心理学とコーチング ~交流分析を用いて中野信子の『ペルソナ…モザイク状の多面体』にアプローチしてみる~(2021/03/01)

前回は、ロジャーズ、スキナー、そして、村上春樹氏と河合隼雄氏の会話を通じて、「科学とは?」について考えてみました。書き綴っていくなかで、その前のコラムで取り上げた中野信子さんの『ペルソナ』にある「私はモザイク状の多面体である」と語っている言葉が脳内に焼き付いており、今もその感覚にとらわれています。“焼き付いている”という表現はかなり強いフレーズなのですが、感覚を的確にお伝えするには、どのようなワードを用いるべきが…考えた末に引っ張り出した言葉なのですね。

「あの人は■△○だよね」という捉え方は、まさにその人のもつ一面を表しているにすぎなく、「人」とは実に複雑な(心理学的表現としては“コンプレックス”…昨年8月10日のコラムで解説しています)存在だよなぁ」と、日頃より感じています。私自身も根っこの性格は「○△■」だとの自覚を持っているものの、相手の性格やその場のシチュエーションを踏まえ、臨機応変に振る舞います。

ときに、自分で選択した態度にもかかわらず、「相手に不快な思いを感じさせたなぁ」、「失敗だ! もっと素直に自分の思いを伝えるべきだった」、「普段は使わない言葉を発してしまった…さきほどの不快な感情はうまく収めていたつもりだったけど、実はそうではなかったということだなぁ」など、 振り返ることしきりです。

すぐれた小説家の内部には複数の人格が存在しているのか…?

私はたくさんの小説を読んできました。コラムでは村上春樹氏を多く取りあげています。もちろんファンではあるのですが、甲乙つけがたく村上龍氏は好きですし(たまたま同じ姓という機縁もあり、この同時代の天才二人を併記して語ることが実に多いですね)、好きな作家は?と訊かれると、次々と名前が出てきます。

小説で登場する人物は、作家が創り上げる人格であり造形です。すぐれた作家とは、その登場人物をリアルに自然に編み出すことができる類まれな能力(天賦の才能+努力によって)を有した人たちです。読者によっては、特に一人称で語られる小説の登場要人物を、その著者と同一視してしまいます。小説家の技が見事に結実した現象ですよね。

さて今回のコラムです。今、私の“焼き付いている感覚”を、とりあえず埋火くらいにしておきたいので、「モザイク状の多面体とは何を意味しているのか…」について、アプローチしてみようと思います。
そのための切り口として、エリック・バーンが創始した交流分析を用いてみましょう。

私は、この「交流分析のエゴグラム」について、昨年の10月16日のコラムで簡単に触れています。以下再掲してみます。

交流分析は、人のキャラクターを5つの自我要素の複合体として説明します。

エゴグラムはエリック・バーンが創設したカウンセリングの一分野である「交流分析」に基づき、バーンの直弟子であるデュセイが開発した性格診断法で、人が本来持っているパーソナリティを5つの要素に分類し、それぞれがどの程度の強さで表れているかをグラフにして示していく、というものです。グラフが高く出ている要素が、その人の自我を形成する上で大きく影響を及ぼしていると分析されます。 <自我を構成する5つの要素>
  • CP(Critical Parent)…厳しい親としての要素
  • NP(Nurturing Parent)…優しい親としての要素
  • A(Adult)…大人としての要素
  • FC(Free Child)…自由奔放な子どもとしての要素
  • AC(Adapted Child)…従順なこどもとしての要素

加えて、11月16日のコラムの「カウンセリング理論の歴史」の9番目として、次のようにコメントしました。

9.自我を5つに細分化し(CP・NP・A・FC・AD)、その強弱、バランスで性格を把握する①構造分析をベースに、②交流パターン分析、③ゲーム分析、④脚本分析の4つで構成されているバーンが創始した「交流分析」…1950年代半ば~

交流分析については、今後のコラムのなかで、折に触れて取り上げてまいります。今回は、その導入編と受けとめていただければ幸いです。

交流分析は精神分析の口語版であるのか…?

交流分析は、フロイトによる精神分析の流れを踏まえており、精神分析の口語版ともいわれますが、この表現には少し違和感を覚えます。というのも専門用語が多く、しかも専門用語にもかかわらず、使われているワードが日常使用される言葉……たとえば、ラケット、ディスカウント、マフィアといった表現……が多いので、意味の読み替えが生じます。これは日本語に翻訳されることで生じる部分もありますが、英語としてのスタンスも同様です。

もっとも、そのあたりのモヤモヤ感は脇において、まずは、①の構造分析で概要をつかみ、その実践である、②の交流パターン分析をメインに学習すると、日常生活において「とてもためになるなぁ」という実感を得ることができます。

フロイト、ユング、アドラーの性格論とは…?

さて、交流分析の解説に入る前に、心理学の3巨人である、フロイト、ユング、アドラーは、性格をどのように把握しているのか、を復習しておきましょう。

<フロイトの自我構造>

精神分析の創始者であるフロイトは、明瞭な性格論は表していないのですが、敷衍できるのが「自我構造論」です。人の内面を、意識(エゴ)、無意識(エス)、超自我(スーパーエゴ)の3つの層で捉えています。これまでのコラムで繰り返し解説してきました。3つの層の関与のあり様で、その人に現れる“態度“(心理学上の定義については昨年2月25日のコラムを参照ください)を説明しています。

ただし、その先に具体的な性格がイメージできるのか…というと、うまく答えられないところがあります。つまり、意識、無意識、超自我という名称からは、性格類型が浮かび上がってこないのですね。

<ユングのタイプ論>

その点ユングは、「タイプ論」という性格論を発表しています。心的エネルギーの流れ(方向)で、「内向」一「外向」にまず2分し、その上で、「思考」と「感情」の縦軸、「感覚」と「直観」の横軸を組み合わせ、8つのタイプ(内向思考タイプ、外向思考タイプ、内向感情タイプ…など)で性格類型を捉えました。

それぞれの性格に対する解説を読むと「なるほど…」と理解につながるのですが、8つのタイプ名称が抽象的なのですね。名称からイメージされる性格と、理論上定義された対象者の性格が、すぐには結びつかないと感じられます。というのも、この理論はフロイトとアドラーの性格の違い(そしてユング自身の立ち位置)を明確化させようとして、考え抜いた末編み出したものなのですが、フロイトは客体に関心を持つ「外向型」、アドラーは主体に関心を持つ「内向型」としています。

両者の業績を、活動面で捉えた場合、フロイトは「書く人…著述家」、つまり静的イメージ、一方のアドラーは「話す人…講演者」、なので動的イメージです。つまり、「難解」なのですね。

<アドラーのライフスタイル分析>

ではアドラーは性格をどうとらえているのか、というと、「ライフスタイル分析」となります。これについては、アドラー自身というより後継者の業績となるのですが、ゲッター、コントローラー、ドライバー、ベイビー、エキサイトメントシーカー、プリーザーなど、ニックネームを充てており、フロイト、ユングと比べて、「わかりやすさ」ではアドラーに軍配が上がりそうです(昨年10月6日のコラムで取り上げました)。

さて本題の交流分析の「構造分析」は、心理学の巨人3者とは本質的に異なっています。3巨人の理論は、端的に捉えると「Aさんは○のタイプ、Bさん△、そしてCさんは■というタイプである」と、対象者の性格を「決めていく」のですね(ただしアドラーは少し慎重でした)。

人は相手によって、その人がもつ5のタイプを使い分けて対応する。

一方、交流分析は、1人の人間の内部に5つのタイプが併存しており、相手によってその5つのタイプを、出したり引っ込めたりしながら対応していく、という前提に立ちます。
上記<自我構造である5つの要素>CP、NP、A、FC、NC …という象徴的自我状態を提示し、この強弱のバランスで性格を分析し、置かれた状況での自我の構成を確認していきます。

ただ人によって、5つの強弱に違い、偏りがあるので、「5つのウエイトはどうなっているのか」を自己発見する分析ツールが用意されています。それが「エゴグラム」です。

象徴化された名称の5つはとても明快で、誰もが同じイメージを共有できますよね。冒頭で私は、「交流分析は精神分析の口語版である」、このキャッチフレーズに違和感を覚える…とコメントしましたが、この「わかりやすく腑に落ちる」という意味では、納得するところです。

今回のコラムは、「モザイク状の多面体とは何を意味しているのか…」についてアプローチすることが目的です。モザイクの意味を調べて最初に出てくるのは、「ガラス・貝殻・エナメル・石・木などをちりばめて、図案・絵画などを表した装飾物。(広辞苑)」ですが、別の意味として「一個の生物体に一つあるいはそれ以上の遺伝的に異なる形質が現われる現象。(比喩的に) いろいろなものが寄せ集まったもの。さまざまの種類の断片的な要素をひとつに集めて一望できるようにしたもの。(精選日本国語大辞典)」というのがありました。

中野信子さんが語る「多面体」、そして一人の作家が創りだす「自分の分身だと読者に錯覚させる別人格」…このことを考える上で、交流分析が役立つことを理解いただけたでしょうか?

次回のコラムでは、交流分析の実践編である「交流パターン分析」を解説してみましょう。

(日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~行動科学と人間性心理学、そして『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』~(2021/02/24)

今回のコラムは、ロジャーズが「心理学と科学」をどのようにとらえているのか、について取り上げてみましょう。

真の心理学という科学を樹立しようとするならばどうしても必要になる科学概念を、私たちは展開させようとしているだろうか、という問題である。それとも、疑似科学のままであり続けるのか。私の言いたいことを、私にとっては大きな意味のあることを、説明したいと思うのである。 心理学は、多数のシロネズミを使った何千という実験や、実験室、コンピュータ、電子機器の設備、高度の統計処理等を駆使した大規模な研究にもかかわらず、私の判断では、意味のある科学としては後退し続けている。私たちは、ロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)がアメリカ心理学会の講演で述べた警告に注意を払うことをすっかり忘れているのである。彼は、心理学が陥りやすい最悪の事態は、「時代おくれで跡形さえない物理学をモデルとすることである」と指摘した。 私たちは、理論物理学ならびに「ソフト」サイエンスのみならず、「ハード」サイエンスにおいても、科学概念が変化したことに気づかず、古いニュートン流の科学観にしがみついているのである。

対比されるスキナーの行動科学とロジャーズの人間性心理学

上記は、ロジャーズが1973年に発表した「援助専門職の新しい挑戦課題」…『ロジャーズ選集(下)/24章』の中の一節です。「多数のシロネズミを使った…」からのコメントで、「…意味のある科学としては後退し続けている」とロジャーズは訴えているのです。

対象は「行動科学(行動主義心理学)」と呼ばれる分野で、一方のロジャーズの考え方に基づく心理学は、1960年代になって「人間性心理学」と呼ばれるようになり、心理学という大きなカテゴリーのなかで「対比される」ようになっていきます。

このあたりは、少し説明が必要ですね。
「行動科学」は、昨年11月16日のコラム(カウンセリング理論の歴史)で取り上げた「行動療法」との関係が深い分野です。そこで私は、「他のカウンセリング理論とは一線を画する自然科学的アプローチ」と付記しました。その源流といえる理論が、昨年3月3日のコラム(態度その2)で解説した「古典的条件付け」です。これは「パブロフの犬」として有名ですが、パブロフは1904年にノーベル生理学賞・医学賞を受賞していますから、当時の自然科学における最先端とされていた理論です。そして当該分野は、傑出した学者による研究成果もあり発展していきます。その代表が、「オペラント条件付け」を発表したスキナーです。

スキナーは「天才」と呼ばれた人物ですが、ロジャーズはこのスキナーと長い関係を持つのです。『ロジャーズ選集(下)/第5部(18章-19章)・人間の科学』の冒頭で、このあたりについて選者は以下のように解説しています。

ロジャーズは行動科学の強化理論に強い違和感を覚えます。

「発展しつつある行動科学」の根本的な仮説についての彼の関心は、二つのかたちをとることになった。ひとつの方向は、行動科学が適用されている社会的・政治的文脈という方向であった。1956年に彼は、行動主義心理学の旗手であるスキナー(Skinner.B.F.)と、後に有名になるシンポジウムをやったのだが、そのなかでロジャーズは、その後の数十年間、論議のテーマとなりつづけた問題点を提起しているのである。 スキナーの論点は、個人および社会の発達の過程に、強化理論(reinforcement theory)を賢明に、かつ望むらくは人間的に適用する、というものであり、それは大いに説得力のあるものであった。いずれにせよ、自由とか選択ということは幻想に過ぎないのであり、人間の現在の行動を決定しているのは、過去の強化の結果に過ぎないのだ、とスキナーは論じた。 ロジャーズもまた同じくらい雄弁に、自由と選択は決して幻想ではなく現実の現象であることを論じた。さらにロジャーズは、人間を非人間化し、外部からの強化のみによって人間を統制しようとする科学は、独裁者に道をひらき、社会を容赦なく全体主義的な、オーウェル※の描いたような未来へと導くものだ、と警告したのである。 心理学における行動主義者のモデルと、人文主義者(ヒューマニスト)のモデルを代表する2人の人物が、このとき最初の出会いをしたのだが、この出会いは、援助専門職(helping professions)の人びとの間で、広く注目されたものであった。そしてロジャーズとスキナーは、その後10年間にわたって、あまり知れわたっていない2回の会合で、意見の交換をつづけたのである。 ※訳注 : ジョージ・オーウェル(1903-1950)は、1949年に、『1984年』という未来小説を書いて、そのころには、極端な国家統制の時代がくるだろう、と予測した。

哲学的様相を帯びていくロジャーズの科学観…?

私は、ロジャーズが「自分の理論がいかに科学的であるか」、についてこだわり続けてきたことをコラムで書き綴ってきました。それは人生を通じて一貫しているのですが、ただ1960年あたりから、その「科学観」が、純粋な自然科学的アプローチ(ただし同時代に認識されている)というより、哲学的な様相を呈するようになっていくのです。

行動科学が「心理学」というカテゴリーのなかで語られること…そして「最も自然科学的である」と評価されることに対して、同じ心理学者として、強い違和感を覚えていることが冒頭の引用から伝わってきます。

ただ、世の中で一般的に「自然科学とされる要件」については、ロジャーズよりもスキナーの論拠の方が高いレベルであることがオーソライズされているので、だからこそ「哲学的」になっていったのではないか…と私は感じているのですね。

私はこの「心理学とコーチング」のコラムを通じて「哲学的」という表現を多用しています。アドラーのコラムは13回アップしていますが、「アドラーは哲学的である」というスタンスで描いています。

ところで、この「哲学的」という言葉の意味を突きつめようとすると……いかがでしょうか? 「説明に苦慮してしまう」のが実情だと思います。

私が用いる「哲学的」の定義について

広辞苑では以下のように定義づけています。

  1. 古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問、生の哲学・実存主義など世界・人生の根本原理を追求する学問となる。認識論・倫理学・存在論・美学などを部門として含む。
  2. 俗に、経験などから築き上げた人生観・世界観。また、全体を貫く基本的な考え方・思想。

実に多様な意味を包含する「万能語」として捉えられるかもしれません。私は、②の定義に基づいて、アドラーに迫り、ロジャーズを理解しようとしています。その場合、「自然科学」とは別の視座として語ることが可能となり…そして対抗できる。場合によっては、「自然科学」として説明するよりも、多くの人に「共感」と「腹に落ちる感覚」を提供できる。このことについて、アドラーやロジャーズが自覚的であったかは定かではありませんが、そのように解釈しています。

私もこのスタンスをとることで、「ロジャーズの語る科学」について、力むことなく解説できそうです。
冒頭に引用した『ロジャーズ選集(下)/24章』の中からもう一つ引用してみましょう。

私たち(心理学者)が科学として認識してきたすべてのことは、科学のほんの卑小な一部にすぎない。科学は印象深い個人的意味合いのなかに埋め込まれたものだとみることができる。これを個人や集団がもっともだと判断することが、統計的な有意性とひとしく重要なものになるのである。 精密で見事に構築され、完璧な科学というモデル(誰もが意識的、無意識的にそう思っているのだが)は、限界のある、明らかに人間が作った構造であり、厳密に言うと完全ではあり得なくなる。経験にひらかれているということは、実験研究のデザインを知っているのと同じくらいに、科学者の重要な資質とみることができる。 そして科学という仕事全体は、より広い分野の知識の一部にすぎなくなってくる……真理は意味深いさまざまな方法で追求されているのである。科学は、それらの方法の一つである。

「これがただひとつの現実だろうか?」…心理学者にとっての挑戦課題とは?

・最後に心理学者にとっては最も脅威となる一つの挑戦課題に触れなければならない。「現実」がひとつ以上存在する可能性、また実際に多くの現実が存在しているという可能性が非常に強いということである。これは決して新しい考え方ではない。 ウイリアム・ジェームズ(William James)は次のように述べている。「私たちは通常の覚醒した意識は、ある特別な形の意識に過ぎない。……きわめてうすいスクリーンによってその意識と分けられるところに、まったく異なった意識の形態が存在する可能性がある」と。彼はその事実は現実に関する未熟な結論を防いでくれそうだと結んでいる。(中略) ・ジェームズは、そんなことを言わなければ、偉大な心理学者なのだが、その考えはひとつの逸脱だったと考えることもできよう。あらゆる時代、あらゆる国の神話は、その奉ずる宗教観とはまったく関係なく、その説明に顕著な共通性があるということがないならば、それを無視することもできるだろう。 しかし、ローレンス・ルシャンの綿密な論証を見ると、それらを無視しにくくなってしまうだろう。はじめは彼も、違った形の現実があるという神秘を打破しようとして研究を始めたのだが、いつのまにか、それとは逆の方向を示す理論を作り上げていったのである。 彼は超常現象に「敏感な」人と、古今の神秘主義者と、そして驚くべきことに現代の理論物理学者との間に驚異的な類似性があることを指摘している。時間と空間が消滅してしまった現実、そこで生きることはできないが、その法則を学び知覚することはできる世界、感覚器官によらないで内面的知覚で捉える現実、そうしたことがすべてに共通しているのである。

ロジャーズは、遠く離れた愛する人がこうむる苦痛や死を予告したり、同時に感知したりするような例。テレパシーによる伝達、そして幽体離脱などについて、「どう考えればよいのだろう」と語ります。そして、好奇心溢れるロジャーズの姿があらわれます。

・多分、きたるべき若い心理学者の世代に、大学の制約や抵抗に妨げられることなく、私たちの五感には捉えられない法則性のある現実が存在する可能性を研究しようとする人があらわれてくるであろう。……現実、過去、未来が融合し、空間が障壁ではなく、時間が消失している現実、またわかろうと積極的に取り組むより受け身の状態でいるときだけつかみとられる現実を研究しようとする人が……。これは心理学に提示される最も興味深い挑戦課題のひとつである。

超常現象(現在の捉え方…?)については、解明されていない(現在の科学では…?)こともあり、多くの人が興味を抱きます。そして「本当に体験した」と語る人が多いことも共有化されています。ただ、21世紀になってからの脳科学の著しい発展により、いくつかの事例については、ロジャーズの頃(この論文は1973年に発表)と比べて、解明(の糸口)が進んでいるようにも感じます。

コラムの最後に、『村上春樹、河合隼雄に会いに行く(1996年12月刊行/岩波書店)』の中の一節を紹介いたします。春樹氏が語る“体験”に対して、河合氏の回答が「すごいなぁ~」と、感じ入ったことをお伝えしておきます(その箇所を太字にしました)。

超常現象(?)を語る春樹氏に河合氏はどのように応えるのか…?

<村上>
ぼくは、小説ではよく超常現象とか超現実的なことを書くのですが、現実生活ではそういうものを基本的に信じていないのです。まったくないとも信じていないけど、あるとも信じていない。そういうことについてあまり考えたりもしない。

ただ、このあいだ非常に奇妙な経験をしました。ぼくはノモンハンに行ったんです。モンゴル軍の人に頼んで、昔のノモンハンの戦場跡に連れて行ってもらったのです。そこは砂漠の真ん中で、ほとんど誰も入ったことがないところで、全部戦争の時そのままに残っているんですよ。戦車、砲弾、飯盒とか水筒とか、ほんとうにこのまえ戦闘が終わったばっかりみたいに残っている。ぼくはほんとうにびっくりしました。空気が乾燥しているからほとんど錆びていないのですよ。また、あまりにも遠くて、持って行ってクズ鉄として使うにも費用がかかるので、ほったらかしにしてあるのですね。

それで、いちおう慰霊という意味もあって、ぼくは迫撃砲弾の破片と銃弾を持って帰って来たのです。えんえんまた半日かけて町に戻って、ホテルの部屋にそれを置いて、なんかいやだなと思ったんですよ、それがあまりにも生々しかったから。

夜中にパッと目が覚めたら、部屋が大揺れに揺れているんです。ぼくは完全に目は覚めていたんですよ。もう歩けないぐらいに部屋中がガタガタガタガタ揺れていて、ぼくははじめ地震だと思ったのですね。それで真っ黒な中を這うようにして行って、ドアを開けて廊下に出たら、ピタっと静まるんです。何が起こったかぜんぜんわからなかったですよ。

これはぼくは、一種の精神的な波長が合ったみたいなものだろうと思ったのです。それだけ自分が物語のなかでノモンハンということにコミットメントしているから起こったと思ったのですね。それは超常現象だとかいうふうに思ったわけではないですけれども、なにかそういう作用、つながりを感じたのです。
<河合>
そういうのをなんていう名前で呼ぶのか非常にむずかしいのですが、ぼくはそんなのありだと思っているのです。

まさにあるというだけの話で、ただ下手な説明はしない。下手な説明というのはニセ科学になるんですよ。ニセ科学というのは、たとえば、砲弾の破片がエネルギーを持っていたからとか、そういうふうに説明するでしょう。

極端に言うと、治療者として人に会うときは、その人に会うときに雨が降っているか? 偶然風が吹いたか? とかいうようなことも全部考慮に入れます。

要するに、ふつうの常識だけで考えて治る人はぼくのところへは来られないのですよ。だから、こちらもそういうすべてのことに心を開いていないとだめで、そういう中では、いま言われたようなことはやはり起こりますよ。

(日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~中野信子の『ペルソナ』『サイコパス』と村上春樹の『職業としての小説家』~(2021/02/17)

前回のコラムを書き綴るのと並行して、私は中野信子さんの『ペルソナ』を読んでいたのですが、TVやこれまでの著作から多くの人が感じていただろう「中野信子像」とは異なる姿が表明されており、大いなる興趣を感じることができました。

まずは、『ペルソナ/講談社現代新書・2020年10月20日刊』の「おわりに~わたしはモザイク状の多面体である」のなかから引用してみます。

これは私の物語のようであって、そうではない。本来存在しないわたしが反射する読み手の皆さんの物語でもある。

私には、名前そのものというわけではないが、一定のイメージが固着することに対する、忌避感がある。固定されたイメージができてしまうと、自由な発想や行動が制限されるように感じるからだ。それでは、支配されているのと何ら変わらない。 読者のみなさんもそうではないだろうか? 自分がそう思われているそのイメージから逸脱するだけで、「そんな人だとは思いませんでした」という言葉がぶつけられてくる。「あなたのイメージ通りの人間です」などと一度も宣言したことはなく、そう思ってくれと明示的に求めたこともないのに、相手は勝手に思い込んで、裏切られたと恨み節を口にするのである。 こうして、多くの人は他者の期待するイメージに絡めとられ、取り得る選択肢は、知らず知らずのうちに限定されていく。メディアに出ていればなおさら、自分の周囲の人間たちが自分に抱くイメージに、無意識の内に取り込まれてしまう。あなたも「それらしく」振る舞うようになってしまっているはずだ。

「心理学とコーチング」というテーマのコラムで、私は、中野信子さんが語る「多くの人」がもつ傾向について、スタート段階で知ってほしいと思い、第1回目(今回のコラムは48回目です)に「対人認知」を取り上げています。その冒頭を再掲させていただきます。

対人認知とは、他者を把握する際にさまざまな情報に基づいて、その人がどのような性格であるのか、どのような気持ちでいるのかなど、人の心理状態、内面特性を推定する行為のことで、理論化されています。私たちは日々たくさんの人と接し、またマスコミなどを通じて直接会っていない人たちの情報を得ると、案外早いタイミングで、「○○さんって、■▲という人だよね」、と理解した気持ちになりがちです。

もちろんその中には、豊富な人生経験を通じて洞察力が磨かれ、相手の言動だけでなく挙措動作も含めた情報を短い時間で総合化し、それほど外れていない人物像を特定させることのできる人はいるでしょう。ただ多くの人が、その総合化に至らず、思い込んだ人物像を形成させ、とりあえず“安心する”というパターンが見受けられます。

『ペルソナ』の中野信子も“本当のわたし”ではない…?

中野信子さんは脳科学者ですから、「対人認知の理論」は当然知悉しており、マスメディアを通じての「自己像」が、「多くの人」にどのようなイメージとして定着していくのか、自覚的だったと想像します。マスコミという「場」を仕事として選択した、ということもあり、そのことから生じる「負の影響」についても、想定していたでしょう。ただ、その「思い込み」の激しさに辟易し、それが「怒り」の感情に至るにおよんで、徹底的な(?)「自己開示」の著作を発表しておこうという判断が、私を含めた多くの読者に「新しい中野信子像」を提供することになった、と私は解釈しています。

ただ、ここで私は「自己開示」という言葉を使っていますが、中野信子さんが「モザイク状の多面体」と表現しているように、『ペルソナ』の中野信子さんが“本当のわたし”であるのかどうかの同定は避けたいと思います。ユングも言っているように、人間とは善と悪の両面を併せ持つ存在であり、『ペルソナ』の中野信子像は、脳科学者の知力が編み出した、ある視座からの「創作としての中野信子」かもしれませんので。

さて、前回までロジャーズのエンカウンター・グループを語ってきました。『ペルソナ』を読むうちに、それとの関わりが脳裏に浮かんできたのですね。「牽強付会ではないか…」という思いもなくはないのですが、少し語ってみることにします。

「中野信子さんにとってのエンカウンター・グループ」とは…?

ロジャーズは、エンカウンター・グループの中ではこれまでのカウンセラーの役割とは別の、クライエントになることの意義を記述しています。つまり、グループ全体を「人間有機体というカウンセラー」と見立て、自分がクライエントとなって身を委ねる…、すると自分がさらに促進的になっていく。このことを、力を込めて語っているのです。

中野信子さんは『ペルソナ』を書くことで、それを手にした読者に“思い”を伝えています。私はその「読者」こそが、中野信子さんにとってのエンカウンター・グループなのではないか…そのなかの中野信子さんはクライエントとして、カウンセラーでもある「読者」に身を預けたのではないか、と解釈しました。

そして私の思考の流れは、以前に読んだ『職業としての小説家/村上春樹・新潮文庫2016年刊』を想起しました。以下に引用します(ノーベル文学賞に触れたところです)。

読者への感謝を熱く語る村上春樹氏

僕もインタビューを受けて、賞関連のことを質問されるたびに(国内でも海外でも、なぜかよく質問されます)、「何より大切なのは良き読者です。どのような文学賞も、勲章も、好意的な書評も、僕の本を身銭を切って買ってくれる読者に比べれば、実質的な意味を持ちません」と答えることにしています。自分でも飽き飽きするくらい何度も何度も繰り返し、同じ答えを返しているのですが、ほとんど誰もそういう僕の言い分には本気で耳を貸してくれないみたいです。多くの場合無視されます。 でも考えてみたら、これは確かに実際、退屈な回答かもしれませんね。行儀のよい「表向きの発言」みたいに聞こえなくもない。自分でも時々そう思います。少なくともジャーナリストが興味をそそられる類のコメントではない。しかしいくら退屈でありふれた回答であっても、それが僕にとっては正直な事実なのだから仕方ありません。だから何度でも同じことを繰り返し口にします。 読者が千数百円、あるいは数千円の金を払って一冊の本を買うとき、そこには思惑も何もありません。あるのは「この本を読んでみよう」という(たぶん)率直な心持だけです。もしくは期待感だけです。そういう読者のみなさんに対しては、僕は心から本当にありがたいと思っています。それに比べれば……いや、あえて具体的に比較するまでもないでしょう。

“村上春樹”は世界規模でのブランドとなっており、そのイメージが、自分の等身大の姿と乖離していくことに対して、エッセイとはまた別の『職業としての小説家』を著しておこう、と判断したのだと思います。
春樹氏にとってのエンカウンター・グループは「読者」であることを、この語りから理解することができます。

さて、もう一つ中野信子さんの著作を取り上げてみましょう。『ペルソナ』の中野信子像ではない、脳科学者としての中野信子さんが書いた『サイコパス』です。

脳科学者の視点で描く「精神分析の失墜と脳科学の台頭」を引用します。

サイコパス研究に限りませんが、当初はまず心理学的なアプローチで捉えられていたものが、精神医学的に語られるようになりました。そしてこの10年ほどの劇的な脳科学の進歩によって、さまざまなことがわかるようになってきています。脳科学が明らかにしたことはいくつもあります。たとえばフロイトの業績は、注意深く読めば科学的に証明に乏しい、反証可能性があるとは言いにくい理論であることがわかります。そのため、今ではトンデモ科学呼ばわりする人たちもいるほどです。 精神分析は、病の原因解明のような分野の研究に関しては、玉石混交です。古典的な精神医学、精神分析系の研究領域では、研究の創始者や学会の重鎮の発言をそのまま受け容れる、という態度が正しいとされるところもあるのです。 ただし、患者さんとの信頼関係を形成したり、満足感をもっていただけたりという観点から、もともとは精神分析で用いられた手法である「傾聴」などは、経験的に有効であるとして他分野の人も応用しています。 また、患者自身の治る力を引き出すようなテクニカルな部分や、臨床における患者のケアといった部分については、古典的な精神医学の方が脳科学よりも一日の長があるといえます。ただし脳科学と異なり、必ずしも自然科学的な「仮説を立て、ファクトを積み上げ、検証する」という研究の仕方ではないことは留意すべきです。 21世紀に入ってからの脳科学は、それまでの心理学者たちが「こういう現象がある」と議論してきたことに対し、画像診断などを通じて「実はこの部分はこうだった」「この物質の代謝が異常だった」「受容体がこうだった」「コネクティビティがこうだった」と明らかにしてきたのです。サイコパスに限らず、ほかの精神疾患についてもです。 それまではいっしょくたに扱われ、誤解や混同にさらされてきたさまざまな精神疾患の違いが、具体的に、科学的に記述できるようになってきたのです。
さらには、文学や思想の領域のことだとされてきた分野にまで一部の脳科学は進出しています。一度は否定された19世紀的な理論の見直しも起こっています。

脳科学者の立場からの精神分析が記述されています。なお、中野信子さんは、精神分析を心理療法全体として捉えているようにも感じますが、それはよしとしましょう。精神分析(≒心理療法)のすぐれた点についての紹介もあり、バランスのとれた解説だと感じました。

フロイトは精神分析を創始した1900年以降、自分の理論を科学せしめようと努力を重ねてきました。フロイトが亡くなったのは1939年ですが、もしフロイトが21世紀まで生き延びていたとしたら、脳科学の著しい発展を「自分が目指してきたものだ」、と心の底から喜んだのではないか、と私は想像しています。
「科学なのかそうではないのか」という命題は、「奥の深い」、かつ「やっかい」なテーマです。

私は「科学だ」と称されるものは、その時点での「科学的な過程」だと理解しています。「科学」の終着は永遠に訪れることはなく、理論が発表された次の瞬間から書き換えられ、それが「発展」と称される動態となって推移していくのではないでしょうか。

次回のコラムは、フロイトと同様に「科学とは」を思考し続けたロジャーズについて、語ってみようと思います。

(日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~ロジャーズ その12~(2021/02/09)

エンカウンター・グループ(4)

ロジャーズが始めたエンカウンター・グループを3回にわたって解説してまいりました。その間、私はコーチビジネス研究所の五十嵐久代表との出会いをどこかで語ってみたいな…と、思っていました。ロジャーズのエンカウンター・グループについて深く考えていくと、五十嵐代表と私の共通の恩師に意識がフォーカスしていきます。今回のコラムは、そこを起点とした、私が実感するエンカウンター・グループの体験を語ってみたいと思います。

以下は、以前五十嵐代表がインタビューを受けて語った内容です。

卒業後は東京信用保証協会という、公的な中小企業支援機関に就職しました。仕事にはやりがいがあり恵まれた環境だったのですが、入社5年目で自分が招いたミスをきっかけに、組織に依存することの怖さのようなものを感じ、自分に何ができるかもう一度考え直してみたんです。
組織に依存しないで生きていける力をつけよう、自立した力をつけなければという想いが強くなり、仕事に役立ち、直接中小企業の力にもなれるようなものはないかと考え、中小企業診断士の資格取得を目指しました。

1人の恩師との出会いを語る五十嵐代表です。

そして、この時に診断士の受験指導をして頂いた恩師との出会いがあり、そのご縁で、本の執筆や中小企業診断士の受験指導など、10年ほど様々な経験をさせて頂きました。
本当に人のご縁というのは大切ですね。今振り返っても出会いによって人生は変わるということを実感しています。

私も中小企業診断士です。35年前、大手のキャリア開発会社が運営する、診断士受験講座に申込みました。
社会人生活をスタートして4年を経たばかりで、資格の取得にあたっては、「企業での実務経験がモノを言う」ことがオーソライズされており、合格者の年齢で20歳代はほとんどいないというのが実態でした。

「そもそも自分には無理筋の資格に挑戦しようとしているのではないか…」という思いを抱えていました。
五十嵐代表との出会いは、その講座の初日です。ただし受講生ではなく、試験に合格したばかりのピカピカの中小企業診断士としての姿でした。

当時の一次試験は8科目(商業部門…経営基本管理、労務管理、販売管理、財務管理、仕入管理、店舗施設管理、商品知識、経済的知識)で、すべて筆記です。ちなみに、大幅な制度改革により2001年の試験からは、一次試験がマークシート、二次試験は事例問題(筆記)+口述試験に変わっています。そして、その時点の科目変更として、コーチング、カウンセリングに関連の深い「助言理論」が、新たに組み込まれています。

私の診断士受験について、不安を覚えたそのスタートをお話しします。

私が受講した講座(一次試験対策)は、少人数のゼミ形式でした。その全ての科目を1人の講師が担当します。当該講座をPRしているキャリア開発会社も、この形式は始めたばかりで、私は二期生です。
五十嵐代表はその講座の一期生として受講し、試験に合格していたのですね。

中小企業診断士という資格の内容は、企業経営の全てを包含する、といっても過言ではありません。科目構成からも、そのことが理解できます。それを1人の講師が、15人(二期生の場合)に対して7ヵ月教え続けるのです。その講師は中西安さんという方で、私にとっても真の恩師です。当時ソニーに在籍されており、米国のパーツセンターの責任者も歴任された現役の企業人でした。

現在、新型コロナウイルスもあって、副業を解禁する企業が一気に拡大しましたが、ソニーという会社の先進性でしょうか、中西先生は会社(ソニー)に告知した上で、講師業に従事されていました(したがって講座はほぼ隔週、土日の10時~17時が充てられています)。
そして「中西先生だからこそ」なのですが、第一期生の合格輩出率が非常に高く、それもあり「第二期」につながっています。以後この中西ゼミは診断士受験の看板講座として継続していきます。

中西先生は二期の講座スタートにあたって、一期生の合格者のうち3名を招いたのです。私は不安を抱えている若年の1受講生であり、一方の五十嵐代表はすでに診断士です。まさに憧れの存在でした。
そして先輩3人の「合格体験談」が始まります。

そのとき印象に残ったのは、五十嵐代表ではない2人の先輩が「誇らしく語る姿」です。私もそのように語ってみたい…と感じたことを思い出します。ところが……
五十嵐代表は違っていました。一言でいうと「謙虚さ」に包まれていました。五十嵐代表との交流は、私が診断士試験に合格して以降、30数年に亘りますが、“そのときの印象”は今も変わっていません。

どちらかというと、私は前者2人に近い性格だと自認しています。あくまでも寛げる雰囲気の場合ですが、「東洋のラテン、広島の出身です」と自己紹介することがあります。瀬戸内海を地中海に見立て、うどん文化であることをイタリアのパスタになぞらえての解釈です。説明しないと相手に伝わらない「オヤジギャグ」なのですが、自分としては気に入っています。脱線しました(笑)。

今つくづく思うのは、「五十嵐代表はずっと自分にとってのロールモデルだったのだな…」ということです。コーチビジネス研究所のコラムをこうして担当しているのも、五十嵐代表との縁であり、共通の恩師である中西先生の存在があったからなのですね。

中西ゼミは私にとって初めて体験するエンカウンター・グループでした。

さて本題のエンカウンター・グループです。
中西先生の講座は、私にとっての明快なエンカウンター・グループでした。二期生の15人は錚々たるメンバー揃いです。大手都市銀行の課長、大手商社の課長、中堅企業のオーナー経営者…、講座では実務に裏づけされた彼らの自信あふれる発言が飛び交います。最初の科目は経営基本管理ということもあって、実感がわかないまま、まったく発言できない2日間を過ごしたのです。
ただ、この2日間で感じたのは、どこか居心地のよさです。1月18日のコラムの最後に、ロジャーズの以下の言葉を引用しています。

ある懐疑的な大学管理者は、彼がグループで学んだ主なことは、個人的に参加しないでひっ込んでいることができ、それでいて居心地がよかったこと、しかも強制されはしないという実感をもてたことだ、と語った。私には、これは貴重な学習に思われ、その人が次の機会には、本当に参加することができるようになるだろうと思ったのである。彼のまる1年後の行動についての報告によれば、客観的に参加しなかったそのなかから多くのことを学んでおり、彼が変化したことが示唆されている。沈黙したり、まったく発言をしない人でも、それが苦痛や抵抗をあらわしているのではないと確信できるならば、私はそれを受け容れることができる。

私は懐疑的な大学管理者ではありませんが(笑)、このロジャーズの語りそのものを実感できたのです。まず講座メンバー一人ひとりに温かみを感じることができました。そして何よりも、中西先生が醸し出す雰囲気でした。

講師と目が合うと、「当てられるのではないか…」と意識し、目を伏せる(自信のある人は逆にアピールする態度を示すかもしれませんが…)ことがありますよね。中西先生は違っていました。時おり私と視線が合うのですが、そのたびに「にこっ」と笑顔が返ってきます。そして、別の人を指名するのです。

その後中西先生のはからいにより、五十嵐代表と共同執筆をするようになって、当時のことをいろいろ尋ねてみたのですが、中西先生の口からは、ロジャーズが語るのと同じニュアンスの説明があったことを今もありありと思い出します。

多彩に富んだエクササイズも魅力でした。

講座は受験指導ですから、試験に出る重要なキーワードを中西先生が解説します。その際、企業事例がふんだんに登場するのですね。その語りはわくわくするものでした。15人は、いくつかの小グループに分かれ、エクササイズも盛り込まれます。その内容も実に多彩で、受験学習に往々にして伴う「憶えなければならない苦痛」を意識することはありませんでした。

米国駐在時の多くのエピソードは今も私の脳内メモリーにしっかりと格納されています。
例えば、「マクドナルドという発音は完全な日本語なんだよね。正しくは“マックダナァ(ㇽ)”だ」、という言葉は、そのときの中西先生の映像と共に再現が可能です。

そして、私が合格できた決定的な理由が、講座以外の別の時間の使い方でした。きっかけそのものは曖昧なのですが、講座のない土日に自主的にメンバーが集まりグループ学習が始まったのです。それは強制ではなく、自由な雰囲気で続けられました。私も多く参加し、その中の私は最年少であっても、組織の部下ではなく対等な一人の受験生として振る舞うことができたのですね。後で感じたことなのですが、本当にメンバーに恵まれたのだと思います。

都市銀行の課長も大手商社の課長も、会社とは異なる自分であることを自然に話してくれます。「このメンバーだと変に恰好つけなくてよい。会社だと課長として振る舞わなければならないから疲れるんだよね…」といった発言もあり、結構お茶目なオジサンが現れます。

この経験は、他方で会社の組織というものを深く考える機会を与えてくれました。
不安を抱えての講座参加でしたが、このような素晴らしい環境に恵まれたことで、一次、二次の試験にストレートで合格することができました。これをきっかけとして私の人生は大きく変わっています。

最後に中西先生らしいウイットを紹介します。

今回は、共通の恩師である「中西先生を語る」という、極めて個人的なコラムとなったことをご容赦ください。
中西先生はすでに故人となられましたが、中西先生の発起により、中西ゼミ卒業生の診断士が中心となってグループが形成されます(第三期のゼミあたりから)。それは中西先生が講義でよく話された「はまち」にちなんで、「はまち会」と名付けられました。

「寿司屋に行って、グッドな寿司屋とそうでない寿司屋の見分け方だが、仮に寿司ネタでトロが売り切れていた場合に、トロを注文して最初に返ってきた言葉が『あいにくトロを切らしておりまして…』、と応える寿司屋は並みの寿司屋だね。『はい、本日はとってもイキのいいはまちが入っておりますよ』、と応える寿司屋が、さすがの寿司屋だ。」

愉しく話される中西先生の風情を思い出します。

今でも時おり、五十嵐代表と中西先生のことを語り合います。一人の人物が、こうして他者の心の中に存在することの素敵さを、しみじみと噛みしめているところです。

(日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~ロジャーズ その11~(2021/02/05)

エンカウンター・グループ(3)

私がコラムで2回にわたって取り上げた、ロジャーズの「グループのなかで促進的な人間であることができるのか?」は、『ロジャーズ選集』の上下に収録された33の自伝、論文、論及のなかで、特にリッチなボリュームではないのですが、内容は変化に富む多彩な構成となっています。

エンカウンター・グルーブは、それによる効果が明瞭であることにより、“流行現象”として拡大していきます。その背景に、権威性を帯びてきた「ロジャーズという存在」が提唱したことも、その現象を補強していると解釈できそうです。

そして、他者や他の機関が便乗してはじめたエンカウンター・グループのなかには、ロジャーズの思いとは異なった内容のものが見受けられるようになり、そのことをロジャーズは憂慮するのですね。

それもあって、この論及の最後に「私の信ずる非促進的行動」というタイトルを付し、8つの内容を挙げ熱く語ります。“信ずる”というワードをあえて挿入しているところがロジャーズらしさです。

今回のコラムは、ロジャーズが語る「私の信ずる非促進的行動」をすべて掲載させていただきます。

その8つをどのように紹介しようか…私なりに要約してエッセンスとして掲載しようか…といろいろ考えたのですが、ロジャーズの言葉は、その逆説に富む言い回しも含め、他者がアレンジすると、その「思い」と「力」が、失われてしまうようにも感じますので、そのまま掲載させていただきます。

私の信ずる非促進的行動 本章のはじめに、グループ運営の効果的進め方はたくさんあることを強調したが、逆に、私が推薦したくないようなやり方をする人もまた多い。それは、グループに対してもメンバーに対しても促進的ではないばかりか、有害でさえあるように思われるからである。これらの非促進的な行動のいくつかを列挙することなしには、正直に言ってこの論文を終結させるわけにはいかない。 この分野の研究はまだ幼稚な段階にあるので、以下に表明されるような意見が事実にもとづいているとか研究結果によって支持されているように見せかけることはできない。これらは私の経験から生まれてきた意見にすぎないので、それは意見として述べられるものである。 (1)現在見られるグループへの高い関心を利用するように見える人を、私はまったく疑いの目で見ている。驚くべき流行に乗じて、多数のグループ・ワーカーが、「早く世間に名を売れ」「時流に乗り遅れるな」というスローガンを掲げているように思われる。人間相手の仕事をする人たちにこのような傾向があらわれるとき、私は深い怒りを感ずる。 (2)ファシリテーターが、グループを無理やり進めたり、操作したり、規則を課したり、自分の暗黙の目的に向けようと努めるとき、あまり効果的ではなくなる。この種の匂いが少しでもあると、ファシリテーターに対するグループの信頼は減少する(または、まったくなくなる)か、もっと悪いのは、メンバーを信心深い追随者にしてしまうことである。もし、ファシリテーターが特定の目的をもっているならば、それをはっきりと表に出してしまうに越したことはない。 (3)次に、グループの成功・失敗を、劇的であったか否かで判断するファシリテーターがいる……泣いた人間が何人いたとか、非常に「高まった」(turned on)人が何人いたか、などで……。私は、これはまったく誤った評価を導くものであると思う。 (4)あるひとつだけの方向のアプローチを、グループ・プロセスにおける唯一の基本要素と信じるファシリテーターは、推奨することができない。ある人は、「防衛を攻撃する」ことを、必要不可欠なものとする。またある人は、「あらゆる人の基本的怒りを引き出すこと」を信条としている。私は※シナノン(Synanon)とその活動が、麻薬常習者に効果を上げていることを大いに認めているものであるが、彼らの性急に形成されたドグマ……真実の感情によるものであれ、偽りの感情によるものであれ、仮借なく攻撃することがグループの成功・不成功を判断する基準となる……に束縛されていることには不快感を禁じえない。私は、敵意や怒りが存在するときは、それが表明されることを望んでおり、また、私のなかに本当にそのようなものがあれば、自分でもそれを表明したいと思う。けれども、たくさんの別の感情もあるのであって、それらも生活やグループのなかで同等の重要性をもっているのである。 (5)自分の問題があまりにも大きく、しかも深いものであるため、自分自身をグループの中心におく必要があり、他人に役立つとか、他人に十分に気づくことができない、というような人をファシリテーターとしては推薦できない。そういう人は、グループのなかの一参加者としてはふさわしいかもしれないが「ファシリテーター」という呼称をもっているならば、それは、不幸なことである。 (6)私は、グループ・メンバーの行動や動機や原因の解釈をしばしば与える人を、ファシリテーターとしては歓迎しない。その解釈が不正確であるとき、それは何の役にも立たない。もし、まさに的を射ていたとしても、極度の防衛を引き起こすかもしれないし、悪くすれば、その人から防衛を剥ぎとり、グループ・セッションが終了した後に、その人を傷つきやすいままにしてしまって、ときには人間としての徹底的な傷を与えてしまうかもしれない。「あなたは、たしかに隠された敵意をたくさんもっていますね」とか、「あなたは、基本的に男らしさに欠ける点を補償しようとしているように思います」などの発言は、ある人を数カ月間も苦しめつづけ、自分を理解する能力において多大の自信喪失を与えてしまうことがある。 (7)私は、ファシリテーターが「さあ、みんなでこれから……しよう」と言いながら、エクササイズや活動を導入するのを好まない。これは、ある特種な操作の方法であり、個人にとっては、ことさら抵抗しがたいものである。何かのエクササイズが導入されるときは、メンバーひとりひとりがその活動に参加を決定できる機会が与えられるべきであり、そのことをファシリテーターははっきり述べるべきである。 (8)私は、グループに個人的に、情緒的に参加しないファシリテーターを好まない……その人は、グループ・プロセスやメンバーの反応を、優れた知識でもって分析することができる熟練者だといわんばかりに、超然とした態度をとる……これは、グループを運営することで生計を立てている人たちによく見られるが、自分自身を防衛し、参加者に対する尊敬をまったく欠いていることを示しているように思う。そういう人は、自分自身の自発的な感情を否定して、グループにモデル……けっしてうちとけない、ひどく冷たい、分析的人間であるという……を示しているのである。これは、私の信ずるところとまったく反対なのである。ひとりひとりの参加者がそれではどんな目的を達成しようとしているのか、という問題なのだが、それは、私が期待していることとは正反対なのである。防衛がなくなり、自発的になっていくこと……お高くとまるという防衛ではなく……が、私がグループのなかで起こってほしいと期待しているものなのである。 はっきりさせておくが、上述のような性質をグループのなかのどの参加者がもっていても、それに反対しているのではまったくないのである。操作的な人、攻撃ばかりしている人、情緒的にうちとけない人なども、グループ・メンバー自身によって適切に対処されるであろう。 メンバーたちは、そうした行動がずっとつづいていくのを絶対に許さないであろう。けれども、ファシリテーターがそうした行動を示すならば、メンバーたちがお互いどうしても、またファシリテーターに対してもぶつかっていき、対処していくことができるのだとわかる以前に、グループにひとつの規範を与えてしまいがちなのである。 ※シナノン…犯罪者・麻薬中毒者・売春婦・その他の社会的脱落者の更生のための共同社会を運営する非営利団体。

ロジャーズが始めたエンカウンター・グループは、今日「ベーシック・エンカウンター・クループ」、あるいは「非構成的エンカウンター・グループ」と呼ばれています。3回にわたってロジャーズの考えを紹介したように、誘導という概念を否定した上で、メンバー、ファシリテーターが自由に語り合い、参加者同士の相互啓発を経て、一人ひとりが促進的に変化していくプロセスを実感していくのです。

他方、ロジャーズが創始したベーシック・エンカウンター・グループの影響を受けつつ、進行の過程でエクササイズをいくつか決めて、メンバー間の関係づくりを行っていく「構成的エンカウンター・グループ」も今日広がってきています。

エクササイズに関する上記ロジャーズの、「何かのエクササイズが導入されるときは、メンバーひとりひとりがその活動に参加を決定できる機会が与えられるべきであり…」と指摘したコメントは、当時、エクササイズと称して、参加者にかなりの精神的負荷をかける内容を強要したりするグループが見受けられたことを憂いての発言です。

エクササイズの意味(日本語訳)は、「練習、練習問題、運動、体操、訓練」ですから、言葉そのものは、至極あたりまえの肯定されるべきアクションです。今日では、個々人を尊重し、自由な雰囲気のなかで、お互いのコミュニケーションが活性化するエクササイズを合間に挿入し、エンカウンター・グループがより効果的に展開していくよう、工夫がなされているのです。

私が前々回のコラムのなかで、「教育訓練に関するテーマ、つまり資格取得講座であるとか、これまで習得していない技能を身に着けてもらうためのセッションについても、エンカウンター・グループが効果を発揮する」、と記述しましたが、このようなエクササイズを盛り込むことを前提としているのですね。

コーチビジネス研究所(CBL)の五十嵐代表は、「私は講座そのものをコーチングにしていきたい」と語ります。そのことを、「少人数制グループ」という講座のなかで実践しているのです。
次回のコラムは、五十嵐代表との共通の恩師を語ることで、エンカウンター・グループを考えてみようと思います。

(日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~ロジャーズ その10~(2021/01/25)

エンカウンター・グループ(2)

私の希望は、徐々に、ファシリテーター(facilitator)であるとともに参加者になっていくことである。これは説明しにくいことで、私があたかも二つの異なった役割を意識的にとるような印象を与えてしまいやすい。

ロジャーズを取り上げた9回のコラムで、「セラピスト・カウンセラーの必要十分条件」である、①無条件の肯定的受容、②共感的理解、③自己一致、について、ロジャーズ自身がいかに体現しているのかを、書き続けてきました。『ロジャーズ選集(上)』全般を通じて、そのことがしっかりと描かれています。
それに対して、『ロジャーズ選集(下)』からは、一見すると、その「必要十分条件」とは違った姿が現れているように感じてしまい、とまどってしまう方も多いのではないか、と私は推察しています。

前回に引用したのは「グループのなかで促進的な人間であることができるのか?(『ロジャーズ選集(下)第23章』)」なのですが、この論及は前半と後半で、フォーカスの内容が変化しているのを感じることができます。その「キー概念」が冒頭のロジャーズのコメントに集約されているのです。
ロジャーズはエンカウンター・グループを通じて、その「キー概念を意識するに至った変化」を次のように語ります。

・このアプローチはその基本哲学において、私が長年、個人セラピーで採用してきたものと何ら変わるところではない。けれども、グループにおける私の行動は、一対一の関係でもってきたものとは多くの場合非常に違っている。私はこれを、グループのなかで経験してきた私自身の成長によるものだと考えている。 ・簡単な比喩をあげるのがよいかもしれない。私が、ある科学的現象を5歳の子どもに説明するとしたならば、賢い16歳の生徒に同じことを説明する場合とは、言葉使いから態度までまったく異なったものになるであろう。このことは私が二つの役割を演じていることになるのだろうか。もちろん、そうではない。真実の私の二つの側面、または表現の仕方が示されているということにすぎない。これと同様に、ある時点ではある人たちに対して促進的でありたいと願い、別の時点では勇気をもって私自身の新しい側面をさらけ出すという冒険をしていこうと思うのである。

ロジャーズ自身が、「二つの役割」と繰り返し述べているように、その表現が明らかに違っていることを自覚的に記述しています。それが象徴的に現れている箇所を抜き出してみましょう。

「対決とフィードバック」というタイトルを掲げ、アグレッシブに語ります!

・私は、ある特定の行動に対しては、個々人とまともに対決して(confront)いこうとしている。「どうもあなたがそのようにペラペラしゃべるのは嫌です。私には、あなたは同じことを3回も4回も繰り返しているように思われます。伝えたいことを話し終えたら、そこで止めてほしいのです」「私には、あなたは変てこなパテみたいに見えます。誰かがあなたに近づくと、ペコンとひっこみますが、まるで誰にも触れられなかったみたいに、すぐにまた元どおりにもどってしまいますね」。 そして、私は自分の本当の気持ちを積極的にさらけ出すことによってのみ、相手と対決したいと思う。これは、ときには非常に強烈になることもある。「私は、このグループほどうんざりしたことは、いまだかつてありませんでした」とか、またグループのなかのひとりに向かって「今朝起きたとき、『あなたにはもう会いたくないな』と感じました」など。 個人の自己防衛に攻撃をかけるのは、私には断定的態度に思われる。もし、ある人が、「あなたは敵意をたくさん隠しているようだ」とか、「あなたは、あたまだけで物事を割り切りすぎるようだ。それはたぶん、自分の感情を恐れているからだ」というならば、私はこのような断定(judgements)や診断(diagnoses)は促進的であるのと逆であるように思う。 しかし、もしその人の冷たさと思われるものに不満を感じるとか、彼の知的割り切り方が私をイライラさせるとか、その人の他人に対する残酷な態度に腹が立ったようなときには、私のなかに起こっているその不満、苛立たしさ、怒りをもちながら彼に向かい合いたいと思う。私には、このことは非常に重要なのである。

驚かれるのではないでしょうか。日本語訳も少し分かりにくいのですが、「グループ内で、断定的、診断的な口調の人、冷たさを感じさせる人、残酷な態度が現れている人」に対して、ロジャーズ自らが明快に、不満、苛立たしさ、怒りをダイレクトにぶつけているのです。

このロジャーズの態度が、「キー概念を意識するに至った変化」についての引用で太字にした、「別の時点では勇気をもって私自身の新しい側面をさらけ出すという冒険をしていこうと思うのである」を具体的に説明したしころなのです。

これはどういうことなのでしょうか。「3つの必要十分条件」である、①無条件の肯定的受容、②共感的理解、③自己一致、と矛盾するのではないか…と感じられるかもしれません。
結論を申しあげると「矛盾していない」のです。

ロジャーズが「グループのもつ治療的な力」で語っている内容とは…

・専門家は、ときとして診断名にとらわれて例えば「これはまさに偏執病的行動だ」などと感ずるのである。その結果、いくぶんか自分は一歩さがって、その人を対象物(object)として扱いがちである。ところが、もっと素朴なメンバーは、この扱いにくい人に人間(person)としてかかわり続ける。しかも、私の経験からすれば、このほうがはるかに治療的なのである。そこで、メンバーが明らかに病的行動を示すような状況では、私は自分自身の知恵よりも、グループの示す知恵の方を信頼する。 しかも、私はメンバーの治療力に非常に驚かされることが多いのである。このことは、恥ずかしいと同時に、力づけられることでもある。そのことは、訓練を受けていない普通の人のなかに、もしその可能性を自由に用いることさえできるならば、援助者としての信じられぬほどの潜在力が秘められていることを私に気づかせてくれた。

ロジャーズは、自分が気づいている欠点として、「私は自分の怒りを感じたり、それを表現するのが遅れてしまうことが多い」と自己分析しています。

これについて、2回のエンカウンター・グループでの経験を挙げ、1度はそのセッション内では自分の怒りに気づかず、夜半にそれを感じ、翌朝に表明したこと。もう一つはセッションで気づくことができ、そのセッションのなかで怒りを表明できたこと。いずれのセッションも、真実のコミュニケーションが発展し、関係が深まり、徐々にお互いに対する純粋な好意を持つことができるようになった、とロジャーズは述べています。

それにしても上記のロジャーズの怒りは、激しい口調です。ただ、“言葉そのもの”に注目していただきたいのですが、ロジャーズは“自分の感情”を表明しているのです。一方、ロジャーズが「促進的でない」と指摘している発言は、“他のメンバーに対して断定的、診断的な物言い”なのです(冷たさ、残酷な態度もそれに付随しています)。つまり他者を批評、ジャッジメントしており、ロジャーズのスタンスとは異なっているのですね。

1対1のセラピーの場合、ロジャーズは「自分の感情」は表明しますが、それが「怒り」と言う態度ではありません。ところがグループになるとロジャーズは、怒りを含めた自分の感情を素直にぶつけることに“挑戦している”のですね。

このことは、ロジャーズが“グループ全体を信頼している”からなのです。グループそのものが有機体であり、ロジャーズもそのなかの一員としての存在であり、1対1のセラピーのようにクライエントのすべてを一人のセラピスト、カウンセラーがまるごと引き受けるのとは違うことをロジャーズは見出したのですね。

そしてカウンセリング、コーチングに共通する概念して、クライエントにはすべての自由が保障されています。どのような態度、言葉を発してもよいのです。むしろそうでなければ、カウンセリング、そしてコーチングが成り立たないのです。クライエントが防衛機制を働かせて、「よい子」「人格者」のように振舞う必要はないのです。それを全体として引き受けるのがカウンセラーであり、コーチです。その “カウンセラーに求められる” のが「3つの必要十分条件」なのですね。

ロジャーズの態度は「矛盾していない」と私が結論づけているのは、このことであり、読者の皆さんも理解していただけたのではないでしょうか。

ロジャーズは有機体であるエンカウンター・グループに絶大な信頼を寄せます。

ロジャーズは、エンカウンター・グループがもつ可能性を確信しました。1人のセラピストとして1人のクライエントに渾身の力を込めて接していたときではない、自分自身が自由な感覚を得て、さらに素直な自分を表明する(自己一致)場をエンカウンター・グループに見出したのです。

まずは「ファシリテーター」として、そして「参加者(≒クライエント)」になることで、グループ全体が促進的に発展していくことを実感し、興奮を覚えたことがロジャーズの発言から伝わってきます。

1960年代の後半以降、ロジャーズの活動はエンカウンター・グループが主軸となっていきます。アドラーもそうでしたが、治療行為としてのセラピー、カウンセリングにとどまることなく、健常な人たちも含めた対象に対して「自分が培ってきた経験や理論を知ってほしい!」という願望が高まり、実際に精力的な活動として広がっていきます。ロジャーズの考えと態度は、明瞭に変化しているのです。

そしてロジャーズは、一人の心理学者というより、社会全体に大きな影響を与える啓もう思想家としてのイメージが形成されていきます。本人の思いは別として、「権威性」を帯びてくるのですね。このあたりについて、ロジャーズは次のように語っています。

・ここ数年来、私はある特別な問題にぶつかっている。それは著書や講義のなかで少々幅広く知られるようになった者なら誰でもが特別にもつ問題なのである。私のグループには、後光でも射しているかのように期待する人から、角を出す鬼に出会うかのように恐怖する人まで、あらゆる種類の期待を抱いて参加する人がいる。 私はこれらの希望や恐怖からできるだけ早く逃れられるように努める。服装や立居振舞で、また、ただ名前や本や理論ではなくて、ひとりの人間として私を知ってもらいたいという希望を話すことによって、グループ・メンバーに対してひとりの人間になろうと私は努める。

次回のコラムも引き続き、エンカウンター・グループについて解説してまいります。

(日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~ロジャーズ その9~(2021/01/18)

エンカウンター・グループ

河合氏と春樹氏のコミュニケーションを通じて、カウンセリング、そしてコーチングの奥深い世界を体験していただいたところで、ロジャーズに戻りましょう。

自分のサイコセラピーがいかに科学としてのスタンスに立脚しているのか、そのことを発表し続けてきたロジャーズですが、1960年代になると、その語り口が変わってきます。「ロジャーズ その8」のコラムでは、そのことを感じることができる論及の「成熟した大人について(1964年)」を取り上げました。

ちなみにロジャーズを8回にわたって解説してきましたが、いずれもが『ロジャーズ選集(上)』からの引用です。今回からは『ロジャーズ選集(下)』の内容に移りたいと思います。

1960年代はロジャーズの視点が大きく広がっていく時代です。「社会的な意義(1960年)」「十分に機能する人間…よき生き方についての私見(1961年)」「学習を促進する対人関係(1967年)」など、論文というより哲学的なテーマの内容が編纂されています。このことは、選者が「あえて哲学的なものを選んだわけではなく、ロジャーズが、“そのようになっていった”」のです。

今回のコラムは、その1960年代を経て、1970年に発表された「グループのなかで促進的な人間であることができるのか?(『ロジャーズ選集(下)第23章』)」を取り上げてみましょう。

最初に「哲学と態度の背景」というタイトルを掲げ、語りをスタートします。

・私は、グループのなかで促進的な人間(facilitative person)であろうとする努力を、できる限り包み隠さず書き、対人関係という誠実な芸術に効果的に参加しようとするときの、自分の強さ、弱さ、不確実さについて、できるだけ述べてみたいと思う。 誰しも白紙の状態でグループに参加する人はいない。そこで、私がもちこむ態度と確信のいくつかを述べてみたい。グループは、ほどほどの促進的風土があれば、それ自体の潜在力(potential)とメンバーの潜在力を発展させるものだと、私は信じている。私にとってはグループのこの可能性は畏敬に値するものである。その必然の帰結として、私は徐々にグループ・プロセスに絶大な信頼を寄せるようになった。 これは、セラピーの過程で、指示を与えるより促進的であったほうが、その個人を信頼するようになったことにまったくよく似ている。私にとっては、グループはひとつの有機体に似ていて、知的にその方向を明確に示すことができなくても、それ自体の方向の感覚をもっているように思われる。

ロジャーズは、1対1のサイコセラピーではない、かつ、健常な人々を対象とする世界に興味関心の軸が移っていきます。

ロジャーズの言うグループとは「エンカウンター・グループ」のことです。エンカウンターという言葉は、心理学を学んだ人は別として、一般になじみの薄い言葉だと思います。意味は、「出会い」「遭遇」で、それがグルーブ自体の潜在力とメンバーの潜在力によって(シナジーといえるでしょう)、対人関係(ロジャーズは“誠実な芸術”と例えています)が促進される…その方法をロジャーズが編み出したのです。そして、その場における重要な存在が、ファシリテーター(facilitator)です。

今日、企業で、そしてさまざまの機会で「グループセッション」が行われます。その際、進行役をファシリテーターと呼称することが一般化しています。ファシリテーター以前は、グループリーダーなどと呼ばれていました。つまりグループセッションのあり方が、グループのリーダーが「引っ張っていく手法」から、進行役は「意見を主張するのではなくメンバーの考えを引き出すこと」に主眼を置く、という内容に変化していったことが、この呼称に込められているのですね。

日本において、エンカウンター・グループという言葉そのものは、一般化していませんが、ロジャーズの考え方は、ファシリテーターという言葉が広がってきたことで、受容されているのです。

・私は、自分のファシリテーターとしての動き方がグループの生命に重大な意味をもつと信じているが、そのグループ・プロセスのほうが私の発言もしくは行動よりもはるかに重要であり、私がそれに介入しなくても、そのプロセスは展開すると信じている。たしかに私は、参加者に対して責任を感じるが、参加者に代わって感じているのではない。 ・すべてのグループである程度感じることであるが、とくに私はエンカウンター・グループ方式で指導するいわゆる講義のようなコースでは、感情および認知の両側面(affective and cognitive modes)をもつ全体的人間(whole person)が参加してほしいと強く思っている。

ロジャーズはここで重要なことを述べています。

先に私は、企業等で行われているグループセッションについてコメントしていますが、教育訓練に関するテーマ、つまり資格取得講座であるとか、これまで習得していない技能を身に着けてもらうためのセッションについて、講師や専門家が教室形式で教える「ワン・ウェイ」型が、現在も日本では主流となっています。ところがロジャーズは1970年時点で、「講義のようなコース」でもエンカウンター・グループ方式が有効に機能することを訴えているのです。

「風土づくりの機能」についてロジャーズは記述を展開します。

・私はまったく場面構成をしないかたちでグループを始める傾向があり、例えば「このグループが終わるころには、私たちは今よりもはるかにお互いをよく知り合っていると思います」とか、「みんなそろいましたね。私たちはこのグループ経験をみんなが本当に望むものにしてゆくことができると思います」とか、「少し落ちつかない気がしていますが、みなさんを見まわして、私たちは同じ船にのっているのだと思うと、いくぶん気が楽になります。どこから始めましょうか」といったごく簡単な言葉で始めます。ファシリテーターばかりのグループで討議した録音のなかで、これについて私は次のような見解を述べている。 たぶん私がグループを信頼しているためだと思いますが、私はグループのなかでは最初からたいてい非常に気持ちを楽にし、リラックスしています。これは少し言い過ぎかもしれませんね。普通、グループが始まったときは、いつも少し不安な感じがしていますから。だけど、たいていは「何が起こるか私にはわかりません。でも、何が起こってもいいんだ」と内心思っています。「そう、何が起こるか誰にもわからない。けれども、何も心配することはない」と、非言語的に伝えているように思います。自分がリラックスしていて、何も指導しようと思っていないことが、他の人たちを自由にしていくように思っています。

ロジャーズの存在そのものが「安心感を与える」のだと私は感じています。ロジャーズは「非言語的」と表現しているように、「リラックスしてください!」と言葉にしながら、その本人が能面のような無機質な表情であったり、緊張感ただよう態度であったならば、その場にいる人は決してくつろぐことはできません。メラビアンの法則により、相手の印象形成におよぼす影響は、非言語(ノンバーバル)情報が93%を占める(逆に言えば言葉そのものは7%にすぎない)ことがわかっていますから。

孤立しそうなメンバーに安心感を抱いてもらうための方法とは…?

・私はまた、メンバーにとって安全な風土を作ることを願って、少し違った方法をとっている。新しい洞察を得るときや成長するときに感じる苦痛、またメンバーから率直なフィードバックを受けたときに感じる苦痛などをなくすることができないことは、私も十分に承知している。しかし、その人に対して、あるいはその人のなかで、何が起ころうとも、成長の兆しとしてよく起こる苦痛や喜び、あるいはその両方を味わう瞬間に、心理的にはどこまでも彼とともにいることを、その人に感じてほしいのである。 私は、参加者が動揺したり傷ついたりしているとき、たいていはそれを感じとることができると思っている。そのようなときに、言語的か非言語的なサインを送って、私がそのことに気づいており、痛みや恐怖のなかにいるときの道連れになっていることを知らせるのである。

1対1のセラピーは、カウンセラーの視線、意識がクライエントにすべて集中しています。それとは違いグルーブでは、そのなかで自分の居場所が定まらず不安を抱いてしまう、他のメンバーが積極的に発言しているにもかかわらず、自分はなかなか意見を言い出せない、といったケースが生じることがあるでしょう。

加えて上記でロジャーズが示すように、他のメンバーから否定的なコメントを受けて、さらに落ち込む、といったケースも起こります。ファシリテーターとしてのロジャーズはそのことを熟知した上で、その人を決して孤独にしないよう、言語、非言語での働きかけが重要であることを説いています。

さて、ファシリテーターがセッションの冒頭で次のような発言をしました。

「みなさん、積極的に発言してください。このグループセッションの経験を有意義なものにするためにコミットメントすることが大切です。受身に終始してしまうと、何のために参加しているのか…実にもったいないことです。」 ファシリテーターを任された多くの人が、当然のごとく口にしそうな内容ですが…

ロジャーズの次のコメントを引用し、今回のコラムを終えたいと思います。次回も引き続き「エンカウンター・グループ」を解説してまいります。

・私は、参加者がそのグループに積極的にかかわっていても、いなくても、その人を喜んで受け容れる。ある人が心理的にひっ込んでいたいと思うなら、私はそうすることを暗黙に許している。グループ自身は、そういう人を受け容れるときと受け容れないときがあるが、私個人としては受け容れるのである。ある懐疑的な大学管理者は、彼がグループで学んだ主なことは、個人的に参加しないでひっ込んでいることができ、それでいて居心地がよかったこと、しかも強制されはしないという実感をもてたことだ、と語った。 私には、これは貴重な学習に思われ、その人が次の機会には、本当に参加することができるようになるだろうと思ったのである。彼のまる1年後の行動についての報告によれば、客観的に参加しなかったそのなかから多くのことを学んでおり、彼が変化したことが示唆されている。沈黙したり、まったく発言をしない人でも、それが苦痛や抵抗をあらわしているのではないと確信できるならば、私はそれを受け容れることができる。

(日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~河合隼雄と村上春樹 その2~(2021/01/15)

<村上>
ぼくは実は今、ノンフィクションの本を書こうと思って、そのリサーチのようなことをしているところなんです。ちょっと小説のほうは一服して、この1年はそれに集中してやってみたいという気持ちでいます。
テーマを定めて徹底的に調査をして、一人でも多くの人に話を聞いて、まとまったかたちの「非小説」をひとつ書きたいと。いろんな意味でそうすることが自分にとっても必要じゃないかと感じるんですね。そこは人の話をいっぱい聞くことによって自分がある意味で癒されたいという感覚もあるのです。他人の語る物語に正面から関わってみたいというか……。それはむずかしいことなのでしょうか?

まとまったかたちで「非小説」を書きたい、と語る春樹氏です。

前回のコラムで、カウンセリングのシビアな現場についてのやりとりを、「ぼくらの仕事がまさにそうなのですけれども、結局、癒されるのと癒すのはもう相身互いですからね…」という言葉から始めていますが、実は河合氏のこのコメントの前に、冒頭の春樹氏の質問があるのですね。

春樹氏が語った「非小説」は、1997年3月に『アンダーグラウンド』として刊行されます。会談は1995年11月ですから、そのとき春樹氏が、「人の話をいっぱい聞くことによって自分がある意味で癒されたいという感覚もあるのです」と語った、その感覚が果たして春樹氏の内部に生じたのか(人の話をいっぱい聞くことで癒されたのか…)、興味深いところです。

そこで今回のコラムは、『アンダーグラウンド』が刊行されて2か月後に実施された二人の会談(『約束された場所で(1998年11月/文芸春秋刊)』に収録)を取り上げ、私が感じたカウンセリング、そしてコーチングとの接点についてアプローチしてみようと思います。

<村上>
河合先生はセラピストとして面談をしておられるわけですが、通常そういう面談というのは何度も回数をかさねるわけですね。僕が、『アンダーグラウンド』でやったインタビューはある部分では面談と似ているようにも思うのですが、ほとんどの場合お目にかかって話を聞いたのは一度だけです。そのへんの実際的な違いというのはどうなんでしょうか?
<河合>
その人と何回会えるかということによって、私もだいぶ態度を変えます。この人とはこれからも長いこと会っていくと思いますと、事実を把握したりとか、こちらの考えを言ったりとか、そういうのはほとんど放棄してしまいます。
たとえば来た人が「私はこういう問題で悩んでいるんです」と言われたときに、ぜんぜん父親について触れない場合があります。そういうときに「失礼ですけど、お父さんはどんな方ですか?」と尋ねない場合があります。それは訊く必要がないんです。それよりもその人の「真実」のほうに興味があります。
ところがその人と会う回数が限られていたりすると、父親のことが聞きたくてしょうがなくなってきます。何度か会っているうちに、聞きたくて我慢できなくなってくることもあります。だいたいは聞かないようにしているんですが、あんまりたまらなくなったら聞きます。(後略)

「小説家がノンフィクションを書くことについて」を熟考してみる…

『アンダーグラウンド』は、地下鉄サリン事件の被害者62人へのインタビュー集です。文庫本で720ページのボリュームであり、春樹氏がその一人ひとりに誠実に向き合って、被害者が紡ぎ出す言葉を脚色なく(非小説ですから)文字に替えて発表しています。

私は小説家がノンフィクションを書く、というのは至難の業だと思うのですね。すぐれた小説家であればあるほど(その“すぐれた”の定義は難しいところですが)そうなのではないか…つまり、想像力(創造力)を発揮し、非現実な世界を描くことのプロですから、「事実」そのものを淡々と書き綴ろうと思っていても、どこかに小説家のイマジネーションが反映されてしまうのでは、と感じてしまいます。

前回のコラムで、春樹氏が「デタッチメントからコミットメント」と語っていることを取り上げました。春樹氏の心の奥底はわかりませんが、だからこそ「ノンフィクション」なのではないか、と私は想像しています。

そして、そのタイミングで河合氏と深い交流を持っています。カウンセリング、そしてコーチングとは、徹底的にクライエントに寄り添うことです。会話を通じて、クライエントの内部にあるさまざまな動き(ロジャーズは“過程”ということばを多用します)を、本人が「深く実感できる“言葉“」として浮上させることを援助する…それがカウンセラーであり、コーチの役目です。究極的には「触媒」としての姿なのではないか、と私は感じているのですね。

春樹氏は文字を扱うプロとして、作家自身が「自由自在に創り出す“言葉”」ではない、現実に目の前に存在する人たちの「本当の感情としての“言葉”」を把握するためには自分に何が必要なのか、そのことを虚心に知りたくて、前回のコラムで取り上げた『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』が実現したと私は解釈しています。

「傾聴のすぐれた使い手」である春樹氏についての再考

実は『約束された場所で』の河合氏と春樹氏の会話を、過去のコラム(6月30日/ユングの無意識の世界 その2)で取り上げています。それは、河合氏が春樹氏を「傾聴のすぐれた使い手」として評価しているところです。春樹氏は、その評価について少し照れているような反応をしています。ここで、そのやり取りに至る会話を引用してみましょう。

<村上>
事実をどんどん聞いていくというのは、ある場合にはかなりきついことですね。僕がこの仕事をやっていていちばんきつかったのは、あるいはジレンマといってもいいと思うんですが、事件の話を口にすることによって良い方向に向かう人もいれば、逆にまた調子が悪くなってしまう人もいるということでした。それで、僕も途中からかなりなやみはじめたんです。
<河合>
それはよくわかります。
<村上>
でも僕はテーマのある一冊の本を書いて、事実をある程度明るみに出すためにインタビューをしているわけですから、事実について質問しないわけにはいきません。いったいどこまで書いていいのか、そのへんのことは考え出すとやはりむずかしかったです。もちろん河合先生の場合とはそもそも面談の目的が違うわけですが。
<河合>
僕らはいつもそういうことを考えながら人に会っています。相手の人が言い過ぎそうなときには止めます。「それはまた今度にしましょう」とか。
<村上>
それは経験則みたいな感じでわかるんですね?
<河合>
そうです。経験則もあります。それから話を聞いているときには、僕らも自分の感情にはすごく鋭敏になっています。だから「ちょっと怖いな」という感じがしたときには、ぱっと止めるんです。
<村上>
でも本を書いている場合には、そんなふうに止められないですよね。
<河合>
そうなんです。目的がそもそも違いますから。でもね、そういう話をしてしまって、そのときは悪くなられたとしても、それは次に良くなるためのステップとしてそうなることもあるんです。だから簡単には良い悪いは言えません。「わー、言うてしもうた」と落ち込んでいても、「でもやっぱりそうなんやな」と思い直して、もう一回ぐっと上がってきます。そういうこともよくあります。
<村上>
僕も話を聞いているとき、感覚はできるだけ鋭敏にしてはいるんです。いろんなことを本能で判断しようとします。でもそこまで先は読めませんよね。「結局はよくなった」としても、よくなるまでにどれだけの期間がかかるかなんてこともわかりませんし。
<河合>
そうですね。そこまではわかりません。でも「会って話そう」と向こうが言ったわけだから、それはある程度割り切らなくては仕方ないですね。(中略)…こうして本になって活字で読むと、腹におさまっていくんです。「ああ、そういうことだったのか」とまわりもわかってもらえるんです。そういう意味では喜ばれたんじゃないでしょうか。

この後もしばらく「書くという行為について」の会話が続きます。

<村上>
僕が『アンダーグラウンド』を書こうと思った目的は二つあります。ひとつは、メディア的にプロセスされていない第一次情報を集めて並べていこうということです。第二に、徹底して被害者の視線でものを見ていこうということです。なぜかと言えば、そういう立場から書かれた本がひとつもなかったから。
僕は多くのマスコミや評論家がやっているように、オウム真理教の側の精神性とか思想性をとりあげて今ここで解析していっても、とりあえずどうしようもないんじゃないかという気がしたんです。…

春樹氏の自己開示を引き出したのは河合氏の存在があったから…

最後のパラグラフを太字にしていますが、この春樹氏の言葉から6月30日のコラムでの引用を開始しています(続きは当該コラムをご覧いただくと幸いです)。
私は、春樹氏を「傾聴のすぐれた使い手」とコメントしたのは、河合氏が春樹氏の“思い”に対して次のように応えた言葉に基づいています。

<河合>
でもこれは村上さんが聞いている態度によって、これだけのもんが出てきたんだと思います。僕は内容を見ていると、それがすごくよくわかります。村上さんはここでは聞き役で、ほとんど前に出てこないけれど、こういうことをしゃべるというのは、村上さんが聞いているから出てくるんであって、普通の人が聞いても出てきません。ほんとうにそうですよ。

春樹氏は「ノーベル文学賞を獲得するのではないか…」と、毎年のように名前が登場する存在となっています。その春樹氏が、今から四半世紀前に、「世の中にコミットメントしていこう」と意思を固め、そのための具体的な行動、そしてそれにともなう深い悩みを開示する態度… この春樹氏の姿をこうして私たちが知ることができたのは、河合氏の存在があったからこそだと、私は確信しています。

今回のコラムの最後に、春樹氏のコメントを引用しておきましょう。コラムの冒頭で私は、「春樹氏が、人の話をいっぱい聞くことで癒されたのか…、興味深いところです」、と書いています。その回答が、次の言葉に込められているのではないでしょうか。

<村上>
僕がこの仕事から得たいちばんの貴重な体験は、話を聞いている相手の人を素直に好きになれるということだったんじゃないかと思います。これは訓練によるものなのか、あるいはもともとの能力によるものなのかわからないんですが、じっと話を聞いていると、相手の中に自然に入っていくという感覚があるのです。巫女=ミディアムみたいな感じで、すうっと向こう側に入っていけるような気がする。これは僕にとって新しい体験だったのです。

(日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~河合隼雄と村上春樹 その1~(2021/01/13)

ロジャーズについてのコラムを8回続けたところで、今回は河合隼雄氏と村上春樹氏のコミュニケーションを取り上げたいと思います。コーチングの基盤となったロジャーズについては、理論を中心に専門的な内容がしばらく続きました。この後も“変化”するロジャーズを解説してまいりますが、二人の会話を紹介することで、カウンセリングとは、そしてコーチングにつながっていくその興趣を感じていただければ、と思います。

題材は『村上春樹、河合隼雄に会いに行く(1996年12月刊行/岩波書店)』です。会談時期は1995年11月に実施されました。春樹氏(以後このように呼称させていただきます)が、『ねじまき鳥クロニクル』を書きあげたタイミングであり、「コミットメント(関わり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(関わりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが。」と語るように、春樹氏自身の“変化”が感じられる内容になっています。

最初に「前書き(春樹氏)」と「後書き(河合氏)」のなかから、“私が共感した箇所”を引用します。

春樹氏は河合氏のプロフェッショナル性をするどく洞察しています!

・河合さんと差し向かいで話をしていて僕がいつも感心するのは、彼が決して自分の考えで相手を動かそうとしないところである。相手の思考の自発的な動きを邪魔するまいと、細心の注意を払う。むしろ相手の動きに合わせて、自分の位置を少しずつシフトさせていく。 たとえば僕がそのとき小説を書いていることがわかると、僕を(あるいは僕の作品を)誘導するような可能性を持つ発言をきっぱりとやめてしまう。そしてほとんど関係のない話をする。それでいて結果的に、自然な思考水路のいくつかの可能性を示唆して、その行く先を僕自身に見つけさせようとする。少なくとも僕はそんなふうに感じられた。 それで知らず知らずにずいぶん励まされたように思う。僕もどちらかといえば理論家というよりは実践的なタイプの人間であり作家であるので、「実践者」プロフェッショナルとしての河合さんの姿勢には納得させられるところが多々あった。とくに河合さんの思考モード・スイッチの切り替えの速さと、焦点をひとつに定めたときの意識の集中力の鋭さには、話していていつも感服させられた。 ・とくに前もって「こういうことを話そう」というような準備もしなかったし、テープを起こしてできあがった原稿にも、基本的にはほとんど手を加えなかった。話の自然な流れをできるだけ阻害したくなかったからだ。それ以上詳しく語りたいこと、説明を補足したいことがあれば、お互いフットノートというかたちで付け加えた。 正直言って、これくらい自然にまとまった話ができるというのは、生来口べたな僕にとっては大変珍しいことである。奇跡的と言ってもいいくらいだ。これというのも河合さんが天才的な聞き上手であったからだろう。

河合氏は春樹氏の前でそのプロフェッショナルな鎧を脱ぎ捨てている…?

・私は臨床心理学などを専門にしているので、誰か未知の人とお会いするのは、興味もあって嬉しいのだが、生来の人見知り傾向は変わらず、なるべく新しい人には会いたくない、というところがある。それで、せっかく会いたいと思っていた人にお会いしても、「ハイ、ハイ」と聞き役になってしまって自分の意見をあまり言わず、編集者を困らせたりする。「謙遜だ」などと言う人もあるが、別にそうではなく、何だか自分の考えなんか消え失せてしまうような状態になる。 ところが、村上春樹さんとの場合は、これと違って、勝手に自分の考えや考えていないことまで!ベラベラと喋って、後から考えると、丸二日間喋り続けていたような状態になった。どこか「馬が合う」のだろう。 そんなわけなので、今回の企画には大喜びで賛成した。『ねじまき鳥クロニクル』も、第Ⅲ部が完成していたので、言いたいことは沢山あった。書物の題はご覧のとおりだが、私としては、「河合隼雄が村上春樹に会いに行きたい」気持であった。

河合氏、そして春樹氏という知性と感性を併せ持った二人の巨人が相まみえた会話…これほど興奮するセッションはないのではないか…と私は感じています。その二人が見事に「ひらかれている」のですね。お互いがお互いを心の底から信頼していることが伝わってきます。

春樹氏は日本の文壇世界に嫌気を覚え、海外にデタッチメントしていました。一方で、ハルキストが続々と生まれ、春樹氏そのものが巨大なブランドと化していきます。春樹論が燎原の火のごとく広がり、それは文芸評論の枠を超えて、あらゆる表現形態で膨張していきます。もちろん鋭い評論も多々誕生していますが、そうではない批評(?)も、数多く見受けられるところです。

これほどまでに社会的な存在(世界規模ですね)になってしまうと、「有名税」が生じてしまうのが世の常ですが、「春樹氏にとっての心許せる世界」を形成していくのは至難の業なのではないか…と想像してしまいます。

春樹氏の語る河合氏は、まさにコーチングにおけるコーチの態度となっている。

その春樹氏が河合氏に対しては、見事に胸襟をひらいている(ひらくことができている)のですね。でも…そこは春樹氏です。カウンセラー(会話の相手は春樹氏ですからコーチングのセッションとも捉えられます)としての河合氏が本当のプロであることを、難解ではない春樹氏自身の言葉として説明してくれています。

一方の河合氏です。ユンギアンとしての使命を帯びて、日本にユング心理学を広めるべく精力的に活動してきました。ユーモアな語り口も相まって日本中に河合ファンが誕生しています。2002年には文化庁長官にも就任しています。その存在はユング心理学者というより、日本文化の(キリスト教文化圏との対比を踏まえた)語り手です。バックボーンは心理学であり、さらにリベラルアーツですから、切り口がとても新鮮で明快です。

その河合氏もプロの鎧を脱いで春樹氏と接しています。もっとも“本当のプロ”ですから、そこは逸脱がなく、春樹氏に「のびのびとした安心感」を提供していることが、はしばしの会話から感じられます。そして面白いのは、春樹氏が「生来の口下手な僕」、河合氏が「生来な人見知り」と語っているところですね。
まずは「カウンセリング」のシビアな現場についての会話を抜粋してみます。

<河合>
ぼくらの仕事がまさにそうなのですけれども、結局、癒されるのと癒すのはもう相身互いですからね。まさに相手によります。お互いの関係が深くなればなるほど、場合によっては危険もあるんです。
<村上>
向こうの問題がこちらにうつってくる、というようなことがありますか。
<河合>
あります。
<村上>
河合先生が落ち込んだりするんだろうか……。
<河合>
よく落ち込んでいますよ。落ち込むから、一方でバカばなしをするのです。
<村上>
相手の非常にシリアスな問題点を、部分的に引き受けてしまうことになるのですか?
<河合>
部分以上に引き受けるのでしょうね。だから、体がおかしくなってくることもあるし、それからその人の症状がうつるときがあります。たとえば、しょっちゅうトイレへ行くくせのある人と向いあっていると、こっちもそうなるとか、その人のものの言い方がうつるというか、そういうことはだいぶありますよ。
自分がそうなっていって、ちょっとそれを横から見ているような自分がいないとだめなのですね。自分がまるごと受けとめて、相手と同じ状態になってしまったら治療にならないですからね。そういうスレスレのところで生きているわけです。だから、もう疲れ果てて、こっちが死ぬんじゃないかな、ということはわりにありました。
ただ、このごろは受け止め方が、今までより深い層で受け止めるようになってきましたから、非常に気の毒な人が来られたら、それだけぼくもしんどくなる、というような、わかりやすい関係とはちがってきましたけれどもね。

河合氏とロジャーズのクライエントに対する態度は一緒…?

もう一つ抜粋してみましょう。地下鉄サリン事件が1995年起こります。その翌年に実施された会談ということもあり、麻原彰晃に触れた箇所が登場します。著作での見出しは「宗教と心理療法」です。

<村上>
たとえば、麻原彰晃という人はその善悪の「基準線」という意味においてはかなり病んでいる人ではないかとぼくは思うのですが、ああいう人は治癒される可能性というのはあるんでしょうか。
<河合>
それは会う人によるでしょうね。
しかし、結局は、まあ、言ってみれば、器の勝負みたいなもので、彼よりも僕が大きい器を持っていたら彼に会えるし、彼の器が大きかったらもうだめですね。だから、本当に人間と人間の勝負です。それはもう不思議なことに、六歳の子でも、ぼくより器が大きかったらこっちは負けるわけです。
<村上>
ということは、宗教家と心理療法家、あるいは精神科医というのは非常にむずかしい勝負になるということですか。
<河合>
ものすごくむずかいしいです。ところが精神科医になると、その人たちはむしろ科学で守っているわけだから、「これは異常である」というふうにして、「なんとか薬を飲ませて……」というふうにも考えますからね、ぼくらのやり方とはちょっと違うのです。
ぼくらのようなやり方は、宗教家の方法に近いとも言えますね。ただ、ドグマを持っていないのです。「念仏を唱えたら救われますよ」というようなことは絶対に言わない。むしろその人が自分で見つけるものを尊重する。ただし、その人が見つけるものが現代社会と共存できるかどうかについては、一緒に考えていくわけですね。だから、相手から教えられる場合がすごく多いですよ、ほんとうに。

最後のコメントを太字にしています。ロジャーズの人間観は「答えはその人のなかに存在する」です。それと同じことを河合氏が語っているのです。これは河合氏がロジャーズの影響を受けている、ということではなく、カウンセリング、そしてコーチングを究めようとすると自然に生まれる態度(春樹氏は「自然な思考水路」と例えています)なのではないか、と私は解釈しています。
今回のコラムは、少し視点を変えてみました。「心理学とコーチング」というテーマは、枠にしばられることなく自由に語ることができるテーマであることを改めて認識しているところです。

(日向 薫)

 

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心理学とコーチング ~ロジャーズ その8~(2021/01/11)

世界の文化は、そのあらゆる局面でますます科学的に、ますます相対的になっていくように思われ、過去から受けつがれる堅固で絶対的な価値観は、時代錯誤であるように見える。おそらくさらに重要なことは、現代人が、あらゆる角度から互いに異なり、矛盾し合った価値からの攻撃に攻めたてられているという事実であろう。そう遠くない過去の歴史にあったように、自分たちの祖先や社会の価値体系に安住し、その価値体系の本質やその前提を一度も検討することなく、人生を完うすることはもはや不可能なのである。

1960年代になるとロジャーズは、セラピー、カウンセリングの枠にとどまらないテーマへの論及が増えていきます。
冒頭の引用は、1964年に発表された「価値に対する現代的アプローチ…成熟した人間における価値づけの過程」(『ロジャーズ選集(上)第12章』)のなかの一節であり、その兆しを感じることのできる内容です。もっともこの時点では、あくまでも「セラピーの経験を通じて」と、ことわった上で語りを進めています。

ロジャーズは疑問を交えた命題を掲げ論及する目的につなげていきます。

・サイコセラピーとは、単にセラピストのなかにある知られざる、不明確な価値観が、疑いをもたないクライエントに無意識のうちに伝達される装置に過ぎないのであろうか。それともこの価値観の伝達ということが、セラピストが公然と掲げる目標なのであろうか。セラピストとは、今日の世界に似合う価値体系を掲げて、それを分かち与える現代の聖職者であるべきなのだろうか。 ・私はこの問題の全体について、ここでささやかなアプローチを試みたいのである。人が子どもから大人に成長していくにつれて、価値へのアプローチが変化していくことを、私は観察してきた。運がよければ、真の心理的成熟に向かって成長をつづけ、さらなる変化がおこることも観察した。 これらの観察の多くは、セラピストとしての私の経験のなかから生まれたものであり、そこには人間がより豊かな生に向かって動いていく過程を見る豊かな機会があった。こうした観察のなかで私は、ある方向性を持った数本の糸があらわれてきて、それが現代世界にもよく耐え得るような、価値づけの過程(valuing process)に関する新しい概念を提供するのを見たように思う。

大人になっていくにつれ先天的である有機体のありようが歪んでいく…

ヒューマニステックです。ロジャーズの有機体概念は「よくなる力が人には内在している」ですから、そのことをしっかりと語っています。この流れでこのまま進んでいくのか…と思うと、そうではありません。
有機体とは「先天的に備わっているもの」です。ロジャーズは、外部情報をまだ取り込めない幼児の内面から分析をはじめ、それが大人になっていくにつれ、先天的なものであるはずの「有機体としてのありよう」が、歪んでいく理由、プロセスを詳細に分析しているのです。

・幼児の価値評価の源泉あるいは評価の主体は、あきらかに子ども自身のなかにあるということである。大人と違って小さな子どもは、自分が好きなもの、嫌いなものを知っており、そしてこの価値選択の源泉は、徹頭徹尾子ども自身のなかに存在している。 子どもが価値づけの過程の中心なのであり、その選択の根拠は、自分自身の感覚によって補われているのである。こちらの方向がよいという両親の考え方とか、広告代理店の説得力といったものは、この時点においては子どもに何の影響ももっていない。

成長する過程において「価値づけに変化が起こる」ことをロジャーズは分析します。
幼児は自分が愉しいことをしていた(いたずら)にもかかわらず、叱られ否定されることで、次第に「自分が良い気持ちだ」ということが、しばしば他者の目には「悪い」ことと映るのだということを学ぶようになり、その結果、「愛情を保持するために、自らの有機体の知恵を放棄し、評価の主体を自ら手放して、他者が設定した価値に即して行動するようになる」、と説明します。

有機体の知恵を放棄した大人はどのように育っていくのか…

・私が担当しているクラス…教師たちの卵のグルーブ…から例を挙げてみよう。講義の初めに私は、学生たちに「将来子どもたちに伝えていきたいと思う価値を、二つか三つあげて下さい」と頼んだ。回答にはさまざまな価値があげられていたが、私はそのなかのいくつかに驚いたのである。数人の学生が「正しく話すこと」「よい英語を使うこと。Ain‘tといった俗語を使わないこと」などをあげた。他の数人は、きちんとすること(neatness)…「指図に従って行動すること」をあげた。 ・これらの学生にとっては、生徒に伝えるべき最も重要な価値が、文法を正確に守ることであったり、教師の指図に厳密に従うことであったりするということに、私はかなり愕然としたことを告白する。まったくとまどってしまった。 ・人は他者からおびただしい量の概念的価値を学びとり、それを自分のものとして採用する。たとえそれらが、自分の体験していることと大幅に食い違っていたとしても…。そのような概念はその人自身の価値づけにもとづいていないために、流動的な変化の可能性をもつことができず、むしろ固定化した、頑固なものになりやすいのである。

食い違っているから、固定化し頑固なものになりやすい…

「食い違っているから、むしろ固定化した、頑固なものになりやすい」という説明は逆説的であり、だからこそ「なるほど…」と理解できますね。

セラピーやカウンセリングは、精神的に病の状況にある人が対象です。ところがロジャーズは、この論説において「大人の価値づけに共通した特徴」という一節を設定し、大人全般がもつ価値観・態度について語りを進めていきます。つまり、対象とする範囲は大きく拡大しているのです。そして、そのような価値観にとらわれている大人社会にあって、「成熟した人間における価値づけ」について力を込めた語りが始まります。

・成熟した人間のなかで発展していくと思われる価値づけの過程は、ある点で幼児のそれとよく似ているが、またある点ではまったく異なっている。この価値づけの過程は、それぞれの特定の瞬間にもとづいて、そしてまたその瞬間が促進的(enhancing)で、実現的(actualizing)なものとして経験される度合いを基礎におきながら、流動的であり柔軟なものでありつづける。 価値が頑なに保持されているのではなく、絶えず変化しつづけているのである。昨年は深い意味があると思われていた絵が、今は面白くない。以前には良いと経験されていた人とのつき合い方が、今は不適切に思われる。あのときは真実だと思われた信念が、いまはほんの少しだけ正しいか、あるいはおそらく間違いであると経験される。 ・自分自身の内部で進行していることに近づく過程は、幼児のそれよりもはるかに複雑である。成熟した人においては、それははるかに大きな視野と広がりをもっている。体験過程の現在の瞬間の内には、それに関する過去の学習に関する記憶痕跡のすべてが含まれているからである。 ・例えば「いまは3杯目も飲みたいという気持ちだけど、これまでの経験からすると、明日の朝後悔することになるだろう」とか「この人に良い感じをもっていないことを率直に表現するのは、気持ちのよいことではないが、これまでの経験からすれば、そうした方が関係をつづけていく上で、結局は良いことになるだろう」というように、過去と未来の両方が、この現在の瞬間に入っており、その価値づけの過程にも入り込んでくるのである。

ロジャーズの語りはどんどんドライブがかかってきます。「成熟した大人とは…」について、語りを進めているのですが、ロジャーズが確立したセラピーの理論である「来談者中心療法」に関するキーワードが次々と登場してきます。

つまり、セラピー、カウンセリングの対象者にとどまらない、健常な人びとにも自分の理論が適用できる、ということを訴えていることが伝わってくるのですね。もっとも、当該論及そのものは、それを明らかにすることが目的ではないので、理論的というより哲学的な記述となっています。

自分の体験過程に対してひらかれているからこそ、誤りがあっても訂正することができる。

もし選ばれた行為が、自己を促進させる(self-enhancing)ようなものでなければ、そのことを彼は感じとって、調整や訂正を行うことができるのである。彼は、最大限のフィードバック交換を活用する。かくして、船の回転羅針盤のようにして、より一層自己自身になる(becoming more of himself)という目標に向かって、たえず進路を修正していくことができるのである。 ・私はあえて次のように考えたい。人間が、自分が深く価値づけているのを…それがどんなものであっても…内面的に自由に選択できるときには、その人は自分の生存や成長や発展に役立ち、また他者の生存や発展に貢献するような対象や、経験や、目標を価値づける傾向をもっているのである。成長促進的な雰囲気におかれると、このように自己実現的で社会化された目標を選ぶということが、人間有機体の特徴なのではないかと私は考えている。

論及のまとめに向かって、「人間有機体」という言葉が繰り返し登場します。最後にロジャーズは踏み込んだ発言をしています。それを引用し今回のコラムを終えることとしましょう。

宗教も、科学も、哲学も、またいかなる信念体系も信頼してはいけないけれども…

私は結局、価値の普遍性の問題に戻ってきたようである。「そこにある」(out there)普遍的な価値とか、ある集団…哲学者や支配者、聖職者から押しつけられた普遍的な価値体系ではなく、人間としての普遍的な価値方向が、人間有機体の体験過程のなかからあらわれるという可能性を私たちはもっているのである。 人間が自分自身の有機体的な価値づけの過程に密接に触れているとき、個人的な価値と社会的な価値が、ともに自然なものとして、また経験されるものとしてあらわれてくる。そのことがセラピーで観察された事実から明らかなのである。ここから次のことが示唆される。 現代人はもはや自分に価値を与えてくれるものとして、宗教も、科学も、哲学も、またいかなる信念体系も信頼してはいけないけれども、もし自分自身の内部にある有機体的な価値づけの基盤に再び触れることができるようになれば、それを改めて発見するであろう。そしてそれが、私たちすべてが直面している、やっかいで、複雑な価値の問題に対する、体系的で、適応的で、そして社会的な方法になるであろう。

(日向 薫)

 

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