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『ソニー再生』の秘密は1on1ミーティングにあった!(1)(2021/09/24)

「3度の逆転劇」に隠された秘密とは?
……未曽有の危機に直面した社員たちの心に火をつけ、蘇らせたのは出世競争とは無縁の異端児かつ、しなやかな信念だった……いま明かされる「平井流経営哲学」

と書かれた、カバー表紙のコピーにひきつけられて購入した『ソニー再生 変革を成し遂げた「異端のリーダーシップ」 日本経済新聞社(2021年7月12日)』を今読み終えたところです。平井一夫ソニーグループシニアアドバイザーの「ソニー奮闘記」ですね。 「今読み終えた」と、コメントしたように、この平井さんの哲学をすぐにでも紹介したくなり、こうしてPCのキーを打っています。

冒頭プロローグの小見出しにある「3度の会社再建」は次の言葉から始まります。

振り返れば数奇な運命をたどった会社員人生である。学生時代に好きな音楽を仕事にしたいと門をたたいたのが、CBS・ソニーだった。

平井さんがCBS・ソニーに入社したのは1984年です。そのオフィスは市ヶ谷にあり、「たった10キロ」しか離れていない親会社のソニーについては、「まったく別世界であり、自分が働く会社に、たまたまソニーの名前が入っている程度の認識だった」と語ります。

マージナル・マン(周辺の人)としてソニーに入社します。

結婚して宇都宮に自宅を購入し(仕事とプライベートははっきり線を引きたい、週末は緑多い郊外の生活を満喫する…という考えからとのこと)、新幹線通勤の日々を過ごす平井さんに1994年、変化が訪れます。

そんな生活がめまぐるしく動き始めたのが1994年の年明けのことだった。上司の部屋に呼ばれると、「君にニューヨークに行ってもらうから」と告げられた。聞いた瞬間は内心で「冗談じゃない。やめてくれよ」と思ったものだが、当時は会社の辞令を断るという雰囲気でもなく、淡々と従うほかなかった。
宇都宮に帰って妻理子に告げると「話が違うじゃない」と詰め寄られた。理子も私と同様に帰国子女で、お互いに「もう海外生活は嫌だし、日本でやっていこう」とよく話していたからだ。

帰国子女とあるように、平井さんは銀行員であった父親の転勤にあわせて、小学1年でニューヨークに、小学4年で日本に、そして中学進学前にカナダのトロントへ、さらに2年半後にまた日本に戻る、というめまぐるしい小~中学時代を送っています。 そして平井さんは「逆カルチャーショック」を実感するのです。

また日本の公立中学校で異邦人のやり直しはまっぴらだ。そもそもなぜみんな同じ制服を着て髪形まで学校に決められないといけないのか。いったい、誰がどんな理由で決めたのだろうか。日本の先生が言う「中学生らしく」なんて、とてもついていけそうにない。もちろん日本の学校にも良い部分はたくさんあるのだろうが、少なくとも当時の私の目には、日本の学校というものがとても息苦しい場所に映ってしまっていた。

「逆カルチャーショック」が平井さんの人格を形成した…!?

平井さんのソニー人生を振り返ると、この「逆カルチャーショック」の経験が、間違いなくプラスに働いていたことが伝わってきます。
「海外生活はもう、うんざり…」と感じつつも、会社の命令ということで、ニューヨークに向かいます。

東京での私の肩書は係長。ニューヨークではゼネラルマネージャー(GM)という肩書に変わったが、なんのことはない。駐在員は私ひとりで、早い話が何でも屋だ。
不本意な転勤であったが、エンタテインメントの本場であるニューヨークで音楽ビジネスに携わるのも悪くないかと思い直した。ところが、人生とは不思議なものだ。ひょんなことからプレイステーションのビジネスに携わることになる。期限つきのお手伝いのつもりが、あれよあれよという間に引き返せなくなってしまった。
そこで私を待っていたのは、組織の体をまったくなさないボロボロの現場だった。疑心暗鬼と足の引っ張り合い、そしてみんながバラバラな方向を向いている……。そこで五里霧中の中を駆け抜けた日々が、経営者としての土台を創ることになろうとは、ニューヨークに渡った時点では、思いもしなかった。

私の今回のコラムのテーマは9月16日のコラム(五十嵐代表執筆)に引き続き、「1on1ミーティング」です。

1on1ミーティングの本質とは…
・1on1ミーティングの目的はメンバー(部下)の成長支援にある
・1on1ミーティングの主体はメンバー(部下)にある
・1on1のフィードバックは評価や判断を入れない

「1on1ミーティング」は「人事評価や目標設定」などの面談とは異なります。そのことを理解いただいた上で、「では実際の企業の中では、どのように進めていけばよいのか…」という内容を、今回のコラムで取り上げることを決めていました。
今こうして、平井さんが書かれた『ソニー再生』の紹介を始めていますが、この本を手に取る前は、1on1ミーティングのことはイメージしておらず(まったく、と言ってもよいと思います)、むしろ経営戦略的な内容を期待してページを繰っていったのです。
ところが…

『ソニー再生』は1on1ミーティングから始まった!

私が感じた個人的感想であることをご了解いただくとして、平井さんの「3度の逆転劇」は、MBAなどで解説される「体系だった経営戦略」とは別次元の意思決定と行動によってもたらされたものではないか… それは「1on1ミーティング」をひたすらやり続けた平井さんの哲学そのものが、その根底にあった! ということに気づかされたのです。

全体で300ページに迫るボリュームですが、あっと言う間に読み終えました。まるで小説を読むように、貪るようにページを繰っています。経営に関する専門用語はほとんど登場しません。したがって高校生でもストレスなく読み通すことができる構成です。

父親、母親が会社でどのような思いで仕事をしているのか、経営者とは何者なのか、個性あふれる人々がどうやって同じ方向を向いて仕事をすることができるのか…
といった疑問に対して、「なるほど、そういうことなのか…」と、高校生にも腹落ちできる回答が、この本にはギュッ、と詰まっているのですね。

引用にある「組織の体をまったくなさないボロボロの現場」とは、駐在員として仕事を始めたソニー・ミュージックではなく、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)のアメリカ法人(SCEA)のことです。アメリカに来て1年ほどたった1995年半ばころ、CBC・ソニーグループの大先輩である丸山茂雄さんから電話で「プレステの仕事さ。ちょっと手伝ってくんない?」と、軽い口調で頼まれたのがきっかけです。

SCEはソニーグルーブの中でも重要な会社であり、当時のソニー・ミュージックとは格が違います。そのSCEAでの手伝い仕事を始めて早々「政変」が起きます。

アメリカでのプレイステーション発売から3か月が過ぎた1995年12月に、実力者でもあるソニー・アメリカ(ソニーの北米統括会社)のマイケル・シュルホフさんが突然退任したのだ。どうやら、この年に大賀さんの後を継いでソニー社長となった出井伸之さんと激しく対立したらしいという噂が流れてきた。もっとも、私にとっては雲の上で起きている出来事でしかない。ウォール・ストリート・ジャーナルや日経ビジネスの特集記事を読んで「ソニーも大変だな」という程度の認識だった。

この余波はシュルホフさんとつながっていたSCEAのスティーブ社長も退任することになり、後任としマーティ・ホームリッシュさんがSCEAの社長として立て直しに着手します。ところが…

マーティさんに異変が……

いよいよSCEAの立て直しに着手したのだが、これが一筋縄ではいかない。
印象的だったのがマーティに起きた異変だった。マーティはもともとオープン・マインドな人で「みんなでがんばっていこうよ」という雰囲気作りを進めようとしていた。ところが、しばらくたつとどう見てもノイローゼ気味な表情を浮かべるようになってしまっていた。
するとマーティは自分の部屋のガラスを取り外して中が見えないように壁にしてしまった。「ブラインドを閉めても、いつも誰かに見張られている気がする」と言っていたが、こうなってしまってはもはや現場のチームとはまともにコミュニケーションも取れない。相当追い込まれていたよう見えたマーティの様子を見た私は、東京に「どうやらダメみたいです」と報告した記憶がある。

その後は、日本にいるソニー・ミュージック社長とSCEAの会長を兼務する丸山茂雄さんがニューヨークの現場も指揮することになるのですが…

月曜日にソニー・ミュージックの役員会に、火曜に東京のSCEに出社すると水曜日に飛行機に乗る。時差の関係でフォスターシティに着くのも水曜日。そのまま仕事をこなし、木曜と金曜はSCEAで過ごす。そして週末にまた東京へと帰っていく……。

丸山さんは平井さんの心のスイッチを押します!

これを半年間繰り返した丸山会長は、さすがに体力の消耗が激しく、「俺は疲れたから、おまえが社長をやってくれ」と、平井さんに告げるのです。
平井さんは、「さすがに気が引けた、私はそんな器じゃないでしょう」と固辞します。それに対して丸山さんは、「そもそもソニー・ミュージックは若いヤツらにどんどん新しい仕事をさせる会社じゃねぇか。だからおまえもやってみろよ」と言うのですね。

当時35歳だった平井さんの語りは、続きます。

当時の私は経営者としてはまったくの素人だ。その素人がかじ取りを任されたのが、立て続けに二人の社長が交代したばかりの組織だった。もし丸山さんが指名した私まで失敗すれば、丸山さんだって任命責任を問われることは言うまでもない。
「おまえに任せたからな」
丸山さんはそう言って、本当にSCEAの経営を私に任せてしまった。その度量の大きさを見せられると、誰だって期待に応えたいと思ってしまうものだ。丸山さんは私の心のスイッチを押したのだ。私はニューヨークの自宅を引き払い、フォスターシティへと移り住むことを決意した。

平井さんによる1on1ミーティングがリアルに伝わってきます。

こうして突然、経営を託された私だが、SCEAの状況が思ったより深刻だということを思い知らされることになった。(中略) 私もニューヨークからフォスターシティに通っていたので、現地の社員たちとはお互いに知った仲である。とはいえ、カズ・ヒライという人間を本当の意味で知ってもらう必要がある。それと同時に、私ももう一度彼ら彼女らがどんな思いで日々働いているのかを知らなければならないと考えた。そのためには一対一でのミーティングが手っ取り早く、なにより確実だ。
私はフォスターシティに移ると早速、実行に移した。
すると、社員たちの本音が見えてきた。
「プレイステーションは素晴らしい商品だと思うんです。でも、もうこんな会社では働きたくありません」
そう言って泣き出す社員もいた。思わずテーブルにあったティッシュを差し出したことを覚えている。
「ここはストレスが大きすぎる」
「みんな言っていることがバラバラなんです」
特にグサッときたのがこんな言葉だ。
「私は給料を得て毎日会社に来ている。だから与えられた仕事にプラスして貢献しようと思っている。なのに、もっと給料を得ている連中がそれをブロックしてくる。それを放置している経営陣は、もっと良くない。こんな環境では耐えられない」
おっしゃる通りと言わざるを得ない。その言葉のひとつずつにうなずき、耳を傾ける。話しているうちに感情的になる者はひとりやふたりではなかった。いつの間にか「俺の仕事はセラピストか?」と自嘲気味に思うようになっていった。
ただ、ここまでに紹介した声はまだ建設的な部類に入る。むしろ多かったのが、平気で仲間を売るような言葉だった。

カリスマ的リーダーシップではなく経営チーム!

このような状態に陥っている組織を根本から立て直すために、平井さんがまず取り組んだのが、部下から信頼される「経営チーム」をつくることでした。その一人が東京から赴任してきたアンドリュー・ハウスさんです。

彼もまた、社員たちの悩みを聞くことから始めていた。やはりニューヨークから来た私と東京から来たアンディがこれまでの事情を何も聞かないまま突然、経営改革を始めてしまうと、もとからSCEAにいた社員たちは「なんだ、こいつら」になってしまう。そこは根気よく社員の話を聞いて、まずはこちらが現状を把握しようと、アンディとは示し合わせていた。一日の仕事が終わると、よくアンディと二人で「今日はこんな悩みを聞いたよ」と話し合ったものだ。私との会話はシチュエーションによって、英語になったり日本語になったり。当時は私が35歳でアンディは31歳。そこにセールスのプロだったジャック・トレットンさんも加わって散々議論を重ねたのをよくおぼえている。 振り返れば、この頃に話していたのは今日のことや明日のことばかりだった。「将来はこんな風にゲームビジネスを展開したい」といった遠い先の夢や希望を話すことは少なかったように思う。目の前にある混乱し疲弊しきった組織を立て直すことが先決だったからだ。とにかく「まともな会社にしないといけない。社員がプライドを持てる会社にしないといけない」という話ばかりだった。(太字は坂本)

3人の経営チームは五里霧中、悪戦苦闘を経て、組織を立て直します。ところで、「経営戦略について触れていない」と思われると困るので、簡潔に紹介します。
日本のソニー本社が掲げるソニーブランドのグローバル展開をしっかり受けとめた上で、アメリカの市場に対応していく戦略です。つまり「グローバル・ローカライゼーション」です。具体的には、「クリエイター・ファースト」「サードパーティー・ファースト」、そして「量は追わない」です。

平井さんの経営チームは結果を出します!

1996年に丸山さんからSCEAのEVP(エグゼクティブ・バイス・プレジデント)兼COO(最高執行責任者)を任された直後は五里霧中という言葉がピッタリなくらい、暗いトンネルの中でもがいていたというのが正直なところだ。
そんな扱いが少しずつ変わってきたなと感じたのが1998年あたりのことだ。この年、SCEのゲーム部門は1365億円の営業利益をたたき出した。前年と比べて約17%の増益。もちろんSCEAも利益を出して貢献している。この時、ようやくSCEの正式会員になれたような気がした。

この本の章立ては「プロローグ+1~6章+エピローグ」で構成されています。
“3度の逆転劇”のうち、今回のコラムは“最初の逆転劇”を描いた第2章までを取り上げました。
私の視点は「1on1ミーティング」です。平井さんの面談のスタイルが、まさにこの「1on1ミーティング」であることをご理解いただけたと思います。
次回も平井さんの「1on1ミーティング」について語ってみようと思います。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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『1on1ミーティング』と一般的な『面談』との違い(2021/09/16)

ミーティングのイメージ画像

「1on1・・・ね、うちでもやってるよ」
リーダーの皆さんに聞いてみると、多くの人がそう答えます。しかしながら、そんなリーダーの声を詳しく聞いてみると、従来型の一般的な『面談』と変わらない認識をされている方がほとんどです。

従来型の一般的な『面談』と、最近注目されている『1on1』では何が違うのでしょうか?

1on1ミーティングの目的はメンバー(部下)の成長支援にある

1on1ミーティングとは、上司とメンバー(部下)が一対一で定期的に行う対話のことです。通常、上司とメンバー(部下)との面談というと、年1~2回、評価面談や目標設定面談など、その必要がある時に行います。1on1ミーティングは、具体的な顕在化した目的や問題がなくても定期的にかつ頻繁に行うのが特徴です。

従来型の一般的な『面談』と1on1ミーティング、どちらも大切ですが、目的が異なります。一般的な面談は、評価面談や目標設定面談、進捗管理、問題解決などを目的に行うことが多いと思いますが、1on1ミーティングの目的は、メンバー(部下)の成長支援にあります。

もちろん、従来型の一般的な『面談』においても、メンバー(部下)の成長というところに焦点を当ててやってきたというリーダー(上司)もいると思います。
1on1ミーティングでは、メンバー(部下)の成長ということを最大の目的として、より意識して関わっていくところに特徴があります。

1on1ミーティングの主体はメンバー(部下)にある

多くの一般的な面談では、評価のための面談や問題解決そのものがテーマになるため、上司がメインで話すことになりがちです。
一方、1on1ミーティングの対象はメンバー(部下)自身です。メンバー(部下)が主体的に考えて行動できる自律型人材に育ってくれるよう支援することにあります。リーダー(上司)は、メンバー(部下)がその課題と向き合い、自分らしく学びながら乗り越えていけるようサポートします。したがって、メンバー(部下)の話したいテーマで進めますので、メンバー(部下)がメインで話すことを重視します。

1on1のフィードバックは評価や判断を入れない

フィードバックの考え方も一般的に言われているフィードバックとは異なります。
一般的な面談は、メンバーの業績の評価を決定し伝えるのに対し、1on1ミーティングでは、メンバーを観て、見えたこと、聞こえたこと、感じたことを、鏡のように映ったものをそのままフィードバックという形で伝えます。マイナスのフィードバックだけでなく、プラスのフィードバックも大切です。

例えば、「今、〇〇さんはその話をしている時に声のトーンが高くなって本当に嬉しそうに話していたね。心からそれをやりたいんだなと感じたよ。」というようにフィードバックします。そこには評価や判断は入りません。上から目線で言うのではなく、メンバーを応援するヨコの関係になります。

1on1ミーティングと一般的な面談との違い

メンバー(部下)にとって楽しい時間であることが大事

質の高い1on1ミーティングが実践できるようになると、メンバーにとって考え気持ちが整理され、エネルギーが満たされる充実した時間になります。メンバーが1on1を楽しみにくれるようになることが理想です。

自分で気づいたことは実践したくなります。そうすることで、うまくいってもいかなくても結果が自分事になります。その結果について、また次回の1on1ミーティングで話し合うことで、次の成長につながっていきます。

自律型人材とは、主体的に考えて行動するやる気に満ちた人材です。メンバー自身が「本気でそうしたい」と思ってもらえるような関わり方を目指します。一人一人が自律的に成長することで、メンバー同士も建設的な議論が行われるようになり生産性の高い組織になっていきます。

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渋沢栄一とコーチング ~生涯アニマルスピリットを発揮し続けた渋沢栄一!~(2021/09/08)

「日本資本主義の父」という呼称の裏付けとして、第一国立銀行をはじめとする「500社に及ぶ企業、そして社会事業として600の団体の設立に関与した」という実績がセットとして語られます。この圧倒的な数、しかもその中には、今日に至るビッグネームの大企業、団体が含まれており、渋沢栄一の“すごさ”が実感できるところです。

渋沢栄一の壮大な実績はどのようにして形成されたのか…?

ただ、このあたりについて深堀した資料はなかなか見当たらないこともあり、しばらく探していたところ…壮大な実績が生み出された、そのプロセスを理解できる格好の著作を見つけました。『<日本の近代11>企業家たちの挑戦(中央公論新社 1999年3月)』です。

著者は宮本又郎大阪大学名誉教授(執筆時は大阪大学教授)です。大阪大学経済学部長、経営史学会会長も歴任されています。江戸後期から昭和の経営史であり、その時代を彩った企業家の姿を丹念に追っていきます。渋沢栄一のミラクル(私の実感です)の秘密について、その一端が“腑に落ちた”次第です。

…また明治期の新規事業は多くの場合移植産業であり、それらに関する技術情報や金融的支援を得るためには政府との強いコネをもつ人物が企業設立に必要であった。さらにかれらは会社が設立された後も、さまざまな系統の資本家グループの利害の対立を調整する役割が期待された。
後述するように、大阪紡績において雇用経営者の山辺丈夫が大株主から攻撃されたとき、山辺を支持し守ったのは、同社の設立主導者渋沢栄一であった。これらの経済指導者も複数の企業の持ち分資本家にすぎなかったが、かれらのうち調整能力のある少数の人々が商業会議所や銀行集会所などの要職について「財界人」の地位を獲得し、出資の多少にかかわらず、個別企業に強い影響力をもつことになった。「財界人」が自らの企業を超えて一般経済界に強い影響力をもっていることは今日にいたるもわが国の大きな特色と思われるが、その原型が生まれたのである。財界人型企業者の代表として、のちに渋沢栄一五代友厚を取り上げる。

引用は、「会社制度の普及」のなかの一節です(太字は私が付しています、以降も同様です)。
もう一つ引用しておきましょう。私が購入した当該単行本には16ページの付録が挟み込まれていました。著者の宮本教授と経済小説家として一世を風靡した城山三郎氏との対談です。学会と民間(小説家)のコラボレーションですね。

多くの資本家から資金を集めたその方法は「奉加帳方式」…!?

<宮本>
そのマージナル・マンについて少しお話を伺いたいんです。企業史学という学問で「マージナル・マン仮説」というのがあります。これは旧来の社会秩序の中枢からは「革新」者がでてこない。旧秩序の周辺にいる人が革新の担い手であるという説です。その意味で渋沢栄一や岩崎弥太郎など、武士か農民かわからない出身ですが、マージナル・マン仮説にあてはまります。城山さんはこういう点をどうお考えですか。
<城山>
四十年ほど前『中京財界史』(『創意に生きる中京財界史』文春文庫)を書いたとき、幕末の尾張藩に奥田正香という人物がいたんです。明治になると“名古屋の渋沢栄一”と言われた人で、下級役人の出身で実業家になりました。もう一人、福沢桃介。彼が名古屋にきて、名古屋はずいぶん活性化するんです。この二人はマージナル・マンでした。ともに旧秩序の中核から出たというわけではないですし。
<宮本>
奥田も福沢も中京財界のまとめ役的存在でもありましたね。それをもう少し規模を大きくすると渋沢や五代友厚ですね。
<城山>
そうですね。
<宮本>
ふつうの資本主義経済モデルでは、株式市場があるならば投資家は新会社の設立計画書なり、収益なりを見て判断しながら投資するということになっていますが、明治草創期はそんなこと絶対ありえない(笑)。おそらく、渋沢や五代が投資家たちを説得して回る。その信用で、初めて金が動きはじめたんじゃないか、と思うんです。
<城山>
いわゆる奉加帳形式です。まず渋沢が真っ先にいくらいくらと書いて、出口で座っている。あとのみんなも書かないで渋沢の前を通れない(笑)。それにやはり「お国のため」の意識があるんですよ。渋沢や五代は、自分のしていることは国事である、という非常な自負がある。

NHK大河ドラマ『青天を衝け』のなかで、五代友厚をディーン・フジオカさんが演じています。「東の渋沢栄一・西の五代友厚」と称されたほど、五代友厚も大きな実績を残しています。

「奉加帳形式」は絶妙な喩えですね。渋沢栄一の信念・活動ぶりが多くの人の心を捉え、それが「この人は信用できる」という思いとして広がり、「この人が言うのなら…」という流れが形成されていったのだな、と私は理解しました。

前回のコラムで、日本商工会議所の『日商 Assist Biz』を紹介し、明治11年に日本で初めての経済団体である「東京商法会議所」(現在の日本商工会議所)が設立され、初代会長に渋沢栄一が就任したことに触れています。
そのなかで、渋沢栄一記念財団 渋沢史料館の井上館長が、次のように答えている箇所があります。

渋沢栄一の活動の在り方は経済団体がカギを握っている…

─渋沢は明治11(1878)年に、今の東京商工会議所の前身となる東京商法会議所を設立し、初代会頭に就任しました。設立の理由は何だったのでしょうか。 <井上>
当時、解決するべき大きな問題だったのが、幕末に欧米諸国と締結した不平等条約の改正でした。その取り組みの中で日本の当局者がイギリスのパークスという駐日公使に対して、不平等条約の改正を進めなければ日本の世論が許さないのだと訴えましたが、パークスは、「日本には世論がない、民間の人間が口々に意見を言っているかもしれないが、それをきちんと整理して一つの世論として形成する機関が日本にはない」と指摘したのです。
そこで大隈重信が渋沢に相談を持ち掛けました。渋沢は英米にあるチェンバー・オブ・コマース(商業会議所)を知っており、目指していた民間の力の底上げを図っていくうえで必要な機関だと強く意識しました。渋沢が民間の機関が民意を結集する場として東京商法会議所を設立し、その後日本各地に商法会議所が独自に組織されていきました。
実は、商工会議所設立の一番大きな理由は、条約改正の問題で民意を結集させなければいけないというところだったのです。

パークスの「日本には世論がない」という指摘は、まさにその通りで、世界に閉じていた江戸の幕藩体制が覆されたばかりであり、そもそも江戸期の人々にとっての“国”は藩ですから、日本全体が一つの国であるという概念は、形成されていなかったのですね。
言うなれば、藩という独立性の強い地域が集まった連邦国家というのが実態でした。

渋沢栄一をはじめとする明治政府の枢要を担う人たちは(渋沢栄一が明治6年に大蔵省を退官した時の官位は“大蔵少輔事務取扱”です)、そのことを痛切に認識していました。江戸時代を通じて「お上=士」という意識が強烈に刷り込まれており、それ以外は「農・工・商」と身分も区分され、「民意」として、多少ともまとまった考えというものは、まったく存在していない、といっても過言ではなかったのです。

渋沢栄一は、機関としての経済団体を組織し、そこを母体として「民意の結集」を図るべく活動を開始したのです。
今日「経済3団体」という言葉が定着しています。日本を代表する経済団体のことで、この3つは、他に多く存在する経済団体とは別格である、という意味合いが込められています。 それぞれが持つ性格を以下に簡潔に記しておきましょう。

日本商工会議所(略称:日商/JCCI)
最も歴史のある経済団体であり、明治11年に東京(渋沢栄一)、大阪(五代友厚)、神戸(神田兵右衛門)に設立された3つの商法会議所がそのスタートです。()は主唱者です。
名称として“日本”と付されているように、1892(明治25)年に15の商業会議所が連合し、商業会議所連合会(現在の日本商工会議所)が結成されます。
現在は、全国各地の515商工会議所が会員で、中小企業など約125万社が参加しています。
それぞれの商工会議所は「その地区内における商工業の総合的な発展を図り、兼ねて社会一般の福祉増進に資する」ことを目的とし、そのことを踏まえて全国組織である日商は、商工会議所間の意見の総合調整や国内外の経済団体との提携を担うべく活動しています。

日本経済団体連合会(略称:経団連/Keidanren)
財界の総本山と呼称された「経済団体連合会(経団連1946年発足)」と、財界の労務対応を担っていた「日本経営者団体連盟(日経連1948年発足)」が2002年5月に統合して発足した経済団体です。
統合以前に“経団連”と呼称されていた「経済団体連合会」には“日本”が付されていなかったので、現在の名称は統合後となります。略称は変更なく「経団連/Keidanren」ですね。
純資産額10億円以上を会員資格条件としていたため(2018年に1億円以上に改訂)、必然的に大企業を中心とする約1500の企業等を会員とする経済団体です。

経済同友会(略称:同友会)
終戦直後の1946年に日本経済の堅実な再建を目指し、当時の新進気鋭の有志が集まって発足した経済団体です。現在でも企業経営者が個人として参加することになっており、ともすれば大企業色が出てしまい、政府との関係性が問われがちな経団連と比べて、企業や特定業界の利害にとらわれない、自由な議論にもとづく提言が期待されている、という特徴があります。

今日に至って、歴史を重ねたこの3団体に限らず、その活動の在り方について、さまざまな指摘、評価がなされていますが、経済団体には明確な存在意義があります。
それは、社会に大きな影響を与える大企業であっても、政府はその企業が個社として要望する内容について、正面から受け付けることを回避します。

経済団体の存在意義とは…

政府の活動(地方自治体も含めて)は、文字通りのパブリックであり、個別企業への利益供与とみなされることには組みしない…これが原則です。

一方で政府には、納税者としての企業(生活者の集合体としての組織体でもあります)の意見・要望を、個々バラバラではなく把握したい、というニーズもあるのです。
経済団体は、個別企業としてではなく、さまざまの意見をとりまとめ、集約した意見として政府に物申す…これが経済団体としての政策提言であり、政府も「民意」を把握するために求めているのですね。

渋沢栄一が、日本初の経済団体である商法会議所の設立を担ったのは、井上館長が語るように明快な目的に基づく行動だったのです。

ところで、コロナ禍の終息がなかなか見通せない中、大きな期待を背負ってデジタル庁が発足しました。それを報道する9月2日の朝日新聞に、2つの経済団体のコメントが取り上げられています。

私が「おやっ?」と思ったのは、最初のコメントが経団連ではなく、新経連(新経済連盟)という、IT企業が会員の多くを占める10年前に発足した歴史の浅い経済団体であったことです。2つの団体のコメントは次の通りです。

新経連のコメント
「デジタル庁を司令塔として進める日本の『デジタル革命』は、150年前の明治維新、75年前の戦後改革に匹敵する規模と意義を持つ」

経団連のコメント
「コロナ禍がわが国のデジタル化の遅れを白日のもとにさらした。世界に周回遅れとなったわが国デジタル化の停滞を一気呵成に挽回する号砲となることを期待する」

渋沢栄一が多く育てた今日の大企業もスタートはいずれもベンチャー企業です。その渋沢栄一は「アニマルスピリット」を発揮し、生涯枯れることなく91年を走り抜けました。新経連のコメントには、「主体となって改革そのものを成し遂げたい!」というベンチャースピリットを私は感じています。

渋沢栄一についてのコラムを7回にわたって綴ってきました。今回で一旦、私の拙い渋沢研究を終えようと思います。
渋沢栄一の生涯に思いを馳せるとき、「異なる価値観だとされているものについても、統合させ、そして調和させることはできる。その結果は足し算ではなく、新たな価値が生み出され、イノベーションにつながっていく」という渋沢栄一の信念として迫ってきます。

私どもは、調和を生み出すコーチングを世の中に広めていきたい、という想いを抱いて日々取り組んでいます。

これからも渋沢栄一の足跡をコツコツとたどりながら、私たちの行動のドライバーとしてエネルギーを注入し続けていきたいと強く思っているところです。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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渋沢栄一とコーチング ~「道徳経済合一説」とアダム・スミスの『国富論』、 そしてマックス・ウェーバー~(2021/09/01)

<井上> 彼自身の中では企業経営と社会事業との間に区別がなかったのだと思います。むしろ企業経営も社会事業の一環だと思っていたのではないでしょうか。世の中のインフラを整備するという事業に必要なものが、企業だったり社会事業だったりということだったと思います。そのように日本を発展させる努力をしたのですが、それでみんなが幸せになったかというとそうでもなく、格差も生まれてきた。その状況にも渋沢は目を向け、その格差をなくしていくために、福祉といった事業にも重きを置いていくようになりました。渋沢は決して産業だけではなく、世の中全体のことについて目を向けていたのです。

「日本における資本主義の父」との呼称が、渋沢栄一の人物像を“一言”で紹介する際の、人口に膾炙したキャッチフレーズであることは異論のないところでしょう。
ただこの「資本主義」の概念は、あまりにも多義的なので、前々回のコラムで私は、このキャッチフレーズを「日本における(パブリックを包摂した)資本主義の父」と、( )を付して捉えていることをコメントしました。

これは、渋沢栄一の「道徳経済合一説」を、シンプルに取り込んだ表現のつもりなのですが、「これだけでは本質が伝わらないよなぁ」との思いが脳裏をかすめていたのですね。 読者の皆さんに腑に落ちる説明ができないだろうか…? との思いから「渋沢栄一 道徳経済合一説」とグーグルで検索し、その結果見つけたのが冒頭のコメントです。

日本商工会議所のホームページのコンテンツである『日商 Assist Biz』にあった、「渋沢栄一記念財団 渋沢史料館」の井上潤館長へのインタビューがその内容です。
https://ab.jcci.or.jp/article/4011/

趣旨説明は次の言葉から始まります。
平成30(2018)年は、明治11(1878)年に東京、大阪、神戸に商工会議所(当時は商法会議所)が誕生して140年を迎える記念すべき年である。そこで、東京商法会議所の初代会頭であり、近代日本社会の礎となる事業に参画し、現在まで続く数多くの企業の設立に携わった渋沢栄一の軌跡と彼が目指した経営哲学に迫りたい。

冒頭引用の太字は私が付しています。この箇所に私は大いなる共感を覚えました。そして井上館長は、この資本主義という言葉について、渋沢栄一がどのように受けとめていたのか、次のように語っています。

渋沢は「日本資本主義の父」と呼ばれていますが、彼自身は資本主義という言葉をあまり使わず、使ってもあまり良い意味にではありませんでした。欧米の資本主義というのは、私の利益を第一に求める人たちの考え方だと思っていました。その中でいわゆる見えざる手が働いて世の中に利益還元が図られるということで、渋沢は公の利益を第一に考えることが自分の利益につながってくるのだと言っていたのです。

渋沢栄一が「資本主義」という四文字をどのように捉えていたのか…合点した次第です。文中の「…いわゆる見えざる手」というのは、アダム・スミスの“神の見えざる手”のことです。
渋沢栄一の『論語と算盤』では、アダム・スミスに直接的に触れたところはないのですが(その思想を連想させるところはあります)、以前のコラムでも紹介した『グローバル資本主義の中の渋沢栄一/パトリック・フリデンソン、橘川武郎編著(東洋経済新報社)』の中に次の一節があります。

渋沢の道徳経済合一説に、アダム・スミス(1723~90年)の思想との共通性を見出す人は多い。そもそも渋沢自身がその共通性を認めている。1923年にレコード録音した講話「道徳経済合一説」の中で、渋沢は次のように述べている。 聞くところによれば、経済学の祖・英人アダム・スミスは、グラスゴー大学の倫理哲学教授であって、同情主義の倫理学を起こし、次いで有名なる『富国論』を著して、近世経済学を起こしたということであるが、これはいわゆる先聖後聖その揆を一にするものである。利義合一[道徳経済合一]は、東西両洋に通ずる不易の原理であると信じます。

この箇所は、第2章のタイトル「道徳経済合一説」で、一橋大学大学院商学研究科の田中一弘教授が指摘したところです。田中教授は学者としての視点で、渋沢栄一がアダム・スミスの思想との類似性をどう見出していたのかを分析した上で、両者の思想上の違いを解説しています。

…渋沢の思想とスミスの思想には、以上のような共通点がある。しかし、両者をより詳細に比較してみると、重要な相違点があることにも気づく。それは端的に言えば、経済主体に公益の追求を期待するか否かの違いである。渋沢はそれを期待し、スミスは期待しない。
渋沢にとって、人びとを豊かにするという公益の追求は「究極の道徳」であり、民間で経済活動に携わる人々もその実現の一翼を担うべきことを強調したことは、第2節で述べた。この主張こそが渋沢の道徳経済合一説の核心部分であった。…

渋沢栄一の方が、より広がりのある思想ですね。
私はNHKの大河ドラマ『青天を衝け』を視聴する以前は、渋沢栄一について、それほどの知識を有していたわけではありません。したがって、私の拙い渋沢研究は、それ以降です。「きっかけ」というのは、どこに転がっているのか、実に不思議なもので、私は現在、まさに渋沢栄一に嵌っています。

その嵌ったおかげで、大昔に買っておきながら、いつかは読もう(読まなければ…)と思いつつ、敷居の高さを感じて手に取ることをしなかった(手に取れなかった)、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神~大塚久雄訳(岩波文庫)』を書棚の奥から引っ張り出しました。

この本は、「道徳・倫理は、資本主義が内包する営利活動とは相容れない価値観と解釈されているが、西洋における近代的資本主義の精神は、禁欲的であるプロテスタンティズム(なかでも最も禁欲的であるカルヴィニズム)と結びついて発展してきた」という内容です。 まさに“倒錯”です。全く違う価値観にもかかわらず地下水脈ではつながっていた…といったところでしょうか。

渋沢栄一が、「道徳と商売を二項対立」として受けとめられている実態を、何とか打破しようと、何とか結節しようと、何とか調和させようと、その拠り所を『論語』に見出し「道徳経済合一説」として結実させています。

他方のマックス・ウェーバーは、宗教社会学の視点で同書を著し、それが当時の社会に衝撃を与えます。同書の発表が、その後の西洋思想界(ウェーバーは、政治学者、経済学者、社会学者と称されます)の巨人として讃えられるに至る起点となった論文なのですね。

何事も先入観を持つのはよくないなぁ、と感じたのですが、ウェーバーの同書は、訳者の大塚久雄氏の貢献もあり、おそらく原書の難解であろうところを、平明を心がけ私たちに届けてくれているようにも感じました。400ページの大部の書ですが、「本文と注のどちらが多いのか…」といった構成になっており、本文だけを読み通すのは、それほど難儀しなかったことお伝えしておきます。
ここまで紹介して内容に触れないのもどうかと感じますので、最後の「訳者解説」のなかから、次の一節を引用しておきます。

…こういう人々は、金儲けをしようなどとは思っていたわけではなく、神の栄光と隣人への愛のために、つまり、神からあたえられた天職として自分の世俗的な職業活動に専心した。しかも、富の獲得が目的ではないから、無駄な消費はしない。それで結局金が残っていった。残らざるを得なかった。これは彼らが隣人愛を実践したということの標識となり、したがってみずからの救いの確信ともなった。が、ともかく結果として金が儲かってくる。ピュウリタンたちはそれを自分の手元で消費せず、隣人愛にかなうような事柄のために使おうとした。たとえば彼らは公のために役立てようと寄付した。その精神がどこまでそのまま伝えられているか分かりませんが、アメリカの金持ちたちが財団をつくったりするのは、そういうことの名残りだと言われています。

この論文は1904~1905年の発表なので、渋沢栄一の60代の半ばころにあたります。論文が邦訳として日本に紹介されたのは昭和13年なので、渋沢栄一は同書には目を通していないと想像されます(渋沢栄一は昭和6年没です)。ただ、『論語と算盤』のなかで、キリスト教と論語の差異をかなり詳細に分析しており、渋沢栄一の宗教に対するスタンスを垣間見ることができます。

…キリスト教は、このように夢想の色合いの強い時代に生まれた宗教なので、その教えが命令的で、権利思想も強くなったのである。
しかし、キリスト教の説く「愛」と、『論語』の教えである「仁」とは、ほとんど一致しているのではないだろうか。ただし、そこにも「自分からする」と「他人からされる」という違いはある。たとえばキリスト教の方では、
「自分がしてほしいことを、人にもしなさい」
と教えているが、孔子は、
「自分がしてほしくないことは、他人にもしない」
と反対に説いている。だから一見義務ばかりで、権利の考え方が無いように見えるわけだ。
しかし義務と権利とは対照的に見えても、結局は一致するという指摘もある。だからわたしは、キリストと孔子が目指したものも最終的には一致するのであろうと考えている。
さらに私自身は、宗教やその教義としては、キリスト教の方がよいかもしれないが、人間を守る道としては孔子の教えの方が良いと思っている。これはわたしの独自の考え方かもしれないが、孔子の方が高く信頼できる点として、奇蹟が一つもないことがある。キリストにせよ釈迦にせよ、奇蹟がたくさんある。キリストが磔にされてから三日後に蘇生したというのは、明らかに奇蹟ではないか。… 『論語と算盤(現代語訳)ちくま新書』より

リアリストたる渋沢栄一を如実に感じることのできるコメントですね。
『論語と算盤』や、渋沢栄一が残したさまざまの言葉を探求していくと、渋沢栄一の中に、「対立概念、相容れない価値観とされるものにも、結節できるところはある!」
「白か黒かではなく、両者の美点を探しそれをすくいとることで、新たな価値は生まれる!」という強い志向性があることを私は感じています。「調和」の哲学といえるでしょうか。

「多くの議論が“論点先取”として、論破することを目的に進行してしまうこととは、対極のスタンスに渋沢栄一は立脚している」…これが私の渋沢栄一観です。
コーチングの哲学と相通じるところを私は見出しています。

さて、今回のコラムのまとめに入ります。
冒頭の引用で井上館長が、「彼自身の中では企業経営と社会事業との間に区別がなかったのだと思います。むしろ企業経営も社会事業の一環だと思っていたのではないでしょうか」と、コメントしています。

今回のコラムを通して「資本主義」を語ってきましたが、渋沢栄一にとっての「資本主義」は手段であり、その資本主義も、渋沢栄一が提唱した「道徳経済合一説」をベースとする「合本組織」です。
渋沢栄一の本来の目的は「格差のない社会・みんなが幸せに暮らせる社会を実現すること」なのですね。

私たちは、目的と手段を混同しがちです。「日本における資本主義の父」というキャッチフレーズを返上し、渋沢栄一の真の姿をイメージできる「新たな価値としての尊称」を見出す必要がありそうです。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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渋沢栄一とコーチング ~渋沢栄一が啖呵を切ったその“言葉”が「道徳経済合一説」を生んだ…!?~(2021/08/23)

今まで孔子の教えを信じる学者が、彼の教えを誤解していたなかでももっとも甚だしいものは、「富と地位」と「経済活動」の二つの考え方であろう。彼らが『論語』を解釈したところによると、「道徳と思いやりの政治を掲げて、世の中を治める」ことと、「経済活動によって富と地位を得る」こととは、火のついた炭と氷のように、一緒にはしておけないものとされている。

前回のコラムで、「…『論語』の教えは広く世間に効き目があり、もともとわかりやすいものなのだ」、と『論語と算盤(現代語訳)/ちくま新書』のなかで、渋沢栄一が語っていることを取り上げました。

渋沢栄一は、権威を嫌いリアルな世界観を築きます。

誤解している学者は「口やかましい玄関番」であり、こんな玄関番に頼んでいては孔子には面会できない。本来の孔子は、さばけた人なのである…
と渋沢栄一が解釈する根拠が、同『論語と算盤』の第4章「仁義と富貴」に書かれています。今回のコラムは、渋沢栄一が『論語』によって、終生を貫く哲学である、「道徳経済合一説」を確立した背景について迫ってみようと思います。

…では孔子は本当に、
「富と地位を手にした者は、道徳によって世の中に貢献する考えなどない。だから、高い道徳を持った人物になりたければ、金儲けなどしようと思ってはならない」
といった内容を説いていたのだろうか。わたしが二十篇ある『論語』をくまなく探してみても、そんな意味の言葉は一つも発見できなかった。

と、「口やかましい玄関番」の解釈を真っ向から否定します。
私は「渋沢栄一とはどのような人なのだろうか…?」というテーマを掲げ、渋沢栄一に関する多くの著作に目を通し、さらにインターネットに氾濫する渋沢栄一情報を、できるかぎりの“メタ感覚”で捉えようと自分に強いてきました。
その過程で浮かび上がってきた自分なりの渋沢栄一像とは、

「フィクションに惑わされることなく、論語を拠り所に現実を見据え、常に中庸(バランス)に気を配り、レジリエンスを駆使して“調和”する世界をつくり上げることに一生を捧げた“リアリスト”」です。

渋沢栄一の心の奥底を探訪してみる…

幕末維新という激動の渦中に、大蔵官僚としてスピード出世が始まった矢先に、大蔵省を退官しています。
その間の自分の想い…心持がどのように推移し(変化し)、そして下野(あえてこの言葉を用います)することを意思決定したのか、については、『実験論語処世談』や『論語と算盤』に記されています。
https://coaching-labo.co.jp/archives/3272

ただ、そこに描かれる内容について、文字面というよりコンテクストに意識を集中させて読んでみると…ちょっと違うイメージが浮かんできます。

先のコラムで渋沢栄一の言葉を引用し、この33歳が「真の立志」の年であることを紹介しました。
あえて、この「真の立志」を深読みすることを許していただければ、
後年「真の立志」が叶い、成就したことを踏まえて、「うん、あの時の私の判断は間違いなかった!」「それは結果が証明してくれた!」と、心の安寧を得て(安心して)、書き留めた言葉のような気がしています。

『論語と算盤(現代語訳)』の冒頭第1章に、渋沢栄一の大蔵省の同僚である玉乃世履(せいり)から、退官を強く引き止められたシーンがあります。玉乃は後に大審院長(現在の最高裁判所長官)になった人物です。

大親友の直言に当時の渋沢栄一は動揺したのかもしれない…?

二人は役所のなかで非常に仲良くし、出世ぶりも一緒で、勅任官(天皇から直接任官される役職)にもなった。二人は「共に将来は国務大臣になろう」という希望を抱いて進んでいた。だから、わたしが突然官僚を辞めて商売人になるというのを聞くと、いたく惜しみ、「ぜひに」といって引き止めてくれた。

その大親友から、次のように言われるのです。

「君も遠からず長官になれる、大臣になれる、お互い官職にあって国家のために尽くす身だ。それなのに、賤しむべき金銭に目がくらんで、官職を去って商人になるとは実に呆れる。今まで君をそういう人間だとは思わなかった…」

渋沢栄一はすでに辞めることを決めていました。ただ、おそらくですが、当時の渋沢栄一は、この忠告に対して、後に確立するところの「道徳経済合一説」については、まだ漠としていたのですね(と想像します)。

33歳のまだ若い(といっても、当時の平均寿命は44歳あたりです)渋沢栄一には捨てきれないプライドがあります。
そう思われてしまうのも、むべなるかな…と渋沢栄一も感じたかもしれません。しかし玉乃を納得させるべく、「弁駁しなければならない!」と渋沢栄一は考え、『論語』を持ち出します。

そのときわたしは、大いに玉之に反論し、説得したのだが、引き合いに出したのが『論語』だった。宋王朝の名臣・趙普が、
「『論語』の半分を使って自分が仕えている皇帝を助け、のこりの半分を使って自分の身を修める」といったことを引用しながら、
「わたしは『論語』で一生を貫いてみせる。金銭を取り扱うことが、なぜ賤しいのだ。君のように金銭を賤しんでいては、「国家は立ちゆかない。民間より官の方が貴いとか、爵位が高いといったことは、実はそんなに尊いことではない。人間が勤めるべき尊い仕事は至るところにある。官だけが尊いわけではない」
と『論語』などを引用しながら、いろいろ反論や説明に努めたのである。

「思わず言ってしまった!」と感じるのは、私だけかもしれませんが、その言葉を玉乃に伝えたことで、「男子に二言はない!」との強い気持ちを心に刻み込み、
「『論語』の言葉は、果たして実践との齟齬が、ありや、なきや」…と常に自問と自答を繰り返し、その結果…おそらく50歳代ころに「心底信じきれる“拠り所”」に昇華したと、私は受けとめています。

人にとって絶対必要な“拠り所”について考えてみました。

人にはそれぞれ“拠り所”があります。
それは “宗教” かもしれません。あるいは、酒に弱く日頃口数の少ない父親が、珍しく酔ったその日、ポツリと語った一言が20歳の息子の心に浸み入り、辛く苦しい時も「その一言に基づいて判断すれば大丈夫!」と、安心感を抱ける “その一言” かもしれません。
渋沢栄一の場合、それが「論語の“言葉”」なのですね。

「まず言葉ありき」という“言葉”が私は好きなのですが(語源の聖書とは異なる捉え方です)、ライバルでもあった大親友の玉乃に啖呵を切った“言葉”が、渋沢栄一の行動を決定づけました。
渋沢栄一は好奇心のかたまりであり、『論語』以外にも、今日でいうところの「リベラルアーツ」にも通暁しています。『論語』への指向性は、幼少の頃より尾高惇忠の教えを受けたことで親和性は感じていました。
ただ、大蔵省にそのままとどまった場合…そのパラレルワールドを想像してみると、70歳を過ぎて語るその拠り所は、“別のもの”に代わっているのかもしれません。

少し空想の世界に浮遊してしまいました。
私の拠り所は、 “カール・ロジャーズの次の言葉” です。コーチングを学ぶモチベーションとして、今も私を魅了し続けています。
https://coaching-labo.co.jp/archives/2931

「私が他人を受容することができると、それはとても報いられるものである」
「誰でも進んで自分自身になろうとすればするほど、自分が変化するばかりでなく、自分と関係している人たちもまた変化していくのである」

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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渋沢栄一とコーチング ~渋沢栄一の心・技・体が融合する『論語と算盤』の孔子像!~(2021/08/12)

世間には、随分と自分の力を過信して非望を起こす人もあるが、あまり進むことばかり知って、分を守ることを知らぬと、とんだ間違いを惹き起こすことがある。私は、蟹は甲羅に似せて穴を掘る、という主義で、渋沢の分を守るということを心がけている。(中略)しかしながら分に安んずるからといって、進取の気象を忘れてしまっては何にもならぬ。

『論語と算盤 渋沢栄一(角川文庫 平成20年)』は、昭和二年刊の『論語と算盤(原文)』が底本で、現代仮名遣い、当用漢字に改められていますが、原文がベースで、渋沢栄一の語りそのままが伝わってきます。そのなかの「蟹穴主義が肝要」を引用してみました。

NHK大河ドラマ『青天を衝け』のスタッフに脱帽!

『青天を衝け』が好評です。その背景や理由について、SNSをはじめ、さまざまな書き込みがなされ、それに目を通すのも一つの楽しみとなっている今日この頃です。
NHK大河ドラマは、そのスケールといい、日本のTVドラマとしては破格の予算が投じられることもあって、民放とは異なる観点で視聴率等が問われるようですが、このたびの『青天を衝け』の野外セットには度肝を抜かれました。

群馬県の安中市に、人の背丈以上に育った広大な桑畑や藍葉の畑を見事に再現し(東京ドーム5個分の広さ、とのことです)、送電線の鉄塔も映り込んでおらず(CG処理でないとしたら、このような場所をロケハンで探しあてたスタッフには脱帽です)、制作メンバー一同の意気込みが、渋沢栄一役の吉沢亮さんをはじめとする俳優陣のリアルに富む熱気あふれる演技を引き出しています。ドローンによる鳥瞰映像も大いなる広がりを感じさせ、関係各位のシナジーが見事に結実した上質な作品に仕上がっています。

「みんなで作り上げた作品!」はエンドロールに込められている。

画面で映し出される俳優は数人(アニメの場合この表現は当てはまりませんが…笑)かもしれませんが、そこには映ることのない膨大な数のスタッフが、ドラマや映画をつくり上げていきます。そして、エンドロール(映画の場合)で記名される人(組織も含めて)については、関与の質量を問わず、「みんなで作り上げた作品なのだ!」という総意のもと、長尺で紹介されていきます(最近の傾向ですね)。

映画を見終えた余韻とともに、私たちは静かにその名前を辿ります。バックグラウンドのミュージックも相まって、情感の深いところで“何か”が呼び起こされます。
最近見た映画の『シン・エヴァンゲリオン』は、エンドロールが9分間です。その間誰一人として席を立つ人はいませんでした。
映画って、本当にイイですね…
NHK大河ドラマから映画私論になってしまいました。戻します。

『青天を衝け』の渋沢栄一は従来の大河ドラマの主人公とは違う…

大河ドラマは、基本的に歴史上の人物を主人公として、その一生を描いていきますが、これまでの主人公たちと、渋沢栄一は何かが違う、と私は感じています。
それは…従来の主人公は実在するものの「フィクションとして描かれている」ことを暗黙裡に受けとめていたのに対し、『青天を衝け』の渋沢栄一には、リアルをイメージできる…といったところでしょうか。

そのように解釈する前提は、「渋沢栄一は現実をしっかりとグリップできる人」だったのではないか…という印象が伝わってくるところですね。

脚本の大森美香さんの視点をベースとして『青天を衝け』の“渋沢栄一“が造形されていますが、『論語と算盤』をはじめとして、「言」である談話や著作が膨大に残されており、そのことは、実際の「行」と矛盾はないのか…という検証の材料にはこと欠きません。よくある『偉人伝』とはまた違う姿を、私たちは追いかけることが可能です。

この点を根拠にして、「渋沢栄一はフィクションに惑わされることなく、論語を拠り所に現実を見据え、常に中庸(バランス)に気を配り、レジリエンスを駆使して“調和”する世界をつくり上げることに一生を捧げた“リアリスト”」である、と私はその人物像を同定させました。

私が書き続けている当該コラムシリーズのテーマは「コーチング」です。渋沢栄一が33歳の立志以降、確立していくその「世界観」を知れば知るほど、「コーチング」との強い親和性に心が動かされます。
「さらに深く探求したい!」というモチベーションが高まっています。

冒頭は『論語と算盤』の原文ですが、次に『論語と算盤(現代語訳・守屋淳/ちくま新書』から、その「世界観」が伝わってくる語りを紹介してみましょう(太字は私が付しています)。

『論語と算盤』の「常識とは如何なるものか」を抜粋します。

人の心を分析して、「智、情、意」の三つに分類するというのは、心理学者の説に基づくものだが、この三つの調和がいらないという者など誰もいないだろう。知恵と情愛と意志の三つがあってこそ、人間社会で活動ができ、現実に成果をあげていけるものである。ここでは、常識の原則である、「智、情、意」の三つについて、少し述べてみたいと思う。 まず「智」とは、人にとってどのような働きをするのだろう。人として知恵が十分に発達していないと、物事を見分ける能力に不足してしまう。たとえば、物事の善悪や、プラス面とマイナス面を見抜けないような人では、どれだけ学識があったとしても、良いことを良いと認めたり、プラスになることをプラスだと見抜いて、それを採ることができない。学問が宝の持ち腐れに終わってしまうのだ。この点を思えば、知恵がいかに人生に大切であるかが理解できるだろう。 しかし、「智」ばかりで活動ができるかというと、決してそうではない。そこに「情」というものがうまく入ってこないと、「智」の能力は十分に発揮されなくなってしまう。
たとえば、「智」ばかりが膨れ上がって情愛の薄い人間を想像してみよう。自分の利益のためには、他人を突き飛ばしても、蹴飛ばしても気にしない、そんな風になってしまうのではあるまいか。
もともと知恵が人並み以上に働く人は、何事に対しても、その原因と結果を見抜き、今後どうなるかを見通せるものだ。このような人物に、もし情愛がなければたまったものではない。その見通した結果までの道筋を悪用し、自分がよければそれでよいという形で、どこまでもやり通してしまう。この場合、他人に降りかかってくる迷惑や痛みなど、何とも思わないほど極端になりかねない。そのバランスの悪さを調和していくのが、「情」なのだ。 「情」は一種の緩和剤で、何事もこの「情」が加わることによってバランスを保ち、人生の出来事に円満な解決を与えてくれるのである。もしも人間の世界から「情」という要素を除いてしまったら、どうなるだろう。何事も極端から極端に走って、ついにはどうしようもない結果を招いてしまうに違いない。だからこそ、人間にとって「情」はなくてはならない機能なのだ。 しかし、「情」にも欠点があって、それは瞬間的にわきあがりやすいため、悪くすると流されてしまうことだ。特に、人の喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、愛しさ、憎しみ、欲望といった七つの感情は、この引き起こす変化が激しいため、心の他の個所を使ってこれらをコントロールしていかなければならない。感情に走りすぎるという弊害を招いてしまう。この時点で「意志」というものの必要性が生じてくるのである。 動きやすい感情をコントロールするものは、強い意志より他にはない。だからこそ、「意」は精神活動の大本ともいえるものだ。強い意志さえあれば、人生において大きな強みを持つことになる。しかし意志ばかり強くて、他の「情」や「智」がともなわないと、単なる頑固者や強情者になってしまう。根拠なく自信ばかり持って、自分の主張が間違っていても直そうとせず、ひたすら我を押し通そうとする。 もちろん、こんなタイプも、ある意味から見れば尊重すべき点がないでもない。しかし、それでは一般社会で生きる資格に欠け、精神的に問題があって完全な人とはいえないのだ。強い意志のうえに、聡明な知恵を持ち、これを情愛で調節する。さらに三つをバランスよく配合して、大きく成長させていってこそ、初めて完全な常識となるのである。 現代の人は、よく口癖のように「意志を強く持て」という。しかし意志ばかり強くてもやはり困りものでしかない。俗にいう「猪武者(突き進むことしか知らない武者)」のような人間になっては、どんなに意志が強くても社会で役立つ人物とはいえないのである。

(パブリックを包摂した)渋沢栄一の資本主義!

いかがでしょうか。
「智・情・意」については、だれもが見聞きするワードです。この3つは関連し合い、そのバランス、調和がいかに大切であるのか…そのことを渋沢栄一は、平明な表現で説明してくれます。ストンと腑に落ちますね。

私は渋沢栄一を、「日本における(パブリックを包摂した)資本主義の父」であると同時に、「世界第一級の実践的論語研究者」であると捉えます。
「資本主義」はとても広い概念です。場合によっては「弱肉強食」とのイメージで理解する人もいるでしょう。渋沢栄一は、それとは異なり、公益あっての資本主義です。したがって、「( )付の資本主義の父」であることを強調しておきます。

「論語研究家」としての像も、『実験論語処世談』として著されているように、一般に定義されるところのアカデミズムとはスタンスを異にします。ちなみに“実験”とは“実体験”の意味ですから、実践に根差した(日常の生活に直結した)論語解釈なのですね。
渋沢栄一はこのことについても、『論語と算盤(現代語訳)』の中で語っています。

渋沢栄一の心技体が融合したハイブリッドの孔子像!

『論語』は決してむずかしい学問上の理論ではないし、むずかしいものを読む学者でなければわからない、というものでもない。『論語』の教えは広く世間に効き目があり、もともとわかりやすいものなのだ。それなのに、学者がむずかしくしてしまい、農民や職人、商人などが関わるべきではないし、商人や農民は『論語』を手にすべきではない、というようにしてしまった。これは大いなる間違いである。 このような学者は、たとえてみると、口やかましい玄関番のようなもので、孔子には邪魔ものなのだ。こんな玄関番を頼んでみても、孔子に面会することはできない。孔子は決してむずかし屋ではなく、案外さばけていて、商人でも農民でも誰にでも会って教えてくれるような方なのだ。孔子の教えは、実用的で卑近な教えなのだ。

「むずかしく論語を教示する学者」のことを、「口やかましい玄関番」と例える渋沢栄一のトーク・センスは実に痛快ですね。「官尊民卑の打破!」を行動ドライバーとする渋沢栄一の面目躍如です。学会は“官”とは異なるものの、どこか「権威」が鎮座しているイメージです。

以前のコラムで、ノーベル経済学賞を受賞した心理学者のカーネマン教授とトヴェルスキー氏を取り上げました。そこで私が語ったトーン&マナーは…これまでの経済学が前提としていた人間観である「エコン」とは別の、“普通の人”である「ヒューマン」を前提とし、私たちが「あるある」と実感できる意思決定のパターンを見事に描き出してくれた…という視点です。
https://coaching-labo.co.jp/archives/3169

渋沢栄一の『論語と算盤』を読み込むと、本来は生身の人間であるにも関わらず、いつの間にか「権威」として崇め奉られてしまっていた「孔子」が、実はいつも身近に居てくれて、困ったとき、悩んだときに、「大丈夫だよ」とやさしく声をかけてくれる「円熟のコーチ」としてイメージが伝わってきます。
なお、その孔子像とは、渋沢栄一の心技体が融合した「ハイブリッドとしての孔子」であることを、しっかり嚙みしめていこうと思っています。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~渋沢栄一の合本組織と人的能力至上主義~(2021/08/02)

三菱の先代岩崎弥太郎は、多人数の共同出資によって事業を経営する事に反対した人である。多人数寄り集まって仕事をしては、理屈ばかり多くなって、成績の挙がるもので無いというのが弥太郎の意見で、何でも事業は自分一人でドシドシ経営してゆくに限るという主義であった。 したがって、私の主張する合本組織の経営法には極力反対したものだが、それだけまた、人才を部下に網羅する事には劫々骨を折り、学問のある人を多く用いたものである。これが、弥太郎の人才を登用するに当っての一特徴であったかの如く思われる。

ドラッカーは渋沢栄一と岩崎弥太郎を極めて高く評価しています。

まずは、『実験論語処世談』より「岩崎は専権邁進の人」を引用してみました。
ドラッカーが渋沢栄一を高く評価していたことは、これまでのコラムでも紹介しています。
渋沢栄一は、「合本組織という経営の根幹思想と、岩崎弥太郎の独占主義は相入れないものだ」、との強い見解を示すのですが、ドラッカーは渋沢栄一と並び岩崎弥太郎も高く評価しています。私は渋沢ファンですが、ここについては理解を深めたいと考え、次の著作を手に取りました。

『グローバル資本主義の中の渋沢栄一/パトリック・フリデンソン、橘川武郎編著(東洋経済新報社)』です。その第1章で、文京学院大学の島田昌和教授は、次のようにコメントしています。

ドラッカーは岩崎弥太郎とともに渋沢を「ロスチャイルドやモルガンやクルップやロックフェラーの業績よりもはるかにめざましいもの」であり、「この二人だけで、日本の工業、運輸関係企業のおよそ三分の二を作り上げたのである、たった二人の人間が、一国の経済にこれほど大きな影響を与えた例はどこにも見当たらない」と述べている。 ドラッカーは渋沢の人の能力、すなわち、人的資源の拡充に果たした役割を高く評価している。「人的能力至上主義」と呼び、「50年近くにわたって、在野の、しかも無給の『経営管理センター』として活躍した、彼は数百人の若い公務員、実業家、経営者の相談役となり、指導者となった。彼は訓練事業や経営者クラブを組織したり、あらゆる種類の講座、セミナー、討論会の設立に精力的に活動した」と、岩崎による資本増殖と対をなす人材面の不可欠な要素を育成したことを称賛している。

ドラッカーは、岩崎弥太郎を「資本蓄積」の面で、渋沢栄一については、「人材育成」への高い貢献を評価しています。

渋沢栄一の人を見る目がいかに優れているか…ということは、言うまでもないことですが、私はそれ以上に、「君に任せる」という全幅の信頼感を相手に伝え、それを全身でキャッチした相手が、その信頼感を裏切るまいと、心に灯をともし懸命に取り組んだ結果が、500社につながっているのだと思います。

まさにコーチングの人間観です。
私が渋沢栄一をこうして語るのは、この「任せる」ことの重みと崇高さについて、私自身がその奥義に迫りたく、希求しているプロセスなのだと感じています。

さて、渋沢栄一の「合本組織」について、解説しておきましょう。島田教授は渋沢栄一の言葉をはさみ、次のようにコメントしています。

…いくつかの発言から渋沢の主張する「合本」の意味するところを説明しよう。まず、「合本」が必要と考えた動機として「一人だけ富んでそれでは国は富まぬ。国家が強くならぬ。殊に今日全体から商工業者の位置が卑しい。力が弱いということを救いたいと覚悟するならば、どうしても全般に富むという考えは、これは合本法よりほかにない」と述べている。 つまり、個人一人が豊かになっても国家全体は強くならない。そのためには株式会社組織を根づかせなければならないと渋沢は主張し、遅れて近代化に取り組み始めた日本にとって国全体の産業が近代化するためには、低い地位と見られていた商工業者の地位を高めることが必要であり、そのために合本(株式会社)という手法で取り組むべきと考えた。 さらに会社組織について「ちょうどこの会社の組織は一つの共和政体のようなものであり、株主はなお国民のようなものである」と述べ、会社組織にはさまざまな意見を持った多くのものが参加しているので、経営には標準が必要であり、「標準は論語に依るのがよかろうと思ったのであって、それ以来の経営は、いやしくも道理というものに依らねば」いけない、つまり論語に基づいて道理正しい経営をすべきと考えたことを表明している。

渋沢栄一はアニマル・スピリットを持つ革新的企業者!

島田教授は、この渋沢栄一に対する多面的研究書が編まれたことについて、
…日本の経営史家の興味関心は、長らく財閥研究に注がれていた。ところがこの10年ほどの間に (当該著作の一刷は2014年発刊です)、戦前の大企業の主流は実は非財閥企業であり… と指摘した上で、

…非財閥系の企業家や経営者に着目する動向の中で、渋沢の評価は過去のものとは違った側面で着目されはじめている。すなわち宮本又郎は、「経済現象における人間の持つ戦略的重要性の再認識」という視点から企業者活動の研究に再度スポットを当てている。 渋沢に関しては「会社設立のプロモーターとして活躍したこと、これが最も特筆される渋沢の企業者活動であった」と述べ、その役割は設立にのみ発揮されたわけではなく、「事実上のトップマネジメントの職責を担うこのような管理職社員を選任し、それを監督すること」、そして、大株主から圧力を受ける管理職社員を庇護し調整して会社運営の責任を果たす役割も求められたことを指摘している。

渋沢をして血気(アニマル・スピリット)を持つ革新的企業者の代表格と位置づけており、設立後の会社運営の側面を渋沢の役割として初めて高く評価した。
と、その背景をコメントしています(太字は私が付しています)。

「アニマル・スピリット」という言葉が登場しました。なかなか熱いワードですね。このことを物語る恰好の事例があります。ここで、多くの渋沢関連本で取り上げられる「岩崎弥太郎との関り」についてスポットを当ててみます。

岩崎弥太郎との関係は渋沢栄一を語る上での定番エピソードです。

私は、弥太郎の何でも自分が独りだけでやるという主義に反対であったものだから、自然と万事に意見が合わなかったのであるが、明治六年に私が官途をやめてから、弥太郎は私とも交際しておきたいとの事で、松浦といふ人が紹介し、わざわざ当時私の居住しておった兜町の宅へ訪ねて来られたのである。在官中には交際した事も無かったが、それ以来交際するようになったのだ。 しかし、根本において、弥太郎と私とは意見が全く違い、私は合本組織を主張し、弥太郎は独占主義を主張し、その間に非常な間隔があったので、ついにそれが原因になり、明治十二、三年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至ったのである。 これは、明治十三年に至り、私や益田孝等が主唱し、伏木の藤井熊三、新潟の鍵富三作、桑名の諸戸清六などを糾合し(志や目的などを同じくする人々を広く集めること)、海軍大佐遠藤秀行を社長とする東京風帆船会社を設立し、三菱の反対を張って見せ、次で明治十五年に至り、当時の農商務大輔品川弥二郎さんが三菱の海運界における専横を押さへんとして目論んだ共同運輸会社の設立に参劃し、三菱会社に挑戦したからである。 それでも私は個人として別に弥太郎を憎く思っていたのでも何でも無いのだが、善い事につけ悪い事につけ、始終私の友達であった、益田孝、大倉喜八郎、渋沢喜作などが共に猛烈な岩崎反対家で、岩崎は何でも利益を自分一人で壟断しようとするからけしからん、と意気まいて騒ぎ立て、いたく弥太郎を憎がっていたものだから、私をその仲間の棟梁ででもあるかの如くに思い違い、弥太郎は非常に私を憎んでいたものである。 その結果は私と弥太郎とは明治十三年以来、全く離ればなれになって終り、遂に仲直りもせず、弥太郎は十八年に五十二歳を一期として死んで終ったのである。(『実験論語処世談』)

太字については、説明が必要ですね。
日本で本格的な海運会社が生まれるきっかけは、渋沢栄一がまだ大蔵省在職のとき、強力な海運会社をつくらなければ、租税の徴収も円滑にいかない、と考えたためです。当時の租税はまだ米納であり、それを運ぶ民間の船は江戸時代からの和船のため、沈没の危険と表裏でした。そこで三井に依頼し、半官半民の海運会社をつくっています。その会社は郵便蒸気船会社に名前が変わり、明治初期の海運を一手に担っていました。

「渋沢栄一 v.s 岩崎弥太郎」の本質は「三井 v.s 三菱」であった…

二人の確執はその後も続いた。隅田川船中大論争から二年後の明治13年(1880)、栄一は旧知の三井家大番頭、益田孝らとはかって、東京風帆船会社を興した。栄一は表面に出ず、陰でこの会社の設立に協力した。 岩崎による海上輸送独占と、度重なる運賃値上げで最も手痛い打撃を受けたのは、三井だった。三井が半官半民の郵便蒸気船にかわる純民間の海運会社を設立したのは、独占主義の三菱にこのまま、思うがままにされたのでは、事業そのものが立ちゆかなくなるという危機感をつのらせたためだった。三井の大番頭といわれた益田孝は自叙伝で述べている。 ≪……台湾征討後、三菱は非常な勢いになってとうとう海運を壟断した。一石五円の米を運送するのに二円だの三円だのという運賃を出さねば運送しないという。場合によっては、今さしつかえておるから運送ができぬというて、ことわるようなこともあった。これでは商売はできぬ≫ (中略) 政府はあまりの過当競争をみかねてついに仲裁に入り、明治十八年(1885)九月、政府勧告による両者の合併によって、栄一と岩崎の血みどろの死闘は、ようやく幕をおろした。明治三年一月の回漕会社発足から数えれば、実に十五年あまり長きにわたる闘いだった。 両者の合併に遡る半年前の明治十八年二月、岩崎弥太郎は波瀾にみちた五十年の生涯を閉じた。

小説風の展開ですが、『渋沢家三代/佐野眞一(文春新書1998年11月20日)』からの引用です。
冒頭の『実験論語処世談』は、渋沢栄一が75歳のときから『実業の世界』に連載された談話筆記ですから、岩崎弥太郎が亡くなってから30年が経過しています。渋沢栄一にとって、遠い過去のことですから、その語り口も、バランスのとれたものになっています。

会社を強固な「民間の中のパブリック」の場に変えていく渋沢栄一

私は前回のコラムで、「合本主義」にからめて、渋沢栄一の世界観を次のように特徴づけました。

『論語と算盤』を思想的な基盤として「合本(がっぽん)主義」を語り、階級に関係のない平等を唱え、物事は熟議を尽くして意思決定する。経営は公益を理想とし、そのことを追求することで真の目的が達成できる。これが「渋沢栄一の世界観」です。

そのなかで、 “熟議” というワードが最も渋沢栄一らしさを物語っていると思います。
この“熟議”のプロセスを経ることで、調和が形成され共同体感覚が育まれていく…と私は確信しています。

最後に『グローバル資本主義の中の渋沢栄一』から、そのことが伝わってくる箇所を引用しておきましょう。

戦前の日本の会社の株主総会は、戦後のそれと違い、六時間以上に及ぶロングランの総会も珍しくなかった。渋沢は、時には病気や体調不良の社長に代わって議長役を買って出て、さまざまな利害が錯綜する株主間の利害調整に当たった。それに際し、渋沢は辛抱強くそれぞれの主張に耳を傾け、一方的に議論を誘導することはしなかった。利害の対立する者たちから妥協点を探る動きを辛抱強く待った。 このようなプロセスの中で異なる利害者間に一定の共通利害が見出されると、会社は長期的な利害を共有した存在となった。すなわち、会社という存在が強固な「民間の中のパブリック」な場となった。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~渋沢栄一『実験論語処世談』…渋沢翁は懸値なきところが歴史だ!~(2021/07/25)

『論語と算盤』を思想的な基盤として「合本(がっぽん)主義」を語り、階級に関係のない平等を唱え、物事は熟議を尽くして意思決定する。経営は公益を理想とし、そのことを追求することで真の目的が達成できる。これが「渋沢栄一の世界観」です。

今回のコラムは『実験論語処世談』を取り上げます。

33歳の時、立志を自覚し、91歳でその生涯を終えるまで、渋沢栄一はその「世界観」を実践により貫き通しました。ある意味で、政治の世界から距離を置くこと(実業に専念)で、ブレることなく“渋沢栄一“を体現できたのだと思います。
私は前回のコラムで、

…「渋沢栄一は幕末~大正時代という歴史の“真の”語り部であり、渋沢栄一という人物を通した、幕末~大正の歴史の推移・実像が腑に落ちるがごとく理解できる」…

…91歳という長命も相まって、教科書の日本史「幕末~大正期」に登場する人物のすべてといっても過言ではないくらい実際に交流しており、また渋沢栄一の特徴たる「饒舌性」がいかんなく発揮されるところの「人物評価」が残されている…というのがその理由です。

とコメントしました。
このように自信をもって書くことができるのは、今回のコラムで紹介する『実験論語処世談』の存在です。これは「公益財団 渋沢栄一記念財団」のホームページのコンテンツとして公開されています。
まずはその冒頭の紹介文を、引用してみましょう。

『実験論語処世談』には、同世代を含む131人の歴史上の人物が登場します。

渋沢栄一(しぶさわ・えいいち、1840-1931)は、幼少の頃から『論語』に親しんでいましたが、実業に従事するようになった1873(明治6)年以降、『論語』を人生の指針としました。栄一の事績に関する資料集『渋沢栄一伝記資料』の中には、『論語』について語ったものが数多く収載されています。 その中のひとつ、「実験論語処世談」は1915(大正4)年6月から1924(大正13)年11月にかけ雑誌『実業之世界』に連載され、ほぼ同時期に竜門社の機関誌『竜門雑誌』に転載された栄一の談話筆記です。論語章句と読み下し文に続いてその解釈が語られ、多くはその後に実体験(実験)に基づく処世談が掲載されています。話はおおむね論語の篇章順に進められますが、残念ながら連載は「衛霊公第十五」の途中で途切れてしまいました。連載中の1922(大正11)年には、それまでの記事をまとめた書籍版『実験論語処世談』が刊行され、後に多くの版を重ねました。 記事には『論語』に関する逸話として、豊臣秀吉、徳川家康、松平定信など歴史上の人物、栄一と同時代を生きた西郷隆盛、大久保利通、井上馨、徳川慶喜、大隈重信など「人」に関する話題が豊富に盛り込まれています。当時の新聞では、書籍版について「一面子爵 [渋沢栄一] 自身の言行録であると共に、一面明治大正年間に於ける子爵の関係人物に対する道義的批判をも含んでをる」と紹介されています。その他にも、小見出しには大日本人造肥料、養育院、協調会、理化学研究所のような事業名なども見ることができ、本文ではさらに多くの事柄が語られました。徳富蘇峰(とくとみ・そほう、1863-1957)は書籍版に接し、「特に渋沢老人の如き、歴史付と云はんよりも、歴史其物の談話は面白い。渋沢翁は懸値なき所が、歴史だ。正札付の歴史だ。」と書いています。 「実験論語処世談」は「論語に就いては代表的」なものとして『渋沢栄一伝記資料』に収載されました。『論語』にまつわる栄一の著述というと『論語と算盤』(1916年初版)や『論語講義』(1925年初版)などが有名ですが、『渋沢栄一伝記資料』にほぼ全文が収載されている唯一のものとして「実験論語処世談」はユニークな位置を占めています。

太字は私が付しています。
この「実験論語処世談」に登場する人物の数を実際に数えてみたのですが、131人に及びます。孔子や孟子、劉邦といった中国の歴史的人物をはじめ、日本においては、仁徳天皇も登場しますので、渋沢栄一による“壮大な「歴史絵巻」”です。

「渋沢栄一を語ろう」と最初に書いたコラムで、西郷隆盛と渋沢栄一のやりとりを取り上げました。今回のコラムは、その西郷を含め、維新三傑を渋沢栄一がどのように評価しているのか、引用することにします。

渋沢栄一は、孔子の言葉を引用し、「器」について解釈しています。

子曰。君子不器。【為政第二】

孔夫子は、君子は器物の如きもので無いと仰せられてある。いやしくも人間である以上は、これをその技能に従って用いさえすれば必ずその用をなすものであるが、箸には箸、筆には筆と、それぞれその器に従った用があるのと同じように、凡人には、ただそれぞれ得意の一技一能があるのみで、万般に行き亘ったところの無いものである。しかし、非凡な達識の人になると一技一能に秀れた器らしい所が無くなってしまい、将に将たる奥底の知れぬ大きな所のあるものである。

『実験論語処世談』は原文ですが、今日では使わない漢字表現をひらかなにして、最低限の現代語訳にしていますので、ご了解ください(以降も同様です)。

日常会話で「この人は器が大きい」と言った場合、大人物であることを示す象徴表現ですが、孔子が語る「器」はニュアンスが異なりますね。渋沢栄一は、そのあたりをわかりやすく説明してくれています。
その「器」をからめて、大久保利通をどう評価しているのか、最初に取りあげてみます。

大久保利通に対して「気味の悪いような心情を抱いてしまう」と語る渋沢栄一です。

大久保利通公は私を嫌いで、私はひどく公に嫌はれたものであるが、私もまた、大久保公をふだんでも厭な人だと思っていたことは、前にも申し述べておいたごとくである。しかし、たとえ公は私にとって虫の好かぬ厭な人であったにしても公が達識であったことは驚かざるを得なかった。私は大久保卿の日常を見る毎に、器ならずとは、必ずや公のごとき人をいうものであろうと、感歎の情を禁じ得なかったものである。 たいていの人は、いかに識見が卓抜であると評判されていても、その心事のおおよそは外間からうかがい知れるものであるが、大久保卿に至っては、どのあたりが卿の真相であるか、何を胸底に蔵しておられるのか、不肖の私なぞには到底知り得ることはできず、底がどれくらいであるか、全く測ることのできない底の知れない人であった。毫も器らしい処が見えず、外間から人をして容易にうかがい得せしめなかった非凡の達識を蔵しておられたものである。私もこれには常に驚かされて「器ならず」とは大久保卿の如き人のことだろうと思っていたのである。底が知れぬだけに又卿に接するとなんだか気味の悪いような心情を起させぬでもなかった。これが私をして、何となく卿を「厭な人だ」と感ぜしめた一因だろうとも思う。

大久保利通という傑物の“わかりにくさ”が、渋沢栄一の人物評で、何だか“わかるような気が”してきますね。
続いて西郷隆盛です。

渋沢栄一は「すこぶる親切な同情心の深い人」と西郷公を評価します。

西郷隆盛公は、達識の偉い方で、器ならざる人に相違ないが、同じく器ならずでも、大久保卿とはよほど異なったところのあったものである。一言にしていえば、すこぶる親切な同情心の深い人で、いかにすれば他人の利益を計ることができようかと、他人の利益を計ろう、計ろう、という事ばかりに骨を折っておられたように、私はお見受けしたのである。 かの山岡鉄舟先生が、江戸城からの使者で駿府の征東総督府を訪ね、隆盛公に会った時に、慶喜公を備前にお預けにしようという提議に対し不承知を唱へると、公が山岡先生の情をくみ、即座に山岡先生の議を入れて、備前にお預けの事はやめにしようと快く一諾の下に引受けられたなぞは、全く隆盛公が凡庸の器でなく、深い達識のあった、器ならざる大人物であるところだと思う。要するに他人の利益を計ってやろう、やろうとの親切な同情が深くあらせられたからの事であろうと存ずる。又私の観るところを以ってすれば、隆盛公にはその初め、幕府政治を全く廃止してしまわれようとの気はなかったごとくに思われる。

このパラグラフ最後の、「隆盛公にはその初め、幕府政治を全く廃止してしまわれようとの気はなかったごとくに思われる」、というコメントは、西郷のファンになった渋沢栄一が、幕臣としての思い(恩)を終生抱き続け、師である徳川慶喜を慕う気持ちの強さが、そのように語らせているようにも感じます。希望的観測かもしれませんね。
西郷隆盛への評価は続きます。

西郷公は「他人に馬鹿にされても、馬鹿にされたと気づかない人」だった…!?

隆盛公の御平常は至って寡黙で、滅多に談話をせられることは無かった方であるが、外間から観たところでは、公が果して賢い達識の人であるか、あるいは鈍い愚かな人であるか一寸解らなかったものである。この点が西郷隆盛公の大久保卿と違っていたところで、隆盛公は他人に馬鹿にされても、馬鹿にされたと気が付かず、その代り他人に賞められたからとて、もとより嬉しいとも悦ばしいとも思わず、賞められたのにさえ気が付かずにおられるように見えたものである。何れにしてもすこぶる同情心の深い親切な御仁にあらせられて、器ならざると同時に又将に将たる君子の趣があったものである。

西郷が存命であったなら、書くことをはばかるだろう踏み込んだ評価ですが、その分西郷の人となりが腑に落ちる、「渋沢視点」ですね。

もう一人の維新三傑である木戸孝允にも触れています。さらりとしたコメントですが、さすがの「渋沢視点」です。

「木戸公は文雅である」と渋沢栄一は語ります。

木戸孝允卿は同じく維新三傑のうちでも大久保卿とは違い、西郷公とも異なったところのあったもので、同卿は大久保卿や西郷隆盛公よりも文学の趣味が深く、かつ、総て考えたり行ったりすることが組織的であった。然し器ならざる点においては、大久保、西郷の二傑と異なるところが無く、凡庸の器にあらざるを示すに足る大きな趣のあったものである。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~渋沢栄一『論語と算盤』に見る真の「立志」の時!~(2021/07/15)

…私は、その初め幕府を倒すのを志にしたほどのものゆえ、幕府を倒して出来た新政府に対して決して悪感を抱いていたわけではないが、薩人が暴戻(ぼうれい=あらあらしく道理に反する行為)であるとの感は多少あったものである。

前回のコラムで、渋沢栄一が33歳の時に大蔵省を退官した、そのタイミングが渋沢栄一の生涯における岐路であった、とコメントしました。その退官は、大蔵卿の大久保利通との関係が原因とされています。そのリアルな状況が、渋沢栄一75歳の時の談話にありました(公益社団法人 渋沢栄一記念財団のホームページ『実験論語処世談』)。
その語りは次のように続きます。

渋沢栄一は“維新の三傑”大久保利通に真っ向から反論しています。

しかるに、大正四年(渋沢75歳)の今日になっても、当時私が持っていた「量入為出(りょうにゅういしゅつ=収入を計算して、その後に支出を決めること)」の意見は正当で、歳入の判然とせぬうちから支出の方ばかりを決めようとした大久保卿の意見を誤っていると、私は強く思っており、又誰に聞かしても当時の私の意見の方が正当であるのだから、大久保卿が「渋沢は陸海軍がどうなってもよいと思っているのか」と、怫然(ふつぜん=怒りが顔に出て)色をなして私を圧しつけるようにして詰問せられるのを見ては腹の虫がおさまらず、これもまた例の薩人の暴戻(ぼうれい)であるのだな、と感じて不快でたまらず、翌日直に辞表を提出しようと決心し、その夜、井上(馨)侯の許に相談に出かけることにした。 私は大久保卿を偉い人であるとは思っていたが、何だかいやな人だと感じていたものである。大久保卿もまた、私をいやな男だと思われていたと見え、私は大変大久保卿に嫌われたものである。 井上(馨)侯のもとに辞職の相談に行くと、侯はこんこんと私を諭し「財政整理はおいおい実行するから、せっかく、廃藩置県の制もしくことにした今日、せめては廃藩置県が軌道に乗り、新政の一段落がつくまで留任せよ」と勧め、さしあたり大阪造幣寮の整理を行ってくれないかと頼まれ、十一月まで同地に滞在し、遂に私は明治六年に至る間、不本意ながら官職にあったのである。 私もそのような調子で、壮年の頃は、一代の人傑であった大久保卿にさえ誤解されて嫌われたものである。然し、永いうちには結局、真実の処が他人にも知られるようになるものゆえ、青年諸君は、そのことをよく心得ておくべきである。

引用元は原文なのですが、若干の解説を挿入し(黒字)、最低限の現代語訳にしました。加えて現在では使うことの少なくなった漢字をひらかなに変えていますのでご了解ください。

渋沢栄一は「幕末~大正」時代の“真の”語り部

渋沢栄一に関する著作は、『論語と算盤(原文および現代語訳)』をはじめ、多くに目を通しています(今後も渉猟してまいります)。それによる私の実感は、渋沢栄一という人物を通した「幕末~大正」の歴史の推移・実像が腑に落ちるがごとく理解できる、ということに尽きます。

歴史教科書はどうしても、政官学界の動きが中心となります。登場人物についても、歴代の総理大臣をメインにその時代が語られます。そのためか、民間に下った(私はあえてこの表現を使いますが…)渋沢栄一は歴史教科書に一瞬登場するだけで、大学入試試験にとって必須ワードになりえなかった、と感じています。

渋沢栄一は91歳まで生存しており、教科書の日本史「幕末~大正期」に登場する人物について、濃淡は別として、交友範囲の広さから、「そのすべての人に」と表現しても過言ではないくらい実際に会っています。さらに渋沢栄一の特徴として語られる「饒舌性」がいかんなく発揮されるところの「人物評価」が残されているのですね。

もっとも、『論語と算盤』をはじめとして、渋沢栄一が語る人物評は、70歳を過ぎての訓話が中心です。明治という時代をつくった多くの偉人はすでに鬼籍です。渋沢栄一本人にとっても、国を挙げてノーベル平和賞に推薦される(渋沢栄一76~77歳のとき)までに至った、人格高邁としての評価が固まった頃の訓話ですから(実業からも身を引き慈善的な活動が中心となっています)、幕末維新に活躍した人物像は、本人が当時実感した思いとは別の視点で書かれているようにも感じます。

渋沢栄一は多くの人物をポジティブに評価していますが…

私は以前のコラムで、行動経済学でノーベル賞を受賞したカーネマン教授の次の言葉を紹介しました(6月10日のコラム)。

・後講釈する脳は、意味づけをしたがる器官だと言える。予想外の事象が起こると、私たちはただちにそれに合わせて自分の世界観を修正する。 ・自分の脳の一般的限界として、過去における自分の理解の状態や過去に持っていた自分の意見を正確に再構築できないことが挙げられる。新たな世界観をたとえ部分的にせよ採用したとたん、その直前まで自分がどう考えていたのか、もはやほとんど思い出せなくなってしまうのである。

このことは、時が流れ、経験を積み、歳を重ねて過去を振り返り、「そのときの実感を忠実に再現した」つもりでも、それは現実とは異なる様相で描かれている…ということですね。加えて、『論語と算盤』を発表した70代の渋沢栄一は、「世界最高峰の論語研究家」である“学者“としての姿をもまとっています(私の解釈です)。その「総合人格者」である渋沢栄一が、人を評価しますから、自ずと「奥行きの深さ」が醸し出されるのですね。

渋沢栄一の人物評価は、忖度を排し、ときに世界観に反する人物については、“渋沢史観”に基づき批判を加えます。その上で、多くの人物を「ポジティブ」に描きます。
ところが… 大久保利通については、どうもこの法則が当てはまりません。

7月1日のコラムで私は、
「渋沢栄一は、退官するかどうか、ものすごく迷ったと思います。その時は一人の人間として、大久保利通が仕切るこの大蔵省で仕事することがイヤになっていたのですね」、とコメントしました。

なお渋沢栄一は、「大久保利通がイヤだから辞めた」とは、言っていません。引用には、「井上馨より引き留められたから明治6年まで不本意のまま官職を続けた」とありますが、『論語と算盤』の「立志と学問」のなかで、その時の想いを綴っています。後ほど紹介します。

渋沢栄一が大蔵省に仕官したのは明治2年、大久保利通が大蔵卿(大臣)に就任する明治4年の春までは、伊達二位が大蔵卿であり、実質のトップは大蔵大輔(副大臣)の大隈重信でした。そして最大の理解者である直属の上司である井上馨の下で思う存分仕事ができていました。

それが、大久保卿の「怫然色をなして私を圧しつけるようにして詰問せられるのを見ては腹の虫がおさまら」なくなったのは、明治4年8月の出来事です。

渋沢栄一は井上馨と共に大蔵省を辞しています。

大久保利通は、明治4年11月12日から岩倉使節団の副使として欧米視察のため日本を離れます。使節団の帰国は明治6年9月13日(大久保利通は5月に帰国)ですから、日本のトップのほとんどが長期間日本を不在にしたのです。つまり渋沢栄一にとって、決定的に嫌われたと感じた後で、そのことをリカバリーする間もなく、大久保利通とは疎遠になるのです。

なお、維新三傑は、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允の三名です。木戸孝允も欧米使節団に参加していますので、留守を任された日本国家の実質的な総責任者は西郷隆盛でした。

渋沢栄一にとっては「鬼の居ぬ間に洗濯…」と受けとめてもよさそうなところですが、当時の渋沢栄一のポジションでは何の影響も行使できない壮大なスケールとなる政局が到来します。「征韓論」をめぐって国論が2分するのです。
『大蔵省100年史(財務省 財務総合研究所)』のなかに次のような一節があります。

…維新以来の諸改革は,国民の生活を急速に向上させるものではなかったし,また,身分的特権を奪われた封建士族の改革に対する不満も強かった。このような世論の不安定は,政府部内にも反映し,岩倉,木戸,大久保らの外遊中,政府内部の対立は深まった。 当時,大蔵省を預かって,改革を推進した井上馨は,辞職の破目に追いやられた。また,政府部内に,国勢を外に向けることにより,国内の安定を図ろうとする征韓論が拾頭した。 このとき,欧米視察から帰国した大久保利通は,この政府部内の形勢に甚だ不満であった。先進諸国の発展のありさまを見てきた大久保は,いまは維新以来の富国強兵,殖産興業政策を進める時であり,内政を優先させる時であると考えたからである。 6年10月,征韓論はしりぞけられ,これを機に,士族無視の改革に不満を持つ保守派は,政府から一掃され,大久保が新政府の中心的地位に坐った。翌11月,内務省が創設され,大久保が内務卿に,大隈が大蔵卿に就任した。新設の内務省は,警察を掌握して内治を整えるとともに,大久保の欧米視察の成果をもとにして,新たな角度から殖産興業政策を展開し,大蔵省は,それを援けて,そのための資金を提供する役割をになうことになった。地租改正事業が推進され,秩禄処分が断行された。

ここには渋沢栄一の名前は出てきません。「改革を推進した井上馨は,辞職の破目に追いやられた」とあります。実は渋沢栄一は、このタイミングで井上馨と共に大蔵省を辞職しているのです。「渋沢本人の意思で辞めた」というより、まさに政局に巻き込まれての退官なのですね。
このあたりの経緯については、今後のコラムで取り上げたいと思います。

『論語と算盤』のなかで渋沢栄一は真の「立志」を語ります。

さて、今回のコラムをそろそろ終えようと思います。
私が、「渋沢栄一は、退官するかどうか、ものすごく迷ったと思います…」とコメントした、その背景を物語る渋沢栄一の発言を最後に引用(太字は坂本)します。
(『論語と算盤(現代語訳)』~「立志と学問」の中の一節)

それは、渋沢栄一が悩みに悩み、揺れに揺れた心を鎮めるべく、終生の拠り所を『論語』に求めることを決心した、真の渋沢栄一が誕生する魂の発言であると私は感じています。そして私はこの年を、渋沢栄一の「論語研究家」のスタートの年と位置付けます。

…しかしその目的は、武士になってみたいという単純なものではなかった。武士になると同時に、当時の政治体制をどうにか動かすことはできないだろうか…今日の言葉をかりていえば、政治家として国政に参加してみたいという大望を抱いたのであった。そもそもこれが故郷を離れて、あちらこちらを流浪するという間違いをしでかした原因であった。 こうして後年、大蔵省に出仕するまでの十数年間というものは、わたしの今日の位置から見れば、ほとんど無意味に空費したようなものであった。今、このことを思い出すたびに、なお痛恨の思いに足りえない。 白状してしまうと、わたしの志は、青年期においてしばしばゆれ動いた。最後に実業界で身を立てようと志したのが、ようやく明治四、五(1871~72)年の頃のことで、今日より思い起こせば、このときがわたしにとっての本当の「立志」…志を立てることであったと思う。 もともと自分の性質や才能から考えても、政界に身を投じることは、むしろ自分に向かない方角に突進するようなものだと、この時ようやく気がついたのであった。それと同時に感じたことは、欧米諸国が当時のような強さを誇った理由は、商工業の発達にあることだった。現状をそのまま維持するだけでは、日本はいつまでたっても彼らと肩を並べられない。 だからこそ、国家のために商工業の発達を図りたいという考えが起こって、ここで初めて「実業界の人になろう」との決心がついたのであった。そして、このとき立てた志で、わたしは今に至る四十年あまりも一貫して変わらずにきたのである。真の「立志」はまさしくこの時であった。

坂本 樹志 (日向 薫)

 

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