そうとする。凶悪事件が起きれば、その犯人の生い立ち、人間関係、趣味、事件前の奇行を洗い出す。常軌を逸したしつこさで調査をする。動機やきっかけをいくら追及したところで、事件はすでに起きてしまったのだから、取り返しがつかないことには変わりない。が、調べずにはいられない。「犯罪者の心の闇」という言葉も滑稽だ。「闇」とはあくまでも隠喩なのだろうが、それにしても、「闇を探る」という言葉には、暗い鍾乳洞に潜っていくような好奇心があるだけにも感じられる。…』

伊坂さんの小説は、巻末に参考・引用文献を記すのが常ですが、この『SOSの猿』はひときわ文献が多く、22ほどに及んでいます。そのうちユングに関するものが6つ、他の心理学、精神分析関連が6つと、まさに心理学を背景とした実験的小説とも解釈できそうです。

家族全体の機能不全を背景として特定の問題行動が象徴的に表れる。

さて本題の心理学です。家族心理学では、家庭内のある一人の問題行動の原因を「母親の育て方」とか「父親が子育てに関与しなかったから」など、特定しないのが通常です。家族メンバーの問題行動は家族システム全体の機能不全が象徴的なかたちで表れている、ととらえます。したがって問題行動を起こしている家族メンバーをIP(Identified Patient → 患者と“みなされる人”)と仮称し、決めつけるのを避けます。

家族システムという表現も理由があります。システムとは「個々のサブシステムが相互に作用しあいながらひとつのまとまった存在として機能する」と定義づけられ、この考えを家族に当てはめてアプローチしていきます。家族サブシステムには夫婦、兄弟姉妹、親子などが該当しますが、それだけではなく祖父母や親せきといった拡大家族、加えて学校、企業、そして地域社会なども当然家族のあり方に影響を及ぼします。今日に至っては、デジタルネイティブがメジャー世代となりつつありますので、関係性は世界に広がっています。絶界の孤島で1家族だけで暮らしているのであれば別ですが、家族は本来オープンなシステムなのです。

にもかかわらず、日本の家族文化には「クローズド」を強いる価値観が色濃く残されています。「家族内秘密主義文化」と名付けてもよいかもしれません。この呪縛が問題解決を遠ざける要因となっている面もありそうです。

家族心理学の重要概念をもう一つ解説します。それは「フィードバック」です。フィードバックとは「結果に含まれる情報を原因に反映させ調整を図る」ことですが、家族の機能不全にこの視点を適用すると「IPに対してよかれと思って一生懸命働きかけているその行為自体が、問題現象の原因になっている可能性がある」と推測することになります。過干渉や甘やかし、共依存などの存在です。

その他にも、当事者間の問題にも関わらず他の家族メンバーを巻き込む「三角関係化」。夫婦と親子の勢力関係である「垂直的忠誠心・水平的忠誠心」の強弱。家族メンバー間の「境界」の程度。メンバー間の「提携(他のメンバーに対抗して結束する“同盟”と関係のゆるい“連合”)」のあり方、など。さまざまな視点によって、問題の原因を探っていきます。

本当の自己開示は家族だからこそ可能になるのでは…

「家族」は極めて濃厚な関係性です。裸のぶつかり合いが常態ともいえます。コーチングにおける「自己開示」の重要性を何度もお伝えしていますが、まずは最も信頼を置かなければいけない(○○しなければならない、という表現はあまり使いたくないのですが)配偶者、あるいはパートナー、そして子供に対して“真剣に”「自己開示」してみる! これに挑戦することで視界が大きく開けていくのかもしれませんね。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~フロイト、ユング、そしてアドラー~(2020/06/02)

心理学を学ぶにあたって、必ず登場するのが、フロイト、ユング、そしてアドラーです。3人とも医学者であり、心理学の源流は「精神医学」と言われています。もっともアドラーは眼科を専門として医学課程を修了しています。そして内科の医院を開業していますので、このあたりも精神科医の2人と違う理論を打ち立てた背景といえるでしょう。

3人は独自性の高い理論を打ち立てた心理学の巨人です。

3人は、フロイト1956年~1939年、ユング1875年~ 1961年、アドラー1870年~1937年の生涯を送っています。フロイトはユングより19歳、アドラーより14歳年長であり、フロイトを師とする関係でスタートしています。3人は当時としては画期的な理論を提唱していますが、その後それぞれの後継者、門下生により、理論の不十分なところ、あるいは他者からの反論や指摘を受けて、理論が補われることで発展、拡大していきました。

心理学に限らず社会科学とされる学問分野では「学派・グループ」が形成されることが多いのですが(もっとも心理学の中には自然科学の範疇とされるカテゴリーも存在します。それくらい幅広い学問といえます)、フロイト派はフロイディアン、ユング派はユンギアン、アドラー派はアドリアンと呼ばれています。このことは、ユングもアドラーもフロイトのもとから袂を分かった、ということであり、そこには3人の「人間観」に対する違いが見て取れます。

コーチング分野の始まりと発展の過程とは?

ただし今日では、それぞれの学派が垣根を有して交流を拒絶しているわけではなく、相互に切磋琢磨し、取り入れるところは取り入れ、また第三者的な人物やグループが別の視点でそれぞれの理論を再構成していく、という変遷をたどっています。
私の捉え方ということで許していただければ、コーチングという分野は、後者の人たちによって始まったカテゴリーだと感じています。そのことで学問という枠組みを超えた自由度を得て、発展・拡大してきたのではないでしょうか。
さて本題です。3人の打ち立てた理論、考え方を解説してまいりましょう。

フロイトは「精神分析の創始者」

フロイトを語る場合、まず「精神分析の創始者」ということが挙げられます。精神科医としてヒステリーの研究に傾注し、その治療法につき試行錯誤を経て「自由連想法」という技法を確立しました。
ヒステリーは無意識や抑圧に起因するもので、そのことを患者自身が“自覚”することで症状が軽快に向かう。そして、無意識や抑圧がどうして形成されたのか? これを探るため、長椅子にリラックスした状態で横たわっている患者に、高度な技法を用いた質問を投げかけます。
患者は徐々に過去を回想していくのですが、回想が連鎖していく終着に「幼少期の体験」という共通点があることに気づきます。アダルトチルドレン、トラウマ、PTSD(心的外傷後ストレス障害)といった用語は、いずれもフロイトが提唱した理論に基づいていると考えられます。

精神分析の具体的な流れは、患者が自由に連想を始める環境を整えることからスタートします。先に「高度な技法を用いた質問」と述べましたが、リラックスしてもらうために、どのような声かけをしたらよいのか…このことも技法に含まれます。

患者の自由連想が始まります。分析者は要所で質問をし、そしてコメントします。これを繰り返すことで、無意識の層に迫っていくわけです。コメントには「うなづき」に近いものから、患者が気づいていないことを指摘するなど、さまざまなバリエーションがあります。後者のコメントが「解釈」と呼ばれるものであり、最もプロフェッショナリズムが求められるところです。仲間内の会話の中で(特にお酒が入ると)、相手の一言二言を聞いて、いきなり「あなたは●●だから、▲▲すればよい、そうすればあなたの悩みは解決する」と断定口調で、自信たっぷりにコメントすることが往々にしてありますが、精神分析との違いは明瞭ですね。

フロイトは患者の「幼少期の体験」の中に、両親に対する複雑な感情が存在することを見出します。これが後に「エディプス・コンプレックス」として理論化されるのですが、分析者は、患者が精神分析を通じて両親に抱いている強い感情が分析者、あるいは他者に向けられる「感情転移」を把握し、さらに無意識に抑圧している強い感情が顕在化するのを恐れる「抵抗」を適切に処理しながら、無意識の意識化につなげていくのです。ヒステリーは、無意識に抑圧された感情が身体に表出している病理現象であり、それが意識化されることで「気づき(言語化)」が生まれ、患者の症状は消えていきます。

フロイトが提唱した「自我の構造とは?」

続いて、フロイトの代表的理論である精神(心)を「エス・自我・超自我」の3層で説明する構造論を紹介しましょう。フロイトがこの理論を確立するまでは、そもそも曖昧模糊である精神(心)について納得できる説明が世の中に存在していませんでした。フロイトはその心について、実は3つの異なる層で構成されており、それぞれが干渉しあうことで、固有の態度が形成されるとしています。

・「エス」…無意識の層

エスとは“それ”という意味で、無意識領域のことです。「~がしたい」「~がほしい」といった欲求の解放を求める「本能衝動の座」です。それは「快楽原則」であるため、基本的に制御すべき層であるとフロイトは指摘しています。

・「自我」…意識の層

心の中心領域であり、外界と接触して、知覚・思考・判断・学習・記憶などを機能させている層です。現実を的確に把握し適応しようとする意識の領域であり、「現実原則」に基づき外界とエスを仲介する役割を担います。このことから「知性の座」と呼ばれています。

・「超自我」…無意識と意識の両領域にまたぐ層

幼児期の両親のしつけや社会的規範が内在化されてできる領域です。「~してはいけない」「~しなければならない」という、いわゆる道徳的判断を下す領域です。

この3層は、すべての人で機能していると説明しています。ただし、両親やパートナーとの関係、そして社会規範への適応がノーマルとはいいがたい状況に陥ると、自我に歪みが生じそれが無意識に抑圧されます。それがヒステリーなどの症状として表れるということです。

ユングの初期の画期的業績は「言語連想検査」の開発

ユングは、ドイツ、オーストリアとの国境に位置するスイスのボーデン湖畔にある牧師館で生を受けています。父親はプロテスタントの牧師であり、宗教に包まれた環境がユングの成長に大きな影響を与えました。

フロイトとの関係は、1906年にユングがフロイトに手紙を書いたことから始まります。ユングはスイスの精神科医として治癒が困難な精神疾患の治療法を研究していました。ユングは「言語連想検査」の実験を行っており、これは被験者に複数の単語を提示し、その単語に対して何を連想するのかを答えてもらうというとてもシンプルな検査です。「聡明さとか、発想の豊かさを検査するものではないので、思いつく言葉を素直に言ってみてください」、ということを伝え始まります。相互に関係のなさそうな単語が次々に繰り出されるのですが、自分が被験者になったつもりで想像してみてください。ある単語について連想しそれを言葉にするまでに時間がかかってしまう、ということがあるでしょう。言いよどむこともあるかもしれません。この実験は、そこに着目します。被験者の内面に、こだわりや抵抗を感じる“何か”が潜んでいることを推定するのです。「琴線に触れる」という表現が思い浮かびますね。

「コンプレックス」の正確な意味とは?

ユングはこのことから、被験者の心理にその言葉に関連するコンプレックスがあると考えたのです。コンプレックスという言葉は日本語では「劣等感」をイメージしますが、この場合「複合的な感情」と理解してください。コンプレックスという概念は心理学の中心概念であり、フロイト、そしてアドラーも積極的に用います。特にアドラーは、初の出版である『organ inferiority(1907年)』でその概念を提示し深めていくのですが、その著書の日本語訳は『器官劣等性の研究』です。「特定の臓器が欠損するなどすると、それを補おうとする機能が働く」という内容で、生物学的な基本機能を心理学的な観点に置き換えて発展させていきます。organは「器官・臓器」で、inferiorityは「劣等性」なので直訳ですね。そしてアドラーの理論は「劣等コンプレックス(inferiority complex)」とあえて“劣等”を付すので、日本語的に正確です。なお日常の会話で「それってコンプレックスじゃない」と言う場合、「劣等感」の意味で使っていますから、心理学としての捉え方とは異なることを理解してください(そうでないと狭い視野にとどまってしまいます)。
この「言語連想検査」は、時間や態度という明快な判断基準が示されたことで心理学的な画期的成果とされています。その後改良が続けられオーソライズされた心理テストとして確立しています。

「自我」を図式化したフロイトと図式を書いていないユング

さて今日に至るまで、ユングをユングたらしめているのは「自我の捉え方の独自性」です。特に「無意識層」については、フロイトの自我構造と本質的に異なっており、この考え方の違いからフロイトとユングは決裂したと言われています。

ここで、日本におけるフロイディアンの第一人者である小此木圭吾氏(1930年~2003年)と、ユンギアンとして日本にユングを広め浸透させた最大の功績者である河合隼雄氏(1928年~2007年)の対談を『フロイトとユング(第三文明社 1989年)』から紹介しましょう。

河合
「フロイディアンの場合の自我とユンギアンの場合の自我の考え方が違いますね。あれはどう考えたらよいのでしょうか。」

小此木
「フロイトの自我の方が、わりあい常識的なんじゃないですか。もともと常識的に使っていて、それがだんだん用語化していったというんじゃないかと思います。だから、使い方もずいぶん荒っぽい。自己意識みたいな意味にも使っているし、セルフ(self)という言葉とほとんど区別なしに使うこともありますし、それから、自己保存、本能、自我本能というのか、それこそアドラーがいっているような、自己の主張というのか、自己の生存というのか、そういうものの主体としての自我の使い方もありました。ところが1923年の『自我とエス』での自我・エス・超自我の図式になって初めて一つの用語として決まったわけです。」

河合
「しかし、心的装置論というんですか、フロイトの図式の変遷ね、非常に面白いですね。だんだん変わってくるでしょう。ユングは結局、自分では図式は全然書いていないですね。後でわれわれとか弟子が勝手に図式を書いていますが。」

小此木
「その点、フロイトの場合には、もうはっきり、自分で図式を書いていますものね。」

河合
「それも変遷していますよね。」

小此木
「フロイトの場合、理論形式ということになると、最終的にメディカルな、あるいは神経学的な一つのモデルがあったし、脳の解剖学のようなものがあったのです。(後略)」

精神分析のグローバル化を目指したフロイト

フロイトはその生涯において、精神分析を普遍的な科学として確立することを目指しました。フロイトはユダヤ人であり、フロイトの周りには多くユダヤ人が参集しています。ところがフロイトは、1930年の国際精神分析協会の設立に当たって、その初代会長にスイス人のユングを推薦するのです。精神分析がユダヤ人の学問とされていたのをグローバルなものにしていくという意思表示の一つだとも言われています。

先に挙げた『フロイトとユング』のなかで、フロイトの宗教観について小此木氏が語っているところを紹介します。

小此木
「(前略)…つまり、ユダヤ文化でもドイツ文化でもない自分の文化を創り出さなければいけないという問題意識ですね。ですから、母親の問題が出てこないというのは、ユダヤ人意識、ユダヤ人のお母さんという問題があるんじゃないかな。フロイトの家はユダヤ教の中のプロテスタントみたいだったらしいですね。つまり進歩的ユダヤ人だったわけです。そしてフロイトにとっては、反宗教というのは反キリスト教であると同時に反ユダヤ教なんですね。ユダヤ教の律法主義的なものに対する反発、もう一つは自分たちを迫害するキリスト教に対する反発。宗教とはフロイトにとってこの二つしかなく、両方とも敵になっていた。」

今回のコラムでは、フロイトの「精神分析」とユングの「言語連想検査」を紹介し、両者の「自我」と「無意識」の捉え方の違いを説明しました。フロイトの理論は、『両親やパートナーとの関係、そして社会規範への適応がノーマルとはいいがたい状況に陥ると、自我に歪みが生じそれが無意識に抑圧される』というものです。そこで次回は、そのことが描かれている“ノンフィクション”を取り上げ、”私なりの感じ方”をお伝えしてみようと思います。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~集団内での少数派の影響力~(2020/05/27)

政治の世界では、数が影響力の源泉であることが自明のように語られます。確かに政党、派閥の変遷を見てみると常に集団の規模を大きくしようとする力学が見られます。さて今回のコラムは「数が論理」という中にあって、少数派(あるいは個人)が集団内で、その影響を発揮できている、あるいは少数派(個人)が肯定的に認知され評価されている状況はどのような要因が存在するのか、について解説してまいりましょう。

ブラウンによる少数派が集団内で影響を発揮できるため要因(1988年)。

ブラウンはその要因を4つ挙げています。

1.主張が一貫していること。

少数派は基本的に弱い立場ということもあり、以前のコラムで取り上げた『自己呈示』の「取り入り」という態度をとろうとし、また前回のコラムである「同調圧力」によって、本来の考えとは異なる態度に変わってしまう、というのが多くみられます。当然影響力は持てませんよね。信念を感じさせる主張の一貫性は、多数派に熟考を促す機会を与えるという意味で影響力が発揮されます。

2.投資をしているか。

これは分かりやすい要因です。オーナーは個人ですが大きな影響力をもつことができます。平たく言えば「お金によって支配している」ということになりますが、お金に限らず精神的なことも含めて犠牲を払っていることが認められると、個人や少数派であっても影響力をもつことができます。

3.自律性の存在。

2の投資が、自律性を伴ったものであれば影響力がさらに補強されます。つまり何らかの見返りを期待していることがわかってしまうと、仮に影響力があったとしても、極端に言えば「表面的追従」に、とどまってしまう、ということです。

4.主張の柔軟性。

これは1の「一貫性」と矛盾するのでは、と感じられるかもしれませんが、一貫性を主張する場合の「態度のあり方」と理解してください。
1971年にメラビアンが提唱した「法則」があります。ことばそのものの意味、内容である「言語情報」、声のトーンや大きさ、速度などの「聴覚情報」、話し手の表情、目線、態度や見た目、ボディランゲージといった「視覚情報」の3つについて、その影響力の度合いを数値化したものです。それによると、「言語情報」の影響力は7%に過ぎず、93%は「聴覚情報」「視覚情報」の非言語情報(ノンバーバル情報)が占めている、という結果です。これは「メラビアンの法則」としてオーソライズされました。
まったく同じ内容のプランをCさんが発表すると無視されたのに、それをAさんが提案すると好ましい反応で採用された、という場合が現実にあります。メラビアンの法則を裏付けるケースです。少数派は少数派であるためにそもそも影響力が限られていますから、一貫性ある内容を相手に受け入れさせるべく柔軟な態度で主張することが大切である、という意味です。

上記1~4が備わっていれば、少数派であっても影響力が発揮できます。そして個人の場合、リーダーシップが認められ、その集団を大規模に、経営者であれば巨大企業に成長させていく、というストーリーが思い浮かびます。

「特異性の信用」とは?

ところで、今日成功しているオーナー型大経営者が、創業前から人格円満で、誰にも好かれ、バランスの取れた人であったか、というとどうもそうではないのではないか、と感じてしまいます。スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグをイメージした場合、違った人物像を描くのではないでしょうか。

ホランダー(1958年)が「特異性の信用」ということばを提起しました。排斥されることなく強力な逸脱(革新)を影響力として発揮できるリーダー像をとらえたものです。「この人であれば集団のためにならないことはしないだろう」という信用を獲得しているので、少々荒っぽい手法を集団に課しても、その人についていこうとする状況です。では信用の源泉は何か、ということですが、時間軸で捉えるならば「成功体験の集積」です。そして以前の『心理学とコーチング』コラムで解説した「社会的勢力」の影響者と被影響者の関係性でいうところの「専門勢力…ある特定分野において卓越した知識、技能、能力をもっていると被影響者が認識した場合」と結びついたケースで影響力が補強されていきます。

逸脱した意見を述べるメンバーに凝集性の強い集団がとる態度とは?

さて、ここまで少数派が影響力を発揮できるという場合、というポジティブな要因を解説してきました。それは、少数派は集団内で、影響力をそがれ、排除されることが多いことを自明としているからです。 続いてその自明なところである、凝集性が高い集団が同調しない個人に対して、どのような態度をとる のかについて、解説してまいりましょう。

シャクター(1951年)が、集団のメジャーな意見に逸脱した意見を述べるメンバーに対して、集団がどのような態度をとっているのか、コミュニケーションの量を測定しています。集団に意見を合わせる「同調者」、当初は違った意見を述べていたが途中から集団の意見に合わせる「移行者」、そして「逸脱者」の3者を比較しています。結果は、「逸脱者」に対する他のメンバーからのコミュニケーションが非常に多いのです。つまり逸脱者を“集団規範”に取り込もうとする「同調圧力」が働いているということです。そして面白いのは、その「逸脱者」に集中していたコミュニケーション量が、ある時点(この場合は25分~30分後)から著しく減少しているという流れです。すなわち「同調」に同意しないで「逸脱」を続けてしまうと、「変わり者」として疎外され、集団に対する影響力が失われてしまいます。
いかがでしょうか。
集団内の少数派(逸脱者)は集団からの同調を迫られる。同調すれば(私的受容と表面的追従の違いはありますが)、仲間として認知され、集団内での居場所を見つけることができる。同調しなければ、やがて疎外され、集団から離脱しなければならない場合もある。
というのが“一般論”として成立しそうですね。

素晴らしい経営者は信頼のおけるパートナーによってつくられる。

組織の変革者は、少なくとも同調者ではありません。ブラウンの「4つの要因」、そしてホランダーの「特異性の信用」で、変革者が集団に受け入れられる条件について述べましたが、それらとは別の視点について考えてみたいと思います。それは、前回コラムで取り上げた、アッシュの2枚のカードによる実験で「集団内に1人でも“一貫した味方”が存在する場合は、誤答率が大きく低下する」、という点です。
すなわち自分の考えについて1人、真の理解者さえいれば、自分の判断に自信が持てるということです。

ソニーには井深大さんと盛田昭夫さん、ホンダには本田宗一郎さんと藤沢武夫さんというコンビがありました。それぞれ決して似た者同士ではなく、まさに「相補性」の関係です。
本田宗一郎さんは回想のなかで藤沢武夫さんのことを、「…寝食を忘れて技術開発に取り組んだからな。
それができたのも藤沢と出会ったからだ。カネのことや営業、経営はあちら任せ。社長判も預けちゃった。藤沢が来て、研究に打ち込めるようになったから、次々と新製品ができたと思う。…」と語っています。
参考:本田宗一郎というバケモノを支えた藤沢武夫。二人の「最強伝説」

エグゼクティブ・コーチングは今の時代だからこそ求められています。

今エグゼクティブ・コーチングが注目されています。ソニーやホンダのように優秀な経営者には、その経営者が胸襟を開くことのできる側近の存在がありました。ところがカリスマ視されるようになってくると、社内には心から信頼できる側近がなかなか見当たらない、ということも少なくありません。経営者の意思決定は、その全責任を経営者が負わなければなりません。経営者は基本的に孤独なのです。エグゼクティブ・コーチはそのような経営者に寄り添いサポートする存在ですが、だからこそエグゼクティブ・コーチは、コーチングのプロフェッショナルとしての識見が求められます。企業経営、芸術、アスリート…どの世界でも同様ですが、プロフェッショナルとは実に深遠な世界ですね。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~集団の形成~(2020/05/22)

父母は自分の意志とは別に最初から存在しているものです。「子は親を選ぶことができない」は絶対的な真理であり、このことがさまざまなドラマをつくりだしていきます。一方、ここかしこに存在しているそれぞれの集団は、何らかの理由や要因があって誕生し、維持されています。今回は一般的な集団の形成について解説いたします。

集団はなぜ形成されるのか?

ケリー(1952年)は、個人が求める集団に対する機能を2つ挙げています。

1.規範的機能

個人が社会的に承認を得たい、それを維持したいという動機に基づいて集団に加わる。
「唯我独尊」ということばがあります。自分ほど偉い人物はいない、と解釈される場合が多いようです。
本当の意味は違っている、とさまざまな説の存在が指摘されていますが、肯定の響きを加えて言い換えるならば「ゴーイング・マイ・ウエイ」となるでしょうか。しがらみの多い世の中だからこそ、このことばにあこがれる多くの人々が存在することを私は感じます。つまり現実には、社会の中で承認を得、評価されることを人は求めます。この安寧を与えるものとして集団が存在し、それが規範的機能です。

2.情報的機能

個人が、自分の考えはずれていないか、他者の行動はノーマルなのか、という自分や他者に対して判断するための標準、根拠を提供する機能。
「村八分」は、村落の掟を破ったもの、秩序を乱した者に対して、葬式(+火事の消火活動)を除き、一切の付き合いを断つことであり、個人への制裁として最も強力だと受けとめられる沙汰です。仲間外れになることが怖い、という前提に立っていますから、逆に言えば、メンバーに対して集団の中で孤立しないよう、集団に適応するための情報を集団は発信しているということです。
また、シャクター(1959年)は別の視点での形成要因を指摘しました。それが親和欲求です。

3.親和欲求

何らかの不安を抱えている場合、同じ境遇にある人同士が集まり、その不安を共有することで不安を低減させようとする機能。
これについては特に例示しないでも「その通りだよなぁ」と実感できると思います。不安はマイナスの感情ですが、趣味などポジティブな面においても同じ価値観を有する者同士が集うのは自然なことですね。

集団が形成されると凝集性が働くようになる。

「集団凝集性」とは「集団の成員がその集団にとどまるように働きかけるさまざまな心理的力の合力である(フェスティンガー他 1950年)」のことです。ただしその強弱は集団により異なります。凝集力が低い集団はバラバラになる確率が高まりますので(凝集力がない場合はそもそも維持できないので集団は形成されませんが)、凝集力は集団としての必要条件といえます。その要因は、

1.集団あるいは集団成員の魅力。
2.集団が成員にとって重要な目標を達成するにあたって援助し媒介する程度。

そして、凝集性の高い集団の特徴は、次のような点が挙げられています。

  • 集団への成員の定着率が高い。
  • 成員間のコミュニケーション、相互作用が活性化している。
  • 成員の集団活動への参加が積極的である。
  • 集団を維持するために成員が困難に耐えようとする。

いずれも「なるほど」と感じられると思います。

集団に属する人は、その集団に対して同調行動をとるようになる。

「本当なの?」と感じてしまう実験があります。アッシュ(1951年)による非常に単純な実験で、8人の参加者に2枚のカードを見せます。左側には縦に1本の棒が書かれ、右側のカードには3本の棒が書かれています。左側の棒の長さと同じ長さの棒を右側の3本から1本選ぶという内容です。誰が見ても間違いようがない長さの区別がつけられていて、ほぼ100%正しく答えられるという設定です。c 心理学実験は、被験者とサクラ(実験協力者)という構成で実施されるパターンが多いのですが、この場合被験者は1人で、他の7人はあらかじめ間違った回答をするように事前に打ち合わせています。真の被験者が答える順番は最後から2番目に設定されています(「間違って答えているじゃないか!」と感じる人が5人続いた後自分が回答しなければならない、という圧力を受ける環境)。この条件を複数のグループを対象として実施していきます。結果は…なんと誤答率が32%に達しました。
まさに同調圧力が働いた、ということなのですが、32%の人の内面については2つの態度に分類されます。

A.「これだけ多くの人が同じ答えをするということは、自分の感覚が間違っているのでは…」と自分の認識を疑い、そして自分の方が間違っていると意識そのものを修正してしまうという態度。
B.私の方が正しいのは間違っていない。但し、何故だかわからないがこれだけ反対の意見を述べる人がいる状況で自分が異なる回答をしてしまうと、居心地が悪い。とりあえず回答を合わせておこう。

Aは「私的受容」であり、Bは「表面的追従」です。
アッシュはその後、設定をさまざま変えた実験を展開しています。結果は、集団内(規模が大きくなった場合の実験も実施)での反対者が3人以上になると誤答率(同調傾向)が急激に増加するが、反対者がそれ以上多くなっていっても同調傾向はそれほど増えていかないというものです。そして集団内に1人でも“一貫した味方”が存在する場合は、誤答率が大きく低下する、という興味深い結果も出ています。
「本当なの?」という問いに対して「同調行動は実際に起こるのだ」ということです。

太平洋戦争時の日本において究極の同調行動が現出してしまった。

私は、日本におけるユング派の巨人であり、文化庁長官も歴任された河合隼雄氏の著作を多く読んできました。1999年に発刊された『「日本人」という病』の中に次のような一節があります。
『…もう一つ、非常に大きな問題がありました。われわれは精神的に素晴らしいのだから、どんどん国のために死んだらいいという考え方です。国のために死ぬことが、一番素晴らしいことだというのです。
死ぬことこそ大事なことだと。僕の同級生たちも、みんなその気で死にに行こうとする。少年なんとか隊なんていうのに応募するのです。応募するだけならまだいいのですが、勇ましい青年が「われわれは国のために今から死んでまいります」なんて挨拶をする。同級生の男性は、みんな国のために死のうとするのですが、僕は絶対に死にたくなかった。早死にしてたまるかという気があるのです。そんな簡単に死んでいいのだろうか、どう考えても死ぬのは恐いと思ったんです。ところが当時「死ぬのが恐い」なんて言うと、もうダメです。日本人として、人間として、男として失格なんです。だから死ぬのが恐いなんていう話は誰にもできなかった。
ただ一人で困ったことやなぁと思っていたら、幸いにも日本は負けたのでした。…』

どのような集団でも同調圧力は生じます。その集団の凝集力が高ければ高いほど、所属メンバーへの圧力はどんどん昂じ、そして究極の姿が太平洋戦争時に実際に起こってしまった、ということです。
次回は、集団内の多数派に対し、少数派が影響力を発揮するには、どのような要因が求められるのか、について解説することにします。

(日向 薫)

心理学とコーチング ~変化する家族とコーチング~(2020/05/10)

今回のコラムは「変化する家族」を取り上げます。家族は集団の最小単位であり小さな社会です。すべての人が体験する環境でもあり、当事者としての捉え方はまさに人それぞれです。そしてその姿は確実に変化しています。
ところが、マクロとしてのイメージは、変化している実態と違っていることに気づきます。コラムでは、ここにフォーカスして進めてみようと思います。
昭和30年代に「夫婦と子供二人」という標準モデルが出来上がり、そのモデルをベースとした高度経済成長がスタート、日本国家としての成長戦略が大成功します。ところが今日、モデルは“明瞭に”崩壊してしまいました。にもかかわらず、成功体験が強烈すぎるため、その価値観にとらわれ、それとのギャップに日本全体が呻吟しているように感じます。
そして今、新型コロナウイルスの蔓延により、STAY HOMEが強いられています。これまで家族のことをそれほど考えることなく、暮らしていたのが(暮らせていたのが)、同じ空間で長い時間を共有することで、これまで見えなかった家族間の関係性が浮き彫りになってきた、ということが起こっています。家族の関係に限らず、新型コロナウイルスによって、これまで自明だとされていた「社会の価値観」に対して、根底からの疑問が突きつけられているのではないでしょうか。

平成27年の「1世帯当たりの人員は2.38人」!

さて、集団の最小単位、と説明しましたが、家族≒世帯と捉えると、意味合いが異なってきます。そのあたりのことを、まずは統計で明らかにしてみましょう。

日ごろから世帯人員に興味を持たれている方は別として、2.38人であることを知って驚かれるのではないでしょうか。関連のデータを以下記してみましょう。
・「一般世帯数」 5,333万1,797世帯
・「単独世帯数」 1,841万7,922世帯(一般世帯の34.6%)
・「夫婦と子供から成る世帯」 1,428万8,203世帯(同26.9%)
・「夫婦のみの世帯」 1,071万8,259世帯(同20.1%)
・「ひとり親と子供から成る世帯」 474万7,976世帯(同8.9%)
※施設等の世帯 11万6,888世帯
→施設等の世帯とは、寮、寄宿舎、病院、療養所、社会施設、老人ホーム、自衛隊営舎、矯正施設などの入居者で一般世帯とは区別される。

1世帯の平均人員は2人に限りなく迫っています。単独世帯数は34.6%ですから、最もメジャーな世帯ということになります。有配偶者の世帯についても夫婦のみの世帯と子供のいる世帯の数にそれほど差がないので、高度経済成長期の家族モデルは少数派に転じてしまったことが統計からも証明されています。

30歳~49歳の男性で1度も結婚したことのない人は36%!

未婚率も見てみましょう。
・男性30歳~49歳の未婚率 40.2%(うち死別と離別は3.9%)
・女性30歳~49歳の未婚率 32.2%(うち死別と離別は7.7%)
30歳~49歳までの層で1度も結婚したことがない人の割合は男性で36.3%、女性で24.5%となっています。
合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子供の平均推計人数…以後出生率と表記)は、2018年に1.42まで下がっており少子化が注目される中で、この未婚率は、やや影に隠れているきらいがありますが、こうして実際の数値を確認すると、驚かれるのではないでしょうか。
ここで、フランスの未婚率と比較してみましょう。出生率が下がってきたというもののフランスの出生率は2017年で1.88と高いレベルを維持しています(2.1人で人口が維持されるのでフランスも人口減ではありますが)。したがって未婚率はかなり低い、と想像されますが、実は日本より未婚率が上回っています。「ええっ、そんなに多産なの?(出生率は平均なので多産の人が多いと高くなる)」と、びっくりしてしまいそうですが、フランスの場合婚外子の割合が6割に近い、というのがそのからくりです。
フランスにはPACSという「同性または異性の成人2名による、共同生活を結ぶために締結される契約」という制度があり、同棲カップルにも結婚(法律婚)に準じる保護が与えられます。フランスの場合も結婚の場合は離婚が容易ではありませんが、同棲だとそもそも結婚でありませんので別れる際の手続きは簡便です。日本でも同様な制度を導入すれば出生率が上がるのでは…という声も一部ではありますが…とても国民的議論に広がっていく、という想像はできそうにありません。

日本に住む外国籍の人を“日本人”はどのように思っているのでしょうか?

日本という国家レベルの大問題が「少子高齢化」である、という点につき私も同意します。ただ、少子化対策を、日本国籍を有した“日本人”に限定している論調に対しては若干疑問を感じています。つまり日本に居住する外国籍の人たち、そして移民というテーマを包含した上でのアプローチです。
日本という国家は地勢学的条件をはじめとして日本人という概念を空気のように受けとめています。姿かたちも共有した内と外という概念です。外国籍の人が隣に住んでいても、法律など制度環境は“日本人”だけに適用することが自明という感覚です。あらゆる統計数値は“日本人”であることをベースとしており、例えば外国籍の子供の教育環境はどのような実態であるのか? を調べようとするとかなり骨がおれてしまうのが現状です。
ただし、新型コロナウイルスによって、自明のように続いていた社会の枠組みが、果たして「当たり前のことだったのか?」と、本質から問い直されています。当初政府は、収入減が一定の水準を下回る「世帯に30万円」を支給する、としていましたが、これが改められ、一律に「一人10万円」に変更されました。日本に住んでいる外国籍の人も対象となります。
冒頭で、『新型コロナウイルスによって、これまで自明だとされていた「社会の価値観」に対して、根底からの疑問が突きつけられているのでは…』、と述べましたが、この政府方針の転換も一例と言えるかもしれません。

記述が「出生率→日本の制度環境→新型コロナウイルス」と広がってしまいました。
テーマを「家族」に戻しましょう。今コラムの最後として「どうして結婚しない人が増えているのか」について、アプローチしてみます。

「結婚はすべき」という価値観が揺らいでいるのかもしれません。

データが示す現実を見据えるならば、「妙齢になると結婚して子供を産むのが普通だよね」という価値観そのものが、メジャーではなくなっている、ということが挙げられます。
その背景として「結婚制度」が硬直的であること(離婚が著しく困難など)、また就職氷河期に正社員で採用されていない層が固定化し、収入が増えないことで結婚をためらう層が著しく増えてしまったこと、などの要因が指摘されています。正社員と非正規社員の収入格差は社会問題化しており、“貧困層の拡大”が現実味を帯びてきているのが今日の実相、とも言われています。ただそのような外から見える現象とは別の視点として、想定を超えた社会構造の変化が人の精神面を揺り動かし、共有されていると思われていた思考の枠組みそのものが変わってしまったのでは、という仮説です。
考えてみれば、社会の枠組みはその時代において共有された価値観を拠りどころとして、成立していました。ところが、さまざまな環境の変化により、そしてその変化の本質に迫ろうとした人物が登場し、新しい価値観を提唱することで、人々の意識も変わっていきます。

有意義な人生を送るための重要なサポート役…それがコーチングです。

今日コーチングは世の中に広く受け入れられています。ところがその有効性が認められるまでには相応の年月が必要でした。
私たち一人ひとりは社会とのつながりの中で生活しており、充実した人生を送るためには人との連携が欠かせません。そしてそれを可能せしめるのが広い意味でのコミュニケーションであり、その有効性を具体的に提示し、相手や目的に合わせて適切に使うよう導いてくれるのがコーチングです。
今日、コーチングの体系はかなり整備されています(もっとも決して止まることなく進化し続けていますが)。このコーチングも「変化の本質に迫ろうとした“複数の人物”」の存在と、提唱する心理学の理論を背景に発展してきました。この大きなテーマについては、いずれコラムで取り上げたいと思います。

(日向 薫)

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